<   2012年 08月 ( 11 )   > この月の画像一覧   

津田仙とふたりの越中人のこと(1)   

 このブログと旧日記に何度か津田仙のことをとりあげてきました。「津田塾大の創始者津田梅子のお父さんです。」と説明すると、ああそうですかと、わかったようなわからないような返事が返ってくるのが普通です。しかし、津田仙は津田梅子の父であると同時に、近代日本の多くの生みの親の一人であるのです。名前はあまり知られていないにしても、その事績はほとんど知られていないにしても、その役割は決して小さなものではないのではないか・・・、と考えています。
 私がそう言っても説得力はないのですが、旧日記に紹介した事蹟をあらためて整理するとともに、津田仙の顕彰を少しずつでもこのブログでもしたいと思っています。

 今日、なにげなくweb検索をしていて津田仙が創立した学農社の学校規則を、「近代デジタルライブラリー」で見つけたので、そのアドレスを紹介しておきます。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812635

 ところで、津田仙と親しく交わった越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けたふたりの越中人がいることをここに記しておきます。〔嘉永二年〕射水郡棚田村に生まれた稲垣示と、〔嘉永三年〕射水郡長慶寺村に生まれた橘甚兵衛(甚平/仁)です。
 橘甚兵衛は、津田仙の影響下で洗礼を受けた後の〔橘仁〕の名前で、このブログにも何回か名前を挙げたかと思います。彼は丹精をこめて育てたリンゴで札幌の農にも貢献しましたが、札幌独立教会の創設時のメンバーで堅い信仰の人であったこともふくめて、あらためて評価されるべき人物ではないかと思っています。
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by kaguragawa | 2012-08-28 20:37 | Trackback | Comments(3)

福田恆存の生誕100年   

 ある必要があってシェークスピアの「ハムレット」を読もうと探したのですが、見つからず書店に行きました。小さな書店にあったのは、新潮文庫の福田恆存氏の訳「ハムレット」。

 こうして、今年生誕100年を迎える稀代の戯作家の文業に期せずして、ほんとに久しぶりに、出会うことになりました。そして、きのう8月25日が、福田恆存氏の100回目の誕生日でした。

 しかし、今あらためて、福田恆存をweb検索しても氏の生誕100年にふれたものはさほど多くありません。福田恆存はその創作作品だけでなく評論作品ももう読まれなくなってしまったのでしょうか。福田恆存氏のものをほとんど読んでない私が言うのもおかどちがいですが、福田恆存が読まれなくなっていることも、また保守の側に硬質な思想家がいなくなっていることもさびしく思います。

〔追記〕
 「福田恆存対談・座談集 全七巻 <生誕100周年記念出版>」(監修・現代演劇協会/発行・玉川大学出版部)が出版されています。興味のある方はぜひ、↓をのぞいてみてください。
http://www.i-of-dramatic-arts.com/katsudou/public.html
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by kaguragawa | 2012-08-26 19:55 | Trackback | Comments(0)

稲垣示『狭衣集』から   

 稲垣示『狭衣集』からこの時期に詠まれた歌をご紹介します。
 いまから124年前(1888〔明21〕年)、稲垣示が大阪事件の獄中のつれづれに詠んだものです。少し説明が必要ですがそれは追って。

   八月十九日酷暑なれども夜殊更(ことさら)凉しかりければ
むしのぼる昼の暑さのしのぎ風立ち来る今宵月の凉しき
独り寝の心やすけに蚊帳つればさわらぬ月は伽にぞ入り来る

   同二十一日夕暮れに焼き鰻の香を嗅ぎて
吹上の浜風涼みがてらにも焼けるうなぎのにおいゆかしき
ふる里の門田やいかにみのるらん柿の衣にしむ秋のかぜ

   同二十二日の夜月の昇るを待ちかねて
腰のして待つもちづきは出も来ず兎の杵はそこねけるかも
紅のあつき日脚に引きかえて裳裾(もすそ)涼しくのぼる月かげ

   岩代国磐代山の変事を聞きて
まがつ世のためしとどろに鳴り出る神の御陵の磐代の山

  *8月22日は、旧暦の七月十五日満月(望月)にあたる
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by kaguragawa | 2012-08-23 06:43 | Trackback | Comments(0)

