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いつもの思いつくまま――与謝野晶子の亡くなった日に   

 いくつかのことが重なり通勤路のシャリンバイの花が咲いたことを書き込もうと思いながら、ときが過ぎてしまいました。・・・そして、今朝からの雨のなか、庭に咲くシラン(紫蘭)の野性味のある美しさが好もしい。

 森まゆみさんの『断髪のモダンガール――42人の大正快女伝』を朝から読む。山原鶴さん、というまったく知らなかった人をいちばんおもしろく読みました。
 よく取材されている割には基本的な事項に間違いや思いこみが目立つのも、いつもの森さんらしい。

 先日、高岡出身の作曲家室崎琴月に「伝書鳩」という曲があることを紹介しましたが、なんとこの童謡の詩は、佐々木雪香という11歳で亡くなった少女のものでした。そもそも琴月が晩年、手すさびにつくっていた短詩(句や短歌)のなかに、“駿河台近くに住めり与謝野女史”“今にして面影偲ぶ晶子女史”というのがあり、室崎清太郎(のちの琴月)が修学時代に見た駿河台東紅梅町時代の与謝野晶子のことを確認しようと思っていたのですが、どんどん横にそれいくつもの脇道にはいりこんでしまいました。
 与謝野晶子の評伝を探していたら、夢二の年譜の1915(大4)年の「『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。」という項と、ぶつかってしまいました。夢二研究でも詳細についてほとんど(まったく?)ふれらることのないこの『新少女』創刊号以来の“挿絵”とは、なんと晶子の少女期の回想記「私の生い立ち」だったのです。驚いたことに、晶子の何度にもわたる全集にもこの回想記は収録されてこず、上笙一郎によって発掘されるまで知られていなかったというから驚きです。羽仁もと子による婦人之友社『新少女』の創刊に際して、与謝野晶子と竹久夢二は顔を合わせていたのでしょうね。

 佐々木雪香の遺した童謡については、いずれ紹介したいと思っています。 

    *与謝野 晶子  1878.12.07~1942.05.29
    *佐々木 雪香  1916.07.05~1928.06.09

 
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〔追記〕 
 午後から三島霜川生誕地の碑を久しぶりに足を運びました。
 先週土曜日(5/21)以来のできごとの報告のため。
  (雨風のため携帯のレンズがくもってしまいました。)

 話は変わりますが、きのう訪れた「日本伝統工芸富山展」では力作の数々に、
 心洗われました。


  ――夜になって気がついたのですが、きょうは、与謝野晶子の亡くなった日だったのです。
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by kaguragawa | 2011-05-29 11:39 | Trackback | Comments(0)

思いつくままのメモ   

 きのうから今日にかけていろんな本が手元に集まってきました。行方不明になっていた――実は満員の車中で落した――林えり子さんの単行本初版の『愛せしこの身なれど』の里帰り?を筆頭に、霜川の実質的な処女作「ひとつ岩」が収録されている「福島県文学全集(全12巻)」、今日講演会で興味深いお話しをお聞きした中右瑛さんの『夢二ドキュメント――波乱万丈・恋人生』、『神戸と少年夢二』(豆本)、なぜかこれも福島にちなんだ内海久二『夢二――ふくしまの夢二紀行』、そして与謝野晶子にちなんだ内緒のもう一冊。
 そうそう、いずれあらためて紹介したい佐々木雪香『雪の香』・・・。

 こうして、有限であるはずの!?時間もお金もやはり有限のようで、心だけが無限に豊かになっていくのも、うれしくもつらい現実である。

 ところで、林えり子『愛せしこの身なれど――竹久夢二と妻他万喜』には、他万喜の通った金沢市立高等女学校――厳密には校名は[金沢市高等女学校]――の初代校長のことまで紹介しているのですが、林えり子さんが“カイゼル髭をたくわえた彼の訓話は女学校の名物といわれた”と書いているその校長・土師双他郎の家が、金沢の彦三町(ひこそまち)にあった――現在の「彦三緑地」のところ――ことを偶然知って、宝物を見つけたような気になっているバカな私には、無限と有限を測る適切なものさしがないのです。

