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霜川の《7月30日》   

 三島霜川の誕生日は、戸籍によれば《明治9年7月30日》です。が、霜川自身が、子供たちに「自分はお釈迦様と同じ日(=4月8日)に生まれた」と語っていたと言う長女小枝子さんの証言があり、【霜川の誕生日】を、4月8日とするものが多いのが現状ではないでしょうか。

 今日は、その7月30日。霜川の誕生日についてちょっと落書きをしてみたいと思います。今まで、上記の7月30日と4月8日の二つの日について、論争があったとも聞かないのですが、便宜上、《7月30日説》《4月8日説》という表記で論を進めます。

 まず、《7月30日説》。
 現在実物は見ることができませんが、霜川生地の中田町(当時)の研究者・松田富雄氏が中田町役場で書写した戸籍の除籍簿には、出生日として7月30日が記載されています。これが、《7月30日説》の根拠であり、今も「4月8日説」に対比して、「7月30日」が「戸籍によれば」「戸籍上」と書かれる理由となっています。
 ただ、一般論として言われる、「戦前の戸籍記載の日付にどれだけ信憑性があるのか、当事者に別の日付の記録・記憶があれば、年譜や伝記は、当事者側の資料をもとにするのが妥当である。」という点については、私としてもあえて反対するつもりはありません。これは、霜川の場合もあてはまるでしょう。ましてや、「戦前一般」ではなく、明治10年前後の戸籍上の記載ともなれば、その記載をどう読むかは難しい論点がでてくるだろうことは、承知しているつもりである。まずは、戸籍制度がまだかっちりとしたものに仕上がっていなかったこと、また、そうした現状を反映した形で、役場に届ける者も、また役場の担当者も、正確を期すという意識も、きちんと確認を求めるという意識も希薄ないしは皆無であったことは想像に難くない。むしろ届ける側の「便宜」が優先され、その便宜(利点)の有無が届け出の有無につながったのであろう。(こうした論点を、「戸籍制度」という法制度史上の問題として、くわしく整理してみたいと考えているが、ここではこれ以上ふれない。)

 《4月8日説》。
 これは、上に書いたように霜川の長女小枝子さんが語ったもの。また、「4月8日」という日としての数字情報ではなく、「お釈迦様の誕生日と同じ」という特徴的な情報が、伝達によって誤って伝えられることは少ないでしょうから、たいへん貴重なものであることは言うまでもありません。
 しかし、この《4月8日説》説は、霜川の宣述を誤りなく伝えている信頼性のおけるものと思われるが故に、それだからこそ、問題点があるのです。それはこういうことです。

 《4月8日説》の難点は、今のところ、その根拠が霜川自身の宣述だけであることなのです。言うまでもなく、自分の誕生の瞬間をその日時と共に正確に記憶している人間はいません。私の知る限りでは、霜川本人以外に、霜川の誕生に立ち会った人で、《霜川の誕生日=4月8日(=お釈迦様の誕生日)》ということを語ってくれる〔客観的な第三者〕は誰もいないのです。霜川が、自らの誕生日を、「お釈迦様の誕生日と同じ」と言ったことは事実だとしても、出生に立ち会ってそのことを客観的に証言してくれる人がいない限り、その内容の信憑性は担保されないのです。

 では、かぐら川さんは《7月30日説》なのですね?、と早急に結論を求められても困るのですが、霜川の事績を追いかけて年譜の形で霜川の作家人生を整理しようとしている「記述者」の立場では、霜川の誕生日を“7月30日と記さざるをえない”というのが、現在の私の考えです。

