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ここがロードスだ、跳べ!   

 
“うわーっ”、“えっ!”ということばが思わず口から出そうになった瞬間でした。

 三連休の3日目、ちょっと街歩きでもしようかと起きがけにふと思い、手元にある地図や資料だけかばんに入れて家を出ました。探そうとしたのは、富山市の旧町《古手伝町》。(現在「松川」として残る神通川旧河道の北側は、“橋北”“橋向う”とか呼ばれていました。ここに「舟橋」があったからです。旧神通川の左岸にあった「船頭町」「手伝町」「古手伝町」などが現在の何町に当るのか、はっきりしないのです。)だいたいの位置はわかっているものの、もう少し範囲を絞り込んで、その地を歩いて見よう思いたったのです。
 
 資料を読もうと当てにしていた喫茶店は休み。しかたなく近くの公園のベンチで、やおら資料に目を通し、新地名の地図ながらも昭和期(50年頃)の地図を片手に、地図と現地を照合しながら歩き出したところでした。地図とキョロキョロ見の不審者に、親切に声をかけてくださった方がいました。

 “どこか、お探しですか?”

 この年になっても人見知りが抜けない私は、いつもなら「ええ」とぼやかして逃げてしまうのですが、今日は多少虫の居所が違ったのでしょう、“もとの古手伝町は、この辺りですか”と、お尋ねしてみました。期待はまったくしてなくて、声をかけていただいたことに対する礼儀として、ありのままをお答えしたしただけだったのです。

 “そうですよ”――思わずも、しっかりとした返事がその男性から戻ってきました。が、「今・ここ」から時代を飛び越えた質問に、答えた男性にも、答えられた私にも、驚きの表情はあったはずです。そして、私は、何かに背中を押されるような気持ちで、ここがロードスだ!とばかり、もう一つお尋ねしたのです。
 
 “「●●焼き」のお店って、この辺りにあったものでしょうか?”

 突拍子もない、しかも半世紀ほど前の話に、その通りがかりの人が答えてくれるとも思ってはいませんでした、が。

 “あっ、あそこに××病院が見えるでしょう。あそこ。”

 と、後ろを振り返って指さしたその男性は、今来た道を引き返して私を案内してくれるのです。思いもよらぬ展開です。
 “えっ、ご存じなんですか!”ということばをのみ込んで、信じられない気持で、その男性の後について一歩一歩歩き始めました。それほど年配とも見えぬ男性、ゆっくりゆっくりとした歩みなのです。
 歩きながら何度“うわーっ、信じられん”と叫んだことでしょう。
(続く)


  *「古手伝町」は、“ふるてったいまち”と呼ばれていました。
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by kaguragawa | 2012-04-30 15:48 | Trackback | Comments(0)

《新島襄》《津田仙》《高田畊安》   

 豊かな詩的天分と感性を持ち、短かな人生を生き抜いた二人の生。
 《国木田独歩》は、1908(明41)年に38歳で亡くなり、独歩の死に遡る十年前〔1898(明31)年〕に生を享けた《八木重吉》は、1927年(昭2)年に29歳で生を閉じています。

 二人の人生が相交わった期間は十年。おそらくお互いをまったく意識しない十年の交差だったはずです。
 ところがこの二人の年譜を眺めていると、二人を結ぶ紐帯のような人物が浮かび上がってきます。

 独歩の佐伯時代の教え子であり、独歩を通してキリストに出逢った“冨永徳磨”です。彼は、独歩の死の十年後に今度は重吉に洗礼を授ける役割を担います。
 重吉はじかに独歩を知りませんでしたが、徳磨をとおして独歩を意識したはずです。

 そして何の因果か、独歩が亡くなった神奈川県茅ケ崎の結核療養所「南湖院」で、重吉も人生最後の時を過ごすことになります。そういう意味で二人の晩年に立ち会った療養施設「南湖院」の創設者で医師の高田畊安も、二人を結んでいる不思議な人物です。

 こうした独歩と重吉の交わりもゆっくり追っかけてみたいと思っています。

 *冨永徳磨 1875~1930
 *高田畊安 1861~1945

    *******************************************************

 ここまでは、6年前前の旧日記「めぐり会うことばたち」に書いたものです。その後、《冨永徳磨》が北陸の金沢に深く関わっていたことを驚きをもって知りました。そのご徳磨が富山の各地にも説教に足を運んでいたこともわかってきましたが調べる余裕もなく時を過ごしていますが。
 そしてもう一人の《高田畊安》についても、その師・新島襄とのつながりが少しわかってきました。とすれば、《津田仙》と《高田畊安》のつながりも気になってきます。
 そうしたことをいずれ書こうかと、予告めいたメモを書いた次第です。


