<   2011年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧   

藤沢清造「根津権現裏」、新潮文庫に登場!   

 芥川賞おそるべしである。

 どう考えても「新潮文庫」に入りそうもない作品が、七月一日発行の新潮文庫として発刊された。
藤沢清造の「根津権現裏」である。もちろん、どういう事情であれ、大歓迎である。

 言うまでもないことながら“藤沢清造命(いのち)”の作家・西村賢太氏が、芥川賞を受けたことが機縁になっている。氏自身がこの文庫の解説で、明言している。
 “此度(こたび)の復刊実現については、これはありていに述べぬ方が嫌味な話なのでハッキリ言うが、すべては第百四十回芥川賞の、一方の結果から端を発している。”

 なお、不自然な力みの感じられる西村氏の「解説」だが、氏らしくない信じがたい間違いがある。「清造は後年、秋聲の廿日会(はつかかい)にも参加している」と、ルビまでふられている“廿日会”だが、こういう会は存在しない。
 秋聲のはま夫人が1月2日に亡くなったことにちなむ“二日会”の誤りである。

 それにしても新潮社の編集者も、どうしたのだろう。芥川賞作家の原稿は、間違っていても一字一句を尊重するのだろうか。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-28 00:30 | Trackback | Comments(2)

北村薫vs三島霜川   

 諸般の理由で、「週一ライター」になってしまった。今月いっぱいで停止になってしまう“さるさる日記”に「めぐり逢うことばたち」を書いていた頃は、雑録の合間に自分で言うのも変だが密度の高いものや記録としても貴重なものも含め、ほとんど毎日書き込んでいたこともあるのだから、今になって考えると不思議である。

 というわけで、いつのことだったか書こうと思いながら書かぬままになった霜川メモをここに載せて、かろうじて「週一ライター」である資格証明としておきます。e0178600_23272516.jpg
 北村薫さんのミステリー<円紫さんと私>シリーズの第一作「織部の霊」に登場する三島霜川である。

 円紫さんは、コーヒーを口に運びながら、私が鏡花が好きだといったのを思い出したのだろう。挨拶のようにいった。
「関係ありませんが、泉鏡花に『外科室』という短編がありますね」
「三島霜川に『解剖室』という短編もありますわ」
 文学部の学生らしく切り返せた。ようやく一矢を報いた感じである。実はこの間、短編文学全集で読んだばかりである。円紫さんは、ああそうですか、などといっている。いい気味である。
  
    (『空飛ぶ馬』〔創元推理文庫」から)

 はたして、文学部の女子大生《私》が読んだ“短編文学全集”はどの短編文学全集だったのだろう。これを推理してみようと思いながら、すっかり忘れてしまっていた・・・。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-26 23:08 | Trackback | Comments(0)

南原繁「歌集形相」から   

 秋聲記念館では、7月31日から「桐生悠々展」。
 『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』などの文筆活動で当局と闘い続けた悠々の亡くなったのがアメリカとの開戦を3ヶ月後にひかえた1941年9月10日。
 文学的デビューを語りあいともに金沢から上京した悠々の若き日の友だった徳田秋声の新聞連載中の芸者の一代記『縮図』が、当局からの圧力によって中断したのがその5日後の9月15日・・・。
 このような人生の軌跡をもった二人の出会いと交流はどのようなものであったのか。

 秋声、悠々の人生が東京と名古屋という異地で不思議な交わりをもった1941年、秋。
 ようやく手に入れた南原繁「歌集形相」のなかに、同じ時期に率直に詠われた歌が残る。

    十月十七日第三次近衛内閣倒れ東条内閣つくらる

  一死国に報いむと言挙げし大臣近衛の三月にして去る

  一人に総理陸軍内務大臣を兼ぬこの権力のうへに国安からむ

  権をとれる者ら思へヒットラーといへども四面楚歌は敢えてなさざらむ

  あまりに一方的なるニュースのみにわれは疑ふこの民の知性を

    十二月八日

  人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ

  日米英に開戦すとのみ八日朝の電車のなかの沈痛感よ

  民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾(うべな)はむか
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-20 01:08 | Trackback | Comments(2)

