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金沢と豊巻剛(2)   

 啄木の書いた『小天地』の社告を紹介しながら、ちょっとひっかかっていたことがありました。。啄木が豊巻の四高進学を“遠く金沢の学寮に遊ぶ”と書いていることでした。四高という具体名を出さずにさらりと言ったところはさすがと思ったのですが、それにしても「寮」とは?・・・、と思っていたのですが、2つの面ですっきりしました。一つは、そもそも“学寮”にカレッジ(college)の原義が活かされてつかわれていること、一つは、四高に文字通りの学寮《時習寮》があったことです。

 実は昨日、仕事で金沢に行く用があり、《石川四高記念交流館》に立ち寄ったのですが、そこであらためて「時習寮」の存在を再認識しました。そこの展示にこの寮名が論語からとられていることの説明に続いて“南・中・北寮の3寮があり収容人員は約190人。入学生徒のうち金沢市出身者以外は、原則入寮と定められたが、門限や食事などに悩まされ、1年で出る生徒も多かったという。”と、あるのです。

 豊巻も明治38年9月の入学当初は、四高構内にある「時習寮」に入ったのではないでしょうか。そしてなんとその翌年の明治39年3月に時習寮の南寮が全焼しているのですね。こうしたタイミングで、豊巻は学校にほど近い上柿木畠に移ったのかもしれませんね。

 ここまでが前書きで、この第二便では、豊巻剛の名前「剛」の“読み”について書くつもりだったのですが、もう少し、啄木との関係で金沢の豊巻剛のことを書いておきます。先の便を書いた後で、ひょっこり思い出したのです。『石川啄木全集』の第七巻の「書簡集」を、「書簡集」だけを、もっていたぞ・・・と。たしかに有りました。
 急いで索引をみると、この書簡集には、啄木が豊巻に宛てた書簡が7通収録されていました。この最後のものが、豊巻が啄木のもとから金沢に去った1か月後に出されたものだったのです。ここに写しておきます。

昨日貴信拝誦、うれしく存じ居候、
小天地二号は、小生の健康がゆるしがたきものあり、未だ発行致さず居候、その代り十一月には紙数を増やして特別号とす、二十五日頃までに御稿御恵みを乞ふ、江南君へも御伝へ被下度候、
秋雨粛々として降る日也、杜陵の風物日々に寥落を加ふ、
兄願くは健在なれ、
  十月二十日


 先のお便りに、「『小天地』の第2号に、豊巻は金沢から寄稿していた可能性が強いのですが、それに併せて豊巻は金沢の文物の報告を啄木に書き送っていたと考えてもよいのではないか・・・」と書きましたが、やはり豊巻と啄木との間に、『小天地』の続号をめぐって手紙のやりとりがなされていたのです。啄木返信に見られる「貴信拝誦、うれしく存じ居候」の文言や盛岡の現況報告から、豊巻は金沢の風物を近況に併せて書いて送ったとみてよいでしょう。
 注目すべきは、《江南君》の文字がみえることです。江南文三・・・。金沢の地にかすかな啄木の所縁を求めてうろついていたらば、そこには後年、啄木の後を継いで『スバル(昴)』の発行名義人となる江南文三(えなみ・ぶんぞう)もいたのです。

 そう言えば、私が金沢の豊巻剛を見つけた啄木の住所録を、あらためて見るとそこに;

  江南白雪氏   金沢市第四高等学校寄宿舎時習寮

と、あるではありませんか。江南文三(白雪)がいたのは、上に紹介した《時習寮》だったのです。
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by kaguragawa | 2012-11-27 20:16 | Trackback | Comments(0)

金沢と豊巻剛(1)   

 S先生へ

 先日来、豊巻剛の件で、お調べいただき有り難うございました。お礼と併せて、2つばかし報告をさせていただこうと思って筆をとりました。

 「豊巻剛」は、啄木の日記で何度か目にした名前だったのですが、その豊巻剛が同じく啄木の日記の住所録に「金沢市上柿木畠四五」と録されていたことから、第四高等学校の学生だったのかなと興味を持ったのが始まりでした。もしやと思って調べた『石川啄木事典』(おうふう/2001)に次のように記してあったことは、このブログでも報告しました。

