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霜川と雨情の出逢いをさぐる(1)   

 三島霜川が晩年、児童文学雑誌『金の星』に寄稿し、金の星社から『日本精神作興・少年歴史文庫』『日本歴史実伝物語叢書』など少年少女向けの一連の歴史物を出すようになったきっかけは、野口雨情のあっせんによるというのですが、そもそも霜川と雨情がいつ知り合い、どのような関係があったものか、語ってくれる文献はほとんどないようです。
 『定本野口雨情』(未來社)を全巻ていねいに紐解くと言う当然すべき作業をまだしてないのですが、野口雨情の命日《1月27日》にちなんで(数日遅れてしまいましたが)、霜川と雨情をめぐるおもしろいエピソードを紹介しておきたいと思います。
 雨情を語る今まで紹介されていない資料としてとても貴重かと思いますが、これをどう読むかは、霜川研究にとっても雨情研究にとっても、おもしろい論点を含んでいると思います。

 語るのは水守亀之助です。(「三島霜川を語る(二)」/『高志人』18巻2号〔1953.1〕より)

  “霜川のところへは若い人がよく出入りしていた。男世帯ではあり、気のおけないせいもあるが夫子〔=霜川〕自身が青年が好きであったからでもあろう。(中略)
 霜川のところでは初めて野口雨情にも会った。この人は多分三木露風などの関係から来ていたものと思われる。白皙瀟洒たる青年詩人であった。ある夜、霜川が声をひそめていうには「君にだけいうが、誰にもしゃべっちゃいけないよ」と念を押して、「雨情は今同志と共に山県有朋の暗殺を計画しているんだ。新聞記者となって写真機をかついで面会を遂げる。そして焦点を合わせにかかる時、機械の中にかくしたピストルを発射するというんだ。何しろ奴さんは水戸っぽだからね。」といった。どの辺までが真実か定かでないが、私はその時のことをハッキリと覚えている。
 何事も起こらずにすんだことは、老公が長寿を全うしたことでわかっている。暗殺の動機目的などについては霜川は何も語らなかった。その時分の写真機と言うのは、三脚を立て黒いホロのような布きれを被ってレンズをのぞいたりする旧式のやつだから、うまい考えだったかも知れぬ。”


 今の若い人にはわかりにくいかも知れませんが、写真師に扮するこの暗殺法、なかなか実現性の高いものだと思われますが、どうでしょうか。ただし、雨情の考案なのかどうかは疑問ですし、そもそも暗殺という凄惨な社会変革?法が雨情のほんとに目指したものなのか・・・。ちなみに、この「黒いホロ」、冠布というのだそうです。

 私は、霜川と雨情の出逢いは、このエピソードの時期であり、1907(明40)年の春ではないかと考えていますが〔2/3追記:この点、訂正が必要と考えるに到りました。後日、再論〕、その論拠もふくめ、今までまったく語られてこなかった霜川と雨情の交流を少しでも跡付けることができればと思っています。判明したこと、少しずつ報告したいと思っています。
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by kaguragawa | 2012-01-29 17:57 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―2》   

 1922(大11)年8月の鈴木三重吉の清水良雄宛ての書簡がある。

 “暑いですね。十月号は一人でおやりになるお意気込みの由、小野君から伝承。これは大変でしょう。昨日、木内君を休養のため小田原にやりました。二三泊の上、子供たちといっしょに、全部引き上げて来る筈です。小僧のやつが、昨日、日本橋で自転車から突き落とされ怪我をして帰ってきました。木内は出たアトだし、家事の方一人でよわりました。今夜から小野先生が宿直してくれます。今日午飯は、私が茄子を煮、冷や奴豆腐を仕入れ、つけものを刻み、小野大将がメシを炊きました。この暑さでも、日曜以外は毎日乗馬です。もう、いよいよ外乗りして、歩き廻れることになりました。明朝は小野大人がワガハイの乗馬を実見に来るそうです。” 〔大正11年8月11日付け〕

 清水良雄は、鈴木三重吉が創刊した児童文学の雑誌『赤い鳥』の美術に携わった洋画家で、彼の表紙画は目にされた方も多いと思います。文中の「十月号」はもちろん『赤い鳥』の大正11年10月号のことです。そして、ここに「小野君」「小野先生」「小野大将」「小野大人(うし)」として四様に名前が挙がっているのは、誰あろう、《小野浩》氏です。
 詳細は、ここでは略しますが、小野は『赤い鳥』の中心編集スタッフだったのです。上の三重吉の書簡は「鈴木三重吉全集」からのものですが、小野の名前は全集に収められているものだけでも清水良雄宛ての書簡を中心に多くにわたっています。読めば小野が三重吉の信頼を得て、清水良雄と三重吉のパイプ役になっていることが歴然と見えてきます。

