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気がついたら大晦日。   

 最近は、諸般の事情によりなかなか思うように書き込みができていませんが、今年は多くの人の世話になってなんとか、大晦日までたどりつきました。

 一言では足りないのですが、“有り難うございました。”
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by kaguragawa | 2011-12-31 23:34 | Trackback | Comments(0)

少年“霜川”の福島時代(5)   

 1889年10月末の日付を――月末というのを仮に26日から31日ぐらいの間だとして――、月の満ち欠けベースの旧暦に直すと、十月三日から八日にあたります。旧暦の日付は、ほぼ「月齢」を表していると考えて間違いはありませんから、たとえば【1889年10月26日≒月齢3】は、三日月の夜になり、【1889年10月30日≒月齢7】は、半月(上弦の月)となります。誤解のないように言っておくと、三日月や半月が、「月の美しかった」という霜川の記述に合わない、というのではありません。ぶざまな満月もあれば凄惨な三日月もあるでしょう。問題は、月の姿形ではなく、月の出の時刻です。
 日没と同時に東に出る“ちょうどそこで今あがったばかりの月”は、月齢3や月齢7の月ではありえないのです。月齢15に近い満月は、日没とほぼ同時に上がってきますが、「三日月(月齢3)」の月は、日の出の2,3時間後に出て、日没の2,3時間後に沈んでいきます。4日ほど後の「上弦の月(月齢7)」出は、お昼の12時頃に出ます。日没時点では、天頂に右半分の半月が懸かっていることになります。
 繰り返しますが、1889年10月末に“日がとっぷり暮れてしまっ”たときに、“ちょうどそこで今あがったばかりの月を見”ることはできないのです。
 
 くどくどしい話はやめて、結論だけを書きましょう。霜川が、磐城の四つ倉移住の日に、“日がとっぷり暮れてしまっ”たときに、“ちょうどそこで今あがったばかりの月を見たという記憶が正しければ、それは、1889年10月末のことではなく、《1890年10月末》のことです。1890年10月30日は、旧暦の「9月15日」の満月です。霜川が見た月を1889年の月ではなく1年後の1890年の月とすれば、霜川の記憶と月の動きが一致するのです。
 ちなみに、旧暦の9月13日が、旧暦8月15日と並ぶ“名月”の夜であることが想起されます。霜川の記す“美しかった”という記憶が、“名月”を意識したものでなく疲れ果てた引っ越し後の子供が見た率直な印象だったにせよ、その美しさがこの時節の月そのものの美しさと重なっていたと見なすことも可能でしょう。


 といって、以上のような拙考をもって、霜川の筆から導き出せる「1889(明治22)年10月末 父、妹とともに福島県磐城郡四ツ倉町(現:いわき市四倉)に、移住」という事績を、「1889年」から「1890年」に書き換える気持ちには、今、なってないのですが・・・。
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by kaguragawa | 2011-12-24 19:54 | Trackback | Comments(0)

少年“霜川”の福島時代(4)   

 以下は余談ですが、エッセイ「渦と白い死骸」中の日時の疑問について書いておきましょう。
 霜川親子〔父と、霜川(才二)、妹の3人〕が、“磐城の四つ倉”に移ってきた個所を、再度引用します。 

 “私ども三人の親子は、朝早く――暗い空にはまだチラチラ星が瞬いて、地には白い靄が這った暁であった。――もとより汽車も、人力車もないので、荷馬車に乗ってその町を出た。途中から馬車を降りて歩きだして、日がとっぷり暮れてしまってから、私どもは目的の町の少し手前の原に出た。(中略)十月末のことで、凍るような冷たい風は耳に音を立てて吹いて、皮膚は切られるように冷たかった。ちょうどそこで今あがったばかりの月を見た。その月の美しかったこと!”
 “それは私が十四の時であった。十五の年にかけて足掛け二年――満にすれば一年ばかりの間、その町に住んでいた。”
 

