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広中俊雄さんのこと   

 今朝、新聞をひらいたとき、広中俊雄さんの名が目にはいった。24日に亡くなられたという。

 我が師の師であるが、書を通しての我が師でもある。たしか野間宏との思い出を書いた エッセイがあったと思い、『国家への関心と人間への関心――ある法学研究者の歩み』(日本評論社/1991.6)を探し出し、しばし読みふけった。

 旧制高校時代、学徒動員中、広島で被爆。上掲の本に収められたある座談会で聞き手の利谷信義氏が「先生は八月六日のことを「炎の日」という創作にまとめられ、1950年に『人間』という文学雑誌に入選として掲載されました。私は最近初めてこれを読ませていただいて大きな感動を受けました。」と発言されておられる。

 余裕ができたら探して、読んでみたい。

〔追記〕
 瀧本往人さんのブログ「そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり」で下記の書誌情報を得ることができました。
  http://ameblo.jp/ohjing/entry-11537076525.html

  炎の日――1945年8月6日
   廣中俊雄
   日本の原爆文学10 短編I
   ほるぷ出版
   1983年8月
   (初出: 雑誌「人間」5(11) 木村徳三編 目黒書店 1950年11月)


〔追記2〕
 野間宏には広中さんの「炎の日」について書かれた文章があるようだ。(「広中俊雄『炎の日』」〔『野間宏全集』第21巻(1970.05)所収〕)
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by kaguragawa | 2014-02-28 22:58 | Trackback | Comments(0)

謎、謎、   

 あれだけ宣伝?、喧伝?された「特別警報」が今回も発令されないまま、大きな雪災害を招いてしまった。
 
 「想定外」という言葉がまた繰り返されるようである。

 いろんな意味で謎、謎、である。
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by kaguragawa | 2014-02-17 22:30 | Trackback | Comments(0)

やがて、お上から、有り難か御沙汰があっど。   

 下に書き写したのは、日本海の孤島に隠棲する退役軍人と漁村の老婆の会話である。老母の二人の息子のうち一人の戦死報告が届いた日に、もう一人が嵐のなか出征していくのである。息子を思い嵐のなかを彷徨う愁嘆の老母に退役軍人が声をかける。

 「しかし婆ァどんは、果報者じゃぞ。せがれどんが二人ともに好(よ)か勇士じゃけん、鼻が高か。」
 「何んが果報者でござりますべえ?、せがれを二人持っちょりまして、二人で戦(いくさ)にいくちゅうだから……二人のせがれに別ンねばならねえだちゅうだから。こねえな不幸な者がござりますべえか。全体何んだちて、戦あんちゅうものがあるだかね?俺(うら)、戦があるもんで、二人のせがれを取られただかと思うちゅうと、腹が立ってなんねえださ。」
 「こいツ、そぎゃんこつ言うもんじゃなか。戦をせんばならんから、戦をすっのじゃ。国の為じゃ。じゃから、由之助が名誉の戦死を遂げたこツについては、やがて、お上から、有り難か御沙汰があっど。」
 「いくら有り難い御沙汰があったたちても、俺、もう一度、由之助が顔一目だちてもえいだから、見た方がえいだかんね。お手当ても何んも要(い)んねえさ、由之助が顔見てえでござりますよ、見てえだに……」
と啜り上げて、また泣き出しながら、 「けんど、はア何んちてもしようがねえだね。」


 どう見ても、老母の真情のことばに、退役軍人の《こいツ、そぎゃんこつ言うもんじゃなか》と権威をかさの言葉返しも、《名誉の戦死を遂げたこツについては、やがて、お上から、有り難か御沙汰があっど。》というなだめすかしも無意味なものになっている。老母は《お手当ても何んもいんねえさ、(死んだ)由之助が顔見てえでござりますよ、見てえだに……》と返すのみである。
 これが戦争を題材にした平和時の小説の一こまなら、ありがちな展開かも知れないのだが、これは日露戦争の真っただなかに書かれた小説の一節なのである。

