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渡辺順三の命日   

 2.26事件の日〔2月26日〕は、は、渡辺順三の命日でもある。

 順三の亡くなった1972年のこの日も雪だった、と何かで読んだ記憶があるが、確かめないまま今日を迎えました。
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by kaguragawa | 2013-02-26 22:09 | Trackback(1) | Comments(0)

正直に 腹を立てずに 撓まず励め   

 《正直に 腹を立てずに 撓まず励め》

 2.26事件を追想した鈴木貫太郎夫人の肉声が残っていたという。

 鈴木の遺訓を校歌にしている小学校があるとは知りませんでした。

  ――NHK9時のニュースを見て
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by kaguragawa | 2013-02-26 21:56 | Trackback | Comments(0)

サヴァリッシュさん   

 指揮者のウォルフガング・サヴァリッシュさんが亡くなられた。

 私はピアノに向かうサヴァリッシュさんが好きだった。残念ながら、氏のピアノから引き出される端正でありながらロマンティックな音楽は、N響からはほとんど聞こえてこなかったように思われる。
 例外的な名演の数々を忘れることはできないが、そうしたサヴァリッシュのN響で私は育ってきたのだ。


 
 あっ、忘れていましたがフィラデルフィアとサヴァリッシュのライブを私は聞いているのです。
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by kaguragawa | 2013-02-25 23:48 | Trackback | Comments(0)

田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(3)   

 参考に、該当する年度の田岡嶺雲の年譜を、少し旧いものですが『田岡嶺雲選集』(西田勝編/青木文庫/1956.2)から写しておきます。少しわかりにくいところもありますが、嶺雲の『金蘭記』などを読むと、帝国大学卒業時の「夜鬼窟」と呼ばれた下宿が《弥生町の下宿》であるように思えます。
 秋聲が、「(嶺雲の)他にも文壇的に知名の人がいたように思う。」と書いていた通り、笹川臨風・藤田剣峯・白河鯉洋・藤井紫影・中野逍遙・藤岡東圃といった人々の名が見えます。藤岡東圃(作太郎)は金沢の出身です。 

・明治24年
 9月  帝国大学文科大学漢文学科選科に入学した。

・明治25年
 夏   本郷5丁目裏通りの素人下宿から風通しのいい駿河台の下宿に移り(そのため初めて入質した)そこで数十枚の蘇東坡伝を書き、雑誌『史海』に投書し十円を得た(かれの処女作か)。その後、牛込榎町の下宿屋、原町の法華寺、染井の植木屋と転々放浪し、ユーゴーの作品などに傾倒した。(最後に弥生町の下宿屋に移った。)

・明治26年
 11月 キューバ独立戦争に参加しようと念じた。『松尾芭蕉』を脱稿した。

・明治27年
  7月 大学を卒業した。その下宿を「夜鬼窟」と称し、笹川臨風・藤田剣峯・白河鯉洋・藤井紫影・中野逍遙・藤岡東圃らが集まった。

・明治28年
  2月 山縣五十雄と雑誌『青年文』を創刊。
  3月 『青年文』で一葉の『たけくらべ』、眉山の『大盃』等を評価した。
  5月 遼東還付に失望の感を抱く一方、『国民新聞』の抹殺的評価に対して透谷・古白の死を論じた。
  7月 鏡花の『夜行巡査』、柳浪の『黒蜥蜴』等の作品を悲惨小説と名づけて歓迎した。
 12月 一葉の『にごりえ』、中野逍遙の詩篇を高く評価した。

・明治29年
  3月 大我居士の『貧天地大飢寒窟探検』、松原岩五郎の『最暗黒の東京』、横山源之助の『都会の反面』等の仕事を高く評価し、貧民問題の研究を提唱した。
  4月 箱根に、そして西京に遊ぶ。
  6月 津山中学に赴任した。


 とりあえず、データを秋聲側と嶺雲側から出しました。どこかに、弥生町にあったこの下宿の位置を確定できる手がかりがあるような気がします。
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by kaguragawa | 2013-02-25 23:26 | Trackback | Comments(0)