 豊巻 剛 とよまき たけし
 1887年(明治20).3~1910年(明治43).4.5 号、黒風。
 岩手郡玉山村生まれ。啄木の中学の2年後輩で白羊会、闇潮会同人。1905年(明治38)盛岡中学校卒業。同年9月に啄木が創刊した文芸誌『小天地』に長詩「古障子」を寄稿し、校正なども手伝った。金沢の第四高等学校を経て東大文学科に進んだが、結核のため在学中に、24歳の若さで没した。没後、有志の手により『黒風遺稿』が刊行された。(浅沼秀政)


 事典の記載からこの豊巻が四高生として金沢にいたのは、1905(明38)年から1908(明41)年までかな?と推測したのですが、ご調査いただいた『四高同窓会名簿』によりますと、間違いなく「第四高等学校/一部文科」に在籍しており、卒業が明治41年7月とのこと。「当時の科の構成は、一部は法科と文科、二部は工科、理科、農科、薬学科、三部は医科となっております。」と、ていねいに教えていただいて、一つ懸案事項が明快になったこと、うれしく思いました。

 これ以上のことは、学籍簿などが引き継がれている第四高等学校の実質的な承継校である金沢大学に調査依頼をするしかないようですが、今の私にはそこまでの気力がありません。それよりも「7月卒業」というご報告に、“あっ、そうか”とうなずくと同時に、“はっ”とひらめいたことがありました。うかつにも、このころ旧制の高等学校が9月始まり(秋入学)であることをすっかり忘れていたのです。

 この豊巻さん、明治41年7月の卒業であって、もし留年が無かったとすれば、入学は明治38年9月になるのです。啄木のことはそんなに詳しくない私でも、この「明治38年9月」の日付には、思い当ることがありました。
 そう、啄木が盛岡で編集発行した文芸雑誌『小天地』の発行が、明治38年9月なのです。豊巻が盛岡から遠地金沢の第四高等学校に向かった時期と、この『小天地』の発行の時期は重なるのではないか・・・。たしか、豊巻は、『小天地』に詩を寄稿していたはずです。帰宅するや否や、復刻版の『小天地』を引っぱりだしました。そこには、豊巻剛の「古障子」という風変わりな詩が間違いなく載っていたのです。が、私が驚いたのは、この詩だけではありませんでした。Sさんにぜひお知らせしたいことが書かれていたのです。
 『小天地』巻末の「社告」にはこのように書かれています。一部略して写しておきます。

 ●世に我が『小天地』程、匆卒の間に成りたる雑誌は少なかるべく候。余が初めて同人大信田落花の来訪に接し、会談三時間、本誌発刊のことを決し、即時相携へて我が草庵を立ち出で印刷販売等の諸件に就いて、市内を奔馳したりしは、実に八月の十一日の夕なりき。爾来倥偬僅かに二旬、幾多の困厄障礙ありしに不拘、期日に遅るること一両日のみにして、遂に茲にこの初号を読者諸君の机下に呈するを得るに至れるは、寄稿家諸氏の深大なる同情に依るとは云へ、抑々また天祐と謂つべき乎。
 ●ただ之等の際に当り、寄稿家諸氏の深き同情と豊巻剛、岡山月下、小林花京、阿部月城等諸君の注意深き尽力とによりて、茲に恙なく呱々の声をあぐるに至れり。特に豊巻君が遠く金沢の学寮に遊ぶべき日を眼前にひかえ乍ら、日々校正の労をとられたると、阿部君が任地に赴くの途次、万事を犠牲にして務められたるとは、余の厚く感謝する所に候。


 石川啄木はこの「社告」に、“遠く金沢の学寮に遊ぶべき日を眼前にひかえ”た豊巻剛の尽力をその名を挙げて深謝しているのです。啄木は、同郷の後輩がこのとき盛岡中学校を卒業し、「金沢の学寮」(=金沢の第四高等学校)に行くことをはっきりと知っていたのです。
 こうしたことから、金沢の豊巻剛の足跡を追ってみるのも一興かと思うのです。発行はされなかったものの発行直前まで進んでいた『小天地』の第2号に、豊巻は金沢から寄稿していた可能性が強いのですが、それに併せて豊巻は金沢の文物の報告を啄木に書き送っていたと考えてもよいのではないか・・・。

 豊巻剛に関する報告のもう一つは、豊巻の名「剛」の読みに関する点です。『石川啄木事典』には「たけし」としてあるのですが、「つよし」かも知れないのです。この点はあらためて。

