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ちょっと独り言:3月29日   

 おなじみ「ブラタモリ」。“神宮外苑”

 残念ながら後半しか見ることができなかったのですが、「国立競技場」の数々のシーンには瞠目の限りでした。e0178600_23444610.jpg
(NHKならではといってしまえば、それまでですが、「国立競技場」の全面的協力には感謝です。)

 なかでも、東京オリンピックのマラソン表彰台に立つアベベ、ヒートレイ、円谷の“後姿”の「一枚の写真」には熱い思いが思いがよみがえりました。

(この3人の後姿の写真、というか正確には、この位置で撮られた彼らの後ろを向き背中の写真が・・・)
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by kaguragawa | 2012-03-29 23:39 | Trackback | Comments(0)

あさ   

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 霜におおわれたヒメオドリコソウ。
 朝、駅へ向かう道筋で撮った急ぎ撮りのはずかしい写真ですが、自分の記録です。

 めざとい人はオオイヌノフグリの葉を右の方に見つけられるでしょう。まだ花は咲かないのです。
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by kaguragawa | 2012-03-27 23:21 | Trackback | Comments(0)

“犀星忌”   

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 きょう、犀星ゆかりの雨宝院で「犀星忌」の催しがありました。
 今年の3月26日は、室生犀星歿後50年にあたる。
 ちょっと緊張してお堂の玄関をあけたのですが、高山住職の“お元気でしたか、遠いところからようこそ”と声をかけていただいて、ほっとしました。

 岡野弘彦さんの含蓄ある講演「室生犀星さんの家」を拝聴。在りし日の折口信夫と室生犀星。
 ひとまず話が終わってからの余談?、柳田国男の話には身の凍るような思いをしました。(私は柳田のことをずっと誤解していたのではなかろうか。)

 いつも「犀星忌」の頃は「あんず」の花咲く頃だが、今年は雨宝院のあんずもまだ。
 富山も金沢も、朝の雪がうっすりと残った。春のおとずれを心待ちにするのみ。
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by kaguragawa | 2012-03-25 18:38 | Trackback | Comments(2)

霜川とバラ――(2)   

 どだい霜川にはふさわしくなかった高輪の大きな借家は当然のごとく大きな負担を生み、多くの借金取りの目をかいくぐっての最悪の年末を迎えることになり、一年もせずに、霜川は妹が住んでいた動坂に舞い戻ることになります。霜川は、今度は妹(しげのさんかあいさんか不明)の家の居候として、玄関先の二畳部屋の暮らしとなります。高輪で同居していた水守は、自らの恩人でもあり霜川の親友でもあった斎藤弔花をたより何とか住む家を見つけます。 
 その後、霜川は妹の家を出、同じ動坂の一軒家に移り、さらに動坂の大きな家に移ります。これが動坂4番目の家になるので、〔動坂D〕とすれば、この動坂Dの家の居候になるのが、石井忠純でした。今では名前は忘れられていますが、日本への西洋舞踊の導入を語る時には欠かせない人物ですし、そして私には浅草オペラの創業当時のメンバーとしてもこれから調べたいと思っている「石井漠」です。水守によればこうです。

 “霜川がさらに近くの新居に移ったのは、その翌年の四十三年になってからであった。二階建の五六室もある家で、古いだけで、二本榎に比べても劣らなかった。この家へ転がり込んで来たのが石井忠純であった。いうまでもなく後の漠君である。いや、こうなると霜川の浪宅からも先には三木露風があり、相当に傑物が出たことになる。”

 話がバラから少しそれてしまいました。実は、数日前、霜川の「昔の女」という明治41年に書かれた作品を読み返していて、数年前に読んだ折には気付かなかった個所を見つけて、思わずえっと叫んでしまったのです。ここにも――作中の場所を、論証を省いて、霜川の居所に置き換えるとすれば、そこはDに移る前の「動坂C」の家に間違いはないのですが――、例の!バラが登場しているのです。

