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「伝書鳩」が飛び立つものなら   

 「満洲のトマス・ウィンと漱石」も「室崎琴月、ある日の東京」も、(1)のままで続稿を書けてないのですが、“美しき五月”の前触れ風に誘われて、またまた街歩きがしたくなって、金沢の大手町(もと殿町、梅本町、中町)、尾張町、彦三町(もと母衣町)一帯を歩いてきました。

 そんなこともあらためて書きたいのですが、半年前ならば、急いで書き込みにうかがっていたであろうあるブログへの報告の形で、見つけたばかりの「情報」を先に書いておきます。(よくおじゃましていた黒岩比佐子(昨年11月ご逝去)さんのブログ「古書の森日記 by Hisako」へのコメントになったはずのものです。)

 “比佐子さま、あの“ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む”で始まる童謡「夕日」の作曲者である室崎琴月さんが――この方は、私の隣市高岡市の出身なのですが、――「伝書鳩」という曲を残しておられることを知りました。作詞者は誰なのか、いつごろの作曲なのか、そもそもどんな歌詞なのか・・・、知りたいところですが、まだ確認できていません。  わかりましたら、またお知らせします・・・。”

  《伝書鳩》は、黒岩さんならではの、歴史に埋もれたものの発掘として公刊された――文春新書『伝書鳩――もう一つのIT』(2000.12) ――探究テーマの一つだったもの、です。

 黒岩さん宛てに、もう一つ、お知らせがありました。
 “比佐子さま、私の友人の酔流亭さんが「冬の時代のたたかいを活写」というタイトルで『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』の書評を書いてくれました。もうお読みかも知れませんが、力のこもったものです。酔流亭さんのブログ上でも読めますのでお知らせしておきます。”

 いろんなことが重なり、気持ちの晴れない日も多いが、正面を向いて一歩前に進みたい。
 ・・・新緑を吹き抜ける凉風が、少し後押ししてくれたように思います。
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by kaguragawa | 2011-04-29 20:33 | Trackback | Comments(3)

室崎琴月、ある日の東京(1)   

 童謡の“夕日”が、どれくらい今の若い人に知られているのか、私には想像がつかない。作曲者の室崎琴月が我が富山県の高岡出身ということもあり、富山ではよく知られているが全国的にはそれほどではなくなっているのかも知れない。

 今年が室崎琴月の生誕120年の年であり、それを記念し「室崎琴月生誕120周年記念コンサート/茜色のオルガン」が生誕地の高岡でおこなわれたことは、先日報告しました。室崎家は今も変らず高岡市木舟町にあって、本家筋(琴月〔本名:清太郎〕の兄である佐太郎さん)のお孫さんがいまも元気で、お住まいになっておられます。琴月の生家の現在のご当主・信一さんにはあることで恩恵を受けていて――といっても私の方で信一さんを一方的に存じ上げているいるだけですが――、一昨日お伺いした折に、あることを思い切ってお聞きしてみました。

 「琴月さんが、上野の東京音楽学校を卒業された年〔1907(大6)〕に開かれた「中央音楽学校」のあった場所を、教えてもらえませんか?。  確か“谷中”だとお聞きしているのですが・・・」
 「あっ、そこには今も琴月さんの孫が住んでいますよ。」、  「えっ、学校のあったところに今も、初子さんでしたっけ、お孫さんが、お住まいなのですね!。 そこ、教えてもらえますか・・・」、  「いいですよ。」

 という会話があって、懸案だった中央音楽学校の場所を教えていただき、現在の住居表示で番地まで特定することができたのです。
 家に帰るなり、東京室崎家の現住所〔台東区谷中2丁目〕を地図上に探したことは、いうまでもありません。

 実は、ここまでが「前置き」です。

 いつもならば、資料で知った手がかりとなる旧町名・旧番地の「場所」を、現在の町・番地にあてはめ、その場所を特定するという手順がほとんどなのですが、室崎さんの場合は、逆でした。現在の住居表示が先にわかったのですが、私としては大正期の地図に中央音楽学校の場所を位置づけることも、どうしてもしたかったのです。
 現在地から、そこがかつての〔下谷区谷中真島町1番地〕であることはわかったのですが、当時の資料上でもその旧町名・番地であったことを、自分の眼で確認したかったのです。
 もちろん、そんな歴史的な資料を手にすることはむつかしいので、さしあたり室崎琴月について書かれたものを探すことになりました。そして、今日、琴月の娘さんが編集された私家本『この道一筋――童謡「夕日」作曲者室崎琴月追想集』(1991.7)を、入手したのです。