 こういう小説が日露戦争中に書かれていたということを、――さらに背景に、方言に拠って象徴される《老母の「東北」と軍人の「南西」》という対立軸があるという点を、――文学史の観点からまた社会史の観点からどう見ればよいのかということについては私には、十分な発言ができる準備がありません。
 そもそもこの作品がどれだけ読まれたのか、どれだけ人の目にとまったのかについても、語れる資料はありません。言いえるのは、さほどこの作品が当局、ないしその意を体現してものを言おうとする人々の目にはとまらなかっただろうという推測がなりたつのみです。

〔追記:2015.12.21〕
 上に紹介したのは、三島霜川の短編小説「島の大尉」です。
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by kaguragawa | 2014-02-14 21:48 | Trackback | Comments(3)

他万喜と岸辺福雄・東洋幼稚園   

 ここしばらく目にしたことのなかった岸他万喜の手記だが、たった今、林さんのブログ《daily-sumus2*》に引用があって、そこに岸辺福雄の東洋幼稚園が登場していて驚きました。そう言えば、他万喜と守屋東のつながりを調べようと思いながらすっかり忘れていました・・・。
   * http://sumus2013.exblog.jp/21415084/

 なんの縁か、ここ数日、別々の関連で岸辺福雄の名前を何度か目にすることがありました。といっても、そのうちのいくつかは彼の創設した東洋幼稚園に関係することがら。一つは彼の子息・岸辺成雄に関することがら。

 明日は、その岸辺福雄の誕生日だ。

 私のメモによるとその翌日(15日)は、小峰大羽の誕生日ということになる。
 この年の2月、これも私のメモによると多くの知人(文献上のですが)が生まれている。

  坂本四方太 1873.02.04--1917.05.16
  平田禿木  1873.02.10--1943.03.13
  岸辺福雄  1873.02.14--1958.09.09
  小峰大羽  1873.02.15--1945.05.24
  与謝野鉄幹 1873.02.26--1935.03.26
  河東碧梧桐 1873.02.26--1937.02.01
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by kaguragawa | 2014-02-13 23:45 | Trackback | Comments(0)

地下から江戸時代の水路が!(2)   

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 つきあたりの土壁の青いUの字型のマーキングが明治時代の水路跡。これをさらに掘り下げると江戸時代のさらに幅の広い水路跡が出てきたというわけ。

 なお江戸時代のこの区境は水路跡が地表から消えてしまった今も生きていて、背割水路の左(北側/もと武家地)が〔現:富山市総曲輪三丁目〕、右(南側/もと町屋地)が〔現:富山市一番町〕と、町域の境となっている。
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by kaguragawa | 2014-02-11 20:00 | Trackback | Comments(0)

地下から江戸時代の水路が!(1)   

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 富山の城下町絵図で私には“なじみ”だった武家地と町屋地を分ける水路。武家地の建物と町屋の建物が背中合わせに建っていて、その境を水路が区切っていたのである。名づけて《背割水路》。
 これが、まさか、地下からこんな見事な形で掘り出されるとは!!。

 石積みは江戸時代のままなのだ!。

 以下は、今日の現地説明会の資料から:
 富山城下町を東西に延びる石積みの背割水路が、約20mにわたって見つかりました。
 江戸時代はこの水路を境に北側が武家屋敷地、南側が町屋敷地に分かれていました。
 今回の調査では、江戸時代後期から昭和時代まで少なくとも3段階の水路の変遷があることが確認でき、当初約1.8mの幅があった水路が、徐々に幅を狭くしながら造り替えられていく様子が分かりました。水路の全容と移り変わりがこれだけ明確にわかったのは今回の調査が初めてです。


 町屋地に見える穴は井戸の跡という。土砂山の向うは「総曲輪フェリオ/富山大和」。この大和の敷地下へもこの水路は続いている(既掘)。
 なお、このあまりにも貴重な200年前の水路跡も埋め戻されるという・・・。目に焼き付けておきたい。

※説明会のお知らせ。http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center/gensethu/kengaku.pdf
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by kaguragawa | 2014-02-11 19:57 | Trackback | Comments(2)

らいてう誕生   

 平塚らいてう(平塚雷鳥)の誕生日。・・・なんてことは、すっかり忘れていたのですが、なんと検索サイトGOOGLEの文字ロゴがまたまた変化している。ここに《google》の文字が隠れている?。
 1886年はどうして、多くの文人がこうもたくさんお生まれになったのだろう・・・。
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by kaguragawa | 2014-02-10 21:29 | Trackback | Comments(0)