 “湿気のある庭には、秋の日光が零(こぼ)れて、しっとりと閃いていた。そこには青い草が短く伸びて、肥料もやらずに放ったらかしてあるバラと宮城野萩の鉢植えとが七八つ並んで、バラには、小さい花が二三輪淋しく咲いていた。隅の方には、葉の細い柿の樹が一本、くの字形(なり)にひよろりとしている。実(な)らぬ柿の樹だ。”(原文では、バラは漢字〔薔薇〕)

 水守亀之助さんが、霜川の死後その回想記にていねいに書き込んでくれていたそのバラは、なんと霜川自身の手によっても作品に書き込まれていたのです。その後、おそらくこの〔動坂C〕バラたちは石井漠が居候となった「動坂D」にも移ったことと思うのですが、どうでしょう。
 あっ、そうそう、霜川の庭の鉢植えのバラは、「秋咲き」だったようです。咲いたバラが登場する「昔の女」は秋の物語ですから・・・。

〔追記〕
 バラが霜川の好きな花だったかどうかわかりませんが、そしてこれを証拠だてる記述はまだ見つけていませんが、動坂のバラがGPSのような役割をしてくれて霜川の居場所を追いかける助っ人になってくれたのは、ありがたいことでした。いずれにせよ、バラだけでなく霜川その人の居場所を時代の中に追いかける役割は、水守から現代の私の方へ順が回っているようです。



 
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by kaguragawa | 2012-03-25 07:13 | Trackback | Comments(0)

霜川とバラ――(1)   

 私のように野の花を街角に見るのが好きな人間には、ほとんど縁のないのが園芸種の「バラ」です。そうなのですが、なぜか小説やエッセイなどを読んでいて目のとまるのもバラです。これは、かつて宮沢賢治の愛したバラのことを多少調べたことで、明治以降のバラ栽培の歴史を知りバラに寄せる人々の思いを少しは理解できるようになったからかも知れません。

 水守亀之助さんの「三島霜川を語る」を読んだとき印象に残ったのも、そこに2度登場するバラでした。奇特にももし、同書を読まれた方があるとしても、“えっ、バラなんてあのエッセイに登場したっけ?”といわれることでしょう。それくらい、さりげなくバラが出てくるのです。

 一度目は、霜川と居候の三木露風がもぐりこんでいた上駒込の木戸侯爵別邸から近くの駒込動坂町に引っ越した、その動坂の家のことを書いた個所に、登場します。

e0178600_22583372.jpg “木戸侯邸内の家で見かけた大ぶりの一閑張と瀬戸の大きな火鉢と、空気ランプは相変わらずあったが、その他は古雑誌が主で、何ら目ぼしいものが見られなかった。縁先に五六鉢のバラが並んでいたのが、せめてもの風情だったといえよう。”

 「一閑張」の机や「空気ランプ」については説明が必要でしょうが略します。
 次は、この動坂の家(これは新築の借家だったと水守は記していますが)から横浜の女学校の教師であった女性と結婚するという話がまとまって?、高輪の二本榎のこれも新築の大きな家に引越しするくだりです。

 “二本榎西町の家というのは明治学院の先を左に入ったところで新築だった。貸家普請にすぎないが、二階が二室で下は五室もあるのだから、その頃の文士の住居としては堂々たるものだった。霜川にしても私にしても引っ越しは荷車一台ですむのだから雑作はない。霜川の荷物のなかに風情を添えていたのは、やはり数鉢のバラ位のものだった。しかも、それも粗末な土鉢でフチの欠けたようなやつばかりだった。”
 
 もし明治期のバラにくわしい方がおられれば、“あっ、動坂ね!”とおっしゃるかも知れません。そうです、動坂には「ばら新」や「美香園」をはじめとする多くのバラ園芸の専門店があったのです。小説やエッセイにも動坂のバラは登場することがあるのでご存じの方も多いかも知れません。貧窮な三島宅にふさわしいとは言えないバラは、その地縁によって、おそらく霜川のぶら歩きの産物として無造作に庭先に買われた時の鉢のままあったのです。
  それにしても何度も繰り返された引っ越しにも、鉢植えのバラはうち捨てられることもなく、あるじとともに運命をともにしたようなのも不思議と言えば不思議です。