 そこには、“そんなことがあったの!”・・・と思わず声が出てしまうことが、いくつも記されていたのです。
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by kaguragawa | 2011-04-27 22:56 | Trackback | Comments(0)

満洲のトマス・ウィンと漱石(1)   

 ちょっと調べ物をしようと思っていたのですが、資料が見あたらなくて、ごろりと横になって手近にあった漱石全集――といっても昭和40年代初頭のハンディな、全集と言う名の筑摩の選集の第6巻――を、開けエッセイの「思い出す事など」を拾い読みをしていた。理由はわからないのですが、文中に「大島将軍」(大島義昌/関東総督)の名前を見た瞬間から、“なにか”にぐいぐい引っ張られるような気がして、全集6巻中のもう一篇のエッセイ「満韓ところどころ」を最初から読み始めたのです。根拠はまったくないのにある予感めいたものがあったのです。

 漱石の、親友・中村是公(当時満鉄総裁)に招聘された、大連を中心とした満州行きは、1909(明42)年である。とすれば、このとき、その地にはプレスビテリアン(長老派)の宣教師トマス・ウィンが夫妻でいたはずなのである。漱石は、満洲でウィンに出逢っているのではないか・・・。“根拠はまったくないのにある予感めいた”思いとは、このことだったのである。
 ウィンは、明治期の北陸の地にプロテスタントのキリスト教を最初に広めた開拓の師である。ウィンが金沢にいたのは、1879年から1898年の約20年間。その後、大阪での布教を経て満洲に渡るのである。1906年から1923年、なんと55歳から72歳にわたる老熟したともいえる時期にウィンはまたしても開拓者の魂をもって宣教活動を行ったのである。

 1909年9月2日に、漱石を乗せ神戸を発った船は大連へと向かう
 “退屈だから甲板に出て向こうを見ると、晴れたとも曇ったともつかない天気の中に、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。しばらくその痕を眺めていたが、やがてまた籐椅子の上に腰をおろした。例のイギリスの男が、今日は犬を椅子の足に鎖で縛りつけて、長い脛を上の伸ばして書物を読んでいる。もう一人の異人はサルーンでなにか頻りに認め物をしている。その細君はどこへ行ったか見えない。アメリカの宣教師夫妻は席を船長室にわきへ移した。甲板の上はいつもの通り無事であった。”
 「満韓ところどころ」

  大連へ向かうアメリカ人の宣教師夫妻?!。この二人、もしかしてウィン夫妻ではないのか。
 その可能性はきわめて高い・・・!。
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by kaguragawa | 2011-04-27 00:10 | Trackback | Comments(0)

霜川、ちょっとメモ   

 三島霜川の足跡をたどろうとしている私ですが、書誌的なことがらまで手がまわりません。それには膨大な時間と資金と、書誌的作業の練熟した勘と技が必要なこと言うまでもないことながら、どれ一つとしてわが身に付いたものがないのです。にもかかわらず、「三島学」は人材?不足で、少しずつ書誌的事柄も自給自足をせねばならぬ状況です。

 というわけで、少しそうしたことがらもこれからは少しずつメモしておきたいと思っています。

 霜川の死後「三島霜川選集」が公刊されるまでの間、霜川作品がどれほど文学全集やアンソロジーに再録されたか整理してみました。意図的に「解剖室」以外の作品を集めたと思われる「明治文学全集」以外は、すべて代表作と言われる「解剖室」です。

  現代日本小説体系 第9巻 筑摩書房 1952(S27) 「解剖室」
  現代日本文学全集 第84巻 筑摩書房 1957(S32) 「解剖室」
  世界短編文学全集 第16巻 集英社  1966(S41) 「解剖室」
  現代文学大系    第63巻 筑摩書房 1967(S42) 「解剖室」
  明治文学全集    第7巻 筑摩書房 1969(S44) 「埋れ井戸」「青い顔」「孤独」「虚無」
  現代日本文学大系 第91巻 筑摩書房 1973(S48) 「解剖室」

〔追記〕
 「霜川の死後」という上掲の枠外ですが、下記の作品集に「解剖室」が収録されています。戦後の文学全集の一つの範例として挙げておきます。未見。

  世界短篇小説大系 日本篇(中) 近代社 1926(S1)) 「解剖室」
   http://homepage3.nifty.com/kounomura/1900j.html
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by kaguragawa | 2011-04-25 23:29 | Trackback | Comments(0)

