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三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (3)   

 島木健作から横山源之助まで、思いつくままに登場させてしまい、さらに「九尺二間」の解説まで書き込んでしまって、実はもともと書こうと思っていたことが遠のいてしまったので、そのことは、別の機会に別のテーマで書きたいと思います。

e0178600_23335611.jpg 追記的に、ちょっと書いておくならば・・・

 実は《本郷六丁目九番地》の跡を、訪ねようと赤門前に足を運んだことは今回が初めてではないのです。

 6年前の旧日記「めぐり逢うことばたち」に《霜川と一葉の「法真寺」》というタイトルでこの「本郷六丁目九番地」のことを書いて以来、何度も一葉ゆかりの法真寺の横のこの「本郷六丁目九番地」近辺はふらふらと歩きまわっていたのです。

 そうした霜川放浪の一端を本郷の一角の「九番地」をめぐって回想的に、書こうと思っていたのです。

             写真は、長い路地の奥から東大赤門方向を見たもの。現:本郷5丁目28番地内

 なお、霜川がこの《本郷六丁目九番地》の奥長屋に住んだのは、霜川26歳の《1901(明34)年10月下旬から翌1902年5月までの半年強の期間》と推測されます。
 始期は、山風宛て手紙の“本日を以て長屋居住を決行致し申し候”の「本日」=投函日の明治34年10月26日を取り、終期は、小石川表町での秋聲との第二次共同生活の始まりをそれとしました。霜川が、表町での同居生活に入る前にすでにこの奥長屋を出ていたことも考えられますが、家賃が低廉なこと、母親、姉妹と一緒であることからその可能性は低いと思っています。


 以下は、6年前に書いたメモのようなものの一部。参考まで。

 その地番を確認していて、「え~っ!」霜川はこんなところにいたんだと、ほんとに驚いてしまったのです。
 ――“本郷区本郷六丁目九番地”
 本郷区本郷六丁目(現在の文京区本郷5丁目)は、本郷通りに面した町でした。そして現在の東京大学の赤門の真ん前なのです。別に、“赤門のど真ん前”に驚いたわけではありません。ここにはあの一葉ゆかりの「法真寺」〔浄土宗〕があるのです。
 法真寺は旧地番で「本郷六丁目六番地」。そして、“九番地”は、その真横(寺に向かって右横)なのです。霜川は、九番地「奥長屋」と書いていて、確かに地型は奥行きのある細い土地です。
 霜川のデビュー作「埋れ井戸」が、一葉の「たけくらべ」以来の少年少女期文学の秀作と一部で評価されたこと、以前紹介しましたが、――この二人に交渉はまったくありませんでしたが――一葉が少女期を過ごした地に霜川も一時住んでいたとは、奇遇ではありませんか。まぁ、それだけの話ではあります。
 (一葉が、4~9歳の少女期を過ごしたのは、法真寺の左横前の本郷六丁目五番地。霜川が九番地に住んだのはその約20年後・・・。)
 ただ、霜川が友人に宛てたその書簡の中で、“窓の下は古墳塁々として塔婆海苔麁朶の如く立つところ、一種の臭気を含む湿気は境に充満致し居り候。”と書いているのは、まさに法真寺の墓地のことで、一葉資料としても少しは、省みられていいものかと愚考もするのです。

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by kaguragawa | 2011-09-26 23:10 | Trackback | Comments(0)

辺見じゅんさん   

 辺見じゅんさんが21日、亡くなられた。御冥福をお祈りいたします。

  遺作となった歌二首

   うつしみの溶けゆく秋の天の燠(おき)  
      神さぶしつまま浄らなりけり

   簡浄のひかりとなるも根の太さ
      つままのしづく還りゆく空




 磯の上の つままを見れば 根を延(は)へて  年深からし 神さびにけり                                               (大伴家持 「万葉集」巻19-4159)
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by kaguragawa | 2011-09-23 19:59 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (2)   

 島木健作の本郷での生活は、4年前に治安維持法違反で検挙され仮釈放されて以後のもの――彼の獄中でのいのちを守るための転向声明は、仮釈放をもたらすが、その後の彼の精神を傷つけることになる――である。彼の兄・島崎八郎が本郷通りで古書店を営み、健作はそれを助けるのである。
 この古書店「島崎書院」は、本郷通り赤門前の今の扇屋菓子店のところにあったと思われ、健作はそこから少し離れた《本郷六丁目九番地》の路地に住んだようなのである(1932〔昭和7〕~1935〔昭和10〕)。

