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露おくあした   

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晩夏が無くて一気に秋に突入したようなこの頃です。
露繁き様(オヒシバの葉にも穂にも露玉がたくさんついているのですが)を・・・と思ったのですが、これも通勤途上の失敗写真です。
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by kaguragawa | 2012-09-25 20:23 | Trackback | Comments(0)

田中萬逸――そこから津田仙と三島霜川と   

 9月23日が誕生日の政治家に、50年前に亡くなった田中萬逸(たなか・まんいつ)という人がいる。「コトバンク」によれば;

 1882-1963 大正-昭和時代の政治家。
 明治15年9月23日生まれ。「報知新聞」記者をへて大正5年衆議院議員(当選14回,自由党)。昭和21年日本進歩党幹事長,22年第1次吉田内閣の国務相をつとめた。新憲法施行後初代の衆議院副議長に就任。のち全国農地解放者同盟会長。昭和38年12月5日死去。81歳。大阪出身。早大中退。


 とあり、政治家道一本の人のようだが、「Wikipedeia」の最後の部分は、ちょっと気を引く記述である。

 田中 萬逸(たなか まんいつ、1882年9月23日 - 1963年12月5日)は、日本の男性政治家。元国務大臣・衆議院副議長。
 現在の大阪府富田林市に生まれる。早稲田大学を中退後、報知新聞記者を経て、1916年故郷の大阪府から衆議院補欠選挙に繰り上げ当選。以後当選14回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1939年阿部内閣にて逓信政務次官を務める。
 戦後は日本進歩党の結党に参加し幹事長を務める。1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。同年新憲法下初の衆議院副議長となる。民主党の結党に参加したが吉田茂が次の首班たるべきと主張して離党し1948年2月同志クラブに参加。同志クラブは民主クラブを経て日本自由党と合同し民主自由党を結党したので田中も民自党に所属した。同年炭鉱国管疑獄で起訴されるも、1951年無罪確定。その間1950年からは自由党に所属。
 名文家にして野次の名手であり、また粋な道の達人として知られ、特に女流奇術師松旭斎天勝(初代)との艶聞が有名である。ただ生活態度は質素であり、酒もタバコも嗜まなかった。


 この田中萬逸の名前をきのう、あるところで目にしたばかりなので、ここにご登場いただいたのです。
 それは『足尾鉱毒惨状画報』(1931〔明34〕年)。田中萬逸は、この『足尾鉱毒惨状画報』の刊行者である《青年同志鉱毒調査会》のメンバーの一人なのです。この本は今ではもう忘れられた本ですが、なんと津田仙の写真に解説をつける体裁で編集された本で、あらためて紹介する機会を持ちたいのですが、《青年同志鉱毒調査会》というのが松本隆海、田中万逸、阪田熊三の三人で結成されたらしいのです。田中萬逸は、この本に「跋」を記していますが、会の中心人物は松本隆海だったらしく、その隆海は本の「自序」で“法科大学生田中万逸君は、材料蒐集のため余と同行して視察を遂げ、其の他斡旋の労少からず”と書かれています。
 きのうこの個所を読んで、そう言えば、どこかでこの名を見たぞ!・・・とひっかかり、ようやく思いだしたのが、水守亀之助の『三島霜川を語る』でした。

 田中花浪という「報知」の記者で片手間で少年物など書いていた人に霜川と連れ立っていて会ったのもその頃だった。この人が現在自由党の長老の一人である田中萬逸である。後年、松旭斎天勝と浮名を流しただけあって、苦み走った眉目秀麗の青年記者だった。


 さて、津田仙の足尾鉱毒被害地の写真。そして、三島霜川と田中花浪(萬逸)。これらの本題については、これから。
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by kaguragawa | 2012-09-23 16:19 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:《社》の読み(2)   