 そうお伝えしたうえで、二つほど、補いたいことがあります。
 一つは、霜川が4月8日ではなく「お釈迦様の誕生日」と言っている点。この点については、霜川と信仰と言うテーマで、役不足は承知の上で、少し書きたいことがあるのですが、後日に回さざるをえません。
 もう一つは、霜川より長生きした母親が、この点についてなにも発言していないと言う点。すくなくとも、息子が家族(孫)に「おれの誕生日は、お釈迦様の誕生日だよ。」というのを黙って聞いていた、そう言う霜川に対してあえて異議を唱えた形跡が無い、ようだ・・・という点です。そもそも、その母親が息子(霜川)に「おまえの生まれた日は、お釈迦様の誕生日だよ。」と言い聞かせた可能性がある(可能性が高い)のです。
(この点の傍証があれば、私はもちろん《4月8日説》に――「7月30日」という届けられた出生日の意味を考えながらも――従うことになります。)
 いずれにせよ、この2つの点は、もっともっと多くのことを語る必要のある点です。というわけで、再論は後日と言うことで。


 暑い日に、頭を少し論理的につかうことでクール・ダウンしようと思いましたが、古くなったしかも容量の小さい脳は、フル回転もせず(古古回転?)、わかりきったことをわかりにくく書いたにとどまりました。ご容赦のほど。

〔追記〕
 以上は、きのう書いたものですが夜パソコンを使えなかったため、今日(7/31)のアップとなりました。投稿日付は、繰り上げて30日とさせていただきました。

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by kaguragawa | 2012-07-30 23:59 | Trackback | Comments(0)

本位田準一さんのことですが・・・(2)   

 Tさんへ

 本位田準一さんのことですが、整理して書けるような新情報はあまりないのですが、ちょっとした出会いがありましたので、その経緯だけおしゃべりの形で書いておきます。

 
 金曜日、開館三週間目にして初めて高志の国文学館に足を運んだ帰り、駅近くの本屋さんで、ある本に出会いました。大村彦次郎さんの『時代小説盛衰史』。ちくま文庫の上下の2冊本です。タイトルを見たとたんに、ちょっとひらめくものがあって、10分しか列車時間まで余裕が無いなか、まず(上)を手に取ってみました。すぐに目に飛び込んできたのが「吉川先生」の文字。言うまでもなく吉川英治です。この手の本に欲しいのが、〔索引〕です。なにしろ本文をゆっくりと立ち読みする余裕もなかったのです。
 急いで(下)の巻末をのぞくと、有り難いことに詳しい〔索引〕ありました。“もしかして”の期待を込めて、もどかしく〔は行〕を繰ると、最後の方に、《本位田準一》の名があるではありませか。 「上巻の266ページと400ページ。!!」

 ご存じのように時間もお金もない貧乏暮らしの私は、1000円の(上)だけを手にしてレジへ走った次第。〔266と400〕の数字を忘れないように念仏のように繰り返しながら。

 まず、報告の1です。絶対間違いがないとは言えませんが書誌的には信頼できる大村彦次郎さんの本に、本位田準一さんの名字に〔ほんいでん〕のルビがあったこと。
 余談ですが、「●●文学事典」のような基本となる参考図書に、先行事典の「引き写し」(丸写しとは言いません)の多いこと、それも明かな「間違いの継受」が散見されことを、今までに悲しくなるくらい見ているので、こういう信頼できる本に知りたいことが明記されているのはうれしいことです。

 報告の2。ここでの本題ではないので、もし興味がおありであれば、『時代小説盛衰史』をお読みいただくのが一番ですが、先日のお知らせで取りあげた吉川英治と本位田準一の「続鳴門秘帖」をめぐるエピソード、吉川英治と本位田祥男の「宮本武蔵」をめぐるエピソード、この2つが、特に後者がかっちりと紹介されていることだけ報告しておきます。吉川英治が武蔵の生地を訪ねた折、本位田祥男の父親と会って恐縮したことなど、おもしろい話が満載でした。(本位田準一の後日談にもふれてありますが、秋聲=白鳥には直接関係がないので略します。)

