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多くの人のお世話になった年   

 今年2013年は私にとってはこれといった目鼻のない、端的に言えば悔悟の多い年でした。しかしそれだからこそ、多くの方にご迷惑をかけ多くの人のお世話になったになった年でもありました。
 有り難うございました。
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 写真は9月に訪れた横浜の一風景〔港の見える丘公園からのベイブリッジ〕と、神奈川近代文学館の閲覧室前で見つけた「芸亭の櫻」の碑〔題字:中野孝次/句:古沢太穂/1997年4月〕。
 横浜の地で、しかも近代文学研究のメッカ・神奈川近代文学館で、今年生誕100年になる富山生まれの――しかし富山では忘れ去られた――俳人・古沢太穂に出会えるとは思っていませんでした。

 皆さまにとって2014年が良き年となりますように。
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by kaguragawa | 2013-12-31 21:02 | Trackback | Comments(0)

好静のつづく師走   

 好天とは言えないまでもおだやかな日のつづく年の暮れである。それで思い出した三島霜川の句がある。

 霜川は晩年に多くの句を書きためていたらしい。霜川の作句歴は古く、作家として世に出た当初から俳句も新聞に発表している。そんな霜川はなぜか晩年になってから集中的に句をつくったようだ。残念ながらその俳句稿は現在所在不明になっているが、三島霜川選集が編まれた当時は存在しており、そのうち約100句が選集に載っている。

 そのなかでつくられた日のはっきりしている唯一つの句が師走の句である。

   好静のつづく師走や御子生まる

 1933(昭8)年12月23日。霜川、亡くなる半年前の吟。そしてこのとき生まれた御子(皇太子明仁親王)は、昭和と平成の時代を80年生きて、今年傘寿を迎えられた。

 深く考えねばならぬ80年である。
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by kaguragawa | 2013-12-30 22:53 | Trackback | Comments(0)

大井冷光の杉苗、仏眼親王御領   

 きのう、空き時間に何気なくページを繰っていた『肯搆泉達録』(江戸時代の史書)の富山町(現:富山市)の地誌部分に、“おやっ”と思うところがあったので、メモしておきます。

 稲野若水と云ふ者、越中にあり、本草に通ず。著述書八百巻。加州公より御扶持賜はる。後ち京都に住す。越中に門人覚中といふ者、また本草に委し。住せし所、後、覚中町といふ。(一部略)
 杉内といふは、佐々の臣杉内林太夫といふ者住せしゆゑ、名となりたるとぞ。その頃、円隆寺の後ろに牢あり。新町橋より南横に道ありしゆゑ、今に新町橋を牢橋といへり。また大田口は町端にて、里人など町に入るに、今蓮照寺前の川にて洗足せしゆゑ、足洗川といふ。またこの川の辺にて、むかし孤狸しばしば人を魅しければ、仏眼親王御領たる時に、石に仏像を刻み、橋とし、供養ありければ、その事やみてなかりしとなり。


 こうした歴史的地誌の世界は、その不確かさもふくめて大好きなのですが、そのことはおいておいて、この部分にはなかなか有益な脚注がついていて、全部書き写す余裕がなく残念なのですが、いくつかの注が、目を惹いたのでそのあたりのことを記しておきます。
 「杉内」・・・「現在の南田町、上本町のあたり。明治末期、大井冷光が居住して「立山案内」等を執筆したのは、この杉内(杉苗)であった。」
 「足洗川」・・・「日枝神社の東裏の川。この川の橋のところが、富山町と太田の村との境であった。」

 以前、民俗学と博物学の境目のことがらに興味をもっていた私には、ここに「稲野若水」と記されている“稲生若水(いのう・じゃくすい)”のことも気になるのですが、さらに気になるのは「大井冷光」と「仏眼親王」のことです。
 大井冷光の詳細な年譜が手元にないのが残念ですが、照合すれば、この注によって冷光の居住地と杉苗の両方が、判明しそうです。「足洗川」は、このブログの2013.04.20と04.27に書いた「三仏川」のことなのですが、この辺りが、“仏眼親王御領”だという伝承はちょっと驚きでした(裏付ける史料があるのでしょうか?)。「仏眼法親王」というのは、いずれあらためて紹介したいと思っていますが、越中にしばらく滞在した後醍醐天皇の皇子・宗良親王のことなのです。


・追記〔冷光の「杉苗僑居」〕
 大井冷光の『立山案内』の「自序」には、「明治四十一年新緑 滴る五月十五日 於富山杉苗僑居」と書かれている。この「杉苗僑居」の地が、上記の「杉内(杉苗)」であろう。
 ブログ「琴月と冷光の時代」のRさんからご教示では、この頃の大井冷光の住所を確定できるのが、明治42年の『越中お伽噺』奥付に記されている《富山市南田町83番地》だそうである。ここを、冷光の「杉苗僑居」と考えてよいであろう。
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by kaguragawa | 2013-12-28 21:26 | Trackback | Comments(0)