 仮釈放状態で肉体的にも精神的にも手負いの健作が身をひそめるように住んだのが、赤門前とはいえ本郷通りから入り込んだ路地だったのです。この地に、三島霜川が身をひそめ雌伏の時を過ごした30年後のことである。

 実際この路地は、100年前どのような状態だったのか。
 “長屋と申しても「最も劣等」なる種類”と書き出して、霜川の山風宛ての手紙はこの路地の実態を伝えています。貴重な記録です。

 “生は本日を以て長屋居住を決行致し申し候。長屋と申しても最も劣等なる種類にこれ有り。其は鮫が橋に見られる穢屋(あいおく)にござ候。屋賃は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、都合二軒にて合計一円六十銭、いかに廉価に候わずや。一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。其れは屋根裏を見て天床を見ず、一棟都合六軒いわゆる九尺二間の屋台骨にござ候。昨日まで新聞記者として且つ文士として門戸を張りし生は、今や俄然車夫、土方の仲間入りをなし彼等と城壁なく談ずるの光栄ある身分と相成り申し候。”

 余談ですが、霜川のこの1901(明34)年の記述は、その2年前に公刊された同郷人・横山源之助の『日本の下層社会』をほうふつとさせる、というより横山のこの報告を下敷きにした筆致である。横山源之助は、「四谷鮫ケ橋」を東京の三大貧民窟の筆頭として挙げ、「車夫」を人足・日雇稼ぎに次ぐ下層民の代表的な職業だと書いています。

 《一棟都合六軒いわゆる九尺二間》の長屋の参考図は下記のようなものです。

e0178600_013677.gif


 霜川が住み、健作が暮らしたこの赤門前の路地は、本郷通りを表通り(この図では右側)とする「袋小路の奥長屋」ですが、九尺二間(くしゃくにけん)の1戸が6軒で1棟の長屋となり、この棟がさらに奥に連なる形になっていますが、路地入り口に共同井戸があることもこの図に近いものだったと思われるのです。
 そしてこの共同井戸がいまだに手押しポンプとして残り利用されているのです。

 この奥長屋での霜川を、もう少し追ってみたいと思う。
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by kaguragawa | 2011-09-22 00:30 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (1)   

 島木健作という作家をご存じだろうか。かく言う私も名前は知っていますが、作品を読んだことはありません。
 が、この「島木健作」がとつぜん、目の前に現われてきました。

 17日に本郷を少し歩いたのですが、実は、文学散歩というようなものではなく、三島霜川の足跡を本郷に探したくて、というよりはなんとかしてその痕跡を一つでも見つけたくて、いくつかの場所に足を運びました。
 まずは、「済生学舎」跡、次に「本郷座」跡、「本郷区本郷6丁目9番地 奥長屋」、最後に「本郷区向ヶ岡弥生町3番地ト11」(ともに旧番地)・・・。それぞれついて、きちんと記しておかなければならないことがあるのですが、ここで少しふれてみたいと思うのは、「本郷区本郷六丁目九番地 奥長屋」(現:文京区本郷5丁目28番地内)です。


 1901(明34)年、三島霜川と徳田秋声は、「本郷区向ヶ岡弥生町3番地ト11」で同居し、霜川は「民声新報」に秋声は「読売新聞」に関わり、ライバル意識をもちながら創作活動を行なうのですが――当時は二人ともまだ文壇に広く知られる存在ではありません――霜川の妹たちもいつしか同居同然となり、二人の同居生活は数か月で解消されます。
 この同居解消後、秋声は前にいた神楽坂近くの下宿に移り、霜川はしばらく近くのおじの家に同宿し、東京帝国大学前の「本郷6丁目9番地」に引っ越していきます。
 この「9番地」での生活も短いものですが、霜川を後世から追いかける私にとってはかなり重い意味をもっています。一つは、なぜかこの地に霜川が本籍を移していること、二つには“霜川と秋声”を考える場合とても大切な意味をもつ書簡をこの地から発信していること、です。本籍の件は、まだまだ確認せねばならぬことが多いので割愛しますが、本郷六丁目九番地発の“高橋山風(高橋隆之祐)宛ての手紙”のことは、すこしずつ書いていきたいと思っています。

