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京都に霜川の父を訪ねて(2)   

 四条烏丸の交差点の南、烏丸通りの左右にその町域をもつ水銀屋町――。現在の水銀屋町から戦前戦後あたりの水銀屋町にさかのぼることは、ある程度可能だ。が、明治維新直後の遷都後の京都のこの地区がどのような容貌をもった町だったかをあきらめることは、そこに、しばし足をとどめただけの訪問者には至難のことのようだ。
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 家業を継ぐことを求められていた村医者の息子、20代の若者だった三島重法。彼は、幕末維新の戦禍が街角に残り、天皇が東京に去ってしまった明治7年の京都に何を求めてやってきたのか。

e0178600_21311082.jpg 水銀屋町の歴史のことや、京都中枢の金融街になっている四条烏丸のことなどの報告を織り交ぜて、霜川の父・三島重法のことを、その政治への志向(野心?)をふくめて書くつもりで、書き始めました。が、きのうから、語るべきことをうまくまとめることができずにいます。
 現在の水銀屋町の大きな部分を占めるCOCON(古今)烏丸の2階のカフェで階下を見おろしながらおろおろと思考停止に陥っていたままを引きずっているのです。

 
 霜川の父を語るには、もっともっと時間が必要なようです。
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by kaguragawa | 2013-07-29 23:24 | Trackback | Comments(0)

京都に霜川の父を訪ねて(1)   

 三島霜川の父・重法とはどのような人物であったのか――。

 ある用件ができ京都に出向いたついでに、私は四条烏丸に足を運ふことにした。
 京都の三島重法の跡をたずねるためである。突然の偶然が恵んでくれた――それゆえに何の準備もないままの――京都行は、私にとって、霜川父子〔父・三島重法と子・才二〕を、たずねる旅の最初のものとなった。

 ある方が写しを残しておいてくださった三島家の除籍謄本には、父・重法が明治7年5月20日から12年3月まで、京都府下烏丸通四条下ル水銀町安原一郎方に寄留していたことが記されている。
 霜川(才二)の戸籍上の出生の日が、明治9年7月30日になっていることは、以前書いたとおり。とすれば、霜川(才二)の出生のとき、父・重法は京都に寄留していたのである。
 ――この事態をどう考えたらよいのか、この戸籍に記されている「烏丸通四条下ル水銀町」とはいったいどのようなところか、自分の目で確かめたい!、以前からのこの思いが、霜川の誕生日の直前に実現されることになったのだ。

 140年前の京都の「烏丸通四条下ル水銀(屋)町」が、どんなところであったのか、それがわかるにせよわからないにせよ、そこに足を運ぶことが、霜川のこの世へ出た時空に迫るためには避けてとおれない入口になる・・・、そんなことも思いながら、地下鉄の四条駅を地上に出た。
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by kaguragawa | 2013-07-27 22:34 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛、七夕に生まれる!?   

 先日(7月17日)、「堀田善衛、生誕の日」という記事を書いたところ、「堀田善衛の誕生日は《7月7日》でしょ」、というご指摘(お叱り?)を受けた。“あの”ウィキペディアに「7月7日」とあるのに、それに異議を唱えるのか・・・というわけである。

 何も、異議を唱えるつもりはなかったのだが、不用意にも記事を書く前に「ウィキペディア」を参照しなかった不手際?は認めざるをえない。事前に確認しておれば、『「ウィキペディア」には7月7日になっていますが・・・』と、付け加えることができたからだ。

「ウィキペディア」には、こう記されている。

 堀田 善衛(ほった よしえ、1918年(大正7年)7月7日 - 1998年(平成10年)9月5日)は、日本の小説家。富山県高岡市出身。 (2013.7.25現在)

 《7年7月7日》。7が3つも並んで、なかなかに見栄えが良い。善衛さん、七夕の生まれなのだ !。

 正直に書いておけば、私自身、堀田善衛の戸籍(除籍謄本)を実見したわけでもない。まして、堀田善衛さんの誕生の場に居合わせて、事実を語れるような縁続きの人間でもなければ、100歳近い老人でもない。私の7月17日説には、何の実体的根拠もないのである。
 故に、堀田善衛の生まれた日をご存じの方は、名乗り出て、真実を教えてくださいとお願いするしかないのである。

