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平成の世の『喚起泉達録』   

 Tさんの労作〔『喚起泉達録』の口語訳〕稿がF先生から、回ってきました。

 荒唐無稽と揶揄されたこともある『喚起泉達録』ですが、今読み直してみて、その内容のユニークさと語りのおもしろさに、強く惹きつけられるものがあります。こうした江戸時代の越中の「知」のありようについてはまったく知られることがなかったのではあるまいか。

 『喚起泉達録』についてさまざまな観点から論じた諸先生のいくつもの論考とともに、今夏には公刊されるという。

 その公刊に向けての最後の過程を、楽しみながら見届けたいと思っています。
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by kaguragawa | 2013-05-27 20:09 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の「若い叔父」【吉野才次郎】(3)   

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 103年前〔1910年〕の「北陸タイムス」明治43年1月1月号号の「恭賀新年」広告。
 左中ほどに、【恭賀新年 広塚村 吉野養元 吉野才二】と連名での賀詞広告が見える。この養元は、才次郎の父・辰次郎ではなく兄・徳太郎であろう。

・才次郎の名が、なぜか「才二」となっている(霜川の本名も才二である)。
・前年(1909年)の1月1日の賀詞広告は、【恭賀新年 一月元旦 東砺波郡広塚村大字院林 医師 吉野養元】であり、この年(1910年)に才二(才次郎)が加えられている。

・この広告の2年前の1908年に発刊されたばかりの北陸タイムスの社主は、福野町の田中清文〔田中銀行・田中貯蓄銀行〕である。それ故であろう、このページには、多くの福野町の企業、実業家が名を連ねている。右下の方の【詩百篇醸造元 山田正年】は、福野町の初代町長山田正景を出した山田家で田中家と並ぶ旧家。家を継いだのがここに名の出ている山田正年。正景の弟・呉吉は伏木の堀田家に養子に入り堀田呉吉(善右衛門)となる。その右の【太陽醤油醸造元 安永六之丞】は、後に織田一磨が疎開することになる家である。

 謎なのは、こうした旧家名家と並んで吉野家の賀詞が掲載されていることである。村医であった吉野家は、広告を出すほど繁盛した医院だったのだろうか。吉野医院に新聞広告を出すことを強く勧めた人物がいたのではなかろうか。推測の域を出ないが、北陸タイムス社主・田中清文と吉野家との間のなんらかの関係を想定した方が良いのではなかろうか、と思えるのです。
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by kaguragawa | 2013-05-23 22:10 | Trackback | Comments(2)

三島霜川の「若い叔父」【吉野才次郎】(2)   

 前項の【「若い叔父」吉野才次郎】に、少し説明を付します。

 「院林村(いんばやしむら)」――厳密に言うと吉野家のあった小矢部川支流山田川以東の院林地区――は、1889(明22)年の町村制施行時に、砺波郡広塚村に合併され、後、東砺波郡広塚村院林→東砺波郡福野町院林を経て、現在、南砺市院林となっている。
 なお、田中清一氏の「三島家系図」の附表に、吉野家の檀那寺を「加賀国金沢町 真宗 端泉寺」とあるのは、「瑞泉寺」の誤植。南砺市井波にある浄土真宗の巨刹・瑞泉寺の金沢市白菊町9−5にある分寺「瑞泉寺」がそれである。なぜ、檀那寺が金沢にあるのか、そのことは吉野家の出が金沢にあることを示していると考えて良さそうであるし、この南砺地方と金沢の古くからの交流を考えれば特別のことがらでもないと言える。いずれにせよこのことの考察は、今私の課題をはみだしてはいるが、念頭には置いておきたい。

〔追記〕
  徳田秋聲は、『黴』の五十九節で、同じ人物を「深山の義理の叔父」とも書いています。そこで、この“義理”という点についても、私考を一度書いたのですが、議論が煩瑣にわたるためブログ上では削除したことを付記しておきます。
・(1)霜川の“義理”の叔父で,「若い叔父」にあてはまる人物は、――現在判明している系譜上は――いないこと。
・(2)秋聲は、お銀の母親に「深山さんというのは、あの方ですか。あの方の家輪(うちわ)のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」とふくみをもたせて言わせている。このことと、“義理”のことば遣いとが――秋聲のあたまのなかで――結びついているのかもしれない、
との2点を、指摘するにとどめます。
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by kaguragawa | 2013-05-23 21:13 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の「若い叔父」【吉野才次郎】(1)   

 私製の「三島霜川年譜」に註としてつけられた「メモ」があります。そのなかの【吉野才次郎】という項目を、次のように補訂しました。徳田秋聲の『黴』に“深山の若い叔父”として登場する人物についての「私見」ですが、あらたな資料を見つけたのを機に、タイトルを【「若い叔父」吉野才次郎】とし、少し説明を補ったものです。