〔追記〕
 ここで言い添えておきたいのは、水守さんが描いているバラは花のついたものだろうということです。水守さんを私と同様の朴念仁にしてしまうつもりはありませんが、花のない枝だけのバラに目をつけてあえて“風情”の言葉を呈することはないと思われるのです。
 はたして、これが春咲きのバラだったのか、秋咲きのばらだったのか、気になるところです。それがわかれば、この動坂から高輪の引越しの時期が、明治40年の春頃だったのか、秋頃だったのかもわかるのです。


〔追記2;3/26〕
 バラの写真は、nenemuさんのブログ「イーハトーブ・ガーデン」からお借りした“賢治のバラ〔グルース・アン・テプリッツ〕”
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by kaguragawa | 2012-03-24 16:55 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―3》   

 小野浩と宮沢賢治の続稿を書かないままになっているのですが、水守亀之助の『わが文壇紀行』の「鈴木三重吉の凝り性」の項にも、小野浩の名前を見つけたので、忘れないうちにメモしておきます。

 「新小説」にいた小野浩は、後に「赤い鳥」の編集に携わったが、彼の話によると「近頃、鈴木さんはどうも悪酔いをして乱暴になって困る。この間も障子をぶちこわしたりしてね。」と、いっていたことがある。神経が鋭くて弱い芸術肌の人が事業などをすると荒みやすいもので、酒にまぎらすだけのうちはいいが、とかく悪酔いして乱れる癖ができるものなのだ。鈴木さんのは他にいろいろの悩みや心労があったせいと思われるが、そこまで立ち入って考えるまでもあるまい。
 小野浩も若死にしてしまった。早大文科出身で、戸塚の下宿屋の娘さんと早くから結婚していたが、若いくせに晩酌を愉しむという愛酒家であった。

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by kaguragawa | 2012-03-22 22:56 | Trackback | Comments(0)

明日はまた雪が舞うというが・・・   

 春分。
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 わずかに見つけたありふれた春のきざし。
 花のあいさつに、なにかくすくすっと笑いたくなるような気持ちになります。

 春の七草の一つ、はこべ〔コハコベ/Stellaria media〕。
 この写真ではよく見えないが、学名の星につながる10枚に見える花びらは5弁の花びらが2裂したもの。
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by kaguragawa | 2012-03-20 20:03 | 樹と花/植物誌 | Trackback | Comments(2)

県のカドミウム汚染田復元事業、終了   

 神通川流域に広がったカドミウム汚染田の復元事業完工の式典が、きのう、富山市婦中町砂子田――ここも汚染地――「婦中ふれあい館」でおこなわれたことが、県内のどの新聞にも大きく取り上げられている。

 三井金属の神岡鉱業所からたれ流されたカドミウムによって汚染された農地の土を客土の手法で入れ替える復元工事は、富山県が汚染田に指定した約1500ヘクタールを対象に県営の「公害防除特別土地改良事業」として1979年度から始められたもの。30年以上にわたる営々としたこの事業には、頭が下がる。が、今年度で終了するこの事業の完工を祝する式典を報じる記事には、私の気持ちにそぐわないものが多い。
 加害企業が存在したという当然の事実が、控えめにしかふれられてないことは共通で、「復元」の具体的意味(食品衛生法のカドミウム基準値など)がほとんど明記されていないだけでなく、その手法や費用負担についての記述も明晰さを書いている。農地として復元されたのが汚染農地の約6割で、あとは農地以外に転用されていることもふれられていないなど、報道の姿勢には疑問が残る。
 こうした基本情報の伝達を欠如させたまま、放射能による土壌汚染とその除染にまで言及するのはいかがなものかとも思う。

