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「今日の金沢記:驚き3題」   

 先週に引き続き今週も土曜は金沢。今月のブログ記事はほとんどないので、皐月晦日に「今日の金沢記」、急ぎ落書き3題。

1)石川県立図書館で、『絵で見る明治商工便覧』(全10巻)閲覧。
 選ばれた作品の復刻版。期待して足を運んだ「解題」「解説」はいっさい無く、びっくりとがっかり・・・。こんな復刻版ってあるのか。。。

2)徳田秋聲記念館の連続講座「女性が読む秋聲文学の“今”」、第一回は、江種満子さん(文教大学名誉教授)で、読む秋聲作品は『黴』。
 江種先生のみごとに整序されたお話と秋聲もかたなしのユーモアある笹村評も一驚でしたが、それに加えて驚いたのは、参加者の中にもこのとっつきにくい作品『黴』を愛読玩味!されている方がおられたこと。

 秋聲記念館のオリジナル文庫『黴』も、今日!発売。紙面がととのっていて読みやすい。

 いくつも宿題をいただき、ありがたく退散。

3)あうん堂で、ご主人に、《南陽堂》のことを尋ねてみた。
 この尾張町の古書店、ずっと店が閉まっていてどうされたのだろうと思っていたところ、店内からいよいよ本が消えてしまったのだ・・・。
 ほんとうにほんとうに驚いたことに、店主の柳川さんは一昨年末に亡くなられたのだという。かつて富山の市電荒町電停前にあった「南陽堂」とこの尾張町の「南陽堂」について、柳川さんにお聞きしたのは、2年前のことでした。以下、そのときのメモ;

 “ご主人の顔を見てびっくり。富山の南陽堂のおやじさんとよく似ておられる。なんでも金沢・南陽堂ご主人の母親のお兄さん(すなわち伯父さん)が、富山南陽堂のご主人にあたられるのだそうです。富山南陽堂のご主人は20年ほど前に亡くなれているそうで、その折、店を閉められたそうです。しばし、歓談。”

 個人的には40年前の学生時代からたびたび寄っていた〔金沢橋場町の南陽堂〕が消滅してしまい、ぽっかりとどこかに穴のあいた思い。そして――先に姿を消した〔富山荒町の南陽堂〕にも亡き父との忘れることのできない思い出がある。

 忘れられない柳川家のお二人の古書人のお冥福をお祈りしたい。
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by kaguragawa | 2014-05-31 22:30 | Trackback | Comments(0)

きのうきょうの山山   

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1)2014.05.18 09:43 JR高岡駅より
2)2014.05.19 16:24 常願寺川右岸より 富立大橋近く
3)2014.05.19 18:27 富山市駅北の太平橋より   ・・・以上、私の携帯メモ写真です
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by kaguragawa | 2014-05-19 20:24 | Trackback | Comments(0)

霜川文学の原点『ひとつ岩』を読む(4)   

●前回掲載した二つの文章から、「ひとつ岩」に関わることを整理しておきます。

 まず、押さえておきたいのは、霜川自身が次のように回顧していること。

  “『一つ岩』と云ふのが私の処女作”――公表された最初の作品は『埋れ井戸』だが、“書いたのは『一つ岩』がずっと以前であるから、矢張り真の意味に於て之れが処女作”。“僕の作として最初のものは、「一つ岩」”――であること。

 次に、「ひとつ岩」を中心に,もう少し細かく当時の経緯を追っておきます。

1).明治30(1987)年10月頃、作品としては最初の「ひとつ岩」が書き上げられた。

2).「ひとつ岩」を、某先輩に『新小説』か『新著月刊』に出してもらおうとしたが断られた。
3).「ひとつ岩」の“次に書きかけたのは、長いものであつたが止し”た。
4).「埋れ井戸」を脱稿。桐生悠々のはからいで、『新小説』の懸賞当選の形で公表された。
5).「埋れ井戸」公表の2か月ほど後、「ひとつ岩」を尾崎紅葉に見てもらったらば「面白い」とのことで『世界之日本』に紹介の労をとってもらった。
6).『世界之日本』にすぐ掲載はされなかったが、編集担当だった佐久間秀雄と知り合いになり、「人民」新聞へ就職を世話してもらう。 
 ※はっきりとした日時は不祥だが、明治31年中に霜川は自由党系「人民」新聞社に入社し、32年1月から紙上に作品を発表している。

7).明治32(1989)年4・5月、「ひとつ岩」が『世界之日本』に5回に分け掲載された。
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by kaguragawa | 2014-05-11 18:41 | Trackback | Comments(0)