ちょっと報告   

 土曜日に金沢に遊び、金沢ふるさと偉人館に寄って「北陸の鉱山王 横山隆興――尾小屋鉱山ものがたり」を見てきました。横山隆興その人や尾小屋鉱山にも興味はあったのですが、なによりも感嘆したのはそこに展示されていた徳田秋声の二幅の掛け軸でした。例のあの秋声独特の字で、徳田家がその陪臣であった横山家とその経営する尾小屋鉱山のことを語っているのでした。横山家は、明治以降も徳田家一族の多くの人々に主家としてありつづけ、秋声の小説にもいろんな形で登場してくるのです。

 その後は秋聲記念館におもむき講演会「加能作次郎の人と文学」(加能作次郎の会・大野堯会長)聴講。要約も感想も割愛させていただきますが、作次郎と京都から始まって浄土真宗への堅い信仰に至る作次郎の生と三島霜川のそれが重なってしかたなかったのも、同じ北陸の作家故か。
 そうそう、作次郎展の展示パネルの集合写真中に霜川を発見!。加能作次郎と三島霜川の間に特別の親交があったということは聞いていなかったのですが、よく見たら《水守亀之助新著「愛着」記念の会》のもの。さもありなんです。残された写真も少ない霜川ですが、こういう写真があるとは知りませんでした。いずれにしても貴重なもの。(「文章倶楽部」大正10年7月号掲載のもの)

 講演会終了後の片づけに忙しい学芸員のYさんをつかまえて雑談。ひとこと報告のつもりが、お茶とおやつまでいただいてしまって(すみませんでした)。

 帰りに近八書房で、木下尚江「火の柱」、南原繁「歌集形相」の2冊の岩波文庫を見つけ迷わず購入。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-19 23:58 | Trackback | Comments(0)

霜川の父・三島重法のこと(1)   

 脈絡のつながらない話を突然持ちだして恐縮なのですが、三島霜川の父・重法の話題です。昨日、三島家の戸籍に霜川の父・重法に関してこう書かれているのを見つけたのです。(この戸籍関係書類は研究家の手写しの稿しか残されていないのですが。)

 ・明治七年五月二十日ヨリ 為稼京都府下烏丸通四条下ル水銀町安原一郎方寄留
 ・十二年三月 帰省


 今まで話題にされたことのないこの霜川の父・重法の5年にもわたる京都寄留を、どう考えればよいのか。

 着目すべきは、霜川(本名:才二)が生まれたのが明治9年ですから、霜川は父のこの京都寄留期間中に生まれているという大事なことがらです。
 戸籍(附表)記載の「為稼」は、“仕事のため"の意かと思うのですが、その「稼」とは何であったのか、その「稼」は、烏丸通と四条通の交差する京都洛中ど真ん中の寄留地に関係があったのでしょうか。重法は、数え年齢でいえば17歳から22歳にわたる若き日を異郷に過ごしたことになるのですが、単身だったのか妻同伴であったのか、そもそも重法の結婚はいつであったのか、その間、三島家の郷里の医家はどうなっていたのか・・・。次から次へと疑問が出てきます。それにしても、重法はなぜ5年も家をあけねばならなかったのでしょう。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-14 22:31 | Trackback | Comments(0)

霜川の父・三島重法のこと(2)   

 霜川に視点を移して考えれば、重法が妻同伴で京都にいたとすれば霜川の出生地が京都である可能性が出てくるのと、重法が単身でいたのだとすれば霜川は4歳になるまで父不在であったことにもなるのです。 なぜか霜川の幼少期が意図的に記録を消されたかのように資料不存で不明なのは、この父・重法の不可思議な行動、ひいては三島家のなにがしかの事情とも関係があるのではないか・・・。

 いずれにせよ、霜川の生活にも大きく関わる父の戸籍に記載された「謎の5年間」。これに、もう少し注目しても良いのではないかと思うのです。このことは、もう一つの論点にもつながってきます。