 このエッセイには、この引っ越しが何年のことなのか、書いてありませんが、当時の霜川の年齢が「それは私が十四の時」と明記してあるのでそこから導き出すことができます。当時の年齢表記は、“数え”ですから、「十四の時」というのは、1876(明9)年生まれの霜川の場合、1889(明22)年と特定することができます。
 以上のことから、霜川親子の“磐城の四つ倉”移住は、1889(明治22)年の“十月末”のこととなります。

 「1889(明治22)年10月末 父、妹とともに福島県磐城郡四ツ倉町(現:いわき市四倉)に、移住」。――これだけのことが特定できれば、穴だらけの霜川年譜をなんとか埋めたいと思っている私としては、たいへんうれしいのです。が、ここにある疑問が浮かび上がってきます。 

 “日がとっぷり暮れてしまっ”たときに、“ちょうどそこで今あがったばかりの月を見た。その月の美しかった”ことを、霜川は、磐城の四つ倉移住の日の思い出として、約20年後に回想しながら、エッセイに書きとめているのです。が、しかし、日暮れになってようやく着いた四つ倉の海にあがった美しい月の情景記憶が正しければ、「1889年10月末 福島県いわき市四倉に移住」には、疑義が湧いてくるのです。
 結論から言いましょう。1889年10月末の夕刻に、このような印象に残る月が見られるはずはないのです!。
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by kaguragawa | 2011-12-22 20:41 | Trackback | Comments(0)

少年“霜川”の福島時代(3)   

 前回の同項〔=10月20日/25日〕から、かなり時間があいてしまいました。

 《少年“霜川”の福島時代》という題で、書こうとしたことは内容的にはいくつもあるのですが、今、霜川作品のストーリーなども紹介しつつ詳細を書く余裕はないので、「“三島霜川と福島”というテーマを掘り下げるとおもしろそうですよ」ということを強調した上で、それに加えて霜川のエッセイ上の日時についてささやかな疑問を書いておこうと思います。

 霜川は、「渦と白い死骸」というエッセイで、“磐城の四つ倉という海岸”(現:福島県いわき市)における少年時代の思い出をつづっています。水泳中に渦に巻かれて溺死しかけたことや、漁船が沖で難破し後日その船員の死体を霜川(才二少年)が見つけたことなどのエピソードを紹介し、「死」についての原体験を書いています。
 興味深いのは、少年時代の「漁船難破」見聞体験が――実質上の処女小説「ひとつ岩」においてだけではなく、晩年の最終作ともいうべき芝居台本「鰤」に到るまで、――霜川作品に何度も出てくる“通奏低音”になっていることで、ここではそのことを、確認し強調しておきたいのです。それほどに、この福島時代の漁村の思い出は霜川にとって大事なものであったと断言してよいかと思うのです。
 また、発表順としては処女作にあたる「埋れ井戸」の舞台も、登場する老人の口からでる方言や民謡が、おのずとこの作品の舞台が福島県であること語っているように思われるのです。事例を省きますが、「埋れ井戸」の世界は、福島県内の城下町近郊の里山を背にした農村であるとみて良いように思います。そしてこれは私のまったくの仮説なのですが、その場所とは――“磐城の四つ倉”に移る前に霜川親子が住んでいた――、 四倉から「十八里」ほど離れた町周辺である可能性が高いということなのです。

 ミステリーの謎解き気分で、その“町”がどこなのかをあれやこれやと穿鑿(せんさく)してみたいと思うのですが、それは来年のお楽しみにして、続いてエッセイ「渦と白い死骸」に記された日次についての疑問を紹介したいと思います。
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by kaguragawa | 2011-12-21 22:30 | Trackback | Comments(0)

もうひとつの1911年   

 今年初めての降り続く雪である。

 谷中村と茂呂近助を語る会『谷中村村長 茂呂近助――末裔たちの足尾鉱毒事件』(2001.6/随想舎)