 《社》を〈こそ〉と読む例は、人名などにはかなり見られるようです。

 石社(いしこそ)、大社(おおこそ)、乙社(おつこそ/おっこそ)、藤社(ふじこそ)、村社(むらこそ)あるいは社下(こそげ/こそした)、社田(こそだ)、社林(こそばやし)、社辺(こそべ)、社山(こそやま/やしろやま)・・・。
 ほかにもあるかも知れません。こういう用字に地域的な特性があるのかなども知りたいたいところですが、ご存じの方があれば教えてください。

 そう言えば、残念なかたちで世を騒がせた大社義規(おおこそ・よしのり)さんがいました。
 (注:7年前の旧日記に大社さんのことを書いていました。)

 そもそも、助詞「こそ」に漢字《社》を宛てることになったのはどんないきさつによるのか、そして助詞「こそ/社」と人名(地名もあるかも)の用字《社/こそ》にどんな関係があるのか、暇をみて調べてみたいと思いますが、教えてくださる方が大先達がおられれば大歓迎です。

〔追記〕
 手持ちの古い漢和辞典『大字典』(講談社)の「社」の項にはこうありました。句読点は補いました。

“我国では、社を助詞のコソの義に訓ず。俚言集覧に「社をコソと訓むは孝徳紀に見えたり。神社は祈請の所なれば乞と字義通へり。姓の古曽部も天武紀に社戸と書けり云々」とあり。”

 ・・・ということで、日本書紀に「《社》=こそ」の事例が見られることがわかりましたが、天下の暇人たる私にも今、日本書紀をひもとく余裕はありませんので、同時代の「万葉集」の例をあげておきます。巻第十二の三〇〇四の歌です。(下記の引用は、中西進『全訳注原文付 万葉集』講談社文庫によっています。)

  ひさかたの 天つみ空に 照る月の 失せなむ日にこそ わが恋止まめ 

この歌は、漢字で下のように書かれているそうです。たしかに“日にこそ”の部分が《日社》になっています。

  久堅之 天水虚尓 照月之 将失日社 吾戀止目
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by kaguragawa | 2012-09-21 20:20 | Trackback | Comments(1)

ちょっとメモ:《社》の読み   

 《社》という漢字をどう読むか。
 <シャ><やしろ>・・・。

 助詞「こそ」に、《社》の字があてられることをきのうまで知りませんでした。

    “春を社待て”=春をこそ待て
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by kaguragawa | 2012-09-20 06:55 | Trackback | Comments(0)

久しぶりに「『黴』私注」――霜川の湯島時代   

 徳田秋聲の『黴』に描かれた秋聲と三島霜川、それに後に秋聲夫人となった小沢はまさんの小石川区表町の同居時代の《前史》に、霜川の湯島界隈の生活があるらしいことが漠然とわかってきました。

 霜川の湯島時代と言っても、そんなものどんな年譜にも(こっそり私の作っている私製霜川年譜にも)記されていません。が、霜川はいっとき(明治33年頃?)、本郷区の湯島三組町に住んでいたのです。このことがある資料からいよいよ確実になってきたのです。

 長野から東京に出てきた小沢一家が、秋聲と縁をもつ前、本郷の湯島界隈に生活の根拠を持っていたことは、秋聲の『黴』とその前駆作『足迹』にも描かれていて秋聲研究者には周知のことですが、霜川の方が先にその湯島時代に小沢一家とかすかな接触があったように思われるのです。霜川ないしは霜川の周辺の人々と小沢家の人々とのやや複雑な出会いが湯島界隈であったのです。
 こうした推測は、上に挙げた秋聲自身の作品からあぶりだすことができるのですが、霜川の湯島時代がたんねんに掘り起こされれば、霜川の側から確証がえられることになるのです。その第一歩が少し見えたのですが、この発掘は実際問題としては難しいものでしょうが。