〔追記〕
 岸他万喜があこがれたミッションスクールの金沢女学校の基を築いた〔トマス・ウィン夫妻〕と、この学校に行くことを父に断念させられた他万喜が通った金沢市高等女学校の上記の〔土師校長〕が懇意だったことを他万喜は、校長の談話の中で聞いただろうか・・・。
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by kaguragawa | 2011-05-23 00:29 | Trackback | Comments(0)

“由規”と楽天“マー君”の仙台対決   

 セ・パ交流戦はおもしろい。Kスタ宮城(仙台)での楽天とヤクルトの試合。

 ヤクルトの仙台出身“由規”と楽天の“マー君”(田中将大)の投手戦。
 田中が15奪三振で投げ切り、2―1で楽天勝利。
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by kaguragawa | 2011-05-20 23:10 | Trackback | Comments(0)

「雨降り花」小考〔再掲〕   

  桜桃花会さんのブログで、日塔貞子の詩「美しい春の来る村」と、貞子が亡くなった山形県西川町入間に咲く「雨降り花」の紹介がされています。
 数年前にこの詩にちなんで《「雨降り花」小考》を書いたのを思い出したのですが、旧い別ブログですので、あらためてここに紹介しておきます。桜桃花会さんのブログをご覧いただいて、合わせてお読みいただければばうれしく思います。

■2009/03/22 (日) 「雨降り花」小考

 「雨降り花」という語に初めて出逢ったのは、日塔貞子さんの詩「美しい春の来る村」でした。詩の一部を紹介します。

   明るく谷間をうずめて 光のそよぐように
   雨ふり花や堅香子の花の咲く
   静かな山の村があるのだという
   美しい春の来る村があるのだという
    (中略)
   もうじきに 雨ふり花や堅香子の花は
   あるがままに谷間をうずめて咲くだろう
   美しい春の来る村に咲きあふれるだろう
   私たちの希いにも明るい光を放って咲くだろう

と、この詩では「雨ふり花」と「堅香子(かたかご)」が一緒に詠われています。

 「雨降り花」がいったいどんな花なのか、興味津津で調べたことを、昨年〔2008.4〕、日塔貞子の詩を教えていただいた桜桃花会の皆さんのブログ「雪に燃える花」に書きこませていただいたのですが(*1)、先日、宮澤賢治の詩に詠みこまれた自然を見事な写真とともに取りあげておられるnenemuさんのブログ「イーハトーブ・ガーデン」で、カタクリに続いて日塔貞子が雨降り花と詠んだ花々が紹介されていました(*2)。

 *1)
 http://outoukakai.exblog.jp/7799208/
 *2)
 http://nenemu8921.exblog.jp/11135466/
 http://nenemu8921.exblog.jp/11144379/

 そこであらためて、「雨降り花」について、愚考してみた一応の結論を、参考までに書いておきます。

    ━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 梅雨期に開花する花々の一群(アジサイ、ホタルブクロなど。ヒルガオもここに含めてもいいでしょうか)も、「雨降り花」と呼ばれていますが、春先に咲く可憐な花々(アズマイチゲ、キクザキイチゲやイチリンソウなどのキンポウゲ科イチリンソウ属の花や同じくキンポウゲ科のセツブンソウやケシ科キケマン属のエゾエンゴサクの仲間など)を「雨降り花」と呼ぶのがこの語の古い用い方のようです。
 “この花を摘むと雨が降る”という言い伝え(禁忌伝承)の裏には、厳しい冬を乗り越えて芽吹いた生命へのいたわりを読みとることもできそうですが、本来の語義は、「雪が雨に替わる頃に咲きだす花」ではないかと思われます。いずれにせよ、春の雨のやさしさを想う時、スプリングエフェメラル(Spring ephemeral)という語にどこか通づるものを感じます。
(2009.03.22)
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by kaguragawa | 2011-05-15 17:56 | Trackback | Comments(0)

アザレアとツツジについて   

 きょう金沢に行った折に、ツツジで有名な彦三緑地に寄ってみました。ここに「ツツジ資料館」という建物があったのではいってみたところ(ここは無人の説明館でした)、説明資料に「アザレアとツツジについて」という一文がありました。

