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少年“霜川”の福島時代(2)   

 「渦と白い死骸」という不思議なタイトルの文章は、三島霜川が「新潮」に書いたエッセイです。「少年時代の記憶(其一)」という副題からして、どうも当時の文壇人?が順々にこのテーマで書き繋いだもののトップバッターが霜川だったようです(この点は未確認)。

 このエッセイは、霜川の福島――当時の磐城四倉という漁村――での少年時代の追憶なのですが、霜川の少年時代を語る“貴重かつ唯一の”資料なので、ここではまず霜川の記述を、いくつか抜き書きして、それを手がかりに当時の霜川の動向を追ってみたいと思います。

 “私はその当時のことをよく覚えている。私ども一家は――一家といっても母はある事情で別居していて、父と妹の三人であった。そして父は医者であった。――それまで半年ばかりの間住んでいた町を立ち退いて、そこから十八里の道をたどって、磐城の四つ倉という海岸へ行くことになった。”

 “私ども三人の親子は、朝早く――暗い空にはまだチラチラ星が瞬いて、地には白い靄が這った暁であった。――もとより汽車も、人力車もないので、荷馬車に乗ってその町を出た。途中から馬車を降りて歩きだして、日がとっぷり暮れてしまってから、私どもは目的の町の少し手前の原に出た。(中略)十月末のことで、凍るような冷たい風は耳に音を立てて吹いて、皮膚は切られるように冷たかった。ちょうどそこで今あがったばかりの月を見た。その月の美しかったこと!”

 “それは私が十四の時であった。十五の年にかけて足掛け二年――満にすれば一年ばかりの間、その町に住んでいた。”
 

 霜川の記す年齢表記は、もちろん“満”ではなく“数え”ですから、「十四の時」というのは、1876(明9)年生まれの霜川の場合、1889(明22)年のこととなります。 (先走って言っておくと、この点、後で異議を述べたいと思うのですが、とりあえず霜川の記述に従います。) 
 そしてここで書かれているのは、“半年ばかり住んでいた町”から「十八里」離れた“磐城の四つ倉”への引越しです。時期は、〔1889(明22)年〕10月末のことです。

 残念なことに、“半年ばかり住んでいた町”の名前が明記されていないので仮に〔A町〕と名づけて整理すると、霜川父子は、《1889年の4月頃からA町に住み、10月末に引越し、翌1890年の10月ないし11月頃まで、“磐城の四つ倉”に住んでいた》と霜川は、――執筆時期は1912(大正元)年のことですから、20年余り前のことを思い出して――書いていることになります。
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by kaguragawa | 2011-10-25 23:50 | Trackback | Comments(0)

少年“霜川”の福島時代(1)   

 三島霜川が、少年時代――ですから霜川と言うより本名の“三島才二”がと言った方が良いのですが――福島県に一時住んでいたことがあることは、ずっと知識としては知っていたのですが、最近あらためて、“霜川の福島時代”の重みを感じ始めています。

 このことは、今年の大震災を機に、福島の漁村が舞台となっている霜川の実質的な処女作「ひとつ岩」を通読したことで、福島=霜川という結びつきが尋常のものではないと感じたことに端を発しています。そして、あらためて霜川の作品のいくつかを私なりに読みひろげた感想でもあります。

 霜川の作家歴が紹介される場合、処女作として「埋れ井戸」の名が挙げられることが通例で、「霜川選集」にも収録されていない中編「ひとつ岩」の名は広く知られておらず、目にふれるテキストもないので、ほとんど読まれていない作品であろうと思います。
 文学に縁もなくそれを語る素養もない私の発言など、まゆつばものであると思っていただいて結構なのですが、しかし、「ひとつ岩」はすぐれた作品です。この作品が読まれないまま霜川が語られてきたことは、霜川にとって大きな不幸であったとさえ言えるのではないかと思うほど、この作品には、その後に展開される霜川文学のエッセンスがつまっています。
 その大切な作品の舞台が、霜川の生誕地である北陸ではないという事実を、「霜川は富山の作家なり」と揚言する者として、複雑な思いは胸にしまって、肝に銘じなくてはいけないと自戒しています。

 だが、これで驚いてはいけないのです。上に挙げた霜川の処女作とされる「埋れ井戸」の舞台も、福島なのです。「ひとつ岩」が、現在の福島県の南部、いわき市四倉を舞台にしている一方で、「埋れ井戸」は福島県の北部、――これは私の想定ですが、――相馬地方のもと城下町近くの山麓の村を舞台にしているのです。霜川の文学人生のスタートにおかれた“兄妹作”ともいえる二作品「ひとつ岩」「埋れ井戸」が、福島の海と田園のロマンと不条理を描いているのです。