 報告の3。これは『時代小説盛衰史』からの話題ではありませんし、むしろTさんから教えていただかなければならないことがらですが、吉川英治に関連することなので、ここにメモしておきます。正宗白鳥は吉川英治のことを高く評価していたようですね。そもそも本位田準一を話題にするきっかけとなった後藤亮さんの『正宗白鳥――文学と生涯』の「年譜」中〔昭和14年(1939)〕項に、“九月、「『宮本武蔵』読後感」を「中央公論」に連載”とあるのを見つけました。
 (本文中のどこかにも、白鳥が吉川英治のことを高く評価していたと記されていたのを今朝読んだのですが、見あたりません。「『宮本武蔵』読後感」が『正宗白鳥全集』のどこに収録されているのかもふくめて、白鳥の吉川英治評についてご存じでしたら、教えてください。

 では。

 追伸、本位田準一の生没年月日はわかっていませんが、ある方からご教示いただいた情報によれば、生まれは1903(明治36)年のようです。

追記:
白鳥の「『宮本武蔵』読後感」は、新潮社版『正宗白鳥全集』(全13巻)の第6巻【評論 1】〔1965.8〕に収録されているようです。
http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-916.html
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by kaguragawa | 2012-07-28 19:36 | Trackback | Comments(0)

とんぼを追った日々など   

 今年は、なぜか蜻蛉(とんぼ)を目にすることが多い。ぎんやんま、はぐろとんぼなどその種類も多い。偶然なのか、実際とんぼが多いのか知りたいところです。悠々と飛ぶとぶとんぼを追おうとした瞬間に、少年の日の幾コマかがよみがえってきて、感傷にひたりました。トンボを追ったことだけでなく、ヤゴを育てて羽化するのも何度も見ているのです。

 昨晩、イチローさんのニュースを聞いて驚きました。オリックス在籍時に試合で富山に来た若いイチローが、外野席から豆粒のようにみえる選手のなかでただ一人光って見えたときから、ファンになってしまいました。大リーグに移ってからでも10年を越しているのですからイチローさんだけでなく私も年をとってしまったわけです。

 哲人イチローをこれからも見守り見習っていきたいと、ごく神妙な気持ちで思っています。
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by kaguragawa | 2012-07-25 19:25 | Trackback | Comments(0)

季節を告げる花――“くらたに菊”(3)   

 時間も遅いので、「くらたに菊」についての報告を、簡単に。

 ブログの記事を見られた方や別のルートからも、「クラタニ菊」は「シュウメイギク(秋明菊)」ではないかとのお知らせをいただきました。

 私も、夢二の残したスケッチから「シュウメイギク」説に傾いています。〔(1)には、あえて書かなかったのですが、夢二は「くらたに菊」のスケッチを残しているのです。〕
 シュウメイギクは、枝分かれが独特で、この部分が夢二のスケッチではほかの絵のかげになっていますが、それでもスケッチからもその独特の感じがわかります。

 夢二のスケッチから注目すべきは、「葉」と「枝分かれ」と「花びら」です。

 まず、「葉」ですが、スケッチの「葉」からこの花がキクの仲間でないことは明白です。
 ただし、「はなびら」に注目すると、シュウメイギクはふつう花びらが5枚ですが、スケッチのくらたん菊は、花びらが5枚以上あります。とすれば、いわゆる八重咲きのシュウメイギクということになります。
 確認できていませんが、そして大事な情報ですが、八重咲きの方が原種に近いと書いたものがあります。また、別名「貴船菊」のもとになっている京都貴船地区のものも八重のものが多いとも書いてあります。

 シュウメイギクの別名に、「加賀菊」があるのも見逃せない点です。

 こうした点、夢二の「ひなびた、しおらしい花」という感想とも併せて、まだまだ検討すべき点です。

 また、あらためて。
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by kaguragawa | 2012-07-24 01:33 | Trackback | Comments(0)

季節を告げる花――“くらたに菊”(2)   

 先週作った「wanted!くらたに菊」。指名手配書です。身近にいる植物に詳しい人、とりわけ植物民俗学のようなものに造詣の深い方に教えを請おうと思って、つくったものです。これに夢二のくらたに菊のスケッチと石川・富山の県境の山筋谷筋のわかる地図を添えようと思っています。
 参考までに、ここにも掲載しておきます。

 《ク ラ タ ニ 菊》について

 クラタニ菊がどんな花なのか。知りたいと思っています。(「クラタニギク」は標準和名のなかには見あたりません。)