炎天下に「重松君之碑」を訪れる   

 残暑お見舞い申し上げます。

 暑さには強い方ですが、今日はちょっとギブアップでした。気温ではなく日陰もない炎天下での照りつける日射の文字通りの刺すような暑さ(熱さ)です。そういうわけで、ある碑を探し出したのですが、再訪を期して早々に退散しました。e0178600_20522771.jpg

 といっても簡単な報告だけはしておきたいと思います。訪れたのは、「重松覚平の碑」(富山市松木)。

 車を降りて驚いたのは、日差しの熱さだけではなく、碑の大きさでした。台部分も含めると4メートルぐらいはあるでしょうか。空は秋の青ですが、見上げるその空は炎天です。副碑の説明を4,5文字筆写しただけで、背中に汗が噴き出して、照りつけと照り返しの熱さで、断念しました。

 前置きが長くなりました。度外れの暑さと碑の大きさがそれはもう記憶を埋め尽くしているものですから・・・。
 というわけで、重松覚平(かさまつ・かくへい)のことは次回の報告として、碑のことを書いておきます。

 今、凉しい部屋で思い出すと、驚いたのは碑の大きさに加え、その碑にぎっしりと書かれた文章の量でした。見上げるまぶしさに読むことは不可能だったのですが、そして時代を経て読みとれない部分もあるのですが、その膨大な漢字で書かれた碑文の、書き写すだけで数時間はかかるであろうその文字数に圧倒されてしまったのでした。

 暑さでその場を逃げ出す前に、かろうじて写した碑文は、――明治三十二年七月  衆議院議長 片岡謙吉 篆額 大阪 山本憲 撰 富山 稲垣禎吉 書――の部分のみ。
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 片岡健吉の名は、土佐出身の自由党の中心者として板垣退助と併せて覚えておられる方も多いことと思います。続く「篆額」とは、篆字で書かれた石碑の題字のことです。まぶしくて被写部分も確認せずに撮った写真なので、はじが切れていましが、碑の上の横書きの部分、右から「重松君之碑」が、片岡謙吉自身の手による篆字です。
 約500文字ほどありそうな碑文の本文は、山本憲の書いたものです。高知出身で自由民権運動にかかわり大阪事件にも服役した山本憲の名は知っていたのですが、今調べてみてまたまた自分の無知に愕然とすることになったのですが、山本は漢学者として有名な人だったのです。かつての同志・重松覚平を称える文章を漢文で書きあげたのでしょう。

 いやはや、と、ちょっとため息がでたところで、碑訪問記はお仕舞いとします。重松覚平については、あらためて。

 上の文中では、に「山本憲 撰」としましたが、「撰」は碑文では、「言(ごんべん)」の右に「巽」の文字です。
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by kaguragawa | 2012-08-21 20:56 | Trackback | Comments(0)

「記事ランキング」8.17   

 どうもエクスブログの「記事ランキング」は、ここ1週間ほどの期間の閲覧回数のようである。(訂正:直近2週間のデータとのこと)

 
 竹村秋竹さんのことを(もしかして中川富女もか)調べられた方々がおられるようで、閲覧回数が多くなっているが、私の方こそどこかに新たな情報がないか検索魔になりたいくらいで、基本的なこともふくめ知りたいことがたくさんあるのです。そんなわけで、訪問された方には申し訳なく思うのですが、こうしたことも刺激にしつつ日々研鑽?に努めたいと思います。

 
 昨年のお盆に書いた《黒岩比佐子さんの新盆に》を読みに来られた方がおられたようで、有り難く思うと同時に、この項を私自身読み返して、一昨年の秋のことを思い出しました。文末の「黒岩さんとのささやかないくつもの約束をほとんど実行していないのみならず、最後にお約束したことはなんら実行しないままである。今は、黒岩さんの笑顔を思い、頭を下げるのみ。」は、今も変わらぬままです。

