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朗読会《三島霜川を読む》を聴いて   

 私が三島霜川に思いを寄せている人間だと言うことで割引して受けとっていただいても結構なのですが、朗読グループ「ふみの会」の皆さんによって再現された三島霜川の世界は、感動的なものでした。

 「水郷」の湧きあがり乱舞するホタル。主人公の少年を取りまく「埋れ井戸」の純真さと現実の交差する世界が、「ふみの会」の皆さんの研鑽によってあざやかに浮かびあがってきました。

 霜川へのいろんな想いと「ふみの会」の皆さんへの感謝の気持ちが交錯するなかで、実現かなわぬことを承知で書くのですが、この公演が、「埋れ井戸」を生んだ福島の地で、福島の山野のなかで、福島の人々との交流のなかで、あらたな感激をもって再現することができないものか・・・と。
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by kaguragawa | 2012-06-30 18:29 | Trackback | Comments(0)

朗読会「三島霜川を読む」   

 急ぎのお知らせです。今週の土曜日に、《三島霜川を読む》という朗読会が開かれます。場所は、三島家の菩提寺である善興寺です。詳細は下記のとおりです。


朗読会「三島霜川を読む」

日時 : 平成24年6月30日(土)
         午後2時開演(1時半開場)
会場 : 善興寺本堂(三島家の菩提寺)    高岡市中田4500-1

プログラム: 一、小説 『水郷』
      二、小説 『埋れ井戸』
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主催 : 朗読サークル「ふみの会」

〔追記:6/29〕
 先日「ふみの会」の練習を拝見させていただきました。この朗読会にかける皆さんの思いの熱さにふれて、明日の公演が待ち遠しくてなりません。もし、偶然このお知らせを見られて、明日時間のある方はぜひ、善興寺に足をはこんでください。 
 「埋れ井戸」を朗読の形で味わえる機会はめったにないと思います。
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by kaguragawa | 2012-06-27 06:42 | Trackback | Comments(0)

私事報告   

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 ようやく (という言い方は不謹慎だが) 母の十三回忌法要を終えた。
 気持ちの上でも実際の準備でも何の用意もできなかったことが悔やまれるが、日々の回向もしていない者が回忌法要だけ豪勢なものにしても意味がないであろう。

 それにしてもこの12年間にあったささやかなできごとやささやかな出会いの集積が、今の私の生活を方向づけているのも不思議な縁と言うべきか。
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by kaguragawa | 2012-06-23 16:24 | Trackback | Comments(0)

きょうの雲   

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by kaguragawa | 2012-06-20 23:24 | Trackback | Comments(0)

ミノムシよ快くあれハナミズキと   

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 「修正協議」にせよ、「反対決起集会」にせよ、「原子力発電所再稼働」にせよ、ぶざまである。
 が、なしくずし的と言うなかれ、無原則的と言うなかれ。
 目をこらして見よ、それは、巧まずして実現されつつある政治的意欲の実現に過ぎない。

 我々の眼前で粛々と進められる政策決定から目をそらしてはいけない。
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by kaguragawa | 2012-06-14 23:27 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (5)   

 先日の日曜日、本郷界隈を(といっても旧弓町を中心としたごく限られた区域ですが)、菊坂の与太郎の名で知られる梨木紫雲さんに案内していただいたのですが、梨木さんにまずご同行いただいたのは、このブログで何回か話題にした《〔旧〕本郷六丁目九番地》でした。両側に長屋の並んだ路地まるごとが「六丁目九番地」という区域について、先日来梨木さんに多くのことを教えていただいたからなのです。昨年の9月の訪問後、この路地にも大きな変化があったのですが、そうしたことは割愛して、この路地に関連してふれた「島木健作」のことから話を始めたいと思います。