「学習の機会の提供及びその奨励を行うこと」   

 Kさんからいただいたある報告のメールを読んで、考え込んでしまった。

 公共の文化施設は、文化を守ること、その文化について知りたいという市民の欲求に、どういう位置に立つべきなのか・・・。
 残念ながら、今話題にしている「ある公共文化施設に対しての要望と、それへの回答」の内容をここで紹介することはできないのですが、要望に対するほぼ「ゼロ回答」ともいうべき返答に大きな失望を感じました。 文化遺産を死蔵するのではなく、市民にそれを公開し、生きた文化遺産と市民の自由な対話を可能にする環境づくりに黒子として徹すること、――それが公共の文化施設の役割だと今まで考えてきたのですが、私の考え方はまちがっているのでしょうか。

 
 こうした公共施設の根拠法である「社会教育法」の趣旨は、私の考え方と近いものがあるので、――この法律ができた1947(昭22)年時点の理念が、現時点でまぶしいなと思うのですが――その第3条を、下に写しておきたいと思います。

(国及び地方公共団体の任務)
第三条  国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように 努めなければならない。
2  国及び地方公共団体は、前項の任務を行うに当たつては、国民の学習に対する多様な需要を踏まえ、これに適切に対応するために必要な学習の機会の提供及びその奨励を行うことにより、生涯学習の振興に寄与することとなるよう努めるものとする。
3  国及び地方公共団体は、第一項の任務を行うに当たつては、社会教育が学校教育及び家庭教育との密接な関連性を有することにかんがみ、学校教育との連携の確保に努め、及び家庭教育の向上に資することとなるよう必要な配慮をするとともに、学校、家庭及び地域住民その他の関係者相互間の連携及び協力の促進に資することとなるよう努めるものとする
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by kaguragawa | 2011-04-20 22:58 | Trackback | Comments(0)

忘春   

 いつもは生きる勇気のようなものをもらうケヤキの芽生えにも今年は心動かされず、“あっ芽吹きがはじまったな”と赤茶色からうす緑に変ってくる葉芽を見上げるだけである。
 福島第一原子力発電所の水素爆発の白煙を見たときから、私事ながら、時間が止まった思いで過ごしてきていて、いつもは春の息吹に向けている想いは今年はまったく動き出そうとしない。

 今突然の雷音とともに屋根にばらばらと強い音で雨が落ちてきた。この雨で満開のサクラもかなり散っていくのではないだろうか・・・。

 が、このサクラがもう東北地方にまで咲きのぼって、心打ちのめされた人に勇気を与えているようで、嬉しい思いである。
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by kaguragawa | 2011-04-16 08:30 | Trackback | Comments(2)

三島霜川「ひとつ岩」(二)   