 
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by kaguragawa | 2012-04-28 16:04 | Trackback | Comments(2)

竹沢哲夫さんのご冥福をお祈りします   

 弁護士の竹沢哲夫さんが亡くなられた。

 web上の訃報を(MSN産経ニュースから)紹介します。
 
 “竹沢哲夫氏(たけざわ・てつお=弁護士、元日弁連人権擁護委員長)24日、心不全のため死去、85歳。通夜は28日午後6時、葬儀・告別式は29日午前10時半、東京都練馬区春日町4の17の1、愛染院会館で。喪主は妻、貞子さん。
 日弁連で人権擁護委員長や再審法改正実行委員長を歴任。松川事件や青梅事件の弁護人を務めたほか、帝銀事件や横浜事件の再審に携わった。”

 先日紹介した泊・横浜事件をはじめ竹沢さんが関わられた権力との闘いの裁判は数多い。といってもその一つ一つに何ほどのことを知っているわけではないので、ていねいなご紹介ができないのを申し訳なく思います。『裁判が誤ったとき――請求者の側からみた再審』(1990)『戦後裁判史断章―― 一弁護士の体験から 』(2006)などの著書も読まないまま。不勉強の極みを恥かしく思います。

 竹沢さんは、富山県西砺波郡戸出町(現在高岡市)のご出身。1926(大正15)年7月25日のお生まれだから85歳(享年86)。ご冥福をお祈りします。

〔追記〕
 どの新聞記事にもふれられてないのが「小繋事件」弁護士としての竹沢さんのこと。いつ竹沢さんのことを知ったのだろうと考えていて、浮かんできたのが「小繋事件」や戒能通孝さんと竹沢さんのことでした。このことだけでも少し調べて書きたいと思うのですが。少し時間をいただきたいと思います。
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by kaguragawa | 2012-04-27 23:51 | Trackback | Comments(0)

春の諸相(4)   

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 シラン(紫蘭)の芽吹き
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by kaguragawa | 2012-04-25 23:38 | Trackback | Comments(0)

『古沢太穂句集』   

 偶然入手した『古沢太穂句集』(1955.10)。
 なんと栗林一石路(農夫)への献句が認めてある。貴重なもの。


   冬夜うたう信濃馬子うた君老いざれ  太穂

  栗林農夫様


*古沢太穂が富山県の生まれであることはあまり知られていない。
 上新川郡大久保町(現富山市)生。 1913.08.01~2000.03.02

〔追い書き〕
 太穂には「聴の詩人」の一面があるのではないかと、僭越ながら思います。が、ふるさとの瀬音は耳朶にあたたかく聴こえてくるものではなかったようである。


  カドミ田のいずれへ瀬音風の盆

  神通川音いつか瞼の枯れの音
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by kaguragawa | 2012-04-24 20:11 | Trackback | Comments(0)

『泊・横浜事件七〇年――端緒の地から あらためて問う』-1   

 ちょっと出かけて帰ってきたらば、「細川嘉六ふるさと研究会」の金澤敏子さんから『泊・横浜事件七〇年――端緒の地から あらためて問う』(2012.4/梧桐書院)が届いていました。
 泊・横浜事件についてほとんど知ることのない私には、この本を真正面から紹介しすることもできないのですが、じっくりと読ませていただきたいと思う。拾い読みのなかで見つけた次の一節を書き写して、あらためて昭和10年代後半の言論と権力の相克を思い起こしたいと思います。

 “朝日町立ふるさと美術館はこのブロンズ像〔注:細川嘉六像〕のほかに細川夫妻を描いた油彩画も所蔵している。この油彩画は評論家・内田魯庵の長男で洋画家の内田巌が描いたものである。内田は1946(昭和21)年、日本美術会を結成し初代書記長に就任、戦後のプロレタリア美術界を牽引した画家であるが、戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任を追及したことでも知られている。”

 内田巌の挿絵をともなって都新聞に連載されていた徳田秋聲の「縮図」が、内閣直属の情報局からの度々の干渉をうけ「作者病気のため十五日紙上をもって一先ず打ち切ることとなりました。」との社告もって中断されたのが、1941(昭16)年9月のこと(紹介した社告は、9月13日付。なお、中断は、「妥協すれば作品が腑抜けになる」との秋聲の判断による。)
e0178600_1745392.jpgそして、《泊・横浜事件》の端緒となった細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」(『改造』掲載)が、政府を批判するものとされ、細川が治安維持法違反の容疑で逮捕されたのは、まさにちょうどその1年後の1941(昭17)年9月14日のことでした。