〔追記〕
 「社告」中の人名は、原文のままですが、「岡山月下」は岡山不衣(儀七)、「小林花京」は小林花郷(茂雄)のことだろうか。岡山儀七は、後日、岩手毎日の編集長として宮沢賢治のいくつかの作品の初出に関わることになる。
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by kaguragawa | 2012-11-23 19:38 | Trackback | Comments(0)

斎藤弔花の晩年   

 『滋賀近代文学事典』(2008)で得た斎藤弔花の晩年の事績を、同事典の「斎藤弔花」の項(執筆:森崎光子)から書き写しておきます。

 “第二次世界大戦末期、京都から疎開して、大津市南郷の元料理旅館雅楽園に夫人と住んでいたが、戦後の46年、同所は戦災孤児と知的障害をもつ子どもを収容し教育する施設の近江学園に生まれ変わった。園長糸賀一雄の勧めで同所に留まった後は、夫人とともに知的障害をもつ子どもの教育に晩年を捧げた。子供好きで、若き日に独歩に親炙した弔花は、独歩は「源叔父」の少年乞食や「春の鳥」の知的障害をもつ少年六蔵を描いた名作を残したが、自分にはもうその力もないから、せめてここで不幸な子どもたちを守るのだと語っていたという。50年5月1日、学園内に完成した知的障害をもつ子どもたちを収容し教育する落ち穂寮の開寮に際し初代寮長となったが、すでに病篤く、その2日後に死去した。”

〔追記〕
 このブログの今年6月3日の項に、この日が弔花の命日だということで、「大津市「近江学園」での知的障害をもった子供たちとの斎藤弔花の晩年を知りたいと思っていたら、矢部喜好の晩年の足跡も大津での湖畔伝道(膳所同胞教会、大津同胞教会)にあることがわかって、心は芭蕉の大津に飛んでいますが、いかんせん時間も先立つものもありません。」と書いたのですが、『滋賀近代文学事典』によると5月3日が命日となっています。web上のいくつかの情報も5月3日となっています。私の情報が何に拠ったものか、確認のうえ、あらためて報告したいと思います。
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by kaguragawa | 2012-11-18 15:49 | Trackback | Comments(0)

お二人の命日に   

 “斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』が手に入るようでしたら、その中にちょっとびっくりする話(三島霜川が風呂嫌いだったという話)が書かれています。拙著では、三島霜川の名誉のために、あえてそのことには触れませんでしたので。”

 5年前、黒岩比佐子さんの『編集者 国木田独歩の時代』が出版された折、黒岩さんが教えてくださった霜川情報です。

 霜川の風呂嫌い。「霜川の名誉のために、あえてそのことには(『編集者 国木田独歩の時代』の中で)触れませんでした」と黒岩さんはそうおっしゃってくださって、故人とはいえ、その名誉に気遣ってくださったのです。が、なんと昨日、黒岩さんのご命日にあたる昨日、同じ口調で、私に「霜川の風呂嫌いがある本に載っているのを見つけました。でもあまりいい話でもないので、お知らせしませんでした・・・」と徳田秋聲の墓前祭の場で教えてくださった方がありました。秋聲のお孫さん、徳田章子さんです。

e0178600_22215025.jpg きのう今年の墓前祭がおこなわれた徳田秋聲の命日は、昭和18年の11月18日。69年前の今日。
 そして昨日11月17日が、黒岩比佐子さんの命日でした。今年が三回忌になります。

 黒岩さんに教えていただいた斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』は今年になってようやく入手できて、風呂嫌いのことだけでなく、もっと興味深い情報を2つ、この本から得ることができました。ところで、この斎藤弔花という作家のこともっと知りたいと思っていたのですが、偶然手に取った『滋賀近代文学事典』(2008)でその晩年のことを知ることができました。秋聲を偲び、黒岩比佐子さんを偲んで、斎藤弔花の晩年を、次項で紹介しておきます。
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by kaguragawa | 2012-11-18 15:37 | Trackback | Comments(2)

徳田秋聲の墓前祭   

 しぐれるなか静明寺で徳田秋聲の墓前祭。
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 墓前祭後の墓碑と献花