 そう、盛岡高等農林在学中の宮沢賢治が学友とつくった文芸誌のタイトルが「アザリア」です。アザリアがツツジの仲間の花だと言うことは知っていたのですが、きちんと調べてみようと思いながら無精にも、何年も(何十年も?)調べないままになっていたのです。
 「ツツジ資料館」の要領のいい説明を、書き写してきましたので、ここに載せておきます。

 “アザレアは西洋ツツジとも呼ばれるようにヨーロッパで品種改良された鉢植え用のツツジです。中国産ツツジのシムシーや日本のサツキ、リュウキュウツツジなどを使ってヨーロッパ、主にベルギーで品種改良されたもので、ヨーロッパではベルジアン・アザレアと呼ばれています。アザレアはツツジ全体を総称する英名ですが、日本ではこのベルジアン・アザレアのことをアザレアと呼んでいます。”
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by kaguragawa | 2011-05-14 23:57 | Trackback | Comments(0)

夢二、他万喜の父の墓参をする!(1)   

Kさんへ

 前略
Kさんの夢二への熱い思いにはいつも教えられることばかりです。Kさんのお勧めもあって始めた ブログ「夢二を歩く」、少し形になったようです。このブログを書きながら気付いたこと(私にとっては、とても大きな発見だったのですが)を、ご報告しておきます。

 ・100年前の5月1日、チコこと不二彦生まれる(1911)
 ・5月3日 多忠亮、生まれる(1895)
 ・5月3日、夢二と他万喜が、協議離婚(1909)
 ・5月5日、夢二が初めて金沢に(1910)
 ・5月6日、他万喜の父・六郎亡くなる(1904)
 ・5月7日、夢二アメリカに発つ(1931)

 と、日を追って順に書いてきて「どうして夢二には5月にかかわるできごとが多いのだろう?」と不思議になりました。が、「まぁ、これも偶然というものだろうなぁ」と、変に納得していました。

 ところが、大事なことに気がついたのです。忘れないうちに、ちょっとメモしておこうと思います。

 夢二と愛憎の生活をなんども繰り返していた妻・他万喜の親族〔父・六郎や兄・他丑など〕のことを、私が執拗に追いかけてることをKさんはご存じのとおりですが、手がかりがなくて行き止まり状態になっていました。また、そんな些細な詮索が、夢二を理解することにつながるのかという問いには、自分でもずっと答えのでないままでいました。

 そんな私の状態を見かねて、六郎さんが、遠いところから私にメッセージを送ってくださったのでしょうか。
実は、上に書いたように夢二の年譜から「5月」に関係のある日を探してブログに順番につづってきたのですが、他万喜の父・岸六郎の命日まできちんと覚えていたわけではないのです。連休の最後の晩に明日は仕事と、ちょっとブルーな?気持ちで、「次は、7日。夢二の外遊旅立ちの日だな」と思ったときに、「何か忘れてるぞ!」と、頭の中でざわざわとした思いがあって、夢二に縁のある人の生歿日をあらためて確認をしたのです。真っ先に思い当ったのが他万喜の父で、なんと翌日の「6日」が彼の亡くなった日だったのです。

 ここが、偶然の始まりでした。
 「1904(明37)年5月6日、他万喜の父・岸六郎が富山県高岡市で亡くなりました。六郎(もと六郎左衛門)は、加賀藩の藩士でしたが明治維新とともに下っ端の司法官僚から最後は高岡区裁判所の判事を最後に退職し、公証人として活躍していました。 この時点では、他万喜はまだ夢二と出会っておらず、父の住居の近くで高岡工芸学校の図画教師・堀内喜一と幸せな結婚生活を営んでいました。・・・」と、ここまで記憶をたどってすらすらと?書いきて(*)、裏づけをしようと思って手に取った本に、これも偶然に、金沢にいた夢二に宛てた“他万喜の手紙”を見つけたのです。
 今まで、何度かこの手紙は目を通したことがあったのですが、ここに「父の墓碑」のことが書いてあることは読み飛ばしていたのです。岸家の菩提寺に岸家の墓がない・・・ということは、今年の2月には分かっていたものの、次の探索をおこなう余裕は、大地震と原子力発電所の事故で失くしてしまっていたのです。