落書き御免   

 気の滅入ること、かたや、腹の立つことのみ多い年の瀬である。
 そんななかで、softbankのCMから、大ファンのスーザのマーチ“自由の鐘”のメロディが流れてくるのは、うれしいひとときである。クリスマス・ヴァージョンなのでこのCMを目にし、耳にできるのはあと一週間ほど。

 日本では演奏される機会があまりない曲だが、アメリカでは儀礼曲としてよく演奏されるという。「星条旗よ永遠なれ」とともに、いかにもアメリカを象徴する曲だ。これを機に知名度をあげ、大いに演奏され聞かれるようになってほしい。
(実は、今、スーザ家の出自のことを考えながら、スーザのマーチの対極にあるオランダの風格あるマーチの数々を教えてくださった、N先生のことを思い出していますが。)

 と、書いている横で、NHKのニュース9が紅白歌合戦の自己宣伝に声を大にしている。昨日のこのニュース番組ではイタイイタイ病のことなどどこの国の話とばかり、一言もふれなかった驚くべきニュースである。多彩なテーマの取り上げと掘り下げには敬服?するが、ニュース番組としての最低限は守ってほしい。

 *「自由の鐘」については、
 http://www.world-anthem.com/march/liberty-bell.html
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by kaguragawa | 2013-12-18 21:51 | Trackback | Comments(0)

カドミウム被害救済の一里程標   

 日曜日の地元新聞に「イタイイタイ病全面解決へ」の文字が踊った。「原因企業と被害者との全面解決が図られる。」というのである。しかし、そうなのだろうか。三井資本がおこなったカドミウムの河川への廃棄がもたらした健康被害はいまも沈潜しながら続いているのだ。

 そして、今日、神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会と三井金属鉱業との間で、合意書が取り交わされた。三井との交渉の前面に立ってこられた高木勲寛さんが、三井金属との「緊張関係ある信頼関係」を語られるのをつらい思いで飲みこみつつも、ここが幕引きとなってはならないのだとあらためて思う、強く思う。
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by kaguragawa | 2013-12-17 21:54 | Trackback | Comments(0)

歌之助『芝居見たまゝ』――100年前の今日、発行 (3)   

 ところで「芝居通」ではない私が、三島霜川の『芝居見たまゝ』に関してどうしても付け加えておきたいことがあります。上梓された『芝居見たまゝ』には収録されていないものの、霜川が「演芸画報」誌上に、唯一、伝統芸能以外で取り上げた「見たまま」の記録《沙翁劇・シーザー》のことです。(大正2年8・9月号)。
 「沙翁劇・シーザー」は、お気づきの方もおいででしょうが、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」です。(この頃は、もう「該撤奇談(しいざるきだん)」という題は使われていないようです。)

 これは、1913年6月、帝国劇場でおこなわれた坪内逍遥の「文芸協会」第6回公演の紹介なのです。この公演を最後に「文芸協会」は解散分裂し、島村抱月と松井須磨子が「芸術座」を立ち上げることになる、そういう「文芸協会」最後の仕舞い公演だったのです。
  この画期となる重要な舞台に霜川が足を運び、詳細に記録を残したことは、「芝居好き」ではないもののシェイクスピアファンの私にとっては有り難いことですが、それ以上に、この舞台の“見たまま”の活写は、演劇史の記録としても貴重なものと言えるのではないでしょうか。
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by kaguragawa | 2013-12-11 21:53 | Trackback | Comments(0)

歌之助『芝居見たまゝ』――100年前の今日、発行 (2)   

 『芝居見たまゝ』の著者“歌之助”は「はしがき」にこう書いています。(改行の際の1字下げがないのは原文のまま。)

これは芝居通の御覧になる本ではありません。と申して芝居のお嫌いな方は猶更御覧になる本ではありません。
著者は芝居にかけては極の素人でございます。殆ど何んにも知らないと謂って差支えがないのでございます。
その素人の書生っぽが、只芝居が好きだからというだけで、見た芝居を見たままに、一生懸命に書いたものでございます。或いは型などに違っているところもあるかも知れませえん。またチョボの受け渡し、鳴り物のかかりなぞにもブマなところもあるかも知れません。それは何分見たままに、自分の目と耳だけをたよりに書いたのですから、多少の見損ない、聞き落しはあると思って戴かなければなりません。
著者は随分舞台の感じとか気分の出るように努めたのでございます。そして何処までも興味中心で書いたのでございます。しかし芝居知識の欠乏している上に、筆つきも至って素人じみているというのですから、それとても只然ういう心掛でいたと申すに過ぎないことになって了いました。
要するに此の本は、著者のような芝居好きな方が、御覧になった芝居を、時過ぎてから振り向いて味わって見ようと思召めした場合なぞに、この見たままを御覧になって、俳優の伎なり舞台の景(シーン)なりが、幾分なりとも、皆様方の胸に浮び出ることがあるとしたならば、著者に取って其の様な悦ばしいことはありません。
  大正二年初冬 著者識