 では、小野はいつから『赤い鳥』の編集に関係するようになったのでしょうか。これについても三重吉の清水宛ての書簡が語っています。1919(大8)年のものです。

 “おはがき拝受。五月号口絵は、諸方面で大好評です。子供も喜ぶそうです(中略)七月号は第三巻第一号とし、多少、排列、装飾をかえて記念号にしたいものです。その御相談に、そのうち伺います。小野浩君、よく働き、存外、タスカリます。ともかく、それで生活する人ですから、仕事も命じやすく、大将も、どんどん片づけ、ちょっともオックーがりません。来月号から、一任するつもりです。(後略)” 〔大正8年4月14日付け〕

 正確な日付は分かりませんが、1919年の春から三重吉のもとで『赤い鳥』の手伝いを始めたこと、しかも仕事ぶりが高く評価されていることがわかります。e0178600_15175565.jpg 
 その後、“編集になれた小野君が創作をやるので円満退社”〔1921.3.1付け小宮豊隆宛て書簡〕ということがあったようですが、編集がうまくまわらず、結局、1年後に小野に復帰してもらうという経緯を経ます。最初に紹介した清水宛ての書簡は、復帰後の小野が鈴木家の家事にまで携わっている状況が書かれているわけです。(引き続き、小野は1923年8月の三重吉書簡にも登場します。)

 ところが、これほどに『赤い鳥』の編集の中心にいた小野浩が、清六氏の回想によれば、兄・賢治の童話原稿を持って訪ねたという『コドモノクニ』の発行所である「東京社」にいたことになっています(前回紹介の宮沢清六「兄のトランク」参照)。
 ――が、どう考えても、1932年当時、小野浩が三重吉の片腕として『赤い鳥』の編集をしながら、ライバル社の東京社にも在籍したとは思えないのです。


 ・・・この事態をどのように考えたらよいのでしょうか。賢治研究の側から、この点に疑問が呈されたことはないようですが。

 *写真は『赤い鳥』創刊号の清水良雄の表紙画
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by kaguragawa | 2012-01-29 15:16 | Trackback | Comments(0)

譲吉の新竪町、堤町住居はいずこ   

 高峰譲吉の高岡(富山県)・金沢(石川県)での足跡を追うのも私の古いテーマなのですが、オリジナルな資料を探すなどと言うことは現在の私には困難になってしまいました。

例えば、――先日、古書店で見つけた『高峰博士の面影』(1961)を引用すれば――

“博士は生誕の翌年安政二年(陰暦の九月二十八日)、高岡の父祖の家から母につれられ金沢の父のもとに移ってきた。
 高峰一家は安政の頃金沢新竪町に、文久の頃堤町に、ついで石屋小路に移り、明治五年にはお城に近い梅本町に住んだ。”


・・・といわれる辺りのことを、その具体的場所もふくめて探りたいのですが。

 こういう中間的情報でもこうやって「掲示板」的に、書き込んでおけば、どなたかの役に立ち、どなたかからの新情報も得られるのではないか、と思っている次第です・・・。
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by kaguragawa | 2012-01-25 22:06 | Trackback | Comments(4)

《土岐僙》の生年〔1860年〕のこと   

 H先輩へ
 先日書いた《土岐僙》の生歿年のことで、私の試論である【生年=1960年】について一言しておきたいと思います。

 この西暦年〔1860年〕は、土岐家の由緒書に拠って“算出した”年です。仔細は次のとおりです。
【1】
 加賀前田藩では明治維新の折、藩士に対して「先祖由緒一類附帳」を提出させました。土岐家のものは、金沢市立玉川図書館近世史料館の「加越能文庫」に下記の3通残されています。
 《》土岐僙の父〔土岐無筆〕が書いたもの(題:由緒一類附/明治2年10月付け)、
 《》〔土岐僙〕が【土岐文左衛門】の名で書いたもの(題:先祖由緒一類附/明治2年9月付け)、
 《》〔土岐僙〕が【土岐僙】の名で書いたもの(題:先祖由緒一類附/明治3年11月付け)の3通です。
 B→A→Cの順で藩に提出されたようですが、なぜ類似のものが3通あるのかよくわかりません。(私なりの推測は割愛します。)はっきりしているのは、明治2年9月に、無筆が隠居し家督が嫡子文左衛門(僙)に相続されていることです。
 この土岐僙本人が書いた《B》に、「本国美濃 御国出生 拾歳」、《C》に、「本国美濃 加賀金沢出生 年十一」と、自らのことが書かれているのです。つまり、明治2年〔1869〕は10歳、明治3年〔1870〕は11歳であるとの僙自身の申告にもとづいて逆算し、1歳に該当する1860年を出生の年としたというのが、【生年=1960年】の出所なのです。
 いうまでもなく、当時の年齢表記は《数え》ですから、〔1歳=生まれた年〕なわけです。