 帰宅した今になって考えてみるに、昨年の墓前祭からの1年の間に、〔秋聲と霜川〕に限って言うと、いくつかのできごとがありました。
 なんといっても、徳田章子さんが、霜川〔三島才二〕が秋聲に宛てた大正6年のはがきを探し出してくださったこと。そうしたことが機縁になって念願の本郷秋聲宅訪問がかなったこと、などなど。

 かと言って、私の秋聲墓前祭に参加に、“おまえは、どういう資格で秋声の墓前祭などに参加するのだ。”と、いう自問がなくなったわけではありません。ただ今年、私の心を少し軽くしたのは、『秋聲さん、ようやく「足迹」読みましたよ。』と、いう報告ができることでした。「足迹」がやっとおもしろく?読めたのです。今まで何度も何度も挫折していたのですが・・・・。
 まぁそんなところで、秋聲さん、報告にうかがえたというところなのです。
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by kaguragawa | 2012-11-17 20:31 | Trackback | Comments(0)

「雪おろし」と「鰤起こし」(2)   

 三島霜川の初期の作品「雪おろし」から、二か所引用します。“雪おろし”という語が登場する箇所です。(読みやすいように、現代仮名遣いに改めたほか少し表記を変えてあります。)


 “二三日前の夜更け、霙(みぞれ)混じりの暴風雨(あらし)が、戸毎の窓に吹き入ってからである。国境の山の巓(いただき)には雪が来て、寒暖計は恐ろしく下降(くだ)ってしまった。市中ではもう徐々(そろそろ)正月の支度に取りかかっているというに。(中略)
 それは北国の冬にはよく見受けられる、朝から曇った、鬱陶しい空合で。ちょうど正午頃に、ぱらぱらと時雨(しぐれ)て、すぐに霽(あが)って、冷ややかな日光(ひかげ)がうっすりと射して来る……、かと思うとまたたちまち苦り切ったように暗くなって、空には一面に古綿のような雲が漂っている。この国では『ゆきおろし』と名付けられた風が吹きまわって恐ろしく寒い日であった。”

 “お城跡の時鐘は今しがた十一時を打った。雪おろしと名づけられた狂風(あらし)が、一なぐれ、町から町へ吹き廻って、市中の常夜灯が今にも消えそうになっていた。大概の家では、宵の間(くち)から店の戸を閉めてしまって、市(まち)はまるで眠ってでもいるように寂然している。ちょうど乗合の赤馬車が一台、市端の方から破れるような響きを立てて帰って来た頃から、風の歇(や)み間歇み間に、サラサラ、サラサラと軒端に微かな響きがして、見る間に路上は白くなった。雪が来たので。”


 この文中の「雪おろし」は、風そのものである。“あらし”とルビを付された「暴風雨」「狂風」とともに、霜川は「この国では『ゆきおろし』と名付けられた風が吹きまわって恐ろしく寒い日であった。」、「雪おろしと名づけられた狂風が、一なぐれ、町から町へ吹き廻って、市中の常夜灯が今にも消えそうになっていた。」と、吹き廻る風として「ゆきおろし」を描いていて、「風の止み間止み間に、サラサラ、サラサラと軒端に微かな響きがして、見る間に路上は白くなった。雪が来たので。」と続けている。

 雪をもたらす冬の《雷》の別名としての「雪おろし」と、雪をもたらす、あるいは雪交じりの《強風》としての「雪おろし」――。漢字で書き分けるとするなら、前者は、「雪降ろし」であろうし、後者は「雪颪」であろう。が、この季節の雷は、強風をともなうこともあれば、風は、雷をともなうこともあろう。同じ時期の、場合には同時の気象現象として二つの「ゆきおろし」は互通する要素を多くもっているであろうことも推測されるが(というよりは実感だが)、風をともなわない冬の雷があり、雷をともなわない冬の強風もある。冬の雷としての「雪おろし」と、冬の強風としての「雪おろし」は、分けて捉えられるべき事象なのだろうと思う。

 ところで、霜川は、北國の冬ならではの強い廻り風として「ゆきおろし」を文中に紹介し、その作品の表題ともしたのだが、今日でも、富山でこうした冬風の異名として「ゆきおろし」が使われることがあるのだろうか。それと関連して私の頭に浮かぶのは、やはりこの雪国特有の気象事象としての「ごまんざあれ(ご満座荒れ)」である。あるいは「はりせんぼあれ(針歳暮荒れ)」である。どちらも「鰤起こし」の異名として理解されていて、実際そうなのだろうが、字義的にはこちらの方は冬の「荒天」を意味し、必ずしも「冬の雷」だけに限定するものでなく、範囲は少し広いように思われる。
(“空に雷、太鼓をたたきゃ、山はあられに海はぶり”という唄?の文句も思い出したのですが、話が広がりすぎるので、ここらで気象話題は閉じることにしましょう。)

