<   2011年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧   

前川彰司さんの再審開始が決定   

 今日、前川彰司さんの再審が決定した。1986年の女子中学生殺人事件。前川さんは7年の懲役刑の服役を終えてからの再審請求だった。逮捕時21歳だったという前川さんは、今、46歳。
 《失った時間は返ってきませんよ。》、この言葉はあまりに重い。

 名古屋高裁金沢支部の再審請求に対して「犯人であると認めるには合理的な疑いがある」とした〔再審開始決定の要旨を、見つけたので〔リンク〕しておきます。
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by kaguragawa | 2011-11-30 22:19 | Trackback | Comments(0)

織田一磨「沈黙の画室」   

 その名も作品もなんどか目にしていながら、そしてそのたびに気にはなりつつも、いままでその人の前に立ちどまったことのなかった人。織田一磨。・・・情緒あふれる街風景をえがく版画家、というほどの認識がずっと深まらずに私のなかにありました。

 あらためて立ちどまるきっかけを与えてくれたのは、先日も紹介した勝目テルさんの『未来にかけた日々――明治・大正・昭和を生きて (上)』(1961)の一節。ここに、雑司ヶ谷時代の織田一磨がちょっと登場している。

 で、少しばかりnet上を検索してみました。そこでは、織田一磨を描ききった評伝が今までに一度も書かれていないということが確認できただけで、いくつかの疑問に応えてくれる情報も得られず、がっかりしたものの『銀花』のかなり古い号〔1978/第33号〕に《石版画詩人・織田一磨の世界》という特集があることを知り、さっそく註文。
 そこに縷々と語る秦恒平氏の豊かな「織田一磨の芸術」と、一磨の作品と画室を見事な写真で紹介しユキエ夫人の追想語りを配した「沈黙の画室」がありました。 以下は「沈黙の画室」から

 “夜の風景/織田の版画には、夜の風景が多いでしょう。夜出歩くのが好きでしたからね。夏の夜などは私と娘を連れて近所をよく散歩したものですから、“ぶらつき一家”って有名でしたよ。左の絵は近所の八百屋ですけれどね、「黒い紙片に半分包まれた灯火は、外に暗く内に明るく、ために思わぬ美しさになる。警戒管制の街は、レンブラントの絵のごとく美しい」なんて、戦時中なのにずいぶんのんびりしたことを言ってましたよ。”

 “街の風流詩人/よく歩いた人でしよ。あの人は、朝ちょっと出かけてくると言って出たまま、暗くなるまで帰ってこないんですよ。銀座も好きでした。昔は夜店に古本屋が出ましてね。そこに行くのが楽しみだったようです。千疋屋へもよく行きました。織田はどこの街でも好きになってしまうんです。一緒に歩いていましても、立ち止まって動かないんですよ。「いいなあ、すばらしいなあ」って感心してしまって……。”

 “花へ寄する思い/このばらの後光がさしているようなところ、これはずいぶん骨を折っていました。不思議な光ですね。花が好きでしてね。吉祥寺に来てからはもっぱら山の草花を庭に植えて、かたくりや一輪草なんかをね。どくだみの花も、織田が好きだったものですから、私、よくここに活けておくんですけど……。”
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by kaguragawa | 2011-11-26 20:05 | Trackback(1) | Comments(0)

メモ:西片町そして久徴館   

 ご存じ本郷区駒込西片町十番地。旧加賀藩の関係者が、藩領・加越能の若者のためにつくった学生寮〔久徴館〕は、[十番地ほ十九]。初代館長は桜井錠二のはず。
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〔追記〕
 2年半前に、西片町を訪れた記録は、〔ここ〕。滝廉太郎の旧居跡(10番地ではなく9番地)を訪ねるのが主目的でしたが、西片町と言えば心ならずも夏目漱石旧居跡ははずせなかったのですが、半井桃水が身を寄せていた従兄弟の河村重固家跡や、田口卯吉→上田敏旧居跡などを、道に迷いながらも訪ねた愉しい思い出が、今もよみがえってきます。
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by kaguragawa | 2011-11-22 22:07 | Trackback | Comments(3)

小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』   

 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』(岩波現代文庫)