 たいせつな事実なので、繰り返し言っておきたいのですが、霜川はみずからの文学生活の始めに、生地である北陸ではなく、少年時代の福島を、作品の舞台に措定した事実を、重く受け止めなければならないのです。極言すれば、福島の地から見る目をもたずして霜川の像をきちんと再現することはできない、とも言えるのです。

 このことは、霜川は故郷を棄てた作家であるなどと短絡的に言おうとするものではありません。あくまで試論として述べるならば、霜川の文学世界の根は富山を超えて広く、深浅はあるもののその文学果実も深く豊かなものなのです。

 話が飛躍しましたが、霜川の福島時代の一端を彼のエッセイ「渦と白い死骸」から読みとってみたいと思います。

〔追記:2012.05〕
 「埋れ井戸」の舞台(この作品が書かれたとき念頭においていた場所という意味ですが)を、上に「相馬地方」と書きましたが、これは作品中の作男「六」が“相馬二遍返し”という相馬の民謡を口ずさんでいることによったのですが、今は、「三春地方」であろうと考えています。その根拠についてはあらためて書く機会をもちたいと考えています。
六が相馬出身であるとしても、作男には出稼ぎも多く必ずしもこの作品の舞台の土着の農夫である必要はないのです。
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by kaguragawa | 2011-10-20 22:32 | Trackback | Comments(0)

一段落のはずが・・・   

 先のコメントに、“ちょっと一段落といった気分”と書きましたが、なかなか時間が自由にならないこの頃です。

 そんな折に、『東北ふしぎ探訪』(*)が届きました。あるブログ記事で知った本なのですが、目次を見、少しページを繰って、後悔の念!。
 あまりに興味深い項目がみごとに並んでいて、こんなおもしろい本、今、買うんじゃなかった・・・と、ちょっとぜいたくなグチを口にのぼせてみて、ほくそえんでいる始末です。

 *伊藤孝博『東北ふしぎ探訪――歴史・民俗のミステリーを歩く』(無明舎/2007.10)

『東北ふしぎ探訪』25篇の目次
秋田の飛脚—「与次郎稲荷」伝承が語るもの/「八郎太郎」の足取り—壮大な竜神伝説をひもとく/「平将門の乱」東北後日譚—なぜ将門は「隠れた人気者」でありえたのか/後藤寿庵の消息—謎のキリシタン領主の残影を辿る/どこに眠る支倉常長—慶長遣欧使節団の真相は/「大野九郎兵衛」板谷峠に死す—元禄赤穂事件・米沢別伝/「戸」とは何か—「一戸~九戸」地名の由来説探訪/百姓が勝った大一揆—「三閉伊通一揆」の戦い方/アテルイと悪路王—黙して雄弁な古代東北史の証言者/東北の「鬼伝説」三題—カミとオニの狭間で/「天下無双の谷風」は誰か—三人谷風と東北の名力士たち/なこそ流れてなお白河へ—奥州二大古関を巡る/「チョウクライロ舞」の木霊—「鳥海」地名の由来を訪ねて/天津神ニギハヤヒをめぐる連想—東北に聖地を築いた物部氏/「壷の碑」はなぜ消えたのか—古代東北史の“交差点”に立つ幻のシルエット/三春藩秋田氏の長い略歴—神代から明治までのロングランを振り返る/以仁王と平家の落人—奥会津「隠れ里」残照/「風の三郎」が通った道—摩訶不思議なトリックスターの源郷を求めて/「高志王」の足跡と古代東北—異色の神が体体現するものは/奈良の大仏が輝いた時—「陸奥産金」と宇佐八幡神のお告げ/「伊達騒動」薮の内外—「仙台藩寛文事件」を旅する/大湯環状列石の今昔—ストーンサークルはどこまで解明されたのか/峰子皇子と八乙女たちの舞—羽黒山開山伝承をめぐる連想/相馬野馬追の誇り—異色の騎馬絵巻に「もう一つの将門伝説」を見る/十三湊の夕暮れ—繁栄する港湾都市はなぜ衰弱したのか

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by kaguragawa | 2011-10-16 20:14 | Trackback | Comments(0)

『綾子・光世 愛 つむいで』   

 先月、東京に行った際、お会いした酔流亭さんからKさんを紹介された。その折、Kさんからお近づきのしるしにということで本をいただいた。『綾子・光世 愛 つむいで』という三浦綾子さんと夫・三浦光世さんお二人のメッセージ集である。“生、愛、悟、己”の4つのテーマに分けて生きる智恵のことばが美しい写真と共にお二人の箴言が呼応しあっている。

 本当にこの世を憂うるならば、私たちは少数者の意見を尊重しなければならないのではないでしょうか。問題は賛成者が多いか少ないかではない、本当に正しいかどうかで、事は決めらられねばならないのです。 (綾子)