【2】
 残念なことに話は、上の【1】に尽きていません。“1860年って、江戸時代の末のようですが、元号でいうといつにあたるのですか?”、との問いが聞こえてきます。実は、私も知りたいのです。が、残念ながら特定できないのです。
 歴史年表を開いてご覧になればおわかりのように、この1860年に該当する年は、年の途中で改元がおこなわれています。この年は、当時の暦(太陽太陰暦の「天保暦」)上での三月十八日から、「万延元年」に変わります。つまり、年初から三月十七日までは【安政七年】、三月十八日から年末までは【万延元年】というわけです。(当年三月三日の「桜田門外の変」が、改元の一理由)
 彼の具体的な出生の日付がわからないので、彼が【安政七年】の生まれなのか、【万延元年】の生まれなのかは、現在の資料からは(少なくとも私が確認できた資料からは)、確定できず、表記できないのです。生まれた日付がわかれば、例えば、安政七年(1860年)一月二十四日生まれとか、万延元年(1860年)四月一日とか書けるのですが・・・。

【3】
 さらに残念なことに話は、上の【1】と【2】に尽きていません。彼、僙さんが大晦日の万延元年十二月三十日に生まれたとしましょう。彼は西暦何年に生まれたことになるのでしょうか。結論だけいうと、1861年の生まれとなってしまいます。もし彼が万延元年十一月二十一日以降十二月三十日までの間に生まれたとすれば、彼は〔1861年生まれ〕となるのです。太陽太陰暦とグレゴリウス暦の間に、平均で、約1か月弱ほどのずれ――グレゴリウス暦が平均で約〔29.53日〕ほど先行――があるためです。
 何回も「土岐僙は、1860年の生まれ」、と上に書いてきましたが、これは厳密な物言いではなかったのです。
 土岐僙さんが生まれたのは、――資料で確認できる限りでは――〔安政七年一月一日から万延元年十二月三十日の間〕、しいて西暦で言えば〔1860年1月23日から1861年1月29日までの間〕となるのです。(なおこの年は、三月と四月の間に閏三月というおまけ月?がはいる〔1年=13か月〕の調整年だったことも付言しておきます。)

 どこかに土岐僙の戸籍関係の資料とか、本人の書いた履歴書とかの資料があると思うのですが、そうした新資料に出会えることを願って、・・・このあたりで、幕とします。

 追記
 H先輩。これと同じような愚考を繰り返しながら《三島霜川の年譜》をこしらえていますが、一向に進んでいません・・・。ゆっくり、あわてずの構えですが、またご協力ご支援ください。
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by kaguragawa | 2012-01-24 22:02 | Trackback | Comments(0)

ちょっと独り言   

 ルソーの音楽作品について書いたおかげで?、9年ほど前の賢治に関する文章まで引っぱりだしてしまい、少しく後悔しています。しかしどうしても賢治と小野浩の交点について、ひと言いっておくべきと思うことがあったのです。
 それにしても霜川を追いかけるなかでようやく見えてきた維新以来の「明治」という時代が、「大正」に変るあたりから私には、かつて親しんだ賢治の時代として決してなじみのない時代ではないにもかかわらず、その全体像も細部も、混沌として見え難いものになってきます。

 この時代の見えにくさ、否応なく新たな選択を迫られている現在となにか、――1911年・2011年の100年という時代差を交えかつ飛び越えて、――符合しあっているようにも思えてきます。

 私は、まだまだ明治という時代にとどまって見据えたいものがあるのですが、あらためて賢治や夢二の時代にも、そして目の前の時代にも、手探りで、そう言う意味では、確かな手ざわりを大事にしながら冒険ごころをもって臨んでいきたいと思っています。年齢相応の足許の覚束なさを自覚しつつですが・・・。