 父が家をあけていた期間は、38年という父・重法の短い生涯のなかで、この5年だけではないのです。霜川が書いているものなどから推測するに、父は、開業医の資格をとるために30歳頃に東京の済生学舎で少なくとも1年から2年は学んでいるようですし、開業医の資格をとってから――済世学舎からの紹介斡旋でもあったのでしょうか、――福島県にまで行って医業をおこなっています。その福島時代は、最初は中通り地区その後は浜通り地区(四倉)と併せて2年に及びます。村医者、町医者に安閑としておれぬ性格だったのでしょうか、庄川河畔の父祖代々の土地から離れたいという強い希求があったのでしょうか。
 少なくとも父・重法は、生地を離れた東京時代と福島時代を、幼少期から十代半ばまでの息子・才二〔霜川〕とともに――おそらくは二人で!――過ごしているのです。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-14 22:29 | Trackback | Comments(0)

陽美保子 句集『遥かなる水』   

 陽さんから句集『遥かなる水』を恵送いただく。すてきな装丁の本。

 陽美保子さんの第一句集――。「あとがき」に、“『遥かなる水』は、私の第一句集です。平成十二年春から平成二十二年秋までの約十年間の俳句をまとめました。”・・・とあって、えっ、「第一」句集なの!?、と驚きました。

 今、このブログに、「奥のほそ道」のおっかけやら、ちょうど俳句文学館訪問など旧日記の再録作業をしていて、陽さんや札幌の「ぽぷら21」の皆さんとの出会いのおかげと、少し過去となった数年前のことを思い出していたところでした。

 最近の句は拝見していなかったのですが、視野が鋭角ですごみのある句が多くて、これもちょっと驚きでした。

   たんぽぽやこの風とこの町が好き

   雨やんで素直になって心太

   手花火の玉を落とさぬ息遣い

 ・・・といった十年前の句のやさしさとやわらかさに、近作の深みが重なってみるとどうだろう・・・と、苦笑されることを承知のうえで、まとはずれな嘱望を書いておきたいと思います。 以下は、収録最後の三句。

   わが息のわれを離れぬ酷暑かな

   一斉に二百十日の鴉翔つ

   秋の潮巌は小石落としけり


 うれしくて、ページを数ページ繰っただけで、何かお伝えしたくて、よしなきことを書きつづってしまいました。実はこれから“ゆっくりと”読ませていただきたいと思っいるのです。

 ☆陽美保子 句集『遥かなる水』(本阿弥書店/2011.6)
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-14 01:02 | Trackback | Comments(2)

「ヴォーチェ・フォンターナ」第10回演奏会   

 女声合唱団「ヴォーチェ・フォンターナ」第10回演奏会

 私にとってこれだけサプライズとハプニングが次から次へと巡ってきた幸福な演奏会は、初めて。

 その多くのサプライズとハプニングの中でもいちばんささやかな、しかし、いちばん深い驚きは、「女声合唱とピアノのための「赤い鳥小鳥」で聞いた北原白秋の「赤い鳥小鳥」の詩でした。

 “赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実を食べた。”(「赤い鳥小鳥」)

今まで、品の良いナンセンスソングといった程度の読み方しかしていなかった、その程度の受け取り方しかできなかった自分の感性の低さを思い知らせるように、“なぜ、なぜ”という問いと、そうでしかありえないという答えががやさしい歌声で響いてきました。

 最後のステージでは、客演指揮の“あの”――といっても合唱になじんでない方には無名のかも知れませんが――松下耕さんのユーモアいっぱいの指導で会場が一つとなって「世界がひとつになるまで」を歌うという感動的な場も用意されていました。

 私にとってサプライズだったのは、合唱団「ヴォーチェ・フォンターナ」の指導にあたってこられた中村義朗さんが常任指揮者の職を去られるということ。
 中村先生、長い間ごくろうさまでした。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-10 23:36 | Trackback | Comments(0)

1928年の6月4日   

 きのう6月4日は、当時の満洲奉天の近くで中国軍閥の張作霖が爆殺される事件(張作霖爆殺事件)があった日でした。といっても、この事件の日付など忘れてしまっていたのですが、なぜか偶然この日に『謎説き「張作霖爆殺事件」』(加藤康男/PHP新書)を買い、読み始めました。この新書のページを書店で繰っていたときに、昨年の9月に少しメモ書きしたままになっている「松村謙三」の名前が、目に入ったからなのでした。「6月4日」を意識したわけではないのです。

