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ちょっと独り言:2月26日   

 もう2月も終わりである。大雪で始まった今月でしたが、ここ数日で、――きのう、今日、少し雪が舞いましたが――黒い大地がかなり顔を出しました。

 ここ一週間ほど、必要に迫られて?、三木露風、前田夕暮、内藤鋠策、内海信之などの評伝や研究書に目を通しましたが、そうした研究書にみなぎっている真実を追う精神の強靭さに打たれ続けました。
 また小泉セツの命日にちなんで読んだ『ヘルンとセツの玉手箱――小泉八雲とその妻の物語』は、児童文学作品ながら、深く心を動かされました。なかでもハーンと松江、そしてセツを結びつけることに尽力した西田千太郎については、あらためて惹きつけられるものを覚えました。

 一年前の2月22日、ニュージーランドで夢なかばで地震に重なる人災でいのちを失った我が郷土の人々のご冥福をお祈りします。
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by kaguragawa | 2012-02-26 19:29 | Trackback | Comments(0)

霜川の露風宛て“はがき”〔大正7年2月25日〕-1   

 三島霜川の遺品のうち、直筆で書かれたもので現物が確認されているのは、三木露風宛てのはがき一枚という状況です。
 ・・・と言えば、俳句稿があるのではないか、岡本綺堂宛ての書状や前田夕暮・高田浩雲(先日この日記に登場)連名に宛てた書状があるではないか、とかいくつか挙げられる方がおありかもしれませんが、現在存在が確認されているものは上記のはがきが唯一のものなのです。

 そのはがきの日付は、消印によれば、大正7(1918)年2月25。ちょうど94年前の、今日もの。

 「東京市外巣鴨村池袋本村 三木露風様  大津にて  三島」となっていて、――手元の不鮮明なコピーからは本文がよく読みとれないのですが――、

 “●●●見ました。島氏に明日逢ふ積(り)です と見えます。

 「大津」は、滋賀県の大津だろうと思うのですが、旅先から露風に宛てたはがきに登場する「島氏」が誰なのか。手がかりがなかったのですが、露風に関わる人物ではないかと、先日ようやく安部宙之介さんの『三木露風研究』が入手できて、ページを繰っていましたら、そこに島文次郎という名前を見つけることができたのです。

 そして奇しくも25日の今日、三木露風の研究家の福嶋朝治さんからも“島文次郎かと思います。露風は大正2年秋に、京都で上田敏や島文次郎に会っています。”というご教示をいただいたのです。
 安部さんの本で、島文次郎の名を見たときは、すぐ思い浮かばなかったのですが、“京都の島文次郎”で、思い出しました。

 1927(明30)年に開学した京都帝国大学の附属図書館(開館1899)の初代館長・島文次郎の名と、1898(明31)年に設立された京都府立図書館のこれも有名な館長・湯浅吉郎館長の、京都の二人の図書館長の名を、ある機会に目にして覚えていたのです。
 英文学者で、イギリス戯曲に造詣が深く、『演劇十講』の著作もある島に、霜川は「演芸画報」の関係でか、露風の紹介を得て会おうとしていたのではないでしょうか。

 島文次郎、野口寧斎(文次郎の兄)、湯浅吉郎(半月)のことについては、後日書く機会を持ちたいものだと・・・。

〔追記〕
 不分明だったはがきの文面については、3月8日の《霜川の露風宛て“はがき”〔大正7年2月25日〕-2》を、ご参照ください。
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by kaguragawa | 2012-02-25 23:59 | Trackback | Comments(0)

もう一つの2月18日   

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 先日、小泉セツさん〔慶応4年2月4日(1868.02.26)~1932.02.18〕のことを書いたせいでもないでしょうが、ブックオフで岩波ジュニア選書の『ラフカディオ・ハーン――日本のこころを描く』(河島弘美/2002.7)を手に入れることができました(ワンコインで)。

 ハーンのことは言うまでもないのですが、夫人セツさんのこと、そこに関わる法学者・梅謙次郎のことを知りたくてうずうずしているのです。

*写真は、金沢市の主計町から下新町への雪の「あかり坂」(五木寛之さんの命名)
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by kaguragawa | 2012-02-19 17:56 | Trackback | Comments(0)

《1枚の写真》―2   

 一週間前に予告した《1枚の写真》の続稿、やはり!、まとめあげるのは無理でした。

 が、いくつか新たな発見もありました。というのが、前回紹介したのと同じ写真が、ある本に紹介されていることをある方からご教示いただいたことです。

 私が先日紹介した写真は、後列左から3人目の高田浩雲の持っていたもの。ご紹介いただいた今日の記事に掲載した写真は、前列左から3人目の三木露風の持っていたもの、と思われます。今日のものは、前回不鮮明だった、後列右側の3名の顔が少しは読みとれます。
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〔追記:2/19〕 どうしても、やはり2月18日のこの時期に、ひと言でもこの写真にふれたくて、一日遅れで、追記することにしました。 
 この写真が撮られたのは、先週も紹介したように、1906(明39)年2月18日。「聚雲」発行5周年記念に集まったメンバーが、近くの「江木写真館」〔神田区神田淡路町二丁目四番地〕におもむいて写したもののようです。