 梨木さんから当日多くの資料をいただいたのですが、帰宅後その資料を見ていたら【(本郷)旧六丁目町会隣組明細図】というものがありました。「隣組」の名で連想されるように戦前のもの。「昭和十八年」の記載があります。推測するに、戦時中に作成された手書きのものを、この地にお住まいだった歯科医で郷土史家の松岡博一さんが活字にして整理されたものであろうと思われます。
 何度もコピーされているのか細かな字は、つぶれにじんで読めません。が、この地図の「9番地」に間違いなく「島崎」の名があります。そして本郷通りに面した「4番地」に「島崎(古本業)」の記載があります。
 この地図に残る両「島崎」の記載、は「《本郷六丁目九番地 奥長屋》(1)」に書いた島木健作兄弟の居所と仕事場であることは間違いありません。(1)を書いたときは、原資料まで遡及確認ができてなくて「六丁目九番地」に健作がいたという情報の真偽に不安はあったのですが、当時の資料でそれが確認できてホットした思いでいます。〔正確な事実の確認ができていませんが、この資料が昭和18年当時のものだとすれば、島木健作はもう9番地にいなくて、兄の島崎八郎が、引き続きこの2か所を借りていたことになり、両所ともに「島崎」になっていることと合致します。〕

 ところが、路地の両脇に長屋が並ぶ「6丁目9番地」の島木健作が居た場所が私なりに特定されてみると、ある仮説を書いてみたくなります。“明治期、この6丁目9番地にいた三島霜川家族(霜川とその母、霜川の妹〔2人もしくは3人〕)のうち母と妹たちが住んでいたまさにその家が、のちに島木健作の住んだ家ではないのか・・・・。”
 興味のない人には煩雑すぎるので論証は細かく挙げませんが、霜川がこの地から出した書簡と、この地に霜川を訪れた斎藤弔花の回想を読むと、東西に伸びるこの路地の奥に向かって右手〔北側〕奥のつきあたり近くの家に霜川の母親と妹たちが住み、道をはさんだ真向かいの左手側〔南側〕に霜川が住んでいたことになります。そこに地図の諸情報を加味すると、「霜川母親たちの居所=島木健作の隠棲の場所」となるのです。
(明治期の建物が昭和初期まで残っていたとすれば、まったく同じ家の可能性があり、関東大震災を経ているので、再築されていたとしても同位置かほぼ数メートルの誤差ではないかと思われるのです。)

 実はこの路地に今も現役のポンプ井戸があることを紹介しましたが、【(本郷)旧六丁目町会隣組明細図】の9番地には、紹介したまさにその位置と、もう一個所別の位置(路地の中ほどやや奥の左手側〔南側〕)に井戸の印が残されています。今は消失した路地奥の井戸の横が、霜川の居所だった可能性があるのです。
 とすれば斎藤弔花が、“彼の家で手洗盥や、歯磨、楊枝はみたことはない”との記述が、当時現存した井戸と組み合わされて、皮肉にも絵を見るように活きてきます。

e0178600_23375868.jpg 最後になりましたが、「小路」「路地」と書いてきた東大赤門前に現代も長屋形式を彷彿とさせながら残存するこの路地が、「稲荷横丁」という親しい名で、呼ばれてきたという歴史を、――今もお稲荷さんにちなんだ「初午」の行事が今もこの小路でおこなわれているという驚くべき事実とともに――ご報告しておきます。
 この路地の突きあたりには、今もお稲荷さん固有の赤い鳥居を残す藤森稲荷が、ご神木と思われる大きなケヤキ――落雷によるものでしょうか上部が失われています――と共に、かつて鎮座ましましていたのです。

 そういえば、斎藤弔花が“奥に古い槐(えんじゅ)の大木が風にピューピュー鳴っていた。”と書き込んだ大木は、このご神木ケヤキのことだったのでしょうか。

 ※路地のつきあたりにあるお稲荷様の赤い鳥居と区の保存木「けやき」(右)。
昨年9月の撮影時にあった背後の家は、一昨日には無くなっていた・・・。

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by kaguragawa | 2012-06-12 23:17 | Trackback | Comments(0)

霜川の秋声宛て書簡(はがき)のこと(2)   