田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(2)   

 二つの関心から、《田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿》のことを考えてみたいと思っています。
 その一つは、小さなことがらではありますが、徳田秋聲の年譜的事象から抜け落ちている事実の掘り出しです。もう一つは、秋聲が書いているように《士族階級とみえる「同郷の」人々が》、すなわち加賀藩の士族たちが、大学に通う若者を対象とした寄宿舎に近い形態の下宿を経営していたとするなら、その実態をあきらかにすることによって明治期の加賀藩士の動向の一端を知ることができるのではない、ということです。

 手掛かりは、先回、書き写した二つの秋声の文章に尽きています。
 (以下、『光を追うて』を(A)、「大学界隈」を(B)として、参照しています。)

 1.)場所は、本郷区向ヶ岡弥生町〔*1〕。「高い石の段々のうえにある」(A)と書かれているところから、当時の番地で言えば、〔向ヶ岡弥生町3番地〕の方ではなく弥生坂を降りる方の〔2番地〕であろうと思われます。といっても、2番地も3番地も、それぞれかなり広範な地区であり、イロハニホ・・・で区画され、そこに地番がつくという地割になっています〔*2〕。
 なお、「横山という下宿」(B)という表現にも、もちろん要注目ですが、「士族階級とみえる同郷の人々」と「横山」の名をすぐに結びつけることは避けたいと思っています。

 2.)秋聲の書いたものによれば、田岡嶺雲がこの下宿にいたのは、明治28年6月頃ですが、いつからいつまでいたのか、これは不明です。そして、秋声がここにいたのは嶺雲よりは後ですが、可能性としては明治29年12月以前になろうかと思います。それ以降は、ほぼ居所がその居住時期もふくめて、秋聲研究のなかで確定されているからです。

 3.)そしてこの下宿の特徴として、学に志す若者のためのものだとしても、かならずしも加賀出身者に限られていないということです。そのことは嶺雲が下宿していることでも知られますが、秋聲が「今思い出すとその下宿に田岡嶺雲もいたことがあったし、他にも文壇的に知名の人がいたように思う。」(B)と書いていることでもあきらかです。そして「その下宿から大学に通っていた人にどうかすると会などで呼びかけられて冷やりとするくらい、自分の生活は貧しいものであった」(B)とも書いていて、〔B〕の随筆が書かれた1927(昭和2)年頃、当時の下宿人がみんなそれなりの地位に就いていて功なり遂げた姿をいろんな会合で目にするというのです。

 *1.「弥生が岡」(A)は、向ヶ岡弥生町という町名をフリーハンドで書いたら、こうなったと考えてよさそうである。該当箇所は、あえて架空の地名を用いる必要もない個所である。
 *2.ちなみに、明治34年に徳田秋聲と三島霜川が共同生活を送った弥生町は、〔向ヶ岡弥生町3番地トの11〕である。


 
 一方の、田岡嶺雲の方に、手がかりはないのでしょうか。
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by kaguragawa | 2013-02-23 16:18 | Trackback | Comments(0)

二つの「虐殺忌」   

 多喜二忌。虐殺忌。

 目にした読売新聞「編集手帳」。近くにある方は読んでみてください。
 小林多喜二は、特高警察の拷問により、1933(昭和8)年2月20日》、虐殺された。享年、31。

 ところで、小林多喜二は今年が、歿後80年。とすれば、来年が歿後80年となる一日違いの歿日の経済学者のことも、想起してもらいたい、知ってもらいたい。
 野呂栄太郎――。野呂もやはり権力による拷問で《1934(昭和9)年2月19日》に亡くなった経済学者である。享年35。

 塩沢富美子さんの『野呂栄太郎とともに』(未来社/1986.10)。読む余裕もなく借用期限が来てしまった。


 もう一つ、想起してもらいたい、知ってもらいたいのは、小林多喜二の虐殺の10年後のこと。
 権力によってつくられた犯罪「泊・横浜事件」で逮捕された人々に対する拷問が、神奈川県警特高の手によっておこなわれる。
 「お前らの一人や二人殺すのは朝飯前だ。小林多喜二がどうして死んだか知っているか」

 私たちは、小林多喜二がどうして死んだか、知らなければならない。


〔追記〕
 泊・横浜事件に関わる訴訟が21日、始まった。私たちは執拗に歴史を問い直さねばならない。
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by kaguragawa | 2013-02-20 22:23 | Trackback | Comments(0)

盛岡のプジェー神父――宇都宮に「カン蛙」が!   