 いずれにせよ、この問題は丁寧に扱わなければならないのですが、とりあえず『黴』のなかから検討したい部分だけを引用しておきます。

 友達〔=深山≒霜川〕の知合いの家から、直きに婆さんが一人世話をしに来てくれた。友達の伯母さんが、その女をつれて来たとき、笹村は四畳半でぽかんとしていた。外はもう夏の気勢で、手拭を肩にぶらさげて近所の湯屋から帰って来る、顔の赤いいなせな頭などが突っかけ下駄で通って行くのが窓の格子にかけた青簾越しに見えた。
 婆さんを紹介されると、笹村〔≒秋聲〕は、「どうぞよろしく。」と丁寧に会釈をした。
 武骨らしい婆さんは、余り東京なれた風もなかったが、直ぐに荒れていた台所へ出て、そこらをきちんと片付けた。そして友達の伯母さんと一緒に、糠味噌などを拵えてくれた。


 そのうちにこの手伝いの婆さんの娘が顔を出すようになります。後に秋聲夫人になるはま、作中の「お銀」です。
 このお銀の登場時に、霜川の伯母とその婆さんの関係とは別らしいこみいった関係も語られます。

 この女が、深山の若い叔父の細君の友達であったことが直きに解ってきた。この女が一緒になるはずであった田舎のある肥料問屋の息子であった書生を、その叔父の細君であった年増の女が、横あいからうばっていったのだということも、解ってた.
「あの女のことなら、僕も聞いて知っている。」と、深山はこの女のことを余り好くもいわなかった。
「深山さんのことなら、私もお鈴さんから聞いて知っていますよ。」女も笹村からその話が出たとき、思い当ったように言い出した。
「へえ、深山さんというのはあの方ですか。あの方の内輪のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」
 母親も敷居際のところに坐って、その頃のことを少しずつ話し始めた。


〔追記〕
 数年前のweb日記の時代に、こっそりと「『黴』私注」というのを書いていたのですが、それを復活したいと思っています。



 
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by kaguragawa | 2012-09-16 16:34 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:路面電車の雑記   

 ここ数日ちょっと市内電車づいている。
 先回の記事“山本千三郎さんと富山”でふれた《富山市電軌課》とは、富山市の戦前の路面電車が一時期市営で運行されていた――富山市営軌道――ときの富山市の担当部署名である。私など未だに、「市電」という言葉を使うが、この「市電」は、この市営の路面電車であったことの名残だと言う。詳細は、別項にゆずるが、富山市の場合、民営の《富山電気軌道株式会社》が、路面電車の運行を始めたのが1913(大2)年。その後、市営化し、戦中末期の統制も加わり現在の富山地方鉄道に統合され今日に至っている。

 こんなことを先日来確認をしていたのですが、なんと徳田秋聲の短編小説「車掌夫婦の死」をきのうになって読み直したらば、これが金沢市の路面電車の話なのです。金沢市に路面電車が走り始めたのは、1919(大8)年。秋聲の小説は、あえて場所の設定は明示されていないのですが、あきらかに金沢市であり、しかも1924(大正13)の冬も終わろうとする頃の設定です。秋声は1923(大12)の関東大震災の時期をはさんで金沢に滞在してこの金沢市に走り始めた《金沢電気軌道株式会社》が運行する路面電車とそれに関わる話題をどんよくに取材したあとがうかがわれます。

 富山市と金沢市のこの民間資本による軌道電車のスタートの裏には、それぞれの裏事情があるようで、民間資本の結集の仕方と軌道法独自の公共団体の関わりの規定がスタート時の態様の違いとり、それぞれ異なった道をとり――富山市:富山電気軌道株式会社→富山市営軌道→富山地方鉄道株式会社 /金沢市:金沢電気軌道株式会社→北陸鉄道株式会社――、しかもそれぞれの市のさまざまな事情が加わり今日の対照的な状況ともなっています(金沢市は、1967(昭42)年、全線廃線のまま、富山市はLRT化と環状線の復活)