 この花の名は、
 竹久夢二が、1917(大正7)年の9月から10月にかけて石川県の湯涌温泉に滞在していた頃の日記に登場します。
1.夢二の日記には、
  “「「くらたに菊」がついたさかい、さむくなるって言いますぞいに」
  ひなびた しおらしい花である。
〔1917.10.13項〕”
という具合に、地元の言い伝えとともに、この2行のみ記録されています。

2.10年後に書かれた「出帆」という夢二の自伝的小説の湯涌の思い出の部分に「クラタンキク」としてスケッチ風の線画が残されています。
(残念ながら、色はつけられていません。この絵が、1917年に描かれたものなのか、1927年に思い出して描かれたものなのか、はわかりません。)

 推測するに、「クラタニ菊(クラタン菊)」は、おそらく石川県東部の山間から富山県西部の山間で使われていた呼び名(地方名)だと思われます。
「倉谷」は、犀川上流の谷間の地名ですが、かつてここには鉱山もあり倉谷集落はかなり栄えた集落だったようです(現在、廃村)。
 「クラタニ菊」は、単に群生地?の地名を冠した(その地だけに見られる)花の名というよりは、言い伝えが残されていることも考えると、その人里離れた山里の歴史的なものを背負った名とも考えられます。(名の由来については、まったく別の可能性もありますが・・・)

 この花が、その名とともに消滅してしまったものか、そうでないならば現在の標準和名のどの植物にあたるのか、知りたく思っています。

 ご存じのことがあれば、お教示くださいませ。よろしくお願いいたします。

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by kaguragawa | 2012-07-24 01:30 | Trackback | Comments(0)

本位田準一さんのことですが・・・   

Tさんへ

 先日は有り難うございました。私の方は、約束のものをまだお送りしてないのに、野田山の地図をご準備していただいていて、たいへん恐縮しました。

 さて、本位田準一さんのことですが、
 乱歩や横溝正史と親しかった本位田準一さんは、『日本ミステリー事典』などに、きちんと立項されているのではないかと思うのですが、手元にそんな重宝なものはなく、調べていません。
 いずれきちんと調べがつけばあらためてお知らせするとして、私のわかっていることを少し整理して書いておきたいと思います。

 本位田準一さんが正宗白鳥のもとを訪れたのは、博文館の『文芸倶楽部』の編集者としてだったと思いますが、のちに同社の『新青年』の編集長もしていたようです。この辺りのことは後日おさらいするとして、この方の珍しい姓《本位田》の読みは、「ホンイデン」しかないのでは・・・と思います。

 なお、本位田という名は、今で原作自体はあまり読まれなくなった吉川英治の『宮本武蔵』(朝日新聞に連載/1935.08.23~1939.07.11)に、武蔵の愚友《本位田又八》――こう書くとわかりにくいかと思いますが「又八・お通」の又八です――として登場し、その時点では少し知られるようになったようです。この「本位田又八」は、創作人物か実在の人物か私には確かめようがないのですが、実在の本位田姓の人は、準一さんのほかにも結構います。その一人が、先日お話しした東京帝国大学経済学部教授でヨーロッパ経済史の大家で後に大政翼賛会の重要なしごとをした《本位田祥男(ほんいでん・よしお)》氏です。
 新聞連載時から熱狂的に読まれたこの剣豪小説のおかげで、同姓の「又八」が有名になった本位田祥男氏は、「学生に又八呼ばわりされて困っている」「自分の先祖に又八などという者はいない」と新聞に書いて、話題になったそうです。
(私の方は、氏も関わることになった《平賀粛学〔1938〕》や、大塚史学をその逆子として生み出した学統としての本位田祥男氏の関連エピソードとして知った程度ですので、その後、このクレームがどうなったかはわかりません。)
 そもそも吉川英治が『宮本武蔵』に、本位田又八という“本位田”姓の人物を登場させたのは、『文芸倶楽部』連載の『続鳴門秘帖』を担当していた本位田準一の姓――この姓が宮本武蔵の生地近くに発祥地をもつ――から実在の人物・本位田外記を想起し、そこからその子“又八”の人物造形をするという経緯をたどったのでは・・・と思うのですがどうなのでしょう。
(ちなみに、横溝正史の“金田一もの”の前作にあたる「車井戸はなぜ軋る」に本位田鶴代とその一家がでてきますが、これも知人の風変わりな姓を借りたのではないでしょうか。)