1  E・アームストロング『富山空襲、そして進駐軍』
2  〔かきやま〕と〔かきもち〕
3  野田佳彦と富山
4  身元不明の行路病死者、藤澤清造と判明
5  岸兄妹の「つるや」と夢二
6  稲垣示、終焉の地
7  竹村秋竹編『明治俳句』
8  《竹村秋竹》
9  黒岩比佐子さんの新盆に
10 閑話休題

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by kaguragawa | 2012-08-17 20:22 | Trackback | Comments(0)

今年のお盆に   

e0178600_22391131.jpg このブログで報告していきたいことも2、3あるのですが、まとまりがついていません。そんなわけで、言うに言われぬ落ちつきの悪い気持ちでブログに向かっています。

 話は飛びますが、来年からは8月1日から15日までの2週間を、戦争と向き合う2週間にしようと、ある忸怩たる反省の中で今考えていることを報告しておきます。

 *右は、失敗写真です。

 墓石で、私とにらめこ状態になったこの相手は。


〔追記〕
 コメントを寄せていただいたさとさんのブログで「ヒオウギスイセン」の写真を見て、8年前に書いた記事を思いだし、探しだしました。写しておきます。

 庭にかなり前からギボウシの花が咲いていたのだが、目立たないところに細葉が群生するなかから細い茎が伸び先に橙色の小花が対生している。毎年見る花だが、その花の名を知りたくて駅ビルの書店で花の本を立ち読み。
夏梅陸夫さんの『花言葉[花図鑑]』(大泉書店/2003.9)の中にやっと見つけました。
《モントブレチア》。
亡き母が植えたのだろうか、檜扇水仙、緋扇水仙、姫扇水仙の和名もあるという。
母が亡くなった5年前の猛暑にも、この花を見ていたのだろうか。

ところで、検索したあるサイトに、“This name comes from the French botanist Monsieur de Montbret.”とあります。気になって少し調べてみました。
 このMontbret(モンブレと発音すればいいのだろうか?)さん、フランスの植物学者でフルネームは、Antoine François Ernest Coquebert de Montbret(1780-1801)。なんとナポレオンのエジプト遠征に同行し、カイロで20歳になったばかりの若さで亡くなっています。
 ビュッフォン以来のフランスの植物学(博物学)の中で、このモンブレさんどういう位置にいて、エジプトに行くことになったのでしょうか。これもゆっくり調べてみたいと思います


〔追記2〕
 「ヒオウギイセン」と“水仙”は、濁るのが正しい?ようです。
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by kaguragawa | 2012-08-14 19:54 | Trackback | Comments(2)

稲垣示、終焉の地   

 今日は、先日も書いたように、110年前に稲垣示が亡くなった日でした。

 実は、先日そのことを書いたときは、手元に何も資料がなく、wikipediaによって、歿日を8月8日と書いたのですが、一昨日、久しぶりに桜木成一『稲垣示物語――自由民権の先覚者』を借り出し読み直してみて、命日は「8月8日」ではなく「8月9日」であることを確認したと同時に、示の死が長い病床の後のものではなく、なんと亡くなった前夜の演説会では熱弁を揮っていたこと、つまりの彼の死が突然のものだったこと、奇しくも亡くなった翌日10日が、衆議院議員の投票日であったことなど、少しずつ事情を思い出しました。
 示は、自らも衆議院議員の総選挙に立候補していたのですが、投票日を翌々日に控え友人・牧野平五郎の応援演説に富山に行き、そこで亡くなったのです。誰にとっても「青天の霹靂」的、出来事だったのです。

 病名がはっきり書いてなくて事情がよくわからないのですが、めまいで倒れ、翌日死亡というのですから心臓や脳の循環器系の疾患だったのでしょう。選挙活動の過労に残暑のきびしさが追い打ちをかけたのかも知れません。

 桜木さんの本には、「8月8日一時間半にわたって熱弁をふるった。会が果てて、宿舎の総曲輪の富山館に帰る途中眩暈(めまい)を起こし、翌9日午前11時、54歳を最後に急逝した。」とあって、当時の新聞『北陸政論』の記事も載せています。