霜川文学の原点『ひとつ岩』を読む(3)   

 次は、この「ひとつ岩」のことを「薄幸なる我が処女作」というタイトルで書いたエッセイから、『世界之日本』発表当時のことを書いた一節。〔『秀才文壇』明治42(1909)年8月号に掲載〕


 〔明治〕三十年か三十一年の『世界の日本』に出た『一つ岩』と云ふのが私の処女作であるが、それ以前、『新小説』第二巻の、たしか六月か七月の号に載った『埋れ井戸』といふものがある。だが書いたのは『一つ岩』がずっと以前であるから、矢張り真の意味に於て之れが処女作だらう。
 この『一つ岩』といふのは『埋れ井戸』が発表された前年の十月頃作ったもので、其の時分は別にかうと云ふ主張もなければ、またかうしたものを書かうと云ふ深い意味があった訳でもない。若い時分失恋した老人の孤独な生涯を書いたものだ。然しこんな老人が居たわけでは決してなく、ただ自分が十四五の時、磐城の海岸四つ倉と云ふ所に暫く居た事がある。その四つ倉に 大きな巌が一つあって……一つ巌とは言はないが之が後に題となった……その巌の上の櫓に炬火を灯すのを役目にしてゐる老人がゐる。まあいはば昔の燈台守だ。漁夫の古手ともいった 風な独身者の老爺であるが、これが当時少年の私の頭に深く印象されてゐたので、それに感興を持って書いたものだ。作者自身が少年時代の頭で観察しただけのものだから、無論今から見れば欠点だらけのものだが、それでも私自身は一生懸命書いたものだ。
 その時これを某先輩に頼んで、「新小説」か「新著月刊」に出してもらはうとしたが拒絶された。紹介されたのは翌年の三四月だった。さういふ訳で『埋れ井戸』がさきに出た。それから自分の宅へ暫く原稿を寝さして置いたが、紅葉先生の紹介で『世界の日本』へ売ることになった。
 『世界の日本』といったら、その頃の『国民の友』に対抗する位の雑誌だったが、丁度その頃は漸々縮小主義になり、文芸なんかに余り重点を置かなかった結果として、僅々七十枚位のものを五枚、三枚と断れ断れに出した。で世間から何の注意も払はれずに終了ったが、それを稀に 見る人などは幾等か見所のある作だといっていた。また自分でも自信はあった。

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by kaguragawa | 2014-05-06 21:46 | Trackback | Comments(0)

霜川文学の原点『ひとつ岩』を読む(2)   

 自らの作品について語った文章をほとんど持たない霜川ですが、珍しく「ひとつ岩」にふれたエッセイ風の文章がある――しかもいくつかある――ので紹介をします。最初は、『新潮』〔明治41(1908)年10月〕に「奈何にして文壇の人となりし乎」という与えられたタイトルで書いた文章から。
〔『現代文士廿八人』(中村武羅夫著/日高有倫堂/1909.07)に再録。〕


 それで、その時はもう生活費の方は尽きて、桐生〔悠々〕君の所を出てから、〔明治三十年〕七月ごろ七軒町へ家を持って、翌年の四月まで、約十ヶ月其所に居った。その時一家四人、露骨に云ふと殆んど三度の食事も食ひ兼ねた。それは、僕の最も暗黒時代で、未だ一家を支へるだけの腕はなし、頭は固らず、読んで修養すべき書物はなし、不安恐懼に満ちた生活をして居た。それから、何うしても、書かねば食へないやうになって初めて書いたものが、「一つ岩」である。
 次に書きかけたのは、長いものであつたが止して、そのうちに「埋れ井戸」と云ふものを書いて桐生君の紹介で春陽堂に売った。その売り方が、僕の才の方をば推称せずして文学が非常に熱心でそのため財産を総て蕩尽したとか、何とか云って売り込んだものである。それで、石橋忍月氏が大いに同情して、その年の懸賞小説の中に入れて発表された。僕の作として最初のものは、「一つ岩」なのだが、「一つ岩」はそれから二ヶ月ばかりして、紅葉先生に見て貰った所が、面白いからと云ふので、「世界の日本」に売って貰って、原稿料を二十円得た。「埋れ井戸」の方で三十円貰ったが実に嬉しかった。
「一つ岩」を売った縁故で、佐久間秀雄と云ふ人に二三度会った。そして、佐久間氏に口があったらと頼んで置いた所が、恰度竹越三又氏が人民新聞(東京新聞の改題)をやることになったから入らぬかと云ふ。そこで表面竹越氏の推薦で入社した。
 それが、僕の文学社会に出た初めである。