 「聚雲」は、高田浩雲が上京前、富山にいた時代(1901年)に仲間の回覧雑誌としてつくったものですが、浩雲が上京し、前田夕暮と下宿を同じくするうちに、夕暮の車前草社のメンバーをも統合して、文芸雑誌として再スタートさせようと話し合っていた頃の写真です。それだけに意気が上がっていたのですが、前田夕暮、正富汪洋、若山牧水、有本放水、三木露風といった車前草社メンバーの気持ちの篤さが、浩雲の詩にかける思いと一体化した時期だったと言ってよいのではないかと思います。

 文芸雑誌化が図られた「聚雲」の運命、その運動の中心にあった高田浩雲、前田夕暮のその後については、あらためて。(ここに、三島霜川も不思議な関わりを持つことになるのです。)

 それにしても、高田浩雲の名は、今夏に県立の文学館ができようとしているこの富山の地においても忘れられています。私個人としては、文学館は、「万葉集」よりも、こうした富山自生の作家にこそ熱い思いを注いでほしい、との思いがいっぱいなのですが・・・。
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by kaguragawa | 2012-02-18 20:07 | Trackback | Comments(0)

「藤澤清造忌 特別展示」   

 昨日書いた徳田秋聲記念館の「藤澤清造忌 特別展示」。私もうかつでしたが、この展示の最終日である今日2月18日は、芝の増上寺で清造の告別式がおこなわれた日だったのです。つまりこの特別展示は、80年前の清造の命日から告別式までのちょうど三週間に合わせておこなわれた清造追憶の、小さな、私にとっては大きな、セレモニーだったわけです。

 この「藤澤清造忌 特別展示」を訪れ、小さなコーナーのさりげない展示から受けた感銘は深いものでした。その感銘がどこからくるものなのか、わからないままなのですが(それはなによりも犀星の秋声宛て書簡によるところが大きいとは思うのですが)、点数は少ないもののそこに並べられた資料が多くのことを語りだしてくれるそんな得難い展示だったのです。
 また、以前の「藤沢清造」記事(2011.2.1)にも書いた清造の「生誕地表記」についての疑問は、そこに展示されていた戸籍簿の写しからもいっそう強いものになりました。展示解説には、今までの清造年譜と同様に「鹿島郡藤橋村ハ部三十七番地」と書かれているにもかかわらずです。

 それにしても藤沢清造の“名刺”、よく残っていたものです。興味深いのは、「本郷区駒込動坂町九五」という名刺記載の住所。これはいつごろのものなのでしょうか。清造が一時期、職場としていた「演芸画報社」は、正確なところは私には不明ながらこれも一時期「動坂百十番地」にあったのです。

 冬の金沢らしい冷えの厳しい日でしたが、清造、秋声、犀星、霜川といった北陸人の交わりが、天空で雪が舞うように思えたそんな一日でした。
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           氷雪を浮かべる今日の浅野川と浅野川大橋(金沢市)

〔追記〕
 秋聲記念館の後に寄った石川県立図書館から持って帰った「レファレンス通信No.11」にも“藤澤清造”が紹介されていました。やはりここにも「明治22年、鹿島郡藤橋村(現七尾市馬出町)生まれ。」とあります。
 いたるところ、「藤橋村」なのですが、もう一度、糺してみたいのですが、明治22年当時、「藤橋村」は存在していたのでしょうか?。
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by kaguragawa | 2012-02-18 17:41 | Trackback | Comments(0)

富山県東部に「大雪警報」   

 同じ富山県の平野部であっても、東部と西部とでは、極端に気象条件が異なることがある。今日も、そんな日であった

 “週末にまた大雪!”と数日前から予測されていたのだが、今朝目覚めたら気抜けするくらい雪はなく、車などにうっすりと白雪が見られる程度!。「あ~良かった。」と家を出て、JRで富山に近づくにつれ車窓から見えてきたのは、驚くべきことに、こんもりと積もった新雪でした。
 高岡近くは昨晩からの降雪量はゼロ。が、富山市内は朝方から降りだした雪が見る見る間に積もっていき、私の勤務先付近では優に20センチは越えてていました。そしてその雪は午前中から昼過ぎにかけて降り続き、午後1時くらいまでに40センチは積もったでしょうか。
 ところが、帰って来て高岡市近くの駅に降り立ってみたところ、せいぜい10センチも積っていない程度。

 明朝は氷点下4度まで冷え込むという。

 明日は、八雲〔ラフカディオ・ハーン〕夫人小泉セツさんの歿後80年の年になります。そういえば、セツさんの亡くなられたこの1932年のこの時期に、藤沢清造(1月)と梶井基次郎(3月)が亡くなっている。

 そうそう、徳田秋聲記念館での藤沢清造歿後80年にちなんだ藤沢清造忌特別展示は明日まででした。
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by kaguragawa | 2012-02-17 23:59 | Trackback | Comments(0)