 話は変わるのですが、この一週間後、竹久夢二は富山に来て黒部峡谷に遊んでいます。翁久允に誘われた夢二は、1928(昭3)年6月10日、黒部峡谷に入り新緑を堪能したのでしょうかその夜は、延対寺旅館旅館に泊り、11日は富山市内の富山ホテルに泊っています。そして数日富山に滞在しています。
 実は6月4日早朝の事件はすでに東京日日の夕刊で、翌日からは各新聞で、写真も含め大々的に報じられ謀略のにおいのする事件は人々に不安をいだかせます。

 日本の行き先も、夢二の行き先もどんどん暗くなっていく頃でした。その頃、賢治は賢治で、羅須地人協会の活動が少しかげりを見せるなか労農党稗貫支部にかかわり、6月7日には東京、大島へ向かいます。そして霜川は金の星社に児童向けの歴史読み物をさかんに書いていきます。
 賢治にとっても、霜川にとっても、夢二にとっても、人生は最終章に入ります。残された生は、あと5,6年だったのです。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-05 23:16 | Trackback | Comments(0)

霜川の“児童向け読み物”   

 このブログはマイナーな人物の紹介サイトですか?というようなご意見をいただいたことがありますが、マイナーかどうかはともかく、自分の興味をもった人物のあれこれを少しずつでも掘り起こしていくなかで新たに見えてくることがらの中に宝物のようなものがあることは確かですし、なによりその過程の愉しさは何よりも貴重です。

 羽鳥古山(はとり・こざん)。この画家については、web上では情報がなかったのですが、『図説絵本・挿絵大事典』という便利な?事典があることを知り、図書館で閲覧。
 簡単ながら興味深い紹介がありました。

 〔1891~? 〕
 明治24年、東京に生まれる。本名捨三。梶田半古に師事。昭和3年に『金の星』を改名した『少年少女 金の星』に口絵や挿絵を描く。
 

 私の目の前に、三島霜川『少年水滸伝』(金の星社/1936(昭11).5)があります。
 この本の〔装丁・土村正寿 挿絵・羽鳥古山〕。霜川晩年の金の星社版の児童向け読み物の挿絵のほとんどを、この“羽鳥古山”が描いているのです。

 私は霜川の初期~中期の小説に魅かれて三島霜川の人となりを調べ始めたのですが、まだ霜川の歌舞伎評論も児童向け読み物もほとんど読んでいません。まだなかなかそこまでは手が届きません。が、一言だけ感想めいたことを書かせてもらうとすればこうなるでしょう。
 ・・・歌舞伎評論は、評価の高いものですが、一方子供向け読み物は、評価が定まっていません。というより子供向けのものは、身過ぎのため、生活のために手を染めたもので、今さら評価するに及ばぬもの再読の価値のないものとされています・・・と。

 しかし、今日、「羽鳥古山」を調べたついでにのぞいた『日本児童文学大事典』(大阪国際児童文学館編)にすばらしい論考を発見しました。同事典に「三島霜川」の項があり、田中栄一さんという方が、霜川作品の確かな読み込みのうえで懇切な紹介を書かれているのです。

 なお、上に紹介した『少年水滸伝』もそうなのですが、霜川の〔死後に〕金の星社から刊行された霜川の作品が数多くあるのですが、これは再版でななく初版です。田中栄一さんはそうしたことについて霜川の〔少年歴史文庫〕にふれて“これらも各巻100~250ページの分量がある。死後も刊行され続けており、おそらく生前に書きとめておいたものであろう。霜川の最後の作品集といってもよいものである。”と書かれています。

 手元にとどいたばかりの『少年水滸伝』と、コピーした田中栄一さんの「三島霜川」項――。あらためて紹介したいと思いますが、今晩はこれを風邪気味?の枕元において安眠できそうである。
[PR]

by kaguragawa | 2011-06-03 23:19 | Trackback | Comments(0)