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by kaguragawa | 2014-05-06 21:36 | Trackback | Comments(0)

霜川文学の原点『ひとつ岩』を読む(1)   

 霜川の実質的な処女作である「ひとつ岩」については、以前から旧ブログにいくつかのメモ書きをしましたし、このブログでもその翻刻を順次掲載することを約束もしました。が、翻刻掲載については、なにより私の怠惰さゆえ、つぎには霜川自身のテキストの復刻の方法について迷いから中断したままになっています。そして翻刻掲載を再開できる準備はできてないのですが、その書誌的なことがらからでも、もう一度「ひとつ岩」の近くまで迫ってみたいと考えています。

 三島霜川「ひとつ岩」 

・〔作品初出〕 「ひとつ岩」は、雑誌『世界之日本』に(一)から(十)までの10節が、次のように分載された。115年前の、季節的にはちょうど今頃、世に出たことになります。

  明治32(1899)年4月8日号・・・(一)(二)(三)
  明治32(1899)年4月15日号・・(四)(五)
  明治32(1899)年4月22日号・・(六)(七)
  明治32(1899)年4月29日号・・(八)(九)
  明治32(1899)年5月6日号・・・(十) 

 掲載誌『世界之日本』については、別の機会にその主筆であった竹越与三郎のことと併せてふれたいと考えています。未見ですが、柏書房から復刻版がでています。下に、その復刻版の紹介文に載っていた雑誌の概要を転記しておきます。  

※『世界之日本』開拓社:主筆/竹越与三郎:明治29(1896)年7月~33(1900)年3月
19世紀末の思想界をリードした総合雑誌の復刻版。陸奥宗光・西園寺公望の後援を得て竹越与三郎が編集。単なる政論雑誌ではなく,文学・美術・教育・科学・社会・経済など社会全般を扱った評論活動を行なったことで知られる。伊藤博文・尾崎行雄・山路愛山・夏目漱石など多彩。
(『世界之日本』復刻版〔柏書房/1992年1月〕の告知文より)
 
・〔作品所収
  1.『三島霜川作品集 Ⅰ』(高岡市教育委員会/1977)
    ※初出誌のコピー復刻 (一)(二)(三)のみ
  2.『福島県文学全集〔第1期 小説編〕第1巻 明治編』
    (木村幸雄監修/2001.10/郷土出版社)
  3.『三島霜川文學館(七)』(麻生茂夫:編集復刻/2002.08)  
    ※初出誌のコピー復刻(全篇)

・〔作品に関連する霜川自身のエッセイなど
  「奈何にして文壇の人となりし乎」 『新潮』明治41(1908)年10月
  「薄幸なる我が処女作」 『秀才文壇』明治42(1909)年8月
  「私の文壇に接触した時分」 『新潮』明治43(1908)年12月
  「渦と白い死骸――少年時代の記憶」 『新潮』大正元(1912)年12月
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by kaguragawa | 2014-05-04 21:45 | Trackback | Comments(0)

大沢野小作争議顕彰碑   

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稲代、加納、西塩野は、今日辺り一面に美田が広がっているが、かつて不毛の原野であった。この地で昭和のはじめ、開拓者農民による一大小作争議が起きた。発端は、開拓入植者に示した、五年間無年貢の約束を、地主が一方的に反古にしたことにあった。昭和四年十二月、飯米にも事欠く農民たちは全国農民組合富山連合会大沢野支部を結成し、水貢米・古田の増米、耕作地取り上げに反対し闘いに立ち上がった。争議は熾烈さを増し、地主からの組合幹部三名への土地返還訴訟による切り崩しや治安維持法による弾圧のなか、四年余りに亘る壮絶な闘いにより、昭和八年十一月、五年間の年貢米を棒引きにする、三名への訴訟は取り下げる、争議費用は地主側が負担するなどで地主・小作双方が合意をみた。争議の終結から七〇年余、開拓の苦難や争議のことを知る人も少なくなった。先人たちの汗と涙、血を以て築きあげたてきた此の地の歴史を永く伝えるために、是に顕彰碑を建立する。

岩倉政治『どぅもども』で言及されており、イタイイタイ病資料館に寄った際、訪問(4月29日)。富山市西塩野(旧:大沢野町)
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by kaguragawa | 2014-05-04 09:22 | Trackback | Comments(0)