〔追記〕
 私としては、霜川の作品中の《北國》について、書きたいことがあるのですが――この作品「雪おろし」が、作家生活三年目にして初めて舞台を「北國」という文字で明記した作品であり、意外なことに「北國」作品は、霜川の生地にもかかわらず決して多くない――、それは別の大きな課題として、後日。
 そうそう、この「雪おろし」が、「早月川」や「枇杷首(びわくび)」という富山固有の地名を登場させていること――ただし、該当地名と作中の場所は一致しない、つまり地名を借りた形にのみなっていること――や、「雪おろし」が「うたかた」「向日葵」「悪血」などの作品に姿を変えていく経緯や、登場人物「お小夜」がわずかな生活の糧をえるために従事している“花売り”についても、初めての公表作品「埋れ井戸」以降、なんども作品に登場していることも別の機会に・・・。
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by kaguragawa | 2012-11-16 22:28 | Trackback | Comments(0)

「雪おろし」と「鰤起こし」(1)   

 昨晩から今朝の明け方にかけて、ものすごい雷鳴が何度もとどろきました。と同時に、バラバラーッと大粒の雨や霰(あられ)の屋根に叩きつけられる音も聞こえてきました。当地(富山)でいう“鰤起こし”です。
 この季節ならではのもので、この冷たい風雨、雷とともに、北陸には本格的な冬がやってきます。この雷は、冬の序幕に天地に鳴り渡る大音響なのです。この雷鳴に勢いづけられてなのか、驚いてなのか、はわかりませんが、寒ブリが富山湾に一斉に?回遊してきて、氷見漁港を中心にブリの水揚げが始まるのです。

 ところで、三島霜川に「雪おろし」という作品があります。初期の作品であり、読む機会もなく、冬の屋根からの「雪下ろし」がテーマになっている作品であろうと、思いこんでいました。

 が、そうではなかったのです。私の予想を裏切ったのは、そのタイトルの意味だけではなく、この作品そのものの意味でした。(が、作品そのものの意味については、作品論などというものを書く能力のない私が余計なことは書かないこととして、――1.作品を読みもせずに、新聞連載の書きなぐりの愚作だろうと決めつけていたという私のお粗末さと、2.この作品の改作・改稿作に「うたかた」「向日葵(ひぐるま)」「悪血」などの注目作があることだけ記しておいて――、)ここでは、「雪おろし」という作品名になっている言葉の意味に限定して、ちょっとメモをしておきます。

 南国の方には実感しがたいことでしょうが、豪雪地帯(雪国)では屋根に数メートルの雪が積もります。その重さたるやすごいものです。そこで屋根の除雪=「雪下ろし」をするのです。しかし霜川の小説のタイトルになった「雪おろし」は、この「雪下ろし」ではありません。別の意味の「雪おろし」なのです。

 Wikipedeiaによれば〔気象現象としての雪おろし〕として、次のように説明されています。
“日本海側では晩秋から冬にかけて寒冷前線が通過すると、雷が発生しやすい。その中でも上空に強い寒気が流れ込んだ日に鳴る激しい雷のことを島根県、新潟県、山形県等では雪おろし(雪颪)と呼び、真冬の到来を告げるものとする。鳥取県等、地域によっては雪おこしなどとも呼ばれる。”

  Wikiの説明で留意すべき点が2つあります。Wiki氏は、「雪おろし」に(雪颪)の漢字をあてているものの、その〔颪〕の字義(山から吹き下ろす風)――六甲おろしや赤城おろし、伊吹おろし、比叡おろしなどの「おろし(颪)」――には触れずに、端的には〔雪おろし=冬の「雷」〕と定義していることです。
 もう1点は、この言葉が使われる例示に「島根県、新潟県、山形県等」とあって「富山県」が挙がってないことです。実際、私の富山県では、初冬の雷の意味で「雪おろし」ということばは、私の知る限りでは使われていません。ここに説明されている「雪おろし」は、“地域によっては雪おこしなどとも呼ばれる。”とある「雪起こし」のことであって、それは冒頭に書いたこの地ならではの「鰤起こし」のことなのです。富山では〔初冬の雷=「鰤起こし」「雪起こし」〕であって、〔初冬の雷=「雪おろし」〕ではないのです。