 他万喜の手紙に書かれていたのは、単独で金沢を訪れた夢二が、他万喜の父の墓参をしているという驚くべき事実でした。他万喜の父・六郎は、夢二にとっては――同居しているとはいえ離婚した妻の父であり、――二人が出逢う前に亡くなったその面影を知らぬ他者(ひと)なのです。

〔追記〕
*の個所について;
 この部分は、5月6日、出勤前の15分という限られた時間で書きあげたため読み返す間もなかったのですが、あらためて読み返すと間違いだらけでした。
 1)他万喜の父・岸六郎の退職前の職位、〔富山区裁判所の監督判事〕(×高岡区裁判所の判事)。
 2)他万喜の夫・堀内喜一の勤務先、〔富山県立工芸学校〕(×高岡工芸学校)
 〔高岡工芸高校〕--この校名になるのは1941〔昭16〕年。なお、堀内喜一が職についた1901年明治34年度から、校名が富山県工芸学校から富山県立工芸高校になっており、〔富山県立工芸学校〕時代は、ちょうど40年間である。)
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by kaguragawa | 2011-05-07 20:00 | Trackback | Comments(0)

夢二、他万喜の父の墓参をする!(2)   

 “夢二が金沢で、他万喜の父の墓参をしている!”。
 なんと衝撃的なことでしょうか。妻の父――繰り返しますが、夢二にとっては他万喜と出逢う前に亡くなっていた面影知らぬ妻の父です――の墓参をする夢二・・・・。こうした夢二と他万喜との関係など今まで誰も取りあげたこともなかったのです。岸六郎の墓碑がどこにあるのかという関心より、同居しているとはいえ法律的には離婚し不安定な関係にあった二人の愛憎の核心をさししめすこの事実の重さに慄然としてしまったのです。

 この事実が頭から離れず、何度も反芻して考えていたとき、いくつかのことに気づきました。
 「5月5日、夢二が初めて金沢に(1910)」と「5月6日、他万喜の父・六郎亡くなる(1904)」という二つの事実は、偶然、5月の同時期に並んだのではなかったのです。

 他地域のことはわかりませんので、北陸のこととして考えます。
 金沢に生まれ高岡で暮らした「北陸の」人間にとって、亡くなった者の年忌法要は欠かせないものです。明治37年に亡くなった父・六郎の七回忌の年にあたるのが、明治43年。遺族が一家をなしていれば盛大な七回忌の法要が北陸では行なわれるのが普通です。しかし、岸家を継ぐ者は四散してしまっていたのです。他万喜の心中には、今年は父のさびしい七回忌だという思いがあったことでしょう。
 こうした中で、京都にいた夢二がまさしく祥月命日5月6日に合わせるように、金沢を訪れているのです。顔も知らなければ何の恩義もない妻の父の墓参など夢二がとつぜん思いつくことではありません。夢二の金沢行は、妻の父の墓参が事前に他万喜との間で話合われており、当初からの目的のひとつであったことは、間違いがないのです。

 夢二と他万喜の間に交わされた手紙のすべてが残っているわけでもないでしょうし、私はその一部の写ししかもっていないため、今、これ以上のことを書く材料はないのですが、妻の父の墓参のためだけに夢二が金沢に向かったのではないにせよ、七回忌の命日に合わせて金沢行きの日を調整した可能性はあり、夢二が金沢の地を踏む前には、墓碑がどこにあるのかかなり具体的な情報を夢二は他万喜から得ていたと考えて間違いはないようです。
 夢二が、他万喜の生地の味噌蔵町(現:大手町)や他万喜が通った女学校の穴水町(現:長土塀1丁目)をたずねてスケッチを残していること、他万喜が慕いキリスト教の教養を教わった島倉女史を訪ねて会っていることなど金沢での行動のいくつかを考え併せると、夢二の金沢行はとつぜんの思いつきなどではなく、かなり周到に計画され準備されたものだったと考える方が自然です。