 なんとプジェ神父が賢治と親しんだ盛岡の地を去り、次に赴任した宇都宮カトリック教会(松が峰教会)には、賢治の童話「蛙のゴム靴」に登場する「カン蛙」のガーゴイルがある!。
 「この教会の大聖堂の完成の1年前に着任したプジェ神父が、賢治を想い、完成間際の大聖堂に「カン蛙」のガーゴイルを付け加えたのだ」との説明もweb上にあるが、あまりにも出来過ぎた話だ。よく調べたら、このガーゴイルは戦後につけ加えられた宇都宮在住の彫刻家・栗原俊明の作品だと言う。

 盛岡での賢治とプジェ神父の親交は、こんなところにその跡をのこしているのですね。愉快な話です。

 「カン蛙」にも驚いたのですが、もっと驚いたのは、この大聖堂の設計者のこと。建築には興味を持っているのですが、松が峰教会を設計したスイス人建築家マックス・ヒンデルについては、はずかしいことに、その名さえ知りませんでした。16年間日本に滞在した彼の設計した多くの建造物が各地に遺されているというのに・・・・。

 金沢市長町の金沢聖霊総合病院の中にある「金沢聖霊修道院聖堂」もマックス・ヒンデルの設計だという。次回の金沢行きには、何をさておいてもこの「修道院聖堂」に足を運びましょう。
(追記:間抜けな話ですが、この「修道院聖堂」、金沢の歴史的建築物の一つとして、なぜか私の「金沢見て歩き計画」のなかに入っていました。どうしてこの聖堂のことを知ったものか・・・。)

 *マックス・ヒンデル(Max Hinder 1887~1963)
 http://modern-building.jp/Max_Hinder.html
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by kaguragawa | 2013-02-18 22:55 | Trackback | Comments(0)

盛岡のプジェー神父――石川光子と宮澤賢治   

 石川啄木の伴侶となった堀合節子が啄木と知り合った頃(明治32年)、節子は盛岡女学校に学んでおり、そんなことがきっかけになったのかと思いますが、節子を姉のように慕っていた啄木の妹光子(ミツ)も、渋民高等小学校を出た後、このカトリック系の盛岡女学校に進みます(明治38年)。光子は、結局石川家の経済的事情もあり、修学もままならず退学することになるのですが、この折のことが、『悲しき兄啄木』(1948)に、次のように書かれています。

 私が渋民に帰らなければならなかったのは、兄のそのときの状態として学資が出なかったことによるのですが、別の方法でなら全然続けられなかったというわけではなかったのです。
 実は盛岡女学校は天主教の学校でした。フランス人の校長のタカエ先生や舎監のマリヤ先生、それにプジェ神父などから私が「もし希望するのであったら、学資を出してやろう。そして東京の仏和女学校に入学させよう」という話でした。そこを卒業して母校盛岡女学校の先生にするということなのです。
 私はどんなに喜んだことでしょう。早速渋民に帰ってそのことを父母に相談しました。すると、
 「お寺でそだっていながらヤソのお世話になるなどは怪しからぬこと――たってというなら勘当だ」
 などと思いもよらぬ強い反対でした。


 そして、光子は翌年(明治40年)1月には女学校を退学し、5月には兄啄木と北海道に渡ることになるのです。このあとの光子の宗教的変遷やそもそも光子がキリスト教へ関心をもつようになったことに兄啄木の影響があったことについては、多くの書かれたものがあるのでここでは割愛します。