ちょっと独り言:2月12日   

 ・昨晩のNHKスペシャル《「魚の町は守れるか」密着・信用金庫200日》、久しぶりに引き込まれるドキュメントを見た思い。被災地における中小商工業者と金融機関・信用金庫の寄り添いながらも苦渋にみちた格闘。

e0178600_180151.jpg  ・三島霜川『牢獄』を読む。彼にこうした凄惨な、が確かに霜川ならではの、家族小説があったのだ。霜川の処女作『埋れ井戸』の末尾に印象的にみられた「家督相続」をめぐる法律観が、『転変』同様、ここにも見られることも記憶しておかねばならない。

 ・このexciteブログに、「レポート」という管理者用のコーナーがある。いつからか、このコーナーが単なる日毎の訪問者数の提示から、どの記事に訪問者が訪れたのか、どういう言葉を検索してこのブログにたどりついたのかが、日毎に示されるようになった。
 ここ数日は、1月29日が命日の「藤沢清造」を検索して我がブログに来られた方が多かったようだが、「裏干支」「吉田悦蔵」「森近運平」など、“えっ”と思うような言葉を検索してここにこられた方もおられるのだ。驚いたが、そういえば、私自身とんでもない言葉をクロスさせていつも検索をしているのだからお互い様と、思うが、いずれにせよ、有り難いことである。

〔追記〕
 上の写真は、霜川の「牢獄」が掲載された雑誌『文芸界』(明治38年9月1日号/金港堂書籍)の写真ですが、原本を写真撮りしたものでもなく、私が自分でコピーしたものの写真でもありません。私が読んだある印影本を撮ったものです。 そうしたことの詳細はあらためて書く機会があると思いますが、ちょっと記事のアクセントに、ここに掲載してみたのですが、驚いたことに、「帝国図書館蔵」の蔵書印が、くっきりと浮かび上がっています。私の手元にある本のそれはかすれてうまく読めないのに・・・です。
 なお、35年ほど前に霜川作品のコピーを取りに東京まで出向いたであろうと思われる“Tさん”も、この世におられないこと、昨年末わかりました。
 私の霜川の追いかけが、多くの先人の跡を追っているだけのものだということ、最近、深い感謝の思いと共に感じています。

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by kaguragawa | 2012-02-12 17:43 | Trackback | Comments(0)

《一枚の写真》―1   

 よく見えないところもありますが、ご存じの方がおられるでしょうか。

 この写真をめぐって、少しずつ、――充分にいろんなことが整理できていないので、行きつ戻りつしながらになると思いますが――思いつくまま書いていきたいと思っています。

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〔追記〕
この写真は、1906(明39)年2月18日に、あることの記念に、――写真史に興味のおありの方ならご存知の――「江木写真館」〔神田区神田淡路町二丁目四番地〕で、撮られたものです。

この写真が撮られた該当日〔2月18日〕に、少しきちんとしたことを報告できればと思っていますが・・・。
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by kaguragawa | 2012-02-10 22:09 | Trackback | Comments(0)

ちょっと報告:馬場正治のこと、木俣修のこと   

 1月4日記事の「東京の馬場邸の主の名が・・・」に登場するその主“馬場正治氏”の生年がわかりました。

 『馬場海運史』(1958.3/編集兼発行:馬場汽船株式会社/編纂協力:佐々木周一)によると、正治氏の生誕は〔1906(明治39)年4月21日〕。
 家督相続は1919(大正8)年、13歳。父・馬場家9代目道久の急逝(1919.5.15)によるもの。1923(大12)年の旧制富山高等学校の創設は正治の親権者としての母〔道久未亡人〕はるの寄付によるもの。もちろん、ここに「ヘルン文庫」の開設も伴う。

 余談ながらちょっと驚いたのは、旧制富山高等学校の創設に若年とはいえ馬場家の当主として関わった馬場正治が生まれたその同じ年に、後にこの高等学校に教諭として赴任することになる木俣修〔歌人:1906.07.28~1983.04.04)が、生まれていること。


〔追記〕
 木俣修の富山時代の居宅は、現在の富山市永楽町(当時:上新川郡奥田村永楽町)。白秋の長男で富山高等学校に学んだ北原隆太郎氏の『父・白秋の周辺』によれば、“そのお宅は富山薬専と無人駅「薬専前」との中間で、背戸には小川が流れ、葦が茂っていた。”とのこと。
 旧制富山高等学校や富山薬学専門学校(富山薬専)〔ともに現:富山大学の母胎〕についても、いずれ。。。
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by kaguragawa | 2012-02-06 23:26 | Trackback | Comments(0)

ちょっと独り言   

 小野浩のこと、霜川と雨情のこと、土岐僙のこと、音楽家ルソーのことなどなど続稿を書かねばと、プレッシャー?を感じていますが、――なお「霜川と雨情・・・」は、ちょっと補訂――少し猶予をお願いしたいと思います。 
 そうそう、それよりも、霜川の新報告もあるのですが。

 それにしても、毎早朝の“雪かき〔除雪〕”は、なかなかねぇ・・・。
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by kaguragawa | 2012-02-05 18:26 | Trackback | Comments(0)