 ・・・とりとめなく書きつらねていましたら、長文になってしまいました。1917年の夢二の彦乃との第二次金沢行だけでなく、この1910年の夢二の第一次金沢行の見直し、その意味の問い直しも、私たち北陸に暮らす夢二ファンの大きな宿題だと言う気がするのですが、どうでしょう。
 今度お会いした時に、Kさんのご意見も聞かせてください。

 では。
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by kaguragawa | 2011-05-07 19:56 | Trackback | Comments(2)

原子力の技術論論点と損益分岐点的論点の向こうに   

 いろんな事情があり、ゆっくり書き込みができなかったのですが、少しずつ復帰していきたいと思っています。

 3月当時、原子力発電所の事故についていくつかのことを書きましたが、そのとき書こうと思いながら書ききれなかったことがありました。「科学」についての再考、深考の必要性でした。が、私の手に余るもの・・・と、回避してしまったものです。

 事故の後追い的な解説をする能力しか持たない自然科学者しかマスコミに登場しないことを批判的に書きましたが、そうした苦言の裏には;
 1)社会科学者を、コミュニティ論などの観点だけでなく、規制“基準”のもつ法律的論点についても、さらには原子力の政治経済学という論点までふくめ、もっと登場させるべきだということ。
 2)言いかえれば、“人間にとっての科学の存在意義”を、原子力の技術論論点と損益分岐点的論点の行きつく先に見据えて、掘り下げること。
・・・の提言があったのです。
 ようやく最近そうした議論が見られるようになってきたようです。急ぐ必要はありませんが、多くの智者の方々が、多くの議論をし、我々が考えるための道ならしをしてもらいたいものと、願ってやみません。


 なお、余談に近い感想ですが、三島霜川の短編「解剖室」が、――“解剖”の根底にある発生学的論点という限定的な視点からですが、――人間にとって科学とはなにか、科学には何が許されるのか、という問題提起をしていることを(私にとっても意外だったのですが)、指摘しておきたいと思います。
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by kaguragawa | 2011-05-05 22:52 | Trackback | Comments(0)

100年前、チコこと竹久不二彦 生まれる   

 5月1日は、竹久夢二と岸他万喜の二男、不二彦が生まれた日でした。100年前の1911年のことです。

 林えり子『愛せしこの身なれど――竹久夢二と妻他万喜』(1981.1)によれば、不二彦の出生届は2か月日の7月4日、7月1日生まれの記載となっているとのこと。
 不二彦の波乱の生をつづった評伝も年譜もまだないようだ。


 *竹久不二彦 1911.05.01~1994.04.19
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by kaguragawa | 2011-05-01 23:27 | Trackback | Comments(2)

朗読で聞く霜川の“解剖室”   

 浅野川倶楽部の「朗読で綴る北陸文学 ~じっくり聞きたい郷土の文学たち~」の高岡公演に行ってきました。高岡公演といっても会場は、旧福岡町の真宗寺院“空臨寺”の本堂。演目は、青木新門「つららの坊や」、小寺菊子「父の帰宅」、三島霜川「解剖室」 。3作品とも富山の作家の作品である。

 霜川ファンの私にとっては、昨年に引き続き、朗読小屋・浅野川倶楽部の皆さんが三島霜川の小説を取りあげてくださったことに深く感謝するのみ。まして霜川の代表作とはいえ、思弁的な書き込みがかなりな部分を占める「解剖室」を朗読で取りあげていただいたことに、興味と期待いっぱいでわくわくした気持ちをふくらませて福岡駅から空臨寺へと向かいました。

 思弁的な部分が多いといってもそこには霜川の死生観のエッセンスが披歴されていて、それがこの作品にもあふれている霜川独特のあざやかな叙景描写と織りあわされ、そうしたものの一体が「解剖室」の魅力になっているのですが、その反面、この思弁性や構成上の未整理がこの作品をとっつきの悪いものにし、この作品のもう一つの魅力であるトリッキーな結構を少し見えづらくしているのです。

 が、浅野川倶楽部の皆さんは、こうした作品の構成をつかまえて、みごとにこの作品を感銘深いものによみがえらせてくださっていたのです。

 (続)
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by kaguragawa | 2011-05-01 08:40 | Trackback | Comments(0)