 とある物陰に寄り集まって、七人の腕白盛りが、なにかわいわい喚きあっていたが、その中の一人がふいと、砂場から上がってくる次郎兵衛に目をつけた。
「やぁ、黒爺か。」とつぶやき、ややしばらく次郎兵衛の方を眺めていて「おい、おい。」と、小声に仲間を呼んで、何か密々(ひそひそ)ささやく。腕白盛りのわめき声はぱったり止んで、その眼は一斉に老爺の方へ振り向けられる。だしぬけに、仲間の二三人が、「黒兵衛さん」と呼んで、どっと笑いをどよめかして、ばらばらと駆け出す。
「何だっ、餓鬼め、うぬっ……。」と、次郎兵衛はかっとして、地団駄踏む。逃げ出した腕白盛りは遠くからしきりに悪口する。
  次郎兵衛はやっきとなって、勢い込んで駈け出そうとすると、残っていた腕白盛りが、「爺っ、爺っ。」と殊勝らしく同音に呼びかけた。 次郎兵衛は立ち止まって言葉せわしく、「何だ。」
 腕白盛りはばらばらと老爺を囲んで、甘えるように、「白ぅ、あじょにしただ、いるだか。」
「うむ、いるだァ。」と、老爺はにっこりする。
腕白盛りはいずれもしめた「という顔つき。
 中に勇太という曲者痴れ者は、素早く気を変えて、「いるだぁ?。」と、仔細らしく首を傾げる。
「いるだァよ。」
「え、どこに、俺ぁ、俺ぁな、え、爺っ、さっきな山八の赤ン畜生と噛け合わせてくれべえと思って、えらく探しただが、畜生、いねえだ。」
 老爺は快げに笑い出した。「はははっ、汝らがには解(わ)かんめぇ、家にいるだぁもの。」
「家に?。」
「家にいるだぁよ。」と老爺は大仰に頷いて、
「俺がいるとえいだがな、俺がいねちうと、汝らが寄ってたかって、白を痛しめるだかんな。そんで汝らが目に入ぇんねいように、家さいれておくちうだ。なぁ、餓鬼めら、弱(がお)っただっぺえ」と、言い捨て、さっさと歩みだす。勇太はうろたえて、「爺ッ、ま…待ってくんろ、待てってば、よ、なぁ、爺ッ、俺達が白を痛しめるだってよ?、……そんな事ぁ無えだ、うそだ、はぁ、俺たちぁ、爺ッ、白が噛合いするたんびに、白ぅけしかけるだ、白ン畜生、えらく強えだかんな、ほんに強えだかんな、強えだで面白いちうだ、真実(ほん)のことだがな、爺っ!、俺達ぁ白に加勢するだが、なぁ勘ッ、俺達ぁほんに白に加勢するだな、なァ。」
 老爺は振り向いて、「ほんにか。」
「ほんの事(こ)んだよ、爺ッ、ウソでねえだ。」
 腕白盛りは、ことごとく、一生懸命にまことしやかにうなずいている。老爺は。ふところを探って、いくらかの鳥目を取り出して、三人にわけてやった。そうして更に念を押した。
「なぁ、えいか。忘れただちうても白を痛しめてくれるでねえぞ。」
 腕白盛りは、てんでに引ったくるように、老爺の手から鳥目を取ってしまった。鳥目さえ取ってしまえば、彼らは老爺に、何のはばかることことがあろう。何の心にもない追従などをいうことがあろう。不意にばらばら駈け出して、
「わァい、わァい、ははははッ、黒ッ、やいッ、黒来い黒来い黒爺のこけ、やァい――、黒兵衛汝が家の白に誰が加勢すべえ、畜生、やたらに吠えるだもの、今に叩き殺して、煮て食うだ……。」
 口巧者の勇太までその音頭をとって、後の輩(てあい)も思いきった大声で、口々に喚く。老爺は逆上せ上らんばかりに怒った。覚えず五歩六歩駈け出して、ふっと気がつく。駈けることと来ては彼よりは子供の方がまさしく上手である。巧みである。そこで老爺は長追いしていたずらに息を弾まして重ね重ねの馬鹿を見るよりはと思って、無念を忍んで、と、立ちすくんだ。
「畜生ッ、餓鬼ッ、うぬ、また?、覚えてろッ、えッ、ひんねじってくれるだっけ………。」
 と、拳を握って、歯噛みをならす。腕白盛りは弱みへつけこんで、眼をむき尻を叩き、顔を傾げ足を踏ん張り、さまざまな真似して、老爺をいらだしていたが、やがて、誰も彼も振り返り、狐の如く駈け出して、たちまち苫屋の陰の暗いところに見えなくなってしまった。老爺は茫然した顔で、その後ろ影を見送りながら、
 「えっ、餓鬼めらァ、いつでもはァ、こうだっけものなァ、何だちて銭なんぞくれる気になったっぺえ。何で。」
 と、一心に考えつめて、口の中でぶつぶつ言って、おのれの愚をたしなめていた。
 老爺の足下に――路上に――牡蠣の殻や、蛤の殻や、鮑の殻や、さまざまな貝殻が散らばっていて、それには月影が映(さ)して、きらきらと寂しく光っている。月は隈なく照りわたっていた。苫屋苫屋の軒は一続きに靄を吐いて、家並みのはてはぼんやりして家の影さえはっきりと見えぬ。
 屋根は濡れて、煙って、そして蒼みがかった光をはなっていた。
 子供の影を見失って、老爺はとみに張り合いを抜かした。しかたなしに、唇をかみしめて、ゆったりゆったり歩み出す、姿は悄然(ひっそり)していた。老爺のかかる目にあわされたのは。あながち今日に限ったことではない。が、その場でこそ、全身の血を頭へ上らして憤激しているものの、怒りはすぐに鎮まって、怨みも忘れて、彼は幾度となく同じ腕白盛りに同じ手をくらって、その度ごとに怒ってあがいて、後悔して、馬鹿馬鹿しく業を煮やしていた。
 首をたれて、折々ため息ついて、憤々しながら老爺は家の戸口まで来た。と、残酷に自分を苦しめていた妄念は煙のごとく消え去って、気がのんびりする……、何か知らず可笑しくなって――危うく吹き出そうとして、勢いよく、がらり雨戸を引きあけると、白犬が勢いきって表へ飛び出す。主の姿を見て白犬は嬉しそうに尾を振って、跳ね回って、低い声で二度三度甘えるように吠えたてた。
 老爺はしゃがんで、「白か、うむ、うむ、えいだ、えいだてば。」
 と、向こう脛へ飛びかかる白の頭を撫でてやった。白と名づけられた白犬は、名のごとく毛色の白い、つやのある、肥った、図抜けて体格(がら)の大きな犬であった。
 白は少しく首を傾けて、不平らしく、また怨めしそうに、じっと老爺の顔を見上げる。老爺は面白そうに笑って……、突然、思い出したように、「ほい、しまった、汝のみやげ買ってくるのを忘れてただ。」
 と、叫んだ。ひょいと立ち上がって、そそっかしく内庭へ入って、抛り出すように、担ぎ物をおろして、そして、自分に尋ねてみた。
「なぜ、忘れて来たっぺえ、いつだって忘れてきたことがねえだに。」
 そよそよと吹き渡る夜風に、門(かど)の一本柳はちらりちらり絶え間なく枯れ葉を散らす。後ろの山からは松韻颯々と、昔ながらの微妙な音楽が送られる……。
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by kaguragawa | 2011-04-15 22:43 | Trackback | Comments(0)