 メモのつもりが、時間をオーバーしました。秋聲の作品が同じく路面電車話題だったためつい書いてしまった、まだ書くつもりのなかった《富山市電軌課》のことについては、いずれ。

  それにしても「車掌夫婦の死」の主人公・砥倉に、「街鉄の技手」となった漱石の坊っちゃんのようなやんちゃ気と清のような後ろ盾があったらなぁと、思う。
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by kaguragawa | 2012-09-15 19:54 | Trackback | Comments(0)

“山本千三郎さんと富山”   

 暇ができれば調べてみたいと思っていることがある。山本千三郎さんと富山の関わりである。

 やぶからぼうに、“山本千三郎さんと富山”といっても説明が必要であろう。このブログにしばしば登場いただいている石川啄木と我が富山のかすかなつながりの一つに、富山市電軌課につとめられた山本千三郎さんのことがあるのである。

 山本千三郎さんは、啄木の姉とら(寅)さんが嫁いだ相手であり、この千三郎さんが富山で職につかれたのは啄木の死後のことであるから、「啄木と富山」というテーマからすると“山本千三郎さんと富山”は、まったく枠外のことがらである。しかし、職業柄、啄木の世話をけっこうみられた啄木の姉夫婦の千三郎さんとらさんがしばらくとはいえ富山におられたということは、なにかうれしい話題ではある。

 啄木と山本さんの関わりを、啄木の年譜から拾い出してみるとこうなる。啄木が、盛岡中学の2年次に上京し2か月ほど在京した折には助役として上野駅に勤務されていた山本宅に世話になる。明治40年5月からの約1年の北海道滞在に先立つ2度の渡道(明治37年/明治38年)の折は、それぞれ小樽中央駅、函館駅の駅長だった山本宅にやはり世話になっている。煩雑になるので、明治40年の北海道時代のことは略すが、啄木だけではなく妹も父もふくめ石川家の人々が姉の嫁ぎ先山本家に大いなる恩義を受けているのである。

 こう書いてくると山本千三郎さんが、最後の職場〔神戸鉄道局高知出張所所長〕を定年退職後、わずかな期間とはいえ、夫妻で富山に住み、前職の経験を活かす職場として「富山市電軌課」に最後の鉄道人生を送られたことは、啄木に思いを寄せる者として決して軽い事実ではないのである。
(1929年に富山市電軌課を退職された山本千三郎さんは、滋賀県大津市膳所で余生を送られたよし。)

 最初に書いたように、山本千三郎さんと富山との関わりがどのようなものであったは、現在のところ私にはほとんどわかっていない。そのことにふれられているであろう太田幸夫さんの『啄木と鉄道』という本も、絶版のようで入手できていません。

 それだからこそ、私は、まず千三郎さんの富山での勤務先《富山市電軌課》のことから、折を見て少しずつ少しずつ書いていこうと思っています。
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by kaguragawa | 2012-09-11 20:20 | Trackback | Comments(0)

旧記事再録――《本郷の新坂》   

《2009年4月19日 (日) 本郷街歩き(3)――啄木、杢太郎そして一葉》の再録です。

 私が泊まったのは、太栄館の別館二階、いちばん西側の見晴らしの利く部屋でしたが、啄木がここの三階から見たという富士山はさすがに見えませんでした。そのかわり?、言問通りへ落ち込んでいく細い《新坂》を真上から見る部屋で、夜中にもブレーキをきしませながら急な坂を下りて行く自転車に何度か目を覚まさせられたことでした。

 この「新坂」は、120年前のある小説の一節に現在とかなり違ったありさまで登場していました。当時、本郷菊坂の住人であった無名の樋口一葉がはじめて原稿料を得た作品「経つくえ」です。(「甲陽新報」明25〔1892〕.10.18~25)に春日野しか子の名で発表)