 net上の情報によると、《本位田(ほんいでん)姓》は、“現兵庫県南西部である播磨国佐用郡本位田村が起源(ルーツ)である、村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)赤松氏流がある。現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵等にもみられる。”とあります。村上源氏云々は私には調べようもありませんが、兵庫県から岡山県にルーツを持つ姓のようです。
 正宗白鳥さんは、初対面の折に本位田準一さんに「あなたも岡山のご出身ですか、それとも兵庫?」と、あの渋い顔で聞いたやも知れぬな・・・と勝手な想像をしています。

 以上、思いつくままに書きました。事実の確認はこれからです。そうしたものとして読み・教えてください。
 では。

〔追記〕
 今改めてnetで調べましたら、本位田祥男さんは「1892年:岡山県英田郡生まれ。宮本(新免)武蔵の縁戚。」(はてなキーワード )とあり、戸惑っています。本位田祥男大先生は、“剣聖・宮本武蔵の縁続きではあるが、又八ごとき者の子孫ではない”と言うことをおっしゃりたかったのでしょうか。(※当時の岡山県英田郡(あいだぐん)は、旧・本位田村を含む兵庫県佐用郡の北西に位置する)
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by kaguragawa | 2012-07-23 20:47 | Trackback | Comments(0)

季節を告げる花――“くらたに菊”(1)   

 ある花の名前をさがしている。ヒントは多い。が、なかなかに曲者だ。
 名前はわかっているのだ。だが、それはいわゆる“標準和名”ではない。ある地域だけで呼ばれてる名だ。

 “「くらたに菊」がついたさかい、さむくなるって言いますぞに」
  ひなびた しおらしい花である。”


 はたして、この「くらたに菊」とは・・・。

 web上で答えを求めようとしているのではないので、これ以上は書かない。ゆっくり時間をかけて探したいのだ。

 「この花が咲いたらさむくなる。」・・・このような季節の目印になる動植物がかつては、豊富にあったはずだ、いや違う。自然に中に自然を語るものを見つける、つねに自然に語りかけ自然の語りかけに耳をすます。人間もふくめた自然の全体が言葉をもち、語らいが豊富だったのだ。そういう意味で総体としての自然が豊富だったのだ。

 金沢の浅野川の上流の地・湯涌でこの言葉を書き留めてくれたのは、竹久夢二。夢二は、この花のスケッチも残している(線画で色が無い)。名前から、野菊の一種だろうと考えていたが、もしかしたらサクラソウ科の植物の可能性もあるかと思う。
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by kaguragawa | 2012-07-21 23:59 | Trackback | Comments(0)

おとぎ歌劇「ドンブラコ」を、聴く(追記)   

 「おとぎ歌劇「ドンブラコ」を、聴く」の〔追記〕の字数が多くなったので、別項としました。

〔追記:1〕
 北村季晴がこの曲「ドンブラコ」に着手し完成させた1907(明40)年から1912(明45)年というのは、明治の末期の大逆事件をはさんだ大きな転換期であった。そこから直接にこの曲の性格をうんぬんすることはできないが、音楽から聞こえてくるものに耳をすまして時代を聞き取ることはできるだろう。続く時代の、宮澤賢治にも大きな影響を与えた「浅草オペラ」に北村の音楽が聞こえてくることは、やはり覚えておいても良いことだろう。