 ここで、注目しておきたいのが光子の回想の中に登場する《プジェ神父》のことです。盛岡のカトリック神父プジェといえば、宮沢賢治のファンの方なら賢治の短歌や詩に、
ブジェー師よ かのにせものの赤富士を 稲田宗二や持ちゆきしとか/プジェー師よ いざさはやかに鐘うちて 春のあしたを 寂めまさずや〕などと登場するプジェー師の名をきっと思い出されることでしょう。そうです、賢治の作品に登場する盛岡天主公教会のプジェーが、石川光子に修学を続ける手だてを講じようとしたプジェ神父なのです。
 『宮澤賢治語彙辞典』によると、プジェー神父(Armand Pouget/1869~1943)は、明治35年から大正11年まで盛岡にいたようですから、同じ女学校を卒業しながらも早く卒業した堀合節子はプジェーとは顔を合わせていないかもしれませんし、教会とは無縁だった啄木も会う機会はなかったことでしょう。しかし、啄木の妹光子と少し時代は遅れますが(約10年後)賢治が、盛岡でプジェーと縁ができているのですから不思議なものです。

 このプジェー神父〔Pouget,Hippolyte Pierre Jean Armand〕についてはもっと多くのことを知りたいと思っていますが、盛岡のあと宇都宮の松が峰教会に移られたようですが、日本で亡くなられたのかどうかも私にはわかりません。ご存じの方があれば、ご教示いただければと思います。

〔補記〕
 石川光子(三浦光子)のその後については、あらためて書きたいと思っていますが、光子自身の著作のほか小坂井澄『兄啄木に背きて――光子流転』(1986/集英社)、藤坂信子『羊の闘い――三浦牧師とその時代』(2005/熊本日日出版社)の2冊のすぐれた本があることをお知らせしておきます。


〔追記〕
 いろいろ検索した結果、ようやく、次のようなサイトにたどりつきました。驚いたことに、一緒に調べていただいた賢治研究者の浜垣さんも、このページを見つけられたようです。
http://archives.mepasie.org/notices/notices-biographiques/pouget-1
http://archives.mepasie.org/annales-des-missions-etrangeres/na-c-crologe-missionnaire-2

POUGET Hippolyte (1869-1943), né le 19 novembre 1869 à Prades (Aveyron), entra au Séminaire des M.-E. en 1888, fut ordonné prêtre le 27 mai suivant, et partit pour la mission de Hakodaté le 19 juillet 1893. Après l'étude de la langue, il travailla dans le département de Mi-yagi, et, en 1898, fut envoyé dans l'île de Sado. En 1901, il fut chargé d'établir un poste dans le port de Otaru. De 1903 à 1925, il fut responsable du poste de Morioka. Il fut ensuite nommé curé de Fukushima. Agrégé en 1934 à l'archidiocèse de Tokyo, il fut chargé de la paroisse de Utsu-nomiya. En 1938, quand fut divisé l'archidiocèse de Tokyo, il suivit Mgr Chambon à Yokoha-ma, puis se retira à Wakabachô. Il mourut le 3 avril 1943 à Yokohama. Il était collectionneur de gardes de sabres (suba), et fit don de sa collection au musée de Tokyo.

POUGET Hippolyte Pierre Jean Armand, missionnaire à Yokohama (Japon), décédé en mission le 6 avril 1943, à l'âge de 74 ans.
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by kaguragawa | 2013-02-16 22:52 | Trackback | Comments(0)

田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(1)   

 経営史の瀬岡誠教授が、「十四会準拠集団」と呼んでおられる明治期のもと加賀藩士が中核をなす企業家集団に、漠とした興味というか関心を持っているのですが、そんなことの周辺に、浮かんできたのが徳田秋聲が自伝的文章で追憶的に記している「士族階級とみえる同郷の人々が遣っていた」「弥生が丘」の「高い石の段々のうえにあ」ったという下宿のことです。

 明治維新以後、林賢徳らのもと加賀藩士が加越能三州出身者の育英のための組織(のちの加越能育英社)を作り、「久徴館」「明倫学館」というような寄宿舎を東京につくったという記憶があったのですが、こうした動きと、秋聲が記している「士族階級とみえる同郷の人々が遣っていた」「下宿」が重なるのです。