 なお、来月4月の29日には、「県立イタイイタイ病資料館」(富山市友杉151/富山県国際健康プラザ内)が開館する。


 余談ながら、足尾鉱毒事件のレポートの一つ110年前の松本英子の「鉱毒地の惨状」(明治35〔1902〕.3/教文館)――原型は「毎日新聞」に1901.11.22から1902.3.23まで連載されたもの――が、“女性のみた近代”シリーズの一環として復刻されている(2000.6/ゆまに書房)ことを最近知りました。時間をつくって、読みたい。
 
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by kaguragawa | 2012-03-18 13:13 | Trackback(1) | Comments(0)

関泰祐さんのエッセイ集『秋窓譜』   

 古書店で、ドイツ文学者・関泰祐さんのエッセイ集『秋窓譜』(1977.5)をみつけ、ためらうほどの金額でもなかったので迷うことなく、落手しました。戦前の訳ですが岩波文庫のシュトルム『みずうみ』やハイゼ『片意地娘』、戦後のメーリケ『旅の日のモーツァルト』(河出文庫)など、なつかしく思い出される方もおありではないでしょうか。(今調べたら、『みずうみ』など現役本のようですね。)

 ふと目についた「山茶花(さざんか)」という文章を書き写しておきます。

 “白、紅、淡紅、絞りなど、山茶花の色もとりどりであるが、わが家の山茶花は、紅と淡紅とである。一般に冬の花は、他の季節の花とはちがって、内部からの澄んだ輝きのようなものがあるが、山茶花はその代表的なものだろう。
 今まで澄明に華やいでいた花が、ふと気がつくと、風もないのに散ったりしている――さりげないふうに。ぼくはそのそばに立って、やはりさりげないふうにそれを見ている――冬麗の或る日の庭に。”



 先週土曜の三島霜川を訪ねる東京街歩き(駒込・池袋)は、近日中に。
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by kaguragawa | 2012-03-12 23:47 | Trackback | Comments(0)

「ひとつ岩」を読みやすいテキストで   

 三島霜川の作品「ひとつ岩」を、仮名遣いや漢字の字体などをあらため読みやすいテキストにして、このブログに掲載しよういう計画は、私なりの気持ちの一つの区切りであった3月11日までには、ほとんど実行することができませんでした。今は、言い訳もなにも無用なので、引き続き時間をかけてでも少しずつ実行していくことだけを報告しておきます。

 私が霜川の「ひとつ岩」を意識するようになったのはいつからなのか。記憶ははっきりしません。富山県内で『霜川選集』が刊行された時点(1979~80)でもこの作品にはまったくふれられなかったし、富山大学の佐々木浩さんが霜川の作品群を創作順に取りあげた時点でも、この小説の全10節の形は知られておらず言及も不十分なものにとどまっていたのです。私が、この注目されざる霜川第一作の「ひとつ岩」が『福島県文学全集 第1期/小説編 第1巻 明治編』(2001.10/郷土出版社)に収録されていることを知ったのは、かなり以前のことになります。
 しかし、“なぜ、霜川の小説が『福島県文学全集』に?”という疑問に踏み込もうにも『福島県文学全集』が県内のどこの図書館にもなく、数年が過ぎてしまったのです。

 分売していなかったこの『福島県文学全集』の《全巻》を買おう!と、怠惰な私に思い定めさせるには、残念ながら津波の映像の無惨さしかなかったのです。(高岡市の篤志家の麻生茂夫氏がこの作品全10節の印影復刻をされているのを知ったのも、同じ頃でした。)

 霜川が自らがこの処女作を生涯にわたって愛惜していたこと後に知ったのですが、それほどにこの「ひとつ岩」は力のこもった心をうつ作品だったのです。

 「ひとつ岩」の読みやすいテキスト化、しばらくお時間をください。
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by kaguragawa | 2012-03-11 23:43 | Trackback | Comments(0)