三島霜川「ひとつ岩」(一)   

 隣村と境の岬をめぐって、漁船は追っかけ追っかけ戻ってくる。ついさっきまで干(ひ)ていた荒磯はひたひたと満ちくる潮に隠れてしまって、はや黄昏(たそが)れかかる沖には、くぼんだような帆影が二つ三つ、うろうろと白く染めだされたようになって見える。磯のとっぱなには、まるで小山のような格好の孤岩(ひとついわ)が、濃い藍色の浪の上に真然と黒くもちあがっている。鈍い速力(あし)で物憂そうに沖から膨らせて来る浪は、漸々と険しく逆巻きだってきて、孤岩は近くなると、急に勢いが激しくなる……ゆらゆらつく、崩れかかる……、と、どっとすざまじい音がして、浪は孤岩にぶつかって影も形もなくばってしまう。潮をあびた孤岩は、さながら、素絹(すぎぬ)を着せられたように真っ白になった。
  たちまち浪が引くと、孤岩はさっきより一層黒くなって、なにか昂ぶった風で、海面(うなづら)にぬっと現れる。頂きにはおっかぶさってくる浪に驚き、あわて、孤岩を飛び退いたカモメが五六羽、再び、飛び戻ってきて、けろり、沖の方を眺めている。なかには、鼓翼(はばたき)しているものもあった。

 苫屋苫屋の炊の煙は、うすうすと山際に昇り初(そ)めて、漁船はことごとく戻ってきた。ずらり並んだ漁船の舳先に、浜は地が見えぬほどになって、がやがやわいわい、一時は煮え返るようであった浜の混雑も、大方は静まってしまった。と、どこかでうたっているのか、鄙びた節で、
 「雨は降ってくる、はっさかは積んでくる、背中で赤子泣く、飯ぁ焦げる。」
 と謡う女の声が、妙にかんばしって、靄の中から粛然(しんめり)と哀れに聞こえる。

 磯に近くまだ二三艘の伝馬船(てんません)が、夕映えの蒼みがかかった余紅を帯びて、うろうろと波に揺られていたが、やがては、それも渚をさして漕ぎ戻る、浦続きのはるか浪の荒い浜場には松原があった。その松の中をにげて、塩焼く煙がくろくろと寂しく、淡い夕靄をわけて海の方へなびいている。松原の切れ目から一町ばかりで、四ツ倉の最初の家がある。四ツ倉というのは奥州磐城の一漁村で、苫屋は山際に沿って、おおよそ二百戸余り、斜めに長く二側(ふたがわ)に立ち並んでいる。