 とりあえず今日、ここに紹介しておこうと思ったのは、手紙の内容のことではなく、この「本郷6丁目9番地」そのものに関することがらです。

 この山風宛ての手紙の最後に、霜川はこう書いています。

 “貴兄よ、上京相成らば恐らく御来駕なされ候わんか。貴兄の姿を見る長屋の人々は一個の顕紳の来駕とも見て、眼を側(そばだ)て申すべく候。
 窓の下は古墳塁々として卒塔婆海苔麁朶の如く立つところ、一種の臭気を含む湿気は境に充満し居り候。併して生は此処に清新の詩想を養い且つ雑誌に注ぐ金と精力とを貯える心算に御座候。なお委しくは拝眉の上心肝を吐露すべく候。かくは単(ひとえ)に御訪問の折に、貴兄の吃驚を防がん為にその一端を申し上げたるものに候。生は徹頭徹尾マラーの如き意志を以て文壇に当り申すべく候。(一部略)
 草々頓首 本郷区六丁目九番地奥長屋  三島才二”


 そして霜川は住所の上にこのように追記しています。

 “もし御訪問の折は九番地に入り 奥長屋と聞き下されたく候”

e0178600_23342078.jpg
赤門そばの文字の見える「赤門樋口ビル」と仏教書で知られる“山喜房”のある松岡ビルとの間に、手押しポンプの残るその路地はあった。東大赤門のまん前である。 

 霜川が《奥長屋》と何度も繰り返している「本郷六丁目九番地」がどういうところなのか、実見しようと、今回この地を訪ね、“えっ本郷に、しかも東大の赤門のまん前に、こんな場所が昔の路地の姿のままに残っていたの!?”という驚きに加えて、帰宅してさらに驚いたのは霜川の30年後のこの路地の「奥長屋」に住んだもう一人の作家がいたことです。

 誰あろう、それが最初に紹介した《島木健作》だったのです。
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by kaguragawa | 2011-09-20 00:08 | Trackback | Comments(9)

100年前の秋水とルソーを思う秋   

 土日の東京行の報告をしないといけないのですが、いろんなことを選り分けてからにしたいと思います。

 とりあえず、きのうの朝書いた手書きのメモを写しておきます。

**************************************************
 今から101年前、“大逆事件”の主犯として幸徳秋水が警吏の手に落ちる直前まで暮らしていたのが、新宿駅西、玉川上水にかかる葵橋の南詰めにあった「千駄ヶ谷平民社」。

e0178600_094512.jpg そして私は、今、現在の西新宿1丁目交差点南の「千駄ヶ谷平民社」跡を対面から見おろす場所にあるファストフード店の3階で、ゆっくり朝のコーヒーを飲んでいます。


 秋水は、ここをねぐらとして、何を考えていたのか・・・。

 今、秋水の生地、四万十市の中央公民館で「幸徳秋水展―伝次郎から秋水へ」展が行なわれているという。来年はルソー生誕300年。今から100年前の明治時代、秋水が獄吏によって命を絶たれなければ中江兆民の弟子として秋水が、ルソー生誕200年を企画し、秋水なりにルソーの人民主権の思想を絶対天皇制のもとで鼓吹したことだろう。だがそれもかなわなかった。

 秋水は、ここで、何を考えていたのか・・・。
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by kaguragawa | 2011-09-19 00:49 | Trackback | Comments(0)

霜川をめぐる明治6年生まれの金沢人たち(1)   

 数日前から霜川をめぐる明治6年生まれの何人かが、偶然、私の周りに集まってきてぐるぐる回りだして、頭のなかで渦を巻いている。

 集まってきた順で言うと田中凉葉、桐生悠々、泉鏡花、そして登張竹風・・・。それぞれが三島霜川と結び付いているだけでなく、凉風と鏡花、凉葉と悠々、鏡花と悠々、鏡花と竹風などが互いに――かすかに、あるいは、強く――関係をもちあっている。その辺りを整理しようと思うとぐるぐると頭のなかで回りだすのです。
 霜川が上京後に知り合った、しかも北陸グループに属さない登張竹風のことは別に記すとして、まず鏡花・凉葉・悠々らのことをその相関を中心に整理してみたいと思います。 