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by kaguragawa | 2012-01-22 23:40 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―1》   

 前項で紹介した9年前の《ルソーとラモー》を書いたのが、2003年の10月24日だったのですが、その前日〔23日〕に《小野浩と宮沢賢治》というタイトルの文章を書いていました。
 読み直してみたら、少しつけ加えたいこともでてきたのと、ほんとに偶然なのですがこの項に関するある文献を入手したので、あらためて《小野浩のこと》というタイトルで整理してみたいと思います。(なお次稿は、1/29の予定)

 まず、2003年10月24日の稿《小野浩と宮沢賢治》と、2004年1月4日の稿《1月4日の賢治》との2つの〔旧稿〕を紹介しておきます。

●「小野浩と宮沢賢治」 (10/23/2003)

 宮沢賢治とほとんど同時代に生きた、しかも同じ年に亡くなった童話作家がいます。小野浩です。
 生没年を併記してみるとそのことがよくわかります。
 2歳違いのこの二人は、日本が戦時体制に入っていこうとする矢先、1933(昭8)年に、宮沢賢治は27歳で、小野浩は29歳で、亡くなっています。賢治がちょうど1か月さきでした。あまりにも奇妙に重なり合った人生です。

  *宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  *小野 浩  1894.06.29~1933.10.21

 賢治はご承知のように東北岩手県の生まれですが、一方、小野は九州鹿児島の生まれです。
 じゃ、“この二人に何か接点があったのか”、と問われるならば、何もなかったとお答えするしかありません。では、同時代人だったこと以外に、まったく関係がなかったのかと、問い直されると、「不思議なすれ違いがあったようです。」という答になりそうです。

 そんな話の続きは、来年の1月4日(?)に、もう少し具体的なことがわかっていれば、あらためて報告させていただきたいと思います。

 とりあえず、命日から少し経ってしまいましたが、今日は小野浩の簡単な略歴だけ、紹介させていただきたいと思います。

 「小野 浩」
 明治27〔1894〕.6.29~昭和8〔1933〕.10.21/鹿児島県加茂郡竹原町生まれ。
 早稲田大学英文科を大正6年に卒業。
 「赤い鳥」社に入社、10年以上「赤い鳥」の編集に携わり、また同誌上に「鰐」「かばんをおっかける話」「金のくびかざり」などを発表。
主著に童話集「森の初雪」がある。
 その他「新青年」にブラックウッドの「意外つゞき」などを翻訳した。
 (『新訂作家・小説家人名事典』(日外アソシエーツ/2002.10)ほかより)

 〔追記〕
 小野浩の生誕地を、上に「鹿児島県」と書きましたが、地図で確認しようとしたらば、鹿児島県には加茂郡竹原町はありませんでした。
 これは今年3月ごろの図書館で書き写した手書きメモによって書いたのですが、これは私の書き写しミスのようです。間の抜けた話ですみません。鹿児島県ではなく、「広島県」のようです。ただし、加茂郡竹原町は、現在、「竹原市」になっているようです。そういったことも含めて、あらためて確認しますが、とりあえず、上の記述はそのままにしておきます。

●「1月4日の賢治」  (01/04/2004) 

 妹トシを前年の11月に亡くした賢治は、年が明けるとまた思い立ったように上京し、当時本郷にいた弟清六の下宿を訪れます。
 1923(大12)年1月4日のこととされています。
 童話原稿がつまったトランクを清六の前に差し出し、どこかで発表してもらうように交渉してくれと頼むのです。この時、賢治27歳、清六は18歳です。
 清六はその原稿を、なんと「婦人画報」に持ち込むのです。応対した編集者は、数日後に「これは私の方に向きませんので」と返し、再び東京に立ち寄った賢治はそのトランクを持ってまた雪の花巻に帰っていきます。
 このとき応対した「婦人画報」の編集担当というのが、“小野浩”です。

 当時、清六がどこに下宿していたのか、そして清六が原稿の入ったトランクを下げて訪れた「婦人画報」がどこにあったのか、知りたくて、この話をフォローしてみたのです。が、なにかこの話には無理があるような気がしてならないのです。
 (肝心なこの疑点の内容、公開できるほどのものでもないので、今は指摘するだけにさせてもらって、もう少し調べて後日、あらためて、その機会を持ちたいと思っています。悪しからず。)