 では何を根拠に、私が《7月17日》を堀田善衛の誕生日としているかだけを書いて、お叱りへの弁明にしておきたい。

 1.最新の年譜である「堀田善衞年譜」(『堀田善衞展――スタジオジブリが描く乱世』(〔編集〕財団法人神奈川文学振興会・スタジオジブリ/〔発行〕県立神奈川文学館/2008.10)に「7月17日」とある。
 2.多少古いものの、『日本近代文学大事典(第3巻)』(1977.11/講談社)、『日本現代文学大事典(人名・事項篇)』(1994.6/明治書院)という二つの基本的な参考図書にも「7月17日」となっている。
 3.繁雑になるので列挙は避けるが、今回(具体的には昨日)あらためて閲覧しえたいくつかの(いくつもの)文学全集にもすべて「7月17日」となっている。
 註.第一に参照すべき『堀田善衞全集』は、怠慢の誹りを甘受するが「第一期」「第二期」とも持ちあわせがないので、まだ確認しえないでいる。近日中に、追加報告をしたいと考えています。

 戸籍(除籍謄本)も『堀田善衞全集』をも参照していない不十分さにもかかわらず、《7月17日》を「堀田善衞、生誕の日」と書いたのか、についてもう一言つけくわえるならば、上記1.の『堀田善衞展――スタジオジブリが描く乱世』という堀田善衛展の図録に、昭和二十二年一月四日付けの「引揚証明書」という公的書類の写真版が掲載されていて、ここに「氏名 堀田善衞(大正七年七月十七日生)/本籍 富山県高岡市伏木本町三八番地」と記されていることに拠ったと、いうことだけは明記しておきます。


〔追記〕
 上記の1.2.3.のすべてに堀田善衛の就学した小学校を「伏木尋常小学校」とされていて、少なからず驚きました。これは「伏木尋常高等小学校」に訂正されなければなりません。伏木尋常小学校は、1905(明38)年に伏木尋常高等小学校に改称していることが記録にあきらかだからである。
 ついでに言うと、こうした事項につき、残念ながら文学全集などの年譜にも誤りが散見される。小学校令の改正によって尋常小学校と高等小学校の併置ができるようになった1900年以後、どんどん尋常高等小学校化が進められ、義務教育6年制(1907)を準備したという教育制度史上のことがらに、クロノロジストたらんとする者は、きちんとした目配りをしたいものと自戒を込めて思います。

〔追記:2013.08.20〕
 堀田自身の記述にも、《7月17日=誕生日》は登場する。

『オリーブの樹の陰に――スペイン430日』(1980.6)

一九七七年七月十七日(日)
 朝から素晴らしい天気である。
 今日、小生六十歳の誕生日である。(中略)
 この日記は七月十七日から書き始めたものであったが、少しさかのぼって埋めていくことにする。

(1978)七月十七日(lunes)
 小生六十一回目の誕生日なれど、わが生涯にもっともアツイ誕生日なり。
 代々木の娘より電話。(中略)この電話で筑摩書房倒産とのこと。参った、参った。


『誰も不思議に思わない』(1989.10)

 水上氏がふと、
「ぼくは大正八年生れで、もう七十歳だ」
 と言った。
 私は驚いた。驚いたと言う以上に、それは一種のショックであった。私自身、来たる七月十七日に七十歳を迎えるについて、意識、無意識の双方の境界で、おそらく七十歳という、人生の一つの期を迎えるための、心の用意のようなものをしていたせいであろう。不意を衝かれるとはこのようなことを言うのであろうか。途端に私は、
「僕が大正七年、一九一八年生れで、まだ七十歳になっていないのに、大正八年生れの君が、もう七十歳とは何のことだ?。」
 と思わず叫ぶように言ってしまった。
(中略)
 憮然として七十歳。
 人は古稀などというが、何が古稀なものか。漢詩でも書くか。

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by kaguragawa | 2013-07-25 23:59 | Trackback | Comments(0)

思いがけぬ所で、出会った冨永徳磨   

 きょう、徳田秋聲記念館企画展「徳田秋聲らしからぬ!~しゅうせいとこどもむけよみもの~」に出かけました。まさに秋声らしからぬ、と思われる、作品やそれにからむエピソードなどが集められています。この企画展については、あらためて紹介したいのですが、今日はそこで出会った一冊の本のことだけ書いておきます。