《三島霜川》略歴巡り(3)   

ミシマソーセン 三島霜川 みしまさうせん(一八七六~一九三四)

明治大正の小説家、劇評家。明治九年四月富山県西砺波郡麻生村に生る。本名才二。別号犀児、歌之助、椋右衛門等。早くより文学を志して上京し、一時は尾崎紅葉の門を叩いたことがあり、文壇的には硯友社の系統に属し、徳田秋聲と最も親交があった。明治三十一年八月「埋れ井戸」を『新小説』に発表以来、『人民新聞』『世界之日本』『中外商業』『文芸倶楽部』『小天地』『新小説』に作品を発表し、田園趣味の作風を以てその特色を次第に認められ、同三十六年には名作「山霊」を『文芸界』に載せ、翌三十七年には当時文壇の新声と謳はれた短篇集『スケッチ』を上梓した。その後『中央公論』『新潮』等に「解剖室」「新生命」「悪血」「栗の花」等の異色ある作を出して世評を喚起し、作品数長短百余篇に達したが、その最高潮期は、自然主義文学の勃興時代までであったと見られる。のち漸次創作に遠ざ〔か〕り、同四十年『演芸画報』創刊の頃から関係し、犀児、歌之助、椋右衛門等の名の下に、「芝居見たまま」「役者の批評」劇評等の類を寄せ、見たままの「堀川」「勧進帳」「四谷怪談」役者批評の「東西役者の噂」「花形俳優月旦」「役者の顔」「近世名優伝」など、立派な読物として評判を得たが、中にも大正初めから数年に亙って連載した「大正役者芸風記」は、この類の批評中、稀に見る出色の字として賞讃を博した。その後同誌の編輯事務を司つて劇文壇のために力を致し、その間に日活や松竹のシナリオを書いたり、石井漠一座の歌劇の興行に関係するなど、この時代が世間的に最も活動した時であった。震災後は暫く画報と離れ、『院本正本日本戯曲名作大系』などの編著に従事したが、昭和二年頃から再び演芸画報に縁が結ばれ、爾後歿前まで編輯の一部を担当した。昭和九年二月号の「歌舞伎狂言と俳優との相関性」は異彩ある文字であったが、これを絶筆として同年三月七日に歿した。年五十九。彼は劇文壇特異の存在として、独自な芝居の見方に立派な足跡を止めたが、脚本にも野心があったらしく、「鰤」「船出の前」等の作がある。(秋葉)


 出典:『新撰大人名辞典 第六巻』
  ・発行  昭和十三年十月 (1938.10)
  ・発行所 平凡社
  ・執筆者 秋葉芳美
  ・
   なお、上記は『新撰大人名辞典』の復刻版である昭和54年7月の『日本人名大事典』の
  同項によった。
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by kaguragawa | 2014-02-08 17:44 | Trackback | Comments(0)

《三島霜川》略歴巡り(2)   

 見切り発車で始めた「《三島霜川》略歴巡り」、もう準備不足が露呈する事態となりました。きのう、『役者芸風記』(1935.03)に記せられた略歴を「生前・歿後をふくめて始めての整除された略歴」と書きましたが、さっそく訂正することになりました。

 霜川が亡くなったその年に発行された『日本文学大辞典』に、既に【三島霜川】の項がありました。私はこの事典の昭和26年の「増補改訂版」に――その増補項目に――事典類としては初めて【三島霜川】が立項されたものだと思い込んでいたのです。
 『日本文学大辞典』(1934.06〔初版〕)の方が、「生前・歿後をふくめて始めての整除された略歴」でした。なにはともあれ、その本文を書き写しておきます。

三島霜川 みしまさうせん

小説家 【本名】才二 【生歿】明治九年四月生れ、昭和九年三月歿す。享年五十九 【閲歴】富山県西砺波郡麻生村に生れた。文壇的には硯友社系統に属し、徳田秋聲等と親しい交友関係にあり、既に明治三十一年の「埋れ井戸」以来、「新小説」「文芸倶楽部」等に作品を発表し、田園趣味豊かな作風を以って次第にその特色を認められるに至った。長短百余篇の作品があり、「中央公論」「新潮」等に「解剖室」「しっかり者」「栗の花」を出すに及んで、堅実なる中堅作家として推されたが、その活動は主として自然主義文学勃興時代迄であった。後、創作に遠ざかり、「演芸画報」の発刊されるや、早くより関係して、犀児・椋右衛門等の名の下に逐号劇評随感の類を寄せた。中にも大正初頭、数年に亙って連載した「大正役者芸風記」の如き、この種の批評中出色の文字である。後、同誌の首脳となって劇文壇のために力を致した功績は少なくない。その他歌舞伎脚本の編著にも従った。〔水木〕