 “本郷の森川町とかや神社のうしろ新坂通りに幾構えの生垣ゆい廻せし中、押せば開らく片折戸に香月そのと女名まえの表札をかけて折々もるる琴のしのび音、軒場の梅に鶯はずかしき美音をば春の月夜のおぼろげに聞くばかり、(以下略)”

 文中の「神社」は、今は姿を消してしまった「映世神社」。本多平八郎を祀る森川町の中心にあったこの神社については、この宮跡の五差路を、木村伊兵衛の写真〔本郷森川町〕とともに紹介しました(2008.11.6)。実は、今回、私がこの太栄館に泊まろうと思ったのは、昨年(2008)、本郷旧森川町に徳田秋声の遺宅を訪ねた際、この太栄館の玄関先を間近に見るところまで行きながら、足を運ばなかったことの心残りにありました。
 秋声が、森川町の南堺裏に居を構えたのは明治39年〔1906〕初夏。そして啄木が菊坂の赤心館から蓋平館に移ったのが、明治41年〔1908〕9月6日、啄木が発行人として「スバル」創刊〔1909.1〕にかかわったことから、蓋平館には北原白秋や木下杢太郎などが通いつめることになります。

 明治から大正への過渡期に新たな文学の兆しが生まれつつあった一つの現場が、現太栄館の蓋平館別荘だったのです。今の新坂には残念ながら「琴のしのび音」「鶯はずかしき美音」こそありませんが、やはり静かな一画でした。
 
〔追記:1〕
 「スバル」の同人として親交をもった啄木と杢太郎には、啄木の死に至る病の発端となった腹膜炎発症以降の「患う者と医学生」としてのつきあいもありました。啄木は、のちに蓋平館から家族と共に移り住んだ本郷区弓町二ノ十八番地の新井方(喜之床)で慢性腹膜炎の診断を受け〔1911.2〕、入院するかどうかなどの相談に太田正雄(杢太郎)を――当時、正雄は白山御殿町一〇九番地の兄の家に同居――訪ねたようなのです。

 人のつながりとは異なもので、樋口一葉と木下杢太郎(太田正雄)の間にも不思議な因縁がありました。正雄の15歳年上の姉たけと一葉(夏子)は友人だったのです、二人が写っている貴重な写真がのこっています。杢太郎は姉からも師・鴎外からも一葉のことを熱心に聴きとっていたのではと想像するのですがどうでしょう。

 18日に紹介した一葉の日記の三日後に、こんな記述があります。

 “〔明治二十六年四月〕二十九日 早朝小石川〔萩の舎の師・中島歌子〕より書状来る。今日のけい古是非参られたしとてなり。支度して行く。伊東〔夏子〕君も参らる。来会者三十余名なりき。(中略)太田竹子君斎藤それがしの妻に成たるそれも来る。西片町に住居するよし。”(追記:2 参照)

〔追記:2〕
 歌塾萩の舎で学んだ一葉の学友を誕生年で見ると、田辺龍子(花圃)が1869年、太田竹子が1870年、樋口夏子(一葉)と伊東夏子が同じ1872年。
 この太田竹子について、一葉全集(筑摩/1976)の注は「木下杢太郎の姉に当る。姉の太田錦子とともに萩の舎に学んだ。明治女学校を出て司法省官吏齋藤十一郎に嫁した。」と書いています。木下杢太郎記念館の資料(*)によれば「明治三年(1870)十一月九日生。明治二十六年(1893)四月十一日、山形県羽前国東村山郡横山村(現在の天童市)青柳出身の判事、斉藤十一郎に嫁す。二男二女あり。斉藤十一郎は大正九年(1920)六月十一日没。五十三歳。たけは昭和二十九年(1954)四月二十二日没。八十五歳。」とあります。〔(*)=「木下杢太郎――その生涯と生家と杢太郎碑」(発行年不明)〕
 竹子と斎藤十一郎との結婚は4月11日だったようですから、一葉の日記(4月29日)に「太田竹子君、斎藤それがしの妻に成たる。それも来る。」とあるのは、文字通り結婚直後のことだったのですね。
 なお、太田正雄(杢太郎)は、独逸協会中学入学のため上京した年(1898)以降、白山御殿町の兄の家に移るまで(1902)、西片町!の姉の斎藤家に寄宿していた。
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by kaguragawa | 2012-09-09 22:06 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:9月11日《新坂》   