 ナサニエル・ホーソン/富永徳磨訳『緋文字(ひもんじ)』1903(明36)年/東文館

 秋聲がホーソンのギリシャ神話(ミダス王伝説)をもとにした寓話「Golden Touch(何でも金になる話)」――私は未読――を「土耳古王の所望」として翻案していることに関連して一冊の本が展示してあったのである。(ちなみに、なんでも秋聲にはほかにも「幻影」や「少女の望」というホーソン原作の翻案があるのだと言う。)
 ここに冨永徳磨訳の『緋文字』について書いたのは、以前、この【めぐり逢うことばたち】(旧日記時代)に書いたことのあるのを思いだしたからなのです。秋声は知っていたか知らなかったかは不明ですが、この冨永徳磨訳の『緋文字』は、長老派キリスト教の牧師であった徳磨の金沢教会時代に訳された作品のはずなのです。

 冨永徳磨訳の『緋文字』の現物を予期もしていていなかった徳田秋聲記念館でみたことをきっかけに、旧日記に書いた冨永徳磨の関する記事を、例えば02/10/2008〔冨永徳磨と金沢〕のように、旧日記の日付を頭につけて再録しました。

 ・06/10/2006〔もう一つの指ケ谷町〕
 ・12/15/2006〔二人の詩人の見えざる出逢い〕
 ・02/10/2008〔冨永徳磨と金沢〕
 ・02/13/2008〔金沢香林坊にあった「金沢石浦町教会」〕

 この記事の下の「冨永徳磨」のtagをクリックしていただければ、「冨永徳磨」関連の記事をまとめて読むことができるようになりました。
 冨永徳磨については、旧記事にまとまりなく書かれている国木田独歩や八木重吉との関係だけでなく、金沢での西田幾多郎との交流や当時の四高生・加藤完治との交わりなども含め、《金沢時代の冨永徳磨》のことを掘り起こしてくださる方がおられればと思うのですが・・・。とても興味深いテーマのはずです。

〔追記〕
 〔ホーソン『緋文字』東文館〕は、国立国会図書館デジタル化資料で見ることができました。
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874627
 それによるとこの本の訳者名は、内表紙には〔著者 富永蕃江訳〕となっている一方、奥付には〔訳者 富永徳磨〕となっています。
 なお、巻末に発行者のことばとして次のように記されています。;
「訳者蕃江君遠く金沢にありて伝道に従事す 平素文士の独立を尊び高邁の気を愛す故に先輩と雖も漫に加筆するを喜ばず 赤裸々を以て世波に投ずるを寧ろ優れりとす されば訳者素より其責を甘受する所ならんも発行者の不文或は訳者の意を充たす能はざる所あらんも知るべからず 故に江湖に対する本書一切の責任は全く発行者の責任なりとす 訳者幸に諒之   明治三十六年十一月三日」
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by kaguragawa | 2013-07-21 19:50 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛、生誕の日   

 95年前の今日〔1918(大7)年7月17日〕、我が富山県の港町・伏木(高岡市伏木地区)はどんな天候だったのか・・・。最近の猛暑や豪雨を思うにつけ、ちょっと気になり、調べてみました。一世紀近く前の一地区の天候がわかるのか、と思われる向きもおありかと思いますが、当時、伏木には「測候所」があり、幸いなことにこの地区の当時の気象記録が残っていて、それをweb上で見ることもできるのである。
 (この伏木測候所は、同地の廻船問屋の当主・藤井能三よって1882(明15)年につくられた私設の!測候所。1887(明20)年に富山県に移管。なお1918(大7)年当時の所長は、――3年後〔1921年〕台風来襲に際し警報発令の不手際の責を一身に負って自死した――大森虎之助氏。参照:新田次郎『迷走台風』)

 その伏木測候所記録によれば、95年前の《7月17日》――伏木のこれも廻船問屋・堀田家の三男として生を享けた堀田善衛の生誕の日――は、「晴れ」だったようである。が、翌18日には57ミリの雨量が記録されていてかなりの雨量である(実はこの日が7月の最大雨量を記録した日)。それも明け方から昼前に集中して降ったようである。前日の16日にも22ミリの雨量が記されているから、堀田善衛の生まれた17日は梅雨明け前の不安定な天候の「晴れ」のなか日だったようなのである。

 そしてここからは余談。堀田善衛の生まれた数日後に、伏木の港に招かれざる?一隻の汽船があわただしく来船した。越中の女一揆とも呼ばれた「米騒動」勃発の渦中にあった伊吹丸が、積みこむはずの米を積まずに(積めずに)、魚津から伏木に緊急避難?!したのである。