 自党の候補者を応援すべく歌舞伎座の演壇に立ちしは、選挙期日のもっとも必迫せる八月八日の夜なり。嗚呼八月八日の夜の大演説、これ実に君が最後の演説なりき。演説会漸く散じて星影転た暗く、総曲輪街上風まさに静かなる時、嗚呼この烈丈夫を誘う無情の風、遂に君が不帰の病根を醸しぬ。

 こうした記述を読みながら、またしても私の悪い虫?が騒ぎ始めました。
 《9日の11時に、110年前〔明治三十五年八月九日〕、稲垣示が亡くなった「富山館」の場所に立てないだろうか・・・。11時は無理でも、夕方にでも現地に足を運びたい!》

 「富山館」はどこだ!?、「歌舞伎座」はどこだ!?。――ともに現存する建物ではありません。が、「富山館」には心当たりがありました。昨日、残暑の夕刻、富山市立図書館に足を運びました。調査・確認の仔細は省きますが、運良く“終焉の地探し”は、命日には間に合いました。
 ――なんと、よく知った場所に、しかし、ちょっと驚きの場所に、「富山館」はあったのです。
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 この写真を見て、「あれっ、ここって、富山城の・・・」とおっしゃる富山の方がおられることと思います。そう、木々の間から見えているのは、昭和30年にできた疑似天守閣ですが、この場所はもとの「富山城二の丸跡」です。城址公園内ですが、本丸跡ではなくて、ANAクラウンプラザホテル・国際会議場の、国道44号線をはさんだ、向かいの散策のできる一画です。
 明治末当時、本丸跡に「県庁」があり、三の丸の現:国際会議場の場所に「県会議事堂」があり、その間の便利のいい二の丸跡に迎賓館というほどのものではないにせよ宿舎「富山館」があったのです。

 ここが、稲垣示の終焉の地となったのです。
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by kaguragawa | 2012-08-09 20:51 | Trackback | Comments(0)

E・アームストロング『富山空襲、そして進駐軍』   

昨日、書名だけ紹介した本、というか読みやすい小冊子ですが、きちんとした感想も書けそうにないので、2節ほど書き写して、この本の紹介にかえさせていただきたいと思います。

 『富山空襲、そして進駐軍――日本人となった婦人宣教師の手記』
   著者:マーガレット・E・アームストロング(亜武巣マーガレット)
   翻訳:宮崎ゆかり
   発行者:堀江節子/もえ編集室

 富山大空襲直後のありさまをアームストロングが記録した一コマです。昨年の3月11日直後にも繰り返されたであろう光景です。

 『私たちは掃除婦の石垣さんを探しに行った。その途中で友人たちや知人たちと出会った。みんなお互いに「生きていてよかった」と言っていた。とうとう私たちは兵舎の近くで石垣さんを見つけた。彼女の顔は泣いたせいか腫れていた。彼女は家を出た際に自分の七歳の男の子と離れてしまい、探し出すすべをなくしていた。最初わたしたちは 「いっしょに男の子を探しましょう。きっと見つかります。」と言って、彼女を勇気づけた。
しかし、あちこち探し回ったが見つからず、さらにどこに行ってもまわりには死んだ人や死にかけた人がいたので、私たちは少し気が弱くなってしまった。見知っている学校の先生に会ったので、このような男の子を見かけなかったか尋ねたが、彼女からは「土手に行って、そこに積まれている子どもの死体から捜した方がいい。そこで男の子が見つかるのでは・・・」という冷静な返事があった。私たちは積み重ねられた小さな死体の周りを取り囲み、身元確認のために群がっている人々を見たが、そばまで行く勇気がなかった。長い間、名前を呼んで探し回ったが何の手がかりも見つけられなかった。』


 天災であれ、人災であれこのような光景が繰り返されることのないよう、私たちは最善を尽くさなければならないのだ。その歩みが迂遠であろうとも。(なお、石垣さんの息子さんとは再会できたことが、後段で書かれています。)
 上に写した前の節には、こんな記述もある。ほんとにこうした思慮深さと愛の深さをもつ人々には敬服の限りである。