・本郷区 森川町一番地 新坂三五五

・本郷区 森川町一番地 新坂三五九
(現:文京区本郷6丁目10-12〔現・太栄館〕)

・本郷区 森川町一番地 新坂三六二

〔追記〕
 なんと上に並べた本郷の「新坂」を検索していましたら自分の書いた記事にめぐり逢いました。
 http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-b25a.html
 *この旧記事は、別項に再掲することにしました。なんか3年前は、すごく勉強していたような・・・というか、調べたことを忘れないように何でもかんでも書き込んだのでしょうね。

 啄木は、新坂359の「蓋平館」に、季節としてはちょうど今頃(104年前の明治41年〔1908〕9月6日)、赤心館から移って来ているのですね。
“成程室は立派なもの。星の空、遮るものもなく下の谷の様な町からは湧く虫の声。肌がさむい程の秋風が天から直ちに入ってくる。”(当日の日記より)

 新坂355は稲垣示に関わる場所、新坂362は西田幾多郎に関わる場所。
 ちなみに、帝国大学文科大学哲学科選科に学んだ幾多郎がいっときここに住んだのは、120年前の明治25年〔1892〕9月のことだから、この〔森川町一番地新坂×××〕という住所の表記はもうこのときからあるようである。
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by kaguragawa | 2012-09-09 20:26 | Trackback | Comments(0)

谷口貴都さんの一周忌の日に   

 今日は谷口貴都さんの一周忌の命日となります。
 谷口先生が大学時代の恩師佐藤篤士教授の古希記念論文集に寄せられた論文「磯部四郎と東京専門学校――法学部の危機と磯部四郎」(2004)から、その冒頭の部分を紹介して先生を偲びたいと思います。
 ここに要約されている磯部四郎その人の研究が、谷口先生の果たされぬライフワークとなったのでした。

 磯部四郎がパリ大学での法学の勉学を終えて帰国したのは明治11年の12月であった。それより6年前の5年7月、磯部は井上正一、加太邦憲、熊野敏三、栗塚省吾、岸本辰雄、宮城浩蔵ら20名とともに司法省内に設置された法学校・明法寮に入学し、リベロール、ブスケ、ボアソナードから普通学(修辞、数学)と法学を学んだ後、8年8月ボアソナードの推薦を受けて、井上、熊野、栗塚ら7名とともにフランス留学に発った。それから3年半余、パリ大学において天賦の才力と日夜寝食を忘れての勉学の結果、磯部は10年8月にbachelier(法律得業生)を、11年8月にlicencié(法律学士)の学位を得て帰国の途についた。
 留学の疲れを癒す暇もほとんどないまま、磯部は翌12年2月には司法省判事を拝命、4月には司法省法学校促成科1期生に仏刑法・治罪法を講義、13年4月には民法編纂委員となり、以後23年の旧民法典の上奏に至るまでボアソナードの下で財産取得編と人事編の編纂作業に精力的に取り組む。その間、大審院の検事他を歴任する一方、23年には富山選挙区から第1回衆議院選挙に立候補し当選するが、間もなく議員を辞職し、大審院判事に転任。法典論争では断行派の先鋒として論陣をはる。25年以降は代言人として活躍し、5度に亘って東京弁護士会会長を歴任。この間43年には大逆事件の弁護にあたる。大正12年関東大震災で罹災し死亡。享年73歳であった。

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by kaguragawa | 2012-09-07 23:56 | Trackback | Comments(2)