 県東部の港で米の積み出しを阻止しようとして起こったこの年の米騒動は、県西部の米の積み出し港であった伏木にも飛び火したのであろうか。そんなことも堀田善衛の米騒動への言及と併せて掘り起こし、いつか書いてみたいと思っています。
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by kaguragawa | 2013-07-17 22:36 | Trackback | Comments(0)

木谷賀の『大日本職業別明細図』   

 先日、『大日本職業別明細図』のことを書きましたが、この地図の“高岡市”の分があることを想定していなかったので、調べてもいませんでした。ところが、これがあったのです。正確には、『大日本職業別明細図之内富山県高岡市伏木町新湊町氷見町』。

  大正十四年一月二十八日発行のもの。

  東京府渋谷町下渋谷八十三番地
  著作兼発行人 木谷 賀 

  東京府大久保町西大久保五番地
  印刷所 東京交通印刷所

  東京府渋谷町下渋谷八十三番地
  発行所 東京交通社

    定価 金三拾銭

 木谷賀は、木谷佐一の奥さん、とのこと。同地図の「富山市」も発行人名義は木谷賀でした。(発行人名義を、木谷佐一と木谷賀がどのように使い分けているのか私にはよくわかりません。)以上のような書誌的事実はともかくとして、この地図で思いがけないもの2つ見つけたのです。 
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 その一つが、高岡市内に記載のある《塩谷印刷所》、高岡大仏の裏手、現在の大手町(上図)。
 もう一つが伏木町(当時は射水郡伏木町)の《堀田》――堀田善右衛門商店!――の文字。
 それぞれについては、折を見て報告したいと思っています。

〔追記〕
 “木谷 賀”の読みがわかりません。
 河野敬一さんの論文「近代期における市街地図の観光と利用――東京交通社による「職業明細図」刊行の分析」(常磐大学人間科学部紀要『人間科学』第25巻第号/2007.10)には、〔(きたに)よし〕のルビがあり、調査によるものと思われるが、「大日本職業別明細図之内富山市」を所蔵する富山市立図書館の目録では〔きたに・いわう〕、「大日本職業別明細図之内富山県高岡市伏木町新湊町氷見町」を所蔵する高岡市立図書館の目録では〔きたに・しげ〕とある。
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by kaguragawa | 2013-07-12 23:24 | Trackback | Comments(0)

岸他万喜の命日の翌日に   

 昨年同様、昨日(9日)は、岸たまきを検索してこのブログに来ていただいた方が相当数おられるようです。7月9日は、竹久夢二の妻であったたまき(他万喜)の命日だったのです。

 ちょっと調べだすと、他万喜について今まで通説となっていることに、いくつもいくつも疑問がでてきます。そんなこともまとめて書いてみたいと思っていますが、ちみつな論証を進める能力が無いので、――泉下の他万喜さんからも「そんなこと今さら・・・」と言われているようでもあり――なかなか実行できそうにありません。

 
 数年前からの宿題〔金沢の野田山墓地に他万喜の父・岸六郎の墓を見つけること〕〔他万喜の兄・他丑と二葉亭四迷とのありうるかも知れない出会いを論証すること〕は、なんとか実現したいと思っていますが。。。。
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by kaguragawa | 2013-07-10 22:38 | Trackback | Comments(0)

『新著文芸』〔第一巻第一号〕 (2)   

 この『新著文芸』〔第一号〕に載っている三島霜川の「塩田」――原文は、もちろん旧字体の「鹽田――は、のちに霜川唯一の短編集『スケッチ』に「塩」と題名を変えて収録されることになります。(「塩田」の題名そのものに読み仮名はないのですが、本文中の「塩田」には「しほだ」のルビが振ってあります。)
 (字体に関していうと、三島霜川の名は、当時の印刷物のほとんどが、圧倒的に「三島霜川」であって「三嶋霜川」はほとんどありません。なお。本人の自筆も私の目にしたものはすべて「三島」でした。)

 余談ですが、いずれ私として珍しく作品論を書きたいと思っている数少ない霜川作品がこの「塩」(「塩田」)です。老父と若者の対話を中心に展開していく塩田での単調ながら苦しい塩作り労働を描くこの作品には、「老父の労働観」と「若者の労働観」が見事に、というより前近代的ということばを使うのは気が引けるのですが老父の有機的労働観というようなものが巧みに書き込まれていて、思想史的にも注目すべき作品だと考えるからなのです。