 出典:『日本文学大辞典 第三巻』
  ・編纂者 藤村作
  ・発行  昭和九年六月 (1934.06)
  ・発行所 新潮社
  ・執筆者 水木京太

  なお、昭和二十六年八月の『増補改定日本文学大辞典 第七巻』の同項は
  まったく同じ内容である。
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by kaguragawa | 2014-02-05 21:56 | Trackback | Comments(0)

《三島霜川》略歴巡り(1)   

 私編「三島霜川事典?」の一項目として、今まで公表された三島霜川の《略歴》や《事典項目》を発表順に、列挙してみたいと考えているのですが、なかなか準備が整いません。・・・ということで、ここらで見切り発車することにしました。
 内容の書き写しに脱漏や誤字のないようにしたいと思います――注:原文の誤字はあえて訂正しないつもりです――が、書誌的事項とともに少しずつ補正して最終的には「資料集」として意味あるものにしたいと考えています。

 まずは、『役者芸風記』から。生前・歿後をふくめて始めての整除された略歴です。


 三島霜川略歴

 明治九年四月、富山県砺波郡の郷里に於て、医師三島重法の長男として生る。才二と命名。
 幼少の頃、父に随従して東京に出たることあり。長ずるに及んで、文学を好む傾向強く、為に医学を修めしめんとする父との間に屡々抗争を醸せり。父三十七歳して逝去するに遇ひ、霜川は志を立てて一家を纏めて上京し、いよいよ文学に精進せり。それは十八歳の頃なり。
 明治三十一年「新小説」に「埋れ井戸」を発表す。これ恐らく処女作ならん。「人民新聞」に「除夜」を、「世界之日本」に「ひとつ岩」をひきつづき発表し、大いに認められる。その後尾崎紅葉の門を敲き、泉鏡花、徳田秋聲等と知り、後、小杉天外に親炙せしことあり。「民声新聞」に入りて竹越三叉、国木田独歩等と相知る。これは僅かにして退けり。
 創作活動は追々に盛んとなり専ら「世界之日本」「小天地」「文芸倶楽部」「新小説」「反面」「小柴舟」「文芸界」「新声」「婦人界」「文庫」「文章世界」「趣味」「中央公論」等に続々発表せり。「山霊」「聖書婦人」「悪血」「沈鐘」「解剖室」「虚無」「平民の娘」「蒼い顔」短篇編「スケッチ」等は代表作といふて可ならん。
 明治四十年の頃、旧知仲田辰之助創刊せる「演芸画報」に寄稿し始めたるが機縁となり、同誌との関係は晩年まで継続し、大正二年より十二年までは、入って編集を主宰し「芝居見たまま」の創始、自ら執筆せる「大正役者芸風記」その他演劇に関する多くの優れたる業績をのこせり。
 震災後、「南蛮文選」「柳橋新誌」等多くの文献の校訂に従ひ出版し、傍ら「少年日本外史」等少年の歴史譚、物語等を創作し出版し大いに世にひろまれり。
 明治四十二年広島県人松本ちか子と結婚し、一男三女を挙げ、悉く健在にして、三女は出でて姻戚をつげり。
 昭和九年三月七日腎臓癌にて中野の自邸に逝く。行年五十九才。法名は清心院高才霜川居士。墓碑は多摩墓地に建立し、碑面には辞世の句たる「暮れ初めて鐘鳴り渡る臨終かな」を刻せり。


 出典:『役者芸風記』
  ・発行 昭和十年三月 (1935.03.)
  ・発行所 中央公論社
  ・巻頭に、「序」に先だって掲せられたもの(執筆者名なし)
    *おそらく水守亀之助によるものであろう。
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by kaguragawa | 2014-02-04 21:06 | Trackback | Comments(0)