*2.【「若い叔父」吉野才次郎】
 徳田秋聲の『黴』に、秋聲の妻が作品中「お銀」として登場するが、そのお銀が秋聲の小石川表町の家にやってくる前の湯島時代の記述に、お銀の友だち「お鈴」の同棲相手として“深山の若い叔父”が登場する。この人物は、『黴』の前史ともいえる『足迹』では、“お増”の同棲相手“芳村”として登場し、医師試験を受けようとして勉強中の人物として描かれている。この人物は、霜川の母とめの弟・吉野才次郎と考えてよいのではあるまいか。

 霜川の母の実家である吉野家は砺波郡院林村の村医。田中清一氏の近親者調査の労作「三島家系図」によれば、才次郎の生まれは1875(明8)年、霜川の1歳年長で、「(霜川の)若い叔父」の条件に合致し、「よし」の音も共通する。が、吉野才次郎その人の事績を追った研究はなく、詳細は不明であり、今後の課題である。
 もし、吉野才次郎=作中の「若い叔父」とするなら、霜川は才次郎から湯島天神下での人間関係を聞き知っていたと思われ、これが、後に妻の湯島時代の人間関係――ここに霜川を含める読み方も可能であろう――にこだわり、とらわれ続ける『黴』の主人公の物語の背景をかたちづくることになる。
 なお、新たな調査によれば、明治40年代、才次郎は家長名「養元」を名乗っていた兄・徳太郎と共に、後にその後を継いで、医業に従事していたことが新聞の広告などからうかがわれる。

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by kaguragawa | 2013-05-21 21:20 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:5月20日   

 桐生悠々の誕生日。悠々が生まれて140年になる。傍らに積み重ねたままの悠々の著作集が、持ち主の不勉強にあきれてつつも、もの言いたげである。

 ここ数日、扁桃腺が腫れてからだが重い。いつもなら3月の末におこる症状だが、今年は年度末をなにごともなく過ごし、しめしめと思っていたら、今頃になって襲われた次第。

 あっ、そうそう、詳細の確認はこれからですが、ヴォーリズが設計したという大同生命金沢支店(現存せず)の写真を見つけました。そう言えば、香林坊の北西角地にあったいわゆる魚半ビル(竣工時、加州銀行香林坊支店ビル)の設計者が渡辺節だったことも最近知ったことです。
 諸事の細かな報告事項は山のように?あるのですが、追い追いここに書き残していきたいと思っています。
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by kaguragawa | 2013-05-20 19:45 | Trackback | Comments(0)

福野の街歩き   

 きのう5月18日は、富山が生んだ建築家・吉田鉄郎〔1894.05.18~1956.09.08〕の誕生日でした。といっても、吉田鉄郎って誰?、と聞き返されそうです。
で、web上から説明をお借りします。

 建築家。富山県福野町の生れ。戦後日本建築の方向を早く戦前より準備した一人。1919年東京帝国大学建築学科を卒業,以後逓信省で設計に従事。東京中央郵便局(1931),大阪中央郵便局(1939)などで,装飾を抑制し,厳しい比例感覚で建築の構造を率直に表現した。33年のタウトBruno Taut来日時には案内者として彼の日本建築理解を助け,またドイツ語の著作により日本建築を海外へ紹介した。【丸山 茂】 (kotobankより)

 そして彼が生まれた南砺市(旧:福野町市街地)にも、彼の設計になる建築物がいくつか残されています。
 西方寺旧授眼蔵佛教図書館(福野上町)/山田邸(福野新町)/梶井邸の座敷〔旧福野郵便局の離れ〕(福野田中町) 
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 残念なことにどの建物もその公開はされておらず、全景を見ることもできません。上の写真は、吉田鉄郎の誕生日にちなんだわけでもないのですが、きょうの私的福野町歩きの際に、家横の路地の金網ごしに撮った山田邸です。
 山田家は、「詩百篇」と言う名の日本酒の醸造家で、なによりも福野町の町長なども務めた旧家で近代福野にとっても大きな役割をはたした家でした。

 この山田家、建築家吉田鉄郎や画家五島健三を生んだ五島家、1945年3月の疎開に始まり1949年までこの地に滞在した織田一磨のことなど、福野には知りたいことがたくさんあって、きょう天候も体調もあまりすぐれない中、4年ぶりに福野の街を歩いてきました。
 かん町(上町)やうら町(浦町)の旧町だけでなく、今は暗渠化された芝井川(芝江川とも)に沿って寺院をいくつか巡れたこと、最後に立ち寄った「ヘリオス」の図書館で、山田家の資料は見つからなかったものの、三島霜川の母の出身地である院林村(→福野町→南砺市)の資料を見れたのも幸いでした。
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by kaguragawa | 2013-05-19 16:19 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

金沢のまち――九枚町/柿木町/少将町   

 先日金沢の町を――といっても繁華街でもなく、むろん観光スポットでもなく――家中町といわれた武家地跡の町を少し歩きました。e0178600_22422465.jpg堀田善衛の金沢エッセイに登場する「(旧)九枚町」「(旧)柿木町」辺りの静かな住宅地とである。事前に地図をみていくつかの寺のあることはわかっていたのですが、思いのほか大きい寺が閑静な町中のあこそこに居座っているのである。小立野台を見上げる位置にある――現在、扇町や暁町と町名が変えられた――こうした下町?の数々については、もう一度歩いた上であらためて語りたいと思うので、話題を変えます。