 田中正造でもなく、闘う農民として語られる谷中村にとどまった16人の残留民でもなく、それどころか正造から“地獄に落つるとはこの如き人”と呼ばれた谷中村村長・茂呂近助。離村した近助らは北海道のオホーツクに面する原野に入植し、別の苦闘の歴史を刻んでいくことになる。
 1911年4月。「渡良瀬川沿岸鉱毒被害民66戸、北海道サロマベツ原野に入植」。
 100年前、大逆事件の背面で人知れずおこなわれた鉱毒事件の一つの動きがあったことも忘れてはならない。

 
 由紀さおりの“夜明けのスキャット”がインターネットを通じて全世界に広まり聴かれているという。
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by kaguragawa | 2011-12-16 23:18 | Trackback | Comments(0)

お知らせ   

パソコンの動きが悪く、投稿を控えています。
しばし、ご容赦ください。
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by kaguragawa | 2011-12-12 06:49 | Trackback | Comments(0)

虹。   

 狐雨の後、あざやかな虹がかかった。久しぶりの虹でした。
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 車窓から急いで撮ったので傾いています、ご容赦を。
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by kaguragawa | 2011-12-04 17:26 | Trackback | Comments(2)

田中正造の「越中屋」   

 ここしばらく田中正造が気になって「田中正造文集」(岩波文庫)などを、読み散らかしておりました。
 そうした折、鉱毒事務所〔東京事務所・越中屋〕の場所が特定できたので、そのことを前項の日記文とともに書き込もうと思っていたところ、とつぜん、サンデーモーニングに田中正造の名が登場してきて、驚きました。(この件は、いずれ。)
 
 東京の鉱毒事務所(東京事務所)は、正造の常宿に置かれたが、その三番目は;

  東京市芝区芝口二丁目六番地 越中屋(沢井八重)

   (←←芝口三丁目二番地 信濃屋←←京橋区八官町二六番地 宮下栄輔方)


〔追記:2011.12.14〕
 今日入手した『改定 田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(2009.7/随想舎)によれば、――想定していたとおり――正造は、この「越中屋」から直訴の場所に出かけていたことが確認できました。それ以上に、驚きもしうれしく思ったのは、当時の越中屋のおかみさんの証言が残されていることでした。
 こうしたことも、あらためて・・・。
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by kaguragawa | 2011-12-04 09:01 | Trackback | Comments(0)

デンキ開ケテ世間暗夜となれり   

物質上、人工人為の進歩のみを以てせバ社会ハ暗黒なり。
デンキ開ケテ世間暗夜となれり、然れども物質の進歩を怖るゝ勿れ。この進歩より更ニ数歩すゝめたる天然及無形の精神的発達をすゝめバ、所謂文質彬々知徳兼備なり。
日本の文明今や質あり文なし、知あり徳なきに苦しむなり。悔改めざれバ亡びん。今已(すで)に亡びつつあり。否已に亡びたり。

(田中正造「日記」大正2年7月21日)

 「電気開けて、世間闇夜となれり」。
 ここから文明悲観論のみを読みとっていないだろうか。もちろんこの警抜な文明批評は未読すべきだが、続く部分が正造らしいところ。

*【文質彬彬(ぶんしつひんぴん)】  以下、goo辞書より
・外面の美しさと内面の質朴さが、ほどよく調和しているさま。洗練された教養や態度と、飾り気のない本性が、よく調和しているさま。
▽「文」は表面の美しさ。洗練された教養や美しい態度、容貌ようぼうなどの外見。 「質」は内実、実質。飾らない本性。「彬彬」はほどよくつりあっているさま。
(かぐら川追記:正造は、文と質を取り違えていないか?)
出典
『論語』雍也篇
「質、文に勝てば即ち野。文、質に勝てば即ち史。文質彬々。然る後に君子なり。」

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by kaguragawa | 2011-12-04 08:55 | Trackback | Comments(0)