 余談めいたことばかりになったこの報告(2)に、どうしても記録しておきたかったのが、この雑誌の巻末に次のような広告(弘文社の近刊予告)が載っていたことでした。霜川を語る貴重な資料にもなるものです。おそらく奴の助(稲岡正文)が書いたものでしょう。

 三島霜川著
 「熱血」  近刊

 深夜机に対して苦茗をすすり、煩悶苦悩、経営惨憺を極めて漸く一篇の小説をなすものは三島霜川子なり、子の文学に忠実なる、恐らくは青年文士中稀に見る処にして、句々字々一として熱血ならざるなし、而も自ら熱血と題して新に筆を下せるもの、至誠は鬼神を動かす、これを読んで感ぜざるものは人に非るなり

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by kaguragawa | 2013-07-08 23:13 | Trackback | Comments(0)

『新著文芸』〔第一巻第一号〕 (1)   

 ある方のご厚意で『新著文芸』の初号(第一巻第一号)の現物を手にとってみることができました。いまからちょうど110年前の1903(明治36)年の7月1日発行の文芸雑誌です。三島霜川を追っている私にとっては、重要な雑誌です。

 目次には、次のような作品が並んでいます。

  すきぶすき 徳田秋聲
  無限恨   小栗風葉・木内茶庵
  名人の夜  斎藤弔花
  塩田    三島霜川
  思ひ子   高橋山風
  破家の露  秋香女史
  姫物語   奴之助


 明治36年時点で霜川とともに雑誌の初号の目次に名を連ねる人々の名を一覧して不思議な感慨を覚えるのですが、即席文学史家の私などがとかく知ったかぶりの言及は避けます。ほかに名の挙がっている人物で書き足しておきたいのは、口絵石版の作者;小峰大羽、評林欄に「文壇不振の二原因」「三子者に学位を授けよ」を書いている桐生悠々です。

 第一号ですので、編集者のことばがあります。(仮名遣い、句読点は原文のままとしました)

 こゝに同人会い集まりて一の文芸雑誌を発行す。敢て今日の文壇に貢献するところ多しと叫ばざれど。また徒に閑月日の痴切符を以て甘むずるにあらず。聊か相約し相期して孜々兀々たるの効果。もしそれ平生の志に酬ゆるをえば自ら足る。洛陽の紙値は措て問はず。たゞ未見の知己幾何にあるのみ。
 癸卯の夏 修養堂主人 奴の助 


 奥付きは;

  編集者  稲岡正文
     東京市下谷区中根岸町五十四番地
  発行者  江原豊治
     東京市下谷区中根岸町五十四番地
  発行所  弘文社

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by kaguragawa | 2013-07-08 22:28 | Trackback | Comments(0)

三島正六さんの命日(七月三日)   

 7月3日は、三島正六(みしま・しょうろく)さんの命日でした。
 (亡くなられたのは1986(昭61)年。)

 昨年暮れ、正六さんの事績も少しずつたどろうと思い定めたのですが、なにほどのこともできないまま半年が過ぎてしまいました。

 正六さんは――つい“さん”づけになってしまうので、そのままとしますが――父・霜川の三十年忌の折や霜川選集刊行の折など少なくとも4回は富山を訪れておられて面識のある方も多くおられたはずですし、東京に正六さんを訪ねられた3人の方はお名前を存じ上げていますが、今、県内で生前の正六さんをお存じの方は少なくなられたのではないでしょうか。

 正六さんのお生まれは、その名に反映しているように、大正6(1917)年。まもなく生誕100年にも近くなる。正六さんをご存じの方に一人でも多くお会いしておきたいと思っています。

〔追記〕 入手しがたい正六氏の著作の中で、私がとても気に入っているのが1978年10月に書かれたエッセイ「韓国ひとり旅」(1~21)なのですが――翌年のパク・チョンヒ(朴正煕)大統領暗殺事件の直後に書かれた「韓国に関わり続けて」も貴重な韓国論――、正六氏を深く朝鮮と結びつけた戦前の「京城日報」の記者の始まりが1941(昭16)年前半だったことが、水上勉『文壇放浪』・和田芳恵『ひとつの文壇史』などからわかります。
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by kaguragawa | 2013-07-06 22:31 | Trackback | Comments(0)