 戦前、日本の軍隊では「上官の命令は天皇の命令だと心得よ」と教えられた。これに反対したら、投獄されたり、死に至った。戦後民主主義になったが、必ずしも多数が常に正しいとはいえない。  (光世)


 明日10月12日は、三浦綾子さんの命日。

 ミセス・ツルーとの出会いによって女子教育に献身した矢嶋楫子のことを書いた三浦綾子さんの『われ弱ければ―矢嶋楫子伝』を、読もう読もうと思いながら、そのままになっていることを思い出しました。

 ・・・楽しく過ごしたひとときを懐かしく思い、酔流亭さん、Kさんに感謝しつつ、記しました。

〔追記〕
 先週、ある宿題を終え、ちょっと一段落といった気分。さて、更新がとどこおりがちなブログが復活するかどうか。
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by kaguragawa | 2011-10-11 21:54 | Trackback | Comments(0)

“谷口貴都先生を送る会”   

 へやを出ると強いユリの匂いがかおってくる。“谷口貴都先生を送る会”でいただいてきた純白のユリである。

 ブログ「苗加+野村島=ひがしのじり」で今日、先生の送る会のあることを知り、参加させていただいた。いただいてきたユリのようにやさしくも峻烈な奥様のあいさつにはことばを失った。
e0178600_19524451.jpg  谷口先生が奉職されていた高岡法科大学についても近くにありながら、しかも気になりながら知らないことの多いことに自分の不明をはじる思いでした。先生はこの大学開設時からここにあって自らの職を、仕事を守ってこられたのだ。

 先日も書いたように先生とは何の所縁もなければ、お話したこともない、そんな私が“送る会”の場に足をはこぶことにためらいがなかったわけではない。が、もし病に倒れておられなければ、今頃はきっとお会いしていたはずとの思いで、こころの中で「先生有り難うございました」と、 黙祷のひとときに頭をさげご冥福を お祈りさせていただいた。先生とのつながりは、先生が一つの課題とされた富山の生んだ明治期の法律家・磯部四郎だけなのです。

 ここまで“先生”と書いてきて、実は違和感がないわけではありません。それは、谷口先生が私のいわゆる学校での「先生」ではないということに因るのではなく、なによりも私とほとんど年齢の違わない、しかもおそらく学生の時代は私と同じ気持ちで法律を学んでおられたのではないかという親しみからなのです。先生が自らの専攻として選ばれた古代のローマ法やそうした観点からのフランス、ドイツ、日本の民法の成立を歴史的に跡付ける作業は、ある理由から私にも親しいものだったのです。
 今も時折思い出し、生きる糧にもしている“法律家は論理をもって闘うのです”という言葉は、私が短い期間ながら教えを受けた――そして谷口先生も親しくされていたであろう――古代ローマ私法の研究者・吉野悟先生によって、骨身に叩きこまれたものだったのです。

 送る会の終了後、主催者の厚意によって先生の研究室が開放されていてそこを訪問させていたいた。
e0178600_19525969.jpg そこには私が大学時代から卒業直後に親しんだ多くの書が、「講座現代法」をはじめ「川島武宜著作集」や「戒能通孝著作集」だけでなく、世良晃志郎訳のマックス・ウェーバーの社会学や「内田義彦著作集」や先生のちょうど一週間前に亡くなられた歴史家の遠山茂樹氏の著作集もあった。おそらくほぼ同年齢であることから推察するに、先生も私と同じ頃に これらの本を熱い思いで、読まれたのではなかろうか。そしてそこには、吉野悟氏の『ローマ所有権法史論』や『ローマ法とその社会』も。
※写真は、送る会のしおりからお借りしました。


 今は主のいなくなった研究室の本はどこへ行くのだろう。法の歴史を学びたいと思う若い人たちに読み継がれることができたら先生もうれしいことだろう。

 微力ながら谷口先生の磯部四郎研究の跡追いをして、先生にご報告したいと思っています。
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by kaguragawa | 2011-10-09 19:34 | Trackback | Comments(6)

我が家のハナミズキ   

 けさ、気がついたのですが、玄関先のハナミズキに赤い実がなっていました。
 
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by kaguragawa | 2011-10-07 07:24 | Trackback | Comments(0)

朝寒の日々   

 朝寒。これは立山に雪だな、と思っていたらやはりそうでした。そして、キンモクセイの香がここ3,4日前から漂ってくるようになりました。

 ここしばらく雑事重なり、更新ができない状態です。お許しください。

 マッケンジー(D. R. McKenzie )のことを知りたい・・・。
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by kaguragawa | 2011-10-03 22:46 | Trackback | Comments(0)