 そこで霜川の小説「雪おろし」ですが、このタイトルになっている「雪おろし」が、除雪としての「雪下ろし」ではなく初冬の気象現象としての「雪おろし」であることに間違いはないのですが、それは《雷鳴》をその表徴とする豪快な「雪おろし」でもなく、鉛色の空からの雪しぐれをともなう山からの《風》を表徴とする「雪おろし」なのです。

(続く)

〔追記:2012.11.15〕
 ちょっと追記を書き出したら長くなったので、【「雪おろし」と「鰤起こし」(1-2)】として、下に移しました。
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by kaguragawa | 2012-11-14 22:51 | Trackback | Comments(0)

「雪おろし」と「鰤起こし」(1-2)   

 上の稿を書いてから、いろいろ調べてみて、私が「冬の雷」についてあまりにも無知であったことを知りました。
 「冬の雷」が本州日本海側に特有のものであり、世界的にも珍しいものであること。放電が、夏雷の雲から地表への下降のものとは逆に、地表から雲に向かって上向きに!起こることなど、驚きの事実も知りました。上の記述についても書き替えたい部分があるのですが、生半可な知識でいっそう混乱するおそれもあるので、そのままにしておきます。

 ただし、Wiki氏の〔気象現象としての雪おろし〕説明文中の、《雪颪》の漢字表記は、どうなのだろうか。
 頻度からすれば日本海側でもこの雷は、山側ではなく海側により多く発生するようである。とすれば、山から吹き下ろす風を意味する「颪」の漢字をこの「雷現象」である「ゆきおろし」にあてるのは誤用ではないかと思われるのだ。
 もし、この雷に《雪颪》の漢字が当てられている実例があるとしても、雪と突風をもともなう冬の忌避的自然現象に対する互通によるものであって、「ゆきおろし」は、語源的には雪を降らせる(雪降ろし)の意味そのものではないのか、と私には思われるのである。

〔追記の追記〕
 それとまったくの余談を付け加えておきます。自分でもまったく忘れてしまっていたのですが、かつて“風の民俗学”のようなものを、やってみたいなと思っていたことがありました。そう言えば、〔旧日記〕には、拾い集めてきた風に関するいろんな話題が残っているはずです。
 「おろし(颪)」の文字を見て、久しぶりに心が動いたのもそんな過去?があったせいなのでしょう・・・・。すっかり忘れて!いました。
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by kaguragawa | 2012-11-14 22:50 | Trackback | Comments(0)

ちょっと報告:私編「三島霜川年譜」のこと   

 今週は思いきって私編「三島霜川年譜」の補訂作業に時間を費やしました。節目節目に、集めたことがらをモザイクのように年譜に埋め込んでいるのですが、判明していることと判明していないことことによってできる年譜の精粗の差は埋まるどころか、いっそう開いていきます。それでも、ささいなことがらながら苦労して探し出した事実や、いろんなところに散らばっていた細かな事実を繋ぎあわせて関連付けることによって、新たなことが見えてきたことなどを加えて少しは年譜らしい姿態ができてきました。漱石の語る霜川、啄木の語る霜川などを探し出せたことも少しは自慢してもいいことかも知れません。

 と言っても――今あらためて確認すると、霜川の年譜をつくろうと思い定めて、もう、5年立つことになります――、5年も霜川、霜川と言っていればそれなりに情報も集まってくるわけですし、有り難い助言もいただける次第でもあります。むしろ、基本的な事項で不明な点がいくつか、いや、いくつも、残っていること、そのことの探索に次の一歩が踏み出せてないことにはずかしさを覚えています。

 今しばらく、可能な限り足と目と耳と手と、なけなしの度胸を駆使して「補+訂」を進めるつもりでいます。
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by kaguragawa | 2012-11-10 23:02 | Trackback | Comments(0)

立冬。   

街路樹のケヤキの赤と黄の色づき。

落雷、そして叩きつける霰(あられ)。

今日、立冬。
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by kaguragawa | 2012-11-07 22:50 | Trackback | Comments(0)