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 4月15日に紹介した三島霜川が徳田秋声に出した「はがき」を、その発信地《巣鴨村池袋本村氷川神社ワキ/三島霜川》から受信地《本郷区森川町一南堺裏》へと、追ってみました。といっても実際は、昨日の午前中に、住所の表示は変わっても今も場所の変わっていない徳田家【文京区本郷6-6-9】にお邪魔し、午後に豊島区に氷川神社【豊島区池袋本町3-14-1】を訪ねたのですが。
 霜川の住所は「氷川神社脇」とだけで番地がわからなのですが、なにか手がかりがあるかと思って現地へ足を運んだのですが、はっきりとしたことはやはりわかりませんでした。写真は大鳥居(一の鳥居)です。まずい写真でわかりにくいのですが、ここから参道があって――ここで有名な朝顔市が行なわれる――、拝殿の前にはもう一つ鳥居(二の鳥居)があります。参道わきに何軒か家があります。(この参道脇の左右の家々は新しいものですが、大鳥居脇のせんべい屋さんの話では、古くからの家が建て替えられたものとのこと。ちなみに、この加賀屋というせんべい屋さん石川県のご出身とのことでした。おいしそうなので買って帰りました。)
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 この徳田家の写真は、ちょうど3か月前の3月10日に撮ったもの。
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by kaguragawa | 2012-06-11 00:51 | Trackback | Comments(0)

本郷の街歩き   

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 文京区の文京シビックセンターの展望台から撮ったスカイツリー。
 昨日は、霜川の作家生活のスタートの地本郷の弓町一帯を、幸運なことに、地元の地理に詳しい「菊坂の与太郎」さんに案内していただくことができました。報告はいずれ。
 もう一つの東京の街歩きは、次項。
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by kaguragawa | 2012-06-11 00:20 | Trackback | Comments(0)

ちょっと独り言:6月3日   

 今日は小林昇先生が亡くなられて、まる二年になる。
 本を通して多くのことを教えていただいたものの、我が性の愚鈍なるがゆえに学び得たものはなんら活かせていない。
 昨年12月に刊行された『回想小林昇』(日本経済評論社/2011.12)について、――この専門書に門外漢の私はほとんどコメントできないのですが――、何か感想めいたことを書こうと思ってはいましたが、これも果たしていません。
 今、自分の課題として選んだことを突き詰めていくことで、応えていきたいと思っています。
 

  ところで、6月3日は、なぜか私が興味をもっている方が多く亡くなられています。歿年だけ記しておきます。
 横山源之助(1915.06.03)、佐藤紅緑(1949.06.03)、斎藤弔花(1950.06.03)、恩地孝四郎(1955.06.03)、石黒宗麿(1968.06.03)。不思議なことに富山に関わった方が多いようです。横山源之助、石黒宗麿(陶芸家)が富山生まれですが、佐藤紅緑も、富山日報の記者として富山にしばらく赴任していました。
  なお、大津市「近江学園」での知的障害をもった子供たちとの斎藤弔花の晩年を知りたいと思っていたら、矢部喜好の晩年の足跡も大津での湖畔伝道(膳所同胞教会、大津同胞教会)にあることがわかって、心は芭蕉の大津に飛んでいますが、いかんせん時間も先立つものもありません。

〔追記:2012.11.19〕
 上に斎藤弔花の命日を、6月3日として、メモを書きましたが、どうも私の手元のデータの間違いのようです。弔花が亡くなった県である滋賀県の『滋賀近代文学事典』を見ましたら、歿日は〔5月3日〕となっています。web上のいくつかの弔花情報も、5月3日です。私のデータの出所がもうわからなくなっているのですが、6と5を見間違えた、ないし書き間違えた可能性があります。確定したことは今ここでは書けませんが、とりあえず報告だけしておきます。
 なお、2012.11.18の記事【斎藤弔花の晩年】に、その事典を書き写してありますので、ご覧ください。
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by kaguragawa | 2012-06-03 15:03 | Trackback | Comments(0)

秋声の「フジハウス」――(2)   