 私の知りたいのは、端的には、いっとき田岡嶺雲が下宿しており――その下宿の嶺雲を秋聲は訪ねている――、秋聲ものちにいっとき住んだその下宿が、《どこにあったどのようなものなのか》、なのです。が、それをまず秋聲の書いたもの糸口に探し求めたいと思うのです。
 事前に言っておくと、時代は明治28年(1995)の6月です。

 秋聲の記述には、「弥生が岡」の「高い石の段々のうえ」とあってと手がかりになる言葉はあるのですが、これだけで場所が特定できるわけではありません。まして、「弥生が丘」という地名はそのままでは、明治期の東京にも存在しないのです。しかし、ここであきらめてはいけません。秋聲は、この時期の記憶を、二つの文章にしているのです。一つは上に引いた「自伝的小説といわれる『光を追うて』。もう一つが「大学界隈」というエッセイです。
 関わりのある個所を、それぞれのテキストから写しておきます。

 それはさておき、博文館の編集室の片隅から送った等の投書は、間もなく「青年文」に載せられ、編輯の誰かに指摘されたが、数日して或る時主幹の田岡嶺雲から手紙が来て、あの種類の評論なら、時々載せても可いということだったので、等は感激し、嶺雲を弥生が岡下宿に訪ねて見た。
 高い石の段々のうえにある其の下宿は、後に等も入ったことがあって、士族階級とみえる同郷の人々が遣っていたが、嶺雲は其の奥の方の部屋に、金縁の眼鏡の奥から、大きい目を鋭く光らせ、土佐っぽらしい率直さで彼を迎えたが、貧弱で陰気くさい無口の等を見て失望したに違いなかった。彼は弟子の天才鏡花を讃め、師匠の才人紅葉を謗ったが、歯切れの好い弁舌と、漢字仕立てながらも尖鋭な頭脳の閃きと、神経の動きの敏捷さとに、鈍い等は一層気の利かない人間として座らされていた。

        『光を追うて』から

 二度目に上京した時――それはちょうど日露戦争のたけなわな頃でしたが、戦争も鎮まって大分たってから、自分はどういう伝手だったか弥生町の横山という下宿にいた事があったが、その頃その下宿から大学に通っていた人にどうかすると会などで呼びかけられて冷やりとするくらい、自分の生活は貧しいものであったが、今思い出すとその下宿に田岡嶺雲もいたことがあったし、他にも文壇的に知名の人がいたように思う。
        「大学界隈」から

 ――この二つの引用は状況が違うように見えますが、このあと、嶺雲と秋聲の二人が一緒に雑誌「青年文」の山県悌三郎を上駒込に訪問するくだりが二つの文章に同様に続きますから、同じ場面であると考えてよいものです。
 もう一度、秋聲のテキストを整理してみたいと思います。

                           (続く)
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by kaguragawa | 2013-02-16 18:56 | Trackback | Comments(0)

森銑三の語る三島霜川(2)   

 アジア太平洋戦争のど真ん中、昭和19年9月に発行された書物がある。その名も『書物』。森銑三と柴田宵曲の合著である。

 その中で森銑三さんは言う;

 “ひとり随筆に限らず、いずれの方面にも取りつきやすい好著が欲しい。楽しんで読まれる書物があまりに少な過ぎる。それはかように動揺している時代に、かえって憂慮すべき現象ではあるまいか。”――時期を考えると、かなり勇気のある発言ではある。そして、そこに登場するのが、我が三島霜川である。

 “先回私は三島霜川氏の遺稿『役者芸風記』の古本を神田で買って来て一読した。それも食後や就寝前に少しずつ読んで、僅か数日にして全部を終えた。これは私の近頃快読した書物だった。霜川などという人は、文士としても演劇記者としても、生前時めいたのではなかったが、その人がかような立派な仕事をしていられる。その点に頭が下がった。これは人に勧めてもよい書物だと思っている。”

 うれしい言葉だ。きょう届いた岩波文庫『書物』で見つけたもの。
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by kaguragawa | 2013-02-15 23:12 | Trackback | Comments(0)