 抽象的思考の苦手な私には読みとれないところも多々ありましたが、久しぶりに知的刺激にあふれた本に出会い、時間を忘れて読みました。

〔追記〕
 本筋とは関係のないことだが、この本でみつけた幾多郎学生時代の居所《本郷台町60番地》は、覚えておきたい。ここに近い本郷台町30番地は、のちに木下順二の生地となる番地である。
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by kaguragawa | 2011-11-20 23:55 | Trackback | Comments(0)

・・・今朝四時二十五分  秋声逝去   

 父秋声徳田末雄儀長らく病気療養中の處薬石効なく今朝四時二十五分死去致候につき此段御通知申し上げ謹んで生前の御厚誼を謝し奉候
 追然葬儀は二十一日(日曜)正午青山斎場に於て日本文学報国会小説部会葬を以て挙行引つづき午后一時より二時まで告別式相営申す可く候
 尚時局柄御供物の儀は乍勝手御辞退申上候

 昭和十八年十一月十八日 東京都本郷区森川町一二四番地

   男      徳田 一穂
   親戚代表  依田 春一
   友人     菊池 寛
   総代     中村 武羅夫
   社団法人  日本文学報国会


 新聞の「おくやみ欄」がなかった時代はこうやって通知で広くお知らせしたのですね。
 11月は人を偲ぶ月である。昨日は黒岩比佐子さんの命日でした。黒岩さんの命日と秋声の命日が並ぶのも、来週野口冨士男さんの命日と一葉の命日が並ぶのも私には、大袈裟ですが、言い尽くせない思いです。そして、父の命日と宮澤トシさんの命日が続きます。


    山茶花にハラハラ朝の雨少し   霜川
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by kaguragawa | 2011-11-18 20:37 | Trackback | Comments(0)

ある日の晩秋の立山連峰   

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 初冬11月は、似非宗教暴力組織オウムによって坂本弁護士一家が殺害された月(1989年11月)でもあります。
 この写真には写っていませんが、この連峰の左側に僧ヶ岳があります。その僧ケ岳山中――正確には、魚津市から片貝川を遡り、そこから宇奈月に抜ける林道・別又僧ヶ岳線(べつまたそうがだけせん)の道脇に――坂本都子さんの遺体が埋められてあった場所があり、慰霊碑がありました。
 今月13日の新聞記事によると、慰霊碑は麓の片貝山ノ守キャンプ場に移されたという。たいへん危険な場所だっただけに有り難い話である。近いうちに足を運びたい。
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by kaguragawa | 2011-11-17 14:34 | Trackback | Comments(0)

秋聲墓前祭の翌日に思うこと   

 秋晴れという言葉にふさわしい天候だった昨日に比べ、きょうは秋声を思うにふさわしい?小雨日となった。きのう話題としたことに関連して、思いつくまま書き留めておきます。


 三島霜川と徳田秋声の交遊が、それぞれの一生涯を通してみた場合いったいどういうものであったのか、これは秋声研究にとっても霜川研究にとっても謎多い、そして重い課題であろうかと思います。
 この課題はまだ数多い秋声研究にあっても、自覚的に考究されていないものかと思われます。『黴』における笹村と深山――秋声と霜川――とかは、課題とされながらも。

 昨日の墓前祭と講演会あとの懇談の場で、秋声のお孫さんの徳田章子さんから、秋声の長男で作家であった一穂さんと霜川の長男でこれも作家であった正六さんとの間に年賀状のやりとりがされていたということをお聞きすることができました。
 わたしには、なぜか、ほっとする“一事”でした。
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by kaguragawa | 2011-11-13 08:55 | Trackback | Comments(0)

徳田秋聲墓前祭   

 金沢の静明寺での「秋聲忌(墓前祭)」に参列。

  “おまえは、どういう資格で秋声の墓前祭などに参加するのだ。”と、今年も自問しながらの参加でした。この問いは何度目かになる墓前祭の参加ごとに、自分が自分に向けてきたもの。霜川の事績を訪ねているものとして秋声は少しは読んできましたが、そんなことで墓前に頭をさげるのか、と問われれば、たじたじとなって返す言葉もなくなってしまうのです。それでも三島霜川と徳田秋声が友人であったことで、「秋声さん、今年も参りました。」と頭を下げるしかないのです。