 『芝居見たまゝ』の目次を、参考に記しておきます。10舞台が取り上げられています。

 芝居見たまゝ 目次

   勧進帳
   弁慶上使
   橋供養梵字文覚
   先陣問答
   堀川
   廓文章
   牡丹灯籠
   新薄雪物語
   伊賀越道中双六
   毛剃

 なお、この10舞台の「見たまま」は、「演芸画報」誌の掲載順ではありません。川尻清潭が始めたといわれる同誌の「芝居見たまま」を霜川も書き出した初出は、「演芸画報」明治42年4月の“うたの助”名義の「廓文章(くるわぶんしょう)」です。といっても私には、書誌事項の上っ面を紹介することはできても、ここに登場するどの作品の舞台も見たことがないのですから、今の私には残念ながら「猶更御覧になる本ではありません」といった状態です。ただそれでは私にとってはあまりにも情けないので、以前紹介した森銑三の霜川にふれた文をあらためて書き写しておきます。

 「大正初年の頃に歌之助の名で刊行した「芝居見たまま」の一書が〔霜川の〕「著作年表」に見当たらぬのを寂しく存じました。その中の「勧進帳」「先陣問答」など往年の私の殊に愛読したものでございました。」
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by kaguragawa | 2013-12-11 21:31 | Trackback | Comments(0)

歌之助『芝居見たまゝ』――100年前の今日、発行   

 100年前の今日――1913〔大正2〕年12月10日――発行された『芝居見たまゝ』という本がある。著者は歌之助、磯部甲陽堂。

 本書に寄せられた「序」で、大愚堂清潭(川尻清潭)はこう書いている。

歌之助君は忠実なる歌舞伎の研究者であります。
歌之助とは勿論覆面の名ですが、歌之助君はこの覆面を脱ぐのを好まないのだそうです。で歌之助は矢張り歌之助としておきましょう。
「芝居見たまゝ」は演芸画報の始めた仕事の一ツです。それを歌之助君が真面目なる努力に拠って完成したと謂うて差支えはないでしょう。
「芝居見たまゝ」は読む興味あるのも一ツの特色ですが、型や着付道具立等も、可成精細に書いてあるようですから、歌舞伎の研究者にも或る場合、好個の参考になるだろうと信じます。
芝居に関する記録というものは、得て専門的になり易いものです。それが何人にも読まれるように書かれたのが、此の本の特色で、また歌之助君のお手際と謂わなければなりません。


 今では知られるようになっているが、「歌之助」は、三島霜川が歌舞伎の評論を書くときに使ったペンネームの一つである。この『芝居見たまゝ』は、霜川が“歌之助”“うたの助”“椋右衛門”の名で「演芸画報」に書いた二十篇近くの「見たまゝ」から十篇を編んだものなのである。

 (続)
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by kaguragawa | 2013-12-10 22:55 | Trackback | Comments(0)

ささやかな誓いをもって   

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 きょうは幸い金沢に行く予定があり、何人かの方との再会の幸せに、私たちの世代が歴史へのなんの反省もなく信じがたい法律を成立させてしまったことの悔悟の思いに拘泥することからは免れることができました。
 とは言いつつも、私なりにある決意をしっかりと形にしたくて、ある方の有縁の墓を朝早くに訪れました。墓石の脇に「桐生家」とあるように、最後までファシズム下の言論暴圧の下でも 節を曲げなかったジャーナリスト桐生悠々を生んだ桐生家の墓です。悠々(政次)本人の墓は多摩霊園にあるとのことですが、桐生家代々の墓はいまも金沢市の久昌寺にあるのです。

 社会科学の発達しないところでは、人は動もすれば、野心的、独裁的なる政治家の奴隷とならざるを得ない。彼等は唯彼等自身の命令に服従する技術家のみを要するからである。(桐生悠々『他山の石』第7年第2号/S15)
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by kaguragawa | 2013-12-07 19:56 | Trackback | Comments(0)

生誕100年の嘉門安雄さん   

 きょう12月1日は、生誕100年になる美術評論家の嘉門安雄さんの誕生日。レンブラントを教えていただいた方。

 嘉門さんも北前船ゆかりの地、能登半島の外浦(西岸)の黒島地区〔石川県鳳至郡黒島村(現:輪島市門前町黒島町)〕の出のはずである。

   *嘉門安雄  1913.12.01~2007.01.05
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by kaguragawa | 2013-12-01 20:00 | Trackback | Comments(5)