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野田佳彦と富山   

 民主党の代表は、野田佳彦氏となった。

 彼は、千葉県船橋市の生まれだが、父・野田義信氏は富山県出身の元自衛官だと言う。
 初耳である。

 web上で拾った野田氏本人の弁によると“父は富山県農家の6人兄弟の末っ子。 母は千葉の農家の11人兄弟の末っ子。その長男がわたし。シティーボーイに見えない理由はそこかも。”とのこと。

 
 もちろん富山に縁のある人だからと言って支持するわけではない。が、少し違った目で見ていけるかなと思います。

 それにしても“永田町政治”などとして、現今の政治状況を批判している“口だけマスコミ“はなんとかならないものか。彼らの報道姿勢そのものが旧態依然の永田町視線でしかないのだから。

〔追記〕
 こんなページも見つけました。日経の引用ですが、父の思い出を語る野田紹介です。
 http://seiji.yahoo.co.jp/giin/minshu/000573/activity_etc/20081211.html
 “幼少時に食卓で行儀悪くしていると、容赦なく鉄拳が飛んできた。教育熱心で、読み書きから相撲の技まで直々に仕込まれた。一方、小学生の時に通知表を見せると、成績の低下は責めず、備考欄に先生が記した 「性格はバカがつくほど正直だ」 との評価を褒めてくれる、そんな父だった。”

〔追記2〕
 実は昨晩、安田善次郎のというか善次郎を生んだ安田家の菩提寺を確認するために久しぶりに開いた北康利『陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝―』(新潮社/2010.8)の「あとがき」中の謝辞に“野田佳彦財務大臣”の名があって、深く首をかしげたのですが、野田氏の富山への縁(*)もあったのでしょうね。
 誤解だらけの善次郎像を正す本がここ数年何冊も出ているのは喜ばしいことなのですが、野田氏の財務の見識の中に安田善次郎が生きているとしたらうれしいことです。

 (*)野田家の出身は旧婦負郡八尾町水口(井田川の支流・野積川筋の谷あいの一集落)。もっとも佳彦氏の父君が生まれた頃は、婦負郡野積村水口だったはずです。なお、安田家は旧婦負郡安田村辺り、善次郎の生まれは婦負郡愛宕町鍋屋小路(跡地は安田記念公園)です。 以上すべて現在は富山市。


      野積、室牧 お主とわたし
         逢うて落合の オワラ 夕涼み


 明日から、八尾の街はおわら一色となる(8.31記)。
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by kaguragawa | 2011-08-29 19:39 | Trackback | Comments(4)

浅岡政次郎さんのお名前発見   

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 富山市愛宕町2丁目の愛宕神社の玉垣に浅岡政次郎さんの名前を見つけました。鎌倉からみえたA夫妻とともに浅岡家のことを調べに富山市内を回った際、偶然、この神社に立ち寄りAさんが見つけられました。

 後に竹久夢二の妻となった岸他万喜さんが先夫・堀内喜一との間にもうけた堀内敏子さんを養女とされたのが、当時旅館業を営んでおられた《浅岡政次郎・ヒナさん夫妻》なのです。

 詳細は、あらためて。
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by kaguragawa | 2011-08-27 16:47 | Trackback | Comments(0)

メディアはいつまでもメディア・・・   

 本人を鞭うつ発言は控えたいが、島田紳助(長谷川公彦氏)の事件をめぐり紳助人気にあやかってきた放送メディアなどは、何も知らなかったかの如く、自分たちも被害者であるかの如く、急きょ番組の休止やら中止を打ち出し、本人が会見であきらかにしなかった事実関係の一端をメディアとして報じ始めた。。
 だが、芸能界と暴力団の関係をことさらにあげつらうメディア自身、みずからの利益のために島田紳助の黒い関係に目をつぶってきたのではないのか。

 2004年の紳助の傷害事件の際も、「島田紳助さん」と呼んだ多くのメディアは、きょうも「さんづけ」だ。これが島田紳助でなければ、さんづけなどありえるだろうか。これが数日後に、「最近は人気にかげりも・・・」などと余計なコメントをつけて、犯罪者扱いに一転するのだろうか。

 話は変わるが、原子力人災の事前事後の対応に深い責任を負う現職閣僚が民主党代表に立候補しようとの動きに、メディアはどうして明確にNo!と言わないのだろうか、言えないのだろうか。
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by kaguragawa | 2011-08-24 23:53 | Trackback | Comments(2)