 “この間は田中君より手紙まいり、何故すきなく御音信申し上げぬぞと叱りまいり、彼方の御親切喜びおり候。定めし宅へも度々尋ねくれ候ならんと存じおり候。豊春事も世話に成りおり候らわんに、宜敷く御伝言願いたく・・・” 

 これは初めて上京した鏡花が金沢の父に宛てた手紙の一節なのですが、鏡花が実家へあまり手紙を出さないことを“田中君”に諌められたことがまず書かれていて、“田中君”が鏡花不在の泉家にも出入りし、鏡花の弟・豊春(後の斜汀)とも親しくしていることが記されています。

 鏡花のことは詳しくないのですが、ちょっと意外な内容に驚いてしまいます。
 鏡花が上京する前からこんなに親しくしていた友人が金沢にいたのです。それが霜川とも、悠々とも、後に秋声とも親しくなる作家志望の田中泰蔵(凉葉)だったのです。

(つづく)
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by kaguragawa | 2011-09-13 23:53 | Trackback | Comments(0)

ハナミズキの葉害   

 ハナミズキの葉がかなり虫に食われている。ほとんど葉脈だけの葉もある。どうして今まで気がつかなかったものか。夏の町内での一斉駆除で安心していたこともある。

 さっそく、殺虫剤を買ってきて駆除とあいなった。玄関脇の一本のハナミズキから、ぽたぽたと毛虫が落ちてくる。その数、約20匹。

 時期からしても、背面が黒いことからしてもサナギになる直前のアメリカシロヒトリの終齢幼虫のようだ。
 あるweb上のページに“1齢幼虫は頭部は黒色、胴部は淡黄色で、黒色の小瘤起を持ちますが、成長するにしたがって灰黒色を帯びます。終齢幼虫は、頭部は光沢のある黒色で、側線より背面は灰黒色、側面は淡黄色で不規則な斑紋が散在しています。”と詳しい説明がある。

 小さな頃、アゲハチョウの幼虫の脱皮など観察したものだが、さすがアメリカシロヒトリともなると幼虫だ、脱皮だ、サナギだと生態観察をする余裕もしゃれっ気も持ちあわさないが、これも生き物だ。ハナミズキいとおしさに、殺虫剤を散布し、葉裏で身を苦しそうに身をくねらせるアメリカシロヒトリに“南無阿弥陀仏”と念仏を唱えるしかない。

 きょうは、夏が戻ってきたような太陽がジリジリと照りつけている。6か月前の3月11日、東北は冬が戻ってきたような肌寒い日だったようだ。降りしきる雪と津波の映像が重なって思い起こされる。時間の止まってしまったままの地域も多い、。早く、経済産業大臣の後任が決まることを祈る。
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by kaguragawa | 2011-09-11 12:38 | Trackback | Comments(0)

悠々忌の悠々敬呈「写真」   

 悠々忌の今日、徳田秋声記念館の企画展「徳田秋声と桐生悠々――反骨の人」展に行ってきました。この企画展の紹介は別の機会にするとして――「ぜひ、足をお運びください」、とだけお伝えして――、きょうのギャラリートークの場で聞いた耳寄りな話を紹介しておきたいと思います。

 桐生悠々の写真が、新たに見つかったと言うのです。新聞の常として、発表の機会として今日の悠々の命日を選んだのでしょう、今、検索したら「北陸中日新聞」に記事は出ていました。“颯爽 桐生悠々 大阪時代の家族写真”の見出しで取りあげられています。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110910/CK2011091002000140.html
 ちょっとした疑問点も付記しながら、紹介してみましょう。

 記事には撮影の年月日は明記してないが、写真を撮った写真館は台紙に明示されており「大阪市京町堀三丁目 若林独立軒」とある。悠々の大阪時代であれば、大阪毎日新聞・大阪朝日新聞などに在籍した1903(明36)年から1907(明40)年末まで。ただし写真に写っているのは長男の浪男さん(1905.6生)だけで、在阪末年に生まれた長女須磨さん(1907.3生)は写っていない。奥さんの寿々さんのお腹は大きくないので、撮影の時期をいつと考えたらいいのか。

 興味深いのは写真裏に書かれている献辞――“敬呈 吉村賢臺 辱弟 桐生政次”。桐生政次は、桐生悠々の本名だが、「吉村賢台」と敬称で書かれた吉村氏は、「北陸中日新聞」の記事によると、“吉村政行”であり、“一八五九(安政六)年に加賀藩士の家に生まれた政行さんは、東京の開成学校(後に東京大)を卒業。第四高等中学(後に四高)の教員となって、漢文を教えていた”とある。