〔追記〕
 今になって思い出したのですが、『細川嘉六著作集』は、先日亡くなられた小宮山量平氏の理論社から発刊されていたのでしたね。
 そして、本論とは別のことがらですが、〔年譜〕中に鈴木馬左也の名を見つけました。自分のメモとして付記しておきます。
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by kaguragawa | 2012-04-22 16:59 | Trackback | Comments(2)

春の諸相(3)   

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  つぼみのほぐれ始めたハナミズキ。この枝の不思議な放射状が好きなのです。
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by kaguragawa | 2012-04-20 23:50 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (4)   

 この項を、「三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》」の続きとして書こうか、「霜川「昔の女」をエッセイとして読む」の続きとして書こうか迷ったのですが、対象としている事項の比重の大きさから「《本郷六丁目九番地 奥長屋》」の続稿とします。
 昨年9月に《本郷六丁目九番地 奥長屋》の項を書いた後で、この路地が以前から不思議なゾーンとしていくつかのwebサイトで、紹介されているのを発見したのですが、東大赤門前にこんな!という驚きは、この路地を知った人の共通するもののようです。


 霜川は、この《本郷六丁目九番地 奥長屋》について、高橋山風宛ての書簡でこう書いていました。

 “生は本日を以て長屋居住を決行致し申し候。長屋と申しても最も劣等なる種類にこれ有り。其は鮫が橋に見られる穢屋(あいおく)にござ候。屋賃は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、都合二軒にて合計一円六十銭、いかに廉価に候わずや。一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。其れは屋根裏を見て天床を見ず、一棟都合六軒いわゆる九尺二間の屋台骨にござ候。”

 実は、なんとこの当時の霜川の路地暮らしを語る同時代人の資料が存在したのです!。思ってもいないことであり、驚きでした。語るのは斎藤弔花、出典は先日紹介した『国木田独歩と其周囲』です。

 “霜川は紅葉門下とはいうものの、外様で、徳田秋聲に兄事していた一人、偏屈人で、赤門前の裏長屋に住んでいた。本郷の通りにこんな長屋があったことは今の人は知るまい。両側に汚い二間宛の家が五六軒づつの割長屋で、その奥に古い槐(えんじゅ)の大木が風にピューピュー鳴っていた。霜川の家庭は母と妹達は向いに住まわせ、彼は南側の1軒2間を占領していた。彼の家で手洗盥や、歯磨、楊枝はみたことはない。万年床の綿がはみ出している。反古の山の中に座って夜っ徹(ぴ)て何か書いていた。鶏の啼く頃、くるりと万年床に潜り込んで寝る。年中戸締まりをしたことはない。夜遊びに更けて、帰るに家のない連中は、本郷のこの槐長屋の家に泊まり込んだ。”

 弔花の文は、山風宛て霜川の書簡と符合する点の多いことに気づきます。
 霜川が「屋賃〔家賃〕は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、(中略)一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。」と書いているように三島家は、2軒借りていました。1軒は霜川がみずから書斎として使用するための家、もう1軒は家族のためのものです。弔花は、伝聞としてではなく実見によって書いているであろうことが読み取れる文章でこう書いています。「霜川の家庭は母と妹達は向いに住まわせ、彼は南側の1軒2間を占領していた。」 
 併せて読むと、霜川自身は路地に並ぶ割長屋の南側、より上等な家賃八十五銭の家。家族(母と妹たち)は、北側、家賃七十五銭の家に分かれて住んでいた・・・(家賃は逆の可能性がありますが、霜川の書斎で来客もある方が、条件の良い物件だったと考えてよいでしょう。)。
 それにしても弔花さん、霜川が路地の南側(法真寺側)に住んでいたということまで記録に残しておいてくれました。有り難いことです。“窓の下は古墳塁々として塔婆海苔麁朶の如く立つところ、一種の臭気を含む湿気は境に充満致し居り候。”と、霜川が書いたのは、まさしくあの樋口一葉ゆかりの法真寺の墓地のことだったのです。

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おおよそ半年ほどしか住んでいなかったこの「奥屋敷」のことが、霜川と弔花の文によってパッとスポット照明がついたように鮮明に眼前に現れてきました。それにしても霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》の住まいについてこれほどのことがわかろうとは驚きの限りです。  
 
 いずれにせよ、2012年の現時点で、東大の赤門前にこんな一画がという驚きは、70年の時空を超えて弔花の“本郷の通りにこんな長屋があったことは今の人は知るまい。”という弔花のメッセージにつながっていくから、これまた驚きです。