 ところで、今年の静明寺の樹々は異常でした。遠くから静明寺に近づいたとき、あれっイチョウが枯れてるぞ!と思ったのですが、e0178600_14594992.jpg それはちがっていました。みごとな紅葉がシンボルである静明寺のイチョウは今年はまだ色づいておらず、うす茶色く葉枯れしているのはケヤキの巨木数本でした。対岸の卯辰山の広葉樹にも立ち枯れが目立ちます。痛々しいくらいです。富山の山の多くの木々がこの立ち枯れに襲われたのは、一昨年。ことしは目立った枯れはありませんが、今年は金沢の山々なのでしょうか。私が偶然目にした卯辰山東面の斜地の山の広葉樹だけなのでしょうか。


 静明寺に向かう道すがら、“また一年経ちましたね”、と声をかけてくれた浅野川沿いに植えられた“つわぶき”の花が、やさしくも、しかししっかりと、この一年のいくつかの“非情”を思い起してくれました。そして、そうしたことがらを、つかず離れずの距離で見る目を秋声によって少し養ってもらったかとも思う、私なりの秋声忌でした。
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by kaguragawa | 2011-11-12 23:18 | Trackback | Comments(0)

昭和初期の作家群が・・・   

 ちょっと片づけをしてましたら、半年以上も前にコピーをとったある本の一部が出てきました。おもしろいものなので書き写しておきます。

 “1927年(昭和2年)の秋、上京した私たちは、版画家の織田一磨氏の世話で、雑司ヶ谷に6、3畳の家を借りて住んだ。生活がたいへんなので、示野は、建築の経験のある内藤辰雄と組んで、長谷川如是閑や徳田秋声などの家の修理などに通い、私は家庭教師をしながら、婦人雑誌などに投稿したりして、やっと生活をささえた。
 東京に出るとき、私たちには石川県の警察から特別要視人の荷札がついていたので、管轄の大塚警察署の私服や警官が、毎日家のまわりをうろついていた。いつだったか、ひとりの私服は私に、「大塚署の管内から、あんたたち夫婦と藤森成吉を追っぱらえば、わしらは枕を高うして寝られる」、そう言ったことがある。
 小川未明の家も近くて、ここでは家族あげて親しめる人たちだった。未明が、自分の幼い子どものあたまをなでながら、やがて成長して兵隊にとられて、殺されるのかと思うとたまらないね、と言っていたことは、私の胸につよくたたみこまれた。
 坂井徳三という青年も、すぐ近くの下宿にいて、早稲田を出て、新聞社に入ったばかりだったが、よく三合瓶をぶらさげては、うちにやってきた。明るくて、勘のするどい男で、酔っぱらうと、童謡など大きな声でうたいだした。
 石清水のようなにごりを知らない男で、東京にもこんな青年がいるのかと頼もしかった。この青年が連絡がかりで、小川未明、秋田雨雀、織田一磨、内藤辰雄、新井紀一などの文化人で、雑草の会という、一種のしゃべる会ができていた。”


 これはある女性(1894~1984)の半生記の一部なのですが、徳田秋声や小川未明に関わる知られざる文献ではないかと思うのですが、どうでしょう。
 文中に登場する小川未明の男の子は、翌年に亡くなる長男哲文さんでしょう。徳田秋声については、もっとおもしろい話がこの後にいくつもでてくるのです・・・・。
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by kaguragawa | 2011-11-06 18:48 | Trackback | Comments(2)

コーヒーブレイクの落書き――滝廉太郎、管野すが、朝倉文夫   

 後に作曲家となり夭折した滝廉太郎と、後に大逆事件で刑死することになる管野すが(須賀子)が大分県直入郡竹田町(現:竹田市)の直入郡高等小学校でニアミスをしています。おもしろいものです。
 1892(明25)年1月にこの小学校に転入した滝廉太郎は、1894(明27)年4月に16歳で卒業し東京へ、1年後の1895年9月に15歳の菅野が転入し、翌年卒業しています。

 後に彫刻家となる朝倉文夫は、1893(明26年)から1897(明30)年までこの高等小学校にいたはずですから、廉太郎ともスガとも顔見知りだったことになります・・・。滝と朝倉については同窓生として語られることが多く、朝倉の廉太郎像も有名ですが、朝倉と管野はどうなのか。
 清水卯之助さんの『管野須賀子の生涯』(和泉書院/2002)には、この辺りのことが書かれているのだろうか?。


  *瀧廉太郎  1879.08.24~1903.06.29
  *管野すが  1881.06.07~1911.01.25
  *朝倉文夫  1883.03.01~1964.04.18
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by kaguragawa | 2011-11-02 22:14 | Trackback | Comments(0)