 新聞で“吉村”の名前を見たとき、首をかしげながらもまっさきに思い出したのが、悠々の自伝とも言うべき「思い出るまま」の養子についての話題にでてくる“四高書記故吉村氏”である。

 “現に私が徳田氏と共に、東京の二階裏に泣いていたとき、当時の四高書記故吉村氏から或(る)華族の家扶に男子がなく、養子を求めているから、そこに行けと勧められ、これを断った為に私の友人、しかも大学の同期卒業生が代わってそこに行き、今安楽なる生活を営んでいる。”

 首をかしげたのは悠々の、“四高書記”と記事の“漢文”教師の異同だ。この部分に、悠々の記憶違いがあるとも思われない。この点も、ちょっと疑問の点なのです。いずれにせよ、中退者の悠々に養子先を紹介するほどだから、吉村氏と桐生悠々(政次)に在学中にかなり親しい関係があったと考えて良いだろう。写真の“敬呈”先は、この“四高書記故吉村氏”=吉村政行氏に間違いないだろう。

(注1)
「若林独立軒」は明治時代の記録写真の撮影者としてしばしば見る名である。ただ新聞記事の「写真店」は、いかがなものか。「写真館」はもう使ってはいけない古い言葉なのだろうか。なお、検索してみると、この「若林独立軒」からのれん分けした「独立軒写真場」が島根にあるようである。
(注2)
板垣栄治さんの論文「石川県専門学校の化学教育」に付されている「石川県専門学校の教職員」表中に《事務官 吉村政行》の名がある。
それによれば《生年月日:安政3年12月 出身地:金沢区新竪町 最終学歴:東京開成学校(明8)  着任年月日:明治16年5月 4等書記/明治17年9月 助教諭》
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by kaguragawa | 2011-09-10 22:57 | Trackback | Comments(0)

“ペルチャッハ”の18際の少女   

 帰宅してインターネットに接続したところすぐ目に飛び込んできたのが、「ブラームス・コンクールで日本人優勝」の文字。
 
 “オーストリア南部ペルチャッハで3日から開かれていた18回ブラームス国際コンクールのビオラ部門で、大野若菜さん(18)が優勝した。大野さんの家族が10日、明らかにした。”とのこと。

 音楽界の現状にうとい私は、「ブラームス国際コンクール」というものがあることすら知らなかったのですが、“ペルチャッハ”の地名からは、ブラームスの2番の交響曲の牧歌的な世界が眼前に広がりました。
 行ってみたい外国の地を聞かれたら、間違いなく“ペルチャッハ”と答えるでしょう。それだけこの幸福感に満ちたこの曲は、その風も陽光もともなっていつも心に響いてくるのです。

 大野若菜さんは、東京芸術大音楽学部附属音楽高校3年に在学中とのこと。18歳の少女がどのようにブラームスを詠うのか。聴く機会が早くこればいいと思う。
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by kaguragawa | 2011-09-10 19:37 | Trackback | Comments(0)

谷口貴都さんの訃報   

 今朝、地元紙を開いて驚いた。そこには高岡法科大学の谷口貴都さんの訃報を知らせる記事があったのだ。

 谷口先生にはお会いしたいとは思いながら面識のないままだった。富山県が生んだ明治時代の法学者で弁護士でもあった“磯部四郎”を新たに見直し紹介する中心となっておられた。先月も地元の放送大学の講演として磯部四郎のことを語られる予定だった(*)が、急病で中止とお聞きし、ご心配していた矢先だった。

 先生の専攻はローマ法であり、広くは法制史であり、民事法であった。そういう意味でもお聞きしたいことがたくさんあった。こころからご冥福をお祈りします。

  *8月20日(土)/放送大学/オープンセミナー 『富山が生んだ近代法学の巨星・磯部四郎』

〔追記〕
10月9日、「谷口貴都先生を送る会」が、氏の勤務先だった高岡法科大学のミレニアムホールで、行われるとのことです。
http://blogs.yahoo.co.jp/higashinojiri/52124414.html
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by kaguragawa | 2011-09-08 23:55 | Trackback | Comments(0)