*写真は、今もこの赤門前路地に残る現役のポンプ式井戸

 実は、うれしいことに、この《本郷六丁目九番地 奥長屋》のことについては、私にとって新知見がここ数ヶ月の間にいくつもいくつも得られたのです。
 続く報告は、この明治34年の事前と事後のことがらになります。
 (続く)
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by kaguragawa | 2012-04-19 22:57 | Trackback | Comments(0)

霜川の秋声宛て書簡(はがき)のこと(1)   

 このブログでふれないわけにはいけないので、ひと言。今朝の北日本新聞に《三島霜川から徳田秋声へ 直筆はがき発見》のタイトルで、大きく報じられていることがら。e0178600_19172556.jpg興味ある方は、記事を読んでいただくのが一番だが、県内にせよすべての人が北日本新聞を購読されているわけでもないので、近いうちに私なりにあらためて紹介したいと思います。

 なにより驚いたのが、写真の鮮明さ。はがきの細かな字がきちんと読みとれるのですからびっくりです。といっても、読みにくい字体もあるので、大正6年10月22日消印の霜川の秋聲宛て書簡の文面だけ、ここに紹介しておきます。 

   拝復 本日、上田君の方へ卅五回だけ、
   お届けして置きました。後は何れ
   にしても書きつゞける積りでございます。
   いろいろ有難うございました。尤も名古
   屋の方へ、もッとハデなものを書かうと思ッ
   てゐたのですが、とにかく只今書きさしの
   分を届けて置くことに致しました。
   餘は何れお目にかゝツて申上げます。
     両三日中に些ツとお邪魔致します

拝復
本日、上田君の方へ三十五回だけ、お届けして置きました。後は何れにしても書きつづける積りでございます。いろいろ有難うございました。
尤(もっと)も名古屋の方へ、もっとハデなものを書こうと思っていたのですが、とにかく只今書きさしの分を届けて置くことに致しました。
余は何れお目にかかって申し上げます。
  両三日中に些(ちょ)っとお邪魔致します
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by kaguragawa | 2012-04-15 15:12 | Trackback | Comments(0)

魔法のような幸福な本   


黒岩比佐子様

 北陸も落葉樹の芽生えがみられサクラの開花が報じられる時節となりました。

 ようやく今日、斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』を入手することができました。三島霜川のことを書いた同時代人の本と言うことでこの本を教えていただいてからもう5年もたちました。遅ればせながら、お礼とご報告をさせていただきます。
 比佐子様はこのように紹介くださいました: 《もし、斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』が手に入るようでしたら、その中にちょっとびっくりする話(三島霜川が風呂嫌いだったという話)が書かれています。拙著では、三島霜川の名誉のために、あえてそのことには触れませんでしたので。》
 比佐子様の『編集者 国木田独歩の時代』を読まれた方は、この斎藤弔花の本が十二分に読みこまれて巧みに活かされていることをご存じでしょう。

 怠惰な私と言えども、そのときすぐに県内図書館の蔵書検索をしたのですが、どこにもなく、県外図書館からの取り寄せの手続きをと思いながら、最近、ようやく、しかしながら思ったよりも安価で古書を入手することがわかりさっそくnetで注文した次第なのです。
 しかもそれが金沢市の古書店だったので、直接店頭で受け取り、心せくままに桜が満開の公園のベンチでさっそく本を開いたというわけです。あらためて見ると、この『国木田独歩と其周囲』、こわれそうな昭和18年の初版本です(再版されてないのかも知れませんが)。e0178600_22374938.jpg
それにしても、昭和18年というみんな目が三角になっていたような時代に、よくもまぁ独歩追憶の一見のんびりした――その実、とても真摯な――本がよく出たものと、驚くよりもなにかウキウキしてきたところに、もう一つ天恵が・・・。
 
 なんと!、霜川の項を読もうと開いたページから目に飛び込んできたのは、「井野辺東海太郎」の名前でした。それは、ここ一か月ほど、なにか手がかりが無いかと探してきた《井ノ辺東海君》のことに違いないのです。
 第一級の霜川情報に心躍らせる一方で、尋ね人にばったり出会えるとは、『国木田独歩と其周囲』の魔法のような幸福な本であることよ、とシンミリ。

 そう言えば比佐子様の集められた幸福な本たちは、神奈川近代文学館に収蔵されることなったとお聞きしました。いずれ、そうした比佐子ゆかりの地で、お会いできることを楽しみにしております。また折々に、アドバイスなどお送りいただければ幸いです。
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by kaguragawa | 2012-04-14 22:41 | Trackback | Comments(0)