 ※ 小野浩の生地は、やはり広島県でした。10/23日記に私の資料写し誤りかと書きましたが、いくつかの辞典類にはやはり「鹿児島県」と誤植?されています。
 ※ ちなみに今年〔2004年〕の4月1日は、宮沢清六さんの生誕100年にあたります。
 

(資料1)
 ……大正十二年の正月に、兄はその大きなトランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現れた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さしてみろやじゃ」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んでみて下さい」と言って帰ったのだった。
 あの「風の又三郎」や「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 「これは私の方に向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
(『兄のトランク』(宮澤清六/筑摩書房/1987.9〔初出1941『創元』3月号〕)

(資料2)
 一月四日 上京。例のトランクいっぱいの原稿も持っていき、弟清六が本郷区竜岡町に学業で滞在中だったから東京堂の婦人画報編集部へもってゆくよういいつけた。その夜きょうだいふたりでレストランへ出かけて会食。何でもいいから見はからってもってこいといったら大皿にさざえの壺やきがきて「これはとられるかな」と笑った。賢治はそれよりトシの分骨を国柱会の妙宗大霊廟に納める手続をとるため静岡県三保にあった国柱会本部まで行った。清六は東京堂婦人画報編集部小野浩にあい原稿を見てもらうことにした。この中には「楢ノ木大学士の野宿」などが入っていたのであるが結果は雑誌に向きませんからと断わられた。やがて賢治がそれを持って十一日帰る。小野浩は、のちに『赤い鳥』の編集者となり、一九二七(昭和二)年六月号(第十八巻六号)の『赤い鳥』に「お人形と写真」という童話などを発表している。なお分骨は春、父と妹シゲが三保へ納める。
(『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史/中公文庫/1991.1)



〔追記〕
 小野浩の続稿は、↓の〔小野浩〕のタグをクリックしてください。

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by kaguragawa | 2012-01-22 19:37 | Trackback | Comments(0)

ルソーの「ヴィヴァルディの春」   

 Rousseau: Le Printemps de Vivaldi
        arrangé pour une Flûte sans accompagnement (1775) in D Major


 先日の《ルソー:2つのクラリネットのための4つのエール》に続いて、《ルソー:ヴィヴァルディの春》のCD(*)が届きました。偶然、3日前最初に見つけたCDをさっそくamazonで購入したもの。
 この曲もずっと気になっていたのですが、聞くのは初めて。
(今あらため検索してみたら、この曲はけっこうフルート奏者のCDに入っていますね。)

 *ヴィヴァルディ:フルート・ソナタ全集〔Vivaldi: Complete Flute Sonatas / Mario Folena〕
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 が、このルソー編曲の曲を聴く前に、このCDに収まっているヴィヴァルディのオリジナルのソナタに、ほとほと参ってしまいました。実はある時期からヴィヴァルディはまったく聴かなくなってしまっていて、早い話が、あるきっかけでヴィヴァルディがきらいになってしまって、顔を見るのも曲の第1音を聞くのさえいやになってしまっていたのです。
 ルソーのおかげで素敵なヴィヴァルディが聴けたのですから一曲両得?。

 それにしても、ルソーはどういう思いでヴィヴァルディの室内楽用の曲――あの有名な「四季」の《春》である――をソロのフルート(トラヴェルソ)向けに書きなおしたのだろうか。私にとっては新鮮で感動的なヴィヴァルディのオリジナルのフルートソロを聴きながら、イタリア音楽とフランス音楽の優劣が争われた「ブッフォン論争」のことなど思い出して、いろんな想いが湧いてきました。

 以下、9年前に書いたもの。

 「ルソーと音楽」というテーマを論じようとすれば避けて通れないのが、敵対する“ルソーとラモー”という問題です。
 1753年という“音楽家ルソー”にとって一つの頂点でもあった年、ルソーの幕間劇「村の占い師」がパリのオペラ座で上演され(前年にフォンテンブロー宮で御前演奏され、ルイ15世やマリー・アントワネットにも愛唱されていました)、さらにイタリア音楽とフランス音楽の優劣を国論を二分して争われた「ブッフォン論争」が巻き起こった年でもありました。
 この論争の火付け役?でもあったルソーは、イタリア音楽派のリーダーとして論陣を張る一方、ラモー音楽理論への批判を精力的に書いています。
 (ここまで書くと、そのラモーとはいったいどんな人物だったのかということを書かねばならなくなるのですが、当代のフランスを代表する音楽家であったという辞書的な説明しか、今の私にはできません。)