 『私たちが知っている人が一人、またひとりと現われた。彼らは別世界から来たようであった。それほと彼らの様相は変わり、また、それほど周りが変わっていた。六人の子どもをもつ母親が私たちの方にやって来て、彼女の子どもたちが助かったことを喜んでいた。
市川さんは自分の背負い袋から炒り米を出して少し分け与えた。他の者には火傷のためにと油を少し与えた。さらに三番目の者には、煙で痛む目にホウ酸を与えた。緊急時に必要なものを背負い袋に入れていた。彼女はなんと思慮深いのであろう。』
 

 ※富山大空襲から敗戦、占領期にわたる手記を残した“日本名亜武巣マーガレットは、富山市で幼児教育にたずさわったカナダ・メソジストの婦人宣教師であり、日本国籍を取得して、戦時下の日本で拘束されないまま暮らした数少ない「外国人」の一人である。”と、この書を発行した堀江節子さんの「はしがき」にあります。
 この本は、いずれ店頭に並ぶのだろうか。その辺りのこともわかったら、またお知らせしたいと思います。
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by kaguragawa | 2012-08-05 17:16 | Trackback | Comments(0)

「記事ランキング」   

  このブログの一項目に「記事ランキング」というのがあります。こういう項目が自分のブログに表示されていることをつい数日前まで知らなかったのですが、そして、どういう基準でこのランキングが決められているのかよくわからないのですが、気づいてからたまにのぞいてみます。たとえば、今日現在(8/5 AM9)では、こういう順位になっています。

 1 〔かきやま〕と〔かきもち〕
 2 “和み水”
 3 「裏干支」と、「ものの数え方」
 4 本位田準一さんのことですが・・・(2)
 5 身元不明の行路病死者、藤澤清造と判明
 6 大逆事件弁護人・磯部四郎のこと
 7 霜川の《7月30日》
 8 富山ルーツの北海道の“鉢呂さん”
 9 たまき忌と夢二祭
 10 「藤澤清造忌 特別展示」

 「藤澤清造」が、2項目入っているのには驚いたが、「磯部四郎」で検索いただいてこのブログに来られた方に充分な情報提供できてないことには忸怩たる思いがします。少しずつでも、補っていきたいと考えています。

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by kaguragawa | 2012-08-05 12:58 | Trackback | Comments(0)

きょうのわくわく、どきどき   

 きょうは朝から、ワクワク、どきどきの一日でした。メモのみ。

 地元紙で「稲垣示の功績後世へ――自由民権運動に貢献」の記事に驚き。稲垣示のことは、地元ではもう忘れられてるものとばかり思っていたので、驚きと同時にうれしさがこみあげてきました。記事にもあるように今年が歿後110年。8月9日が命日なのです。この件は、あらためて。

 急いで金沢へ。車中で野口冨士男さんの『私のなかの東京――わが文学散歩』を読んでいたら先日読んだばかりの木下順二さんの『本郷』とどこか重なることに気づきました。それもそのはず。野口さんが1911年生まれ、木下さんが1913年の生まれなのでした。

 金沢湯涌の夢二探索は下記にちょっとふれるとして、自宅にかえったらばアームストロング『富山空襲、そして進駐軍――日本人となった婦人宣教師の手記』が、堀江節子さんから送られてきていました。
 こんなぐあいに、ワクワク、どきどきが、いくつもいくつもあるのです。くわしくはそれぞれの話題ごとに整理しつつ、あえて書かなかった出会いもふくめ、これから咀嚼吸収していくつもりです。
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 上の写真の手前のやや深い細流れの左側にかつて精米水車があった。竹久夢二が、1917(大正6)年秋、湯涌温泉滞在中に薬師堂裏の山道を越え西の谷筋の集落に出てきたとき出会った水車である。
 夢二が日記に書き残した95年前の湯涌地区の事物は、有形無形さまざまな形ではあるが、思った以上に残っていることがわかりました。
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by kaguragawa | 2012-08-04 22:03 | Trackback | Comments(0)