 杉浦茂氏の『自伝と回想』の文章はなかなかウィットにも富んでいるし、さりげない記述のなかになかなかに含意もあるものですが、注目したいのは文中に登場する人物フジハウスの下宿人《岡邦雄》である。

 私が不二ハウスに住んでしばらくした頃、アパートのおばさんが、「あの端の部屋はご存じでしょうが、有名な哲学者、岡邦雄先生がお使いになっているのですよ」と教えてくれた。そういえば、廊下で、二、三度お見かけしたが、三十歳位の執筆助手と思われる助手を連れていた。浴衣を着て、腰にタオルを下げているのを見て、私はとっさに「上野の西郷さんに似ているなあ」と思ったのだ。 

 「アパートのおばさん」が、普通、わざわざ「哲学者」などを紹介するものだろうか。岡邦雄は、「哲学者として」そんなに知られていたのであろうか。今の世なら「タレント教授」「タレント学者」は、たくさんおいでになられることだろうが。総合雑誌に名を飾っていた学者にしたって、庶民には縁遠い存在だったことだろう。

 web上の辞典「コトバンク」に転載されている「日本人名大辞典」の岡邦雄の項を引く。

 《岡邦雄》 1890-1971 昭和時代の科学史家。
 明治23年1月15日生まれ。大正13年一高助教授となり,昭和7年共産主義活動を理由に解職される。同年戸坂潤(じゅん),三枝博音(さいぐさ-ひろと)らと唯物論研究会を設立。自然弁証法および技術論の研究で知られた。戦後鎌倉アカデミアの教授をつとめる。昭和46年5月22日死去。81歳。山形県出身。東京物理学校(現東京理大)卒。筆名は小山謙吉。著作に「自然科学史」など。


 どう考えても“アパートのおばさん”が、「有名な・・・」とわざわざ他の下宿人に告げるほどの知名度があったとは思えないのである。多少思想史のことを勉強したことのある私などには、戸坂潤、三枝博音のグループとして岡邦雄の名はなんとなく知っているが、当時、学者としてそんなに知られていたとはどうも考えられない。
 “ご存じでしょうが、有名な哲学者、岡邦雄先生”――この物言いにこそ、アパートのおばさんの巧まざる含意があると見て良さそうである。

 ヒントは、《三十歳位の執筆助手と思われる助手》にありそうである。杉浦氏が、ていねいにというかわざわざ、書き込んでいるこの助手の女性。ロシア語の翻訳家・桝本セツさんに間違いないだろう。当時の報知新聞(昭和11.10.9)にはこう書かれているという。“新しきモラル・新恋愛論を提供してから、今日の恋愛論の氾濫時代を呼んだ評檀の雄、文化学院教授岡邦雄氏(四十七才)が、その新恋愛論を実践に移し、二十年来のそうこうの妻みつ子さん(四十二才)と六人の子供の家庭と別れを告げ、才色兼備の若いアシスタント桝本節子(二十六才)との恋愛を一路結婚へ邁進、新しい恋愛に興味をもつ多くの人々に大きな問題を投げかけている。”
 たしかにアパートのおばさんが言うように「ご存じでしょうが、有名な哲学者、岡邦雄先生」だったのである。

 フジハウスにちなんだ岡邦雄さんと桝本セツさんの話は、ここで終わらざるを得ない。
 二人は、フジハウスを出て、駒込のアパートに移ったらしい。そして2年後の1938(昭13)年11月29日、二人は治安維持法違反で検挙されている。「泊・横浜事件」とならぶ戦前の思想弾圧事件「唯研事件」」(「唯物論研究会関係者治安維持法違反被告事件」)の始まりである。
 岡邦雄さんと桝本セツさんのことをお知りになりたい方は、ぜひ、澤地久枝さんの『昭和史のおんな』(文藝春秋/1980〔完本:2003〕)の「桝本セツの反逆的恋愛」を、お読みいただきたい。
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by kaguragawa | 2012-06-02 15:27 | Trackback | Comments(0)