 この「ラモー対ルソー」の因縁的とも言える対決も、出発点はルソーの音楽修行時代のラモー和声論の独習から始まっているように思われます。
 どう公平に見ても音楽の天才的な才能に恵まれていたとは言えないルソーでしたが、ヴァランス夫人のもとでひとたび音楽にとらわれて以来、情熱的ともいえる打ち込み方で音楽を自分のものとしていきます。
 その時ルソーが私淑したのが、宮廷音楽家の出ではなく、しかもデカルトの哲学を踏まえた音楽理論家でもあったラモーでした。難解なラモー理論を、ルソーは必死に吸収しようと努力を重ねています。

 そのラモーの3作目のオペラ「カストルとポリュクス(Castor et Pollux)」が初演されたのは、いまから266年前の今日、1737年の10月24日でした。
この年、ラモーは1722年の『和声論』に次いで、『和声構成論』も出版していますし、ルソーはラモーに学びつつ、初めて自作のシャンソンを『メルキュール・ド・フランス』に発表しています。
 この時期こそが、お互いまだ顔を知らないラモーとルソーの出逢いの時期でもあり、音楽家ルソーの誕生のときでもあったのです。

 *最近、久しく眠っていたラモーのオペラの上演がさかんで、CDでも聴けるようなりました。ただしほとんどが長大なものなので、1時間弱のオペラ「ピグマリオン(Pygmalion)」が、おすすめです。
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by kaguragawa | 2012-01-21 23:59 | Trackback | Comments(0)

土岐僙のこと   

 このブログに、〔土岐僙〕のことを何回か書いていますが、決定的なことがまだまだ不明で続稿を書いてないのですが、近いうちに中間報告をしたいと思っています。

 とりあえず、生歿年のみ――ほぼ間違いないと思われるものです――報告しておきます。

 *土岐 僙 1860~1935
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by kaguragawa | 2012-01-21 19:38 | Trackback | Comments(0)

ルソーの「2つのクラリネットのための4つのエール」   

 ジャン=ジャック・ルソー。――彼は天成の思想家であった。が、天成の音楽家ではなかった。

 が、しかし、彼はみずからの音楽の才には満足していたのではなかろうか。
 そういう意味では、ルソーはモーツァルト同様、天真爛漫な音楽家であったといえるのではないか。
 ルソー「2つのクラリネットのための4つのエール」4 airs pour 2 clarinettes〕を聴きながら、そんなことを思いました。

e0178600_22365222.jpg 今年はルソー生誕300年の記念すべき年である。ちょっと大げさだが、2012年までは生き永らえたい、と思い続けたその2012年である。なぜならば、ルソーの記念年になれば、ルソーの音楽作品がわんさと演奏され、わんさとルソー作品のCDが世に出回るのではないか・・・そんな妄想?をいだいて指折り数えてきたのである。
 (なぜそこまでルソーなのか、ルソーの音楽なのか、については簡単に書けないが、下の「ルソー」のタグをたどってもらえれば、いくつかルソーについて書いたものがあります。)

 よく考えたら、私にはCDの新譜情報をチェックする方法も知らなければ、そういう余裕もないのである。しかし、先日、何気なく検索してみたらば、幕間劇『村の占い師』の未聴のCDなどがあり、何枚か註文した次第。

 きょう聴いたのはミシェル・ポルタルとポール・メイエの演奏。二人のこの演奏には私も満足でしたが、ルソーも満足するのではないでしょうか。
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by kaguragawa | 2012-01-19 22:37 | Trackback | Comments(2)

思いを通わせる、ということ   

 阪神淡路大震災から17年。

 めずらしく早く帰宅して見たニュースからは、朝5時46分の追悼だけではなく、午後2時46分にも東日本大震災の犠牲者に黙祷を捧げる催しが神戸で行なわれたことが報じられている。
 “思いを通わせる。”そういう心の尊さに、思わず涙がうかんだ。

 スピーディかスローモーかその名は覚えたくないが文明の利器が紡ぎだした情報は、「意図的に」抹殺扱いされ、防げた被曝がまた浪江町や南相馬市の避難された方々に及んだ。
 「通わされたあたたかな思い」は、あの大事の折にも、今も、行政に必要とされてないようだ。

 北国の人間として、災害地の「寒」に思いを通わせ、ふと心にうかんだ良寛師のことばをお送りしたいと思います。

  “天寒し 自愛せよ”
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by kaguragawa | 2012-01-17 19:59 | Trackback | Comments(2)