自然を見くびる自然スポーツ   

 木曜日のことだが勤務先からの帰りに土砂降りの豪雨に見舞われた。出がけにもうかなりの雨風だったのだが待っていても雨はあがらず、列車の時間にせかされて仕方なく闇の雨の中を駅に歩きだした。ビニール傘などは無きに等しい状態で全身ずぶ濡れ、くつもじゃぶじゃぶになってしまった。

 当時富山県東部には大雨警報がでていたようで、この時間帯黒部川の支流、宇奈月の弥太蔵谷でキャニオニングという沢下りの自然体験をしていた小学生3人を含む2家族ら7人が増水した谷筋に取り残された。翌日、救助されたものの全員死亡につながる遭難事故であった。どんどん暗さが増していくなかで細い流れの谷水がみるみる増水していく恐怖はいかばかりだっただろう。
 本格的な登山をするわけではないが山の自然の魅力にとりつかれて山を少し歩いた程度の私にも、この日の公表されていた気象状況を聞くと、この沢下りの危険であったことは予想できる。

  「甘さ」を認めながらも「想定外」を強調した運営会社のリーダーの会見には怒りさえ覚えた。利益優先のレジャー山行きには早い段階での中止など許されなかったのだろうか。
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by kaguragawa | 2011-08-21 07:58 | Trackback | Comments(0)

黒岩比佐子さんの新盆に   

 この一年の間に亡くなられた方の“新盆”である。

 今、あらためて想うのは黒岩比佐子さんのことである。

 今をときめくノンフィクション作家だった黒岩さんとブログ上で親しく会話をさせていただいたのも、三島霜川ゆえのことだった。国木田独歩と三島霜川の縁がなければ、現役の作家の方のブログに落書きをするなど引っ込み思案の私のよくするところではなかったろうし、その黒岩さんの作品を読むこともないままに終わっただったろう。

 そして黒岩さんとは昨年10月の「パンとペン」の講演会の折に、少し話をさせていただいた。病身での講演会後のお疲れの場であることを思い、ご遠慮しようかとの思いも強かったのですが、“一言だけお礼を”の気持ちで、「かぐら川ですが・・・」と恐る恐る声をお掛けしたところ、驚いたように「かぐら川さん、富山から?」と、かっちりとしたことばがあった。「ええ。一言、お礼を・・・」とのもじもじに、黒岩さんは、すくっと姿勢を正して「本を読んでくださって有り難う。いつも、有り難うございます。」と礼をされたのでした。それは拙い書評やとるに足らぬ資料提供に対するものとしては、あまりにていねいなものでした。私は、どぎまぎしながらあることをお伝えし、作家としての黒岩さんの姿勢に胸を熱くして、その場をあとにしたのでした。

 そして黒岩さんは、一か月後に亡くなられた。黒岩さんとのささやかないくつもの約束をほとんど実行していないのみならず、最後にお約束したことはなんら実行しないままである。今は、黒岩さんの笑顔を思い、頭を下げるのみ。
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by kaguragawa | 2011-08-16 23:37 | Trackback | Comments(2)

甲子園の“新湊高校”   

 テレビをつけたら高校野球――新湊(富山)×東洋大姫路(兵庫)戦。「新湊高校」、我が射水市の高校である。高校野球ファンのひとなら25年前春の選抜にベスト4に残った同校の“新湊旋風”を覚えておられるかもしれない。この年の夏、再び甲子園に登場し敗退した新湊高校に阿久悠さんが「さらば旋風児」という詩を捧げたことはあまり知れていないかもしれない。
 先日、接戦のすえ龍谷大平安を降しての東洋大姫路戦。さあ、今年の甲子園はどうなることだろう。



   さらば旋風児      阿久悠

 マンモス球場を新湊旋風が吹き抜けた
 粘投酒井投手
 誰もがきみたちを待っていた
 春の旋風児が夏の嵐となり
 今度は
 そびえたつ入道雲に挑む姿を
 心待ちにしていたのだ
 もしかしたら
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 きみたちは ふたたび甲子園に帰ってきた
   あの素朴でういういしい
   しかし どこかしたたかな少年が
 充分に期待にこたえる風格をそなえて
 入道雲を見あげていたのだ
 だが戦況は不利に進んだ
 春の旋風児も
 夏の中では陽炎(かげろう)のようにさえ思えた