 どうしても語りたくなって、今日、書き出したのは、地図を持っていたにもかかわらず方向を間違ってしまい、迷い込んだ少将町で出会ったある建物についてである。迷子になって地図をあらためてのぞきこむと現在地の近くに「法句寺」の名前を見つけ、――福井出身で四高に学んだ中野重治が一時下宿していた寺である――これは見っけものだとばかりに、今度は方角を間違えないようの角を曲がって歩き出した時に、その“ある建物”が目にはいってきたのである。e0178600_22433638.jpg
 そんなに古いものとは思われないながらも何故か懐かしさがただよう“洋館”がそこにはあったのです。全景を撮りたくて距離をとりながら何枚か写真を撮った後で、その洋館に近づいたとき目に飛び込んできたのが、その建物の主であると思われる人の忘れようにも忘れられない特徴的な名前だったのです。その横書きの表札には《佐口透》とあったのです。

 佐口透氏。それは知る人ぞ知る、私が若き日にあこがれた西域研究の権威である。この建物の主《佐口透》は、あの佐口透氏なのだろうか。怪訝な気持ちとうきうきした気持ちを半ばさせながら、これも近代的に立て直されたしかし風雅な法句寺の前に立ったのでした。
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by kaguragawa | 2013-05-15 22:49 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

堀田善衞の「金沢」   

 堀田善衞に、「金沢にて」(1959)というエッセイがあります。堀田善衞は冒頭に金沢の想いをこう書いています。

 日本のはげしい変わり方のさ中で、さほど変わり方のめだたぬ町をあるくことは、あるくその当人に、種々入り組んだ感想を与える。ましてその当人が、むかし住んでいて、物心つくについて深いものを与えられたとなれば、なつかしさはひとしおであり、まるで自分自身を見るように思う。

 堀田が金沢について「物心つくについて深いものを与えられた」、「まるで自分自身を見るように思う。」と、書いているにもかかわらず、「堀田文学にとって金沢は何であったのか」というテーマで論じられたことは無いのではなかろうか。
 が、私にはずっと、堀田善衞にとっての「金沢」が気になっているのです。もちろん「堀田文学にとって・・・」などという大問題を論じようという気持ちはさらさらないので、堀田善衞が金沢にいた旧制の金沢二中時代の足跡を少しでも掘り起こすことができないかという気持ちなのです。

 ある縁があって、今あらためて、この私の「気懸り」を、少しときほぐしてみよう、少し探ってみようと思い始めました。あまり読まれていない二つのエッセイ「金沢にて」(1959)「金沢風物誌」(1968)を紹介することから初めて、堀田善衞の金沢時代の諸相などと折を見て、書いていきたいと思っています。
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by kaguragawa | 2013-05-13 21:02 | Trackback | Comments(0)

海内果生誕地の碑   

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 海内果生誕地の碑
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by kaguragawa | 2013-05-11 14:35 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

君は、《主審》たるべきか?   

 これはどう見ても《禁じ手》である――。長島茂雄・松井秀喜両氏の国民栄誉賞授与式後の「始球式」。どうして、ここにある政治的意図をもった内閣総理大臣が登場するのだ!?。とても残念なことだが、この感動的な授与式は、巧みにあまりに巧みに、憲法を改正しようとする、それを争点に選挙を行おうとする時の権力に利用されてしまったのである。
 受賞する人のもとへ授与する側の人間が出向き、その栄誉をたたえ表彰行為を行うことは、たいへん良いことである。今後も、どんどんこの方式を採用してもらいたい。だが、今回はどうだろう。「96」の背番号までつけて、多くの国民が注視する「始球式」に登場することは、どれほど有効に計算された意図的な政治的行為であることか。

 「かぐら川さん、いいじゃないですか、ご愛敬ですよ。目くじらを立てるほどのものじゃないでしょう。」

 誰が、内閣総理大臣を「審判」にした始球式というセレモニーを企画したか知らない。悪い冗談として最高裁判所長官を「審判(主審)」に担ぎ出すというのなら、笑いごとで済ませても良いかもしれない。が、この時機、安部しんぞう氏はこの企画を辞退すべきであった。みずからを律して、固く辞退すべきものであった。それが政治家としての身の処し方であろう。安部氏は国民栄誉賞の授与と言う行政行為を終えたらば、即刻あの場を去るべきだった。もし、始球式への参加を、寸分の政治的意図のない行政職の行為だというのであれば、せめて、せめて、背番号は「0」にすべきであったろう。
 始球式というこのすてきなセレモニーに、私は、王貞治さんに主審をつとめてもらいたかった。かなわないことだろうか、不自然なキャスティングであろうか。

 あの感動的なセレモニーが、安部氏の心ない行為によって、後味の悪いものとして刻印される・・・そんな愚はおかしてほしくなかった。
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by kaguragawa | 2013-05-07 22:54 | Trackback | Comments(2)