 偶然、数日前、「金の船」の創刊号〔1919〕に寄せた野口雨情の詩「鈴虫の鈴」に、北村季晴が音楽をつけていることも、斎藤佐次郎さんの『児童文学史』で知りました。童謡史ではほとんど注目されていないことであろう。その本には,斎藤の北村季晴の思い出も語られています。
 〔「金の船」=「金の星」における中山晋平・本居長世童謡路線〕のきっかけをつくり方向付けをした作曲家が、北村季晴だったとまで言っては言い過ぎだろうが、e0178600_23392862.jpg
「金の船」=「金の星」と北村季晴の関係は、留意してもよい点ではなかろうか。

〔追記:2〕
 上に「浅草オペラ」に関連して北村の名を挙げたのは、日露戦争時に作曲されたオペラ「露営の夢」の、大正時代の上演のことである。この作品は、1904(明37)年に叙事唱歌「露営の夢」として、翌1905(明38)年3月にオペラとして公表されたもの。残念ながら、この作品の詳細については、私はほとんど知識を持ち合わせていません。が、いずれ、きちんとした報告をしたいと思っています。
 ※写真は、北村季晴。
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by kaguragawa | 2012-07-17 22:57 | Trackback | Comments(2)

おとぎ歌劇「ドンブラコ」を、聴く   

 アンサンブル・フィオレッティ2012年富山公演《家族で楽しむファンタジー おとぎ歌劇「ドンブラコ」》を、聴く機会に恵まれた。

 この曲を聞くのは2度目である。復活上演時の富山での演奏に続いて、今回は新湊で聴くことができた。そして2度とも――しいて言えば、前回は音楽として、今回は物語として――大いに愉しんだ。そして、物語として聴けた今回は、驚きもかなり大きかった。ひと言で言えば、これが、明治の音楽劇だろうか・・・という驚きである。その辺りのことを少し書いてみる。
 桃太郎の鬼退治をテーマにした子ども向けのオペレッタ――といえば、誰しも鬼のテーマに俗悪なものを予想するだろう。鬼は退治されるべき悪役である。だが、この「ドンブラコ」では、鬼の登場は恐怖に満ちたものではなく、俗悪なものでもなく、鬼たちの祈りのコラールである。そして鬼との闘いは音楽ではない。語りである。かのベートーヴェンでさえ戦闘のドンパチを擬音を使ってまで醜悪で下俗な戦闘音楽で書くしかなかったのに、笑みを誘うていの巧みな語りが、桃太郎軍の鬼軍への勝利を告げ、 “敵も味方も今は互いに打ち解け和気あいあいたり。鬼どもまず「鬼の合唱」を演じ、犬猿雉、これに応えてまた合唱す。”と和解を告げる。  
 桃太郎を描いたこの音楽「ドンブラコ」は、血なまぐさい戦の音楽ではなく、平和な、私には、
“非戦”の音楽として聞こえてきたのである。

 宇野功芳さんの曲を知りつくした指揮は、アンサンブル・フィオレッティの独唱・合唱と伴奏の村田智佳子さんのピアノを豊かに響かせ、この曲の表現の極致に導いてくれるもの。

 なお曲のエンディングは、君が代である。初めて聞いた時も驚いたが、今回も驚いた。といっても勝ち誇った凱旋の君が代でもなければ、厳粛な謹聴を求めるものでもない。この曲全体に使われている多くの古謡やわらべ歌と同じ、ごく自然な美しい歌である。 

 北村季晴という明治の作曲家の、ちょうど100年前に初演されたこの子どものための音楽「ドンブラコ」は、まさに時代を越えて何かを語りかける魅力あふれる曲として現代の私達に手渡されたのである。
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by kaguragawa | 2012-07-16 20:31 | Trackback | Comments(2)

たまきの周辺(2)   

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 富山市街の大空襲を生き残った立山醤油味噌の煙突。大正時代末につくられたものという。100歳近い煙突である。
 昨晩のニュースで聞いて驚いたのだが、このレンガ積みの煙突、今月末には廃業に伴って取り壊されると言う。手前の建物の瓦はすでにはずされている。

 他万喜(たまき)の亡くなった家――たまきの周辺(1)――から直線距離で300メートルぐらいだろうか。
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by kaguragawa | 2012-07-14 23:34 | Trackback | Comments(3)