 夢は夢か 少年は少年か
 春は春か 無欲は無欲
 勝ち負けは誰も問わない
 この甲子園で何かを証明出来たか
 それだけを問う
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 敗れはしたが 新湊高校
 きみたちは夏もまた自分たちであり得た
 心の竜巻が起きたはずだ
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by kaguragawa | 2011-08-15 08:57 | Trackback | Comments(0)

“不可解な因縁”   

 お盆にことよせて三島霜川の書いた“追悼文”を紹介しておきます。藤沢清造の死に寄せたものです。霜川のこの種の文章はあまり残っていないようです。

 “藤沢君を知ったのは、画報の三四年の頃だったと思う。だから、二十年以上の旧知ということになる。
 初めて私のところへ連れてきたのは、安野という文学志望の人だった。よく徳田君のところへやって来たので、それで私とも懇意になったのだが・・・・。
 その後、私と藤沢君とは、関係がだんだん深くなって、ひと頃、机をならべて一緒にこの画報の仕事をするようになった。その頃、安野君は、つまらないことから気が変になって首をつって、悲惨な死に方をした。
 『安野の死に方は面白いですよ。僕は、書く。ム、きっと書く。』と云って、藤沢君は、ある興奮に悲痛な顔をして、「安野の死」のいきさつを話したことが二度や三度でなかった。安野君のことは、彼の作「根津権現裏」に、相当委しく出ているが、私は、その安野君と藤沢君を結びつけてみて、そこに何か不可解な因縁があるように思われてならない。
 好いにしろ悪いにしろ、死んだ者のとやこう云うのは好ましくないことだが、ただ一つ、彼が、案外、義理固いところがると同時に、異常にキチョウメンなとこがあったことだけはを云っておきたい。で、画報の仕事から云うと、あれほど、しっかりとした校正者は後にも先にもいないと言える。
 私は、ここ十年ほど、ほとんど彼と話したことがなかった。ところが、昨年五月、途中でバッタリ逢って、それからまた、およそ七八へんも逢って、いろいろな話もしたが、「どうかしているんじゃないか。変だ」といつもそう思っていた。眼もショボショボしていた。影も薄かった。河田町の方へ越してからずっと逢わなかった。”


 これは「演芸画報」の昭和7年3月号に載ったもので、文中の「画報」はこの「演芸画報」のことですが、題が「不可能な因縁」になっています。「不可解な因縁」の誤植でしょう。
 藤沢清造については、なんどか旧日記も含め紹介していますが、今や西村賢太氏によって広く知られるようになった能登(七尾)出身の作家です。
 藤沢清造が亡くなったのが、1932(昭7)年1月29日、文中の「安野」は、安野助多郎で、亡くなったのが1912(大1)年10月29日(西村賢太氏による)です。
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by kaguragawa | 2011-08-14 08:41 | Trackback | Comments(0)

馬淵川・・・ちょっと、めも   

 岩手県から青森県に流れ込んでいる馬淵川。〔まべちがわ〕と読む(呼ぶ)のだそうだ。
 忘れないうちに、メモしておこう。

〔追記〕e0178600_1411272.jpg
 “下閉伊郡岩泉町と岩手郡葛巻町の間にまたがる安家森連峰に端を発し、岩手県北部中央を北上、青森県八戸港から太平洋へと流れる川です。 
 川の名前は、アイヌ語で大きい川を意味する「マベツ」に由来するといわれています。”

・・・と、「馬淵川上流で釣りをしよう」というページにありました。
                                        (写真は、岩手県葛巻町のHPから)
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by kaguragawa | 2011-08-10 20:21 | Trackback | Comments(0)

〔高橋山風〕   

 野口存彌さんの『野口雨情――詩と人と時代』(1986.3/未来社)を読んでいて、思わず目が点に。

 そこに、《高橋やま風》の名が!。
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by kaguragawa | 2011-08-07 22:23 | Trackback | Comments(0)

夏の、恒例の。   

 きのうはお盆に先だってお墓の掃除、きょうは町内の納涼祭。ともに夏の恒例行事。
 予定していた金沢行きは諸般の事情でやむなく取りやめ。

 二上山ふもとの寺には聞いたことのない鳥の声が幾種も。ふと俗世を抜け出た気分に。
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by kaguragawa | 2011-08-07 21:56 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)