 日はとっぷり暮れてしまった。月が出て海面にはいっぱいに金色(こんじき)が流れて、浪はゆらゆらさらさらと煌めき、孤岩の辺りでうねうねと長く膨らんだ浪の、転がるように渚近くまで滑ってきて、一うねり、うねりを打って、ど、ど、どっと崩れると……、と、その辺りには一面に白い泡が沸き上がって、さながら、投網でも撒くように、余波(なごり)は銀色の足でさっと砂地へ這い上がる。そこへ、泡立つ波に揺られて、伝馬船が一艘まっしぐらに漕ぎつけた。
 しばらくして、がじり、砂地に音がして、伝馬は、波打ち際に着いた。耳順(ろくじゅう)余りの老船頭はひらり伝馬を飛び降りて、曳や曳や(えいやえいや)と船を砂地に押し揚げる。
 潮のさっと引いた後の波打ち際は、白く洗われたようになって、まだびちゃびちゃとうねりを打っているさざ波に、漁師のよぼよぼした影がきっかりと玄く映った。
 船を砂場へ押しあげて、楫の端を畚(ふご)に結びつけて老爺はそれを担ぐ。……畚(ふご)の編み目を潜って潮の雫がはらはらと露のように月に煌めいて砂地に乱れ落ちた、老爺は、と、立ちすくんで、なんぞ意味あるらしくほっと太息(ためいき)ついた。しばらくして老爺はひょいと頭をあげて、慢々と砂地を歩みだす。
 その悠然(ゆったり)した挙動(ようす)といったら、まるで闇から曳きだした牛のようである。
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by kaguragawa | 2011-04-10 19:25 | Trackback | Comments(0)

三島霜川「ひとつ岩」――いわき市四倉の人々へ   

 春の訪れが例年より遅いというよりは、訪れの足並みが不揃いというかなにか“ちぐはぐ”な感じがします。
 そんなことを考えていた折に、昨晩、震度6強の大きな地震のニュースがまた飛び込んできました。東北の方々にはかける言葉がありません。

 ところで112年前(1899〔明治32〕年)の4月8日付けの『世界之日本』――当時の総合雑誌です――に、その第一回分が掲載された小説があります。このブログでおなじみの三島霜川の実質的な処女作「ひとつ岩」です。(「実質的」というのは、第二作であるにもかかわらず先に公表され処女作扱いされている作品「埋もれ井戸」があるからです。)

 とつぜんこの小説を話題にしたのは〔4月8日〕という今日と同日であるというトピックスとしてではありません。それは偶然にすぎないのです。この小説の舞台が、福島県の漁村なのです。
 福島第一原子力発電所から20キロ、30キロという同心円が描かれた地図を何度も見せられるたびに気にしながらつい先日までその惨状を確認するのがはばかられていた場所がありました。「福島県いわき市四倉」です。30キロ圏域から5キロほど南にはずれた場所にある沿岸域の「いわき市四倉町」は、津波の大きな惨害に見舞われています。
 (下の古い鳥瞰図を見れば津波に襲われたときの被害の大きさがわかっていただけるかと思います。) 

 三島霜川は、富山県が生んだ明治期の作家として名前だけは県内で取り上げられることのある作家ですが、彼の文学上の「故郷」は彼の生まれた県西部の庄川流域の寒村だけではありません。彼が14、15歳の頃住んだ「福島県石城郡四ツ倉町」の漁村とそこに生きる人を彼は初期の作品でなんども作品の舞台としてとりあげているのです。

e0178600_20521752.jpg そして、今、霜川の「ひとつ岩」を、――短編ですがかなりの分量があります――このブログで読みやすいテキストにして、少しずつ掲載していこうと、考えているのです。
 追記:絵図右下に、「ひとつ岩」のテーマになった岩礁が見えています。 

 

 ということで、今日は予告篇としておきます。
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by kaguragawa | 2011-04-08 20:38 | Trackback | Comments(0)

軽井沢のトマス・ウィンと片山広子   

 以下、またメモです。軽井沢にある「ウィン別荘」についてです。

  「軽井沢の建物見て歩き――個人所有の別荘」というページがあってそこに「北の2番」として紹介されている建物があります。トマス・ウィンが軽井沢に建てた別荘です。
 (トマス・ウィンは、明治時代、金沢を中心とする北陸の地にキリスト教をひろめた長老派の宣教師で、このブログでも何回かふれている方です。)

 なんと――今日、軽井沢におけるヴォーリズを調べていて――魂消るほど驚いたのですが、片山広子が後に滞在し、堀辰雄、室生犀星、芥川龍之介との軽井沢生活を送ることになる別荘(文学の方では「軽井沢651」の別荘として紹介されている)が、このもとトマス・ウィンの別荘だったのです。
 といっても片山広子についてどれほどのことを知っているわけではなく、私には堀辰雄の小説や犀星のエッセイに登場する人物として強く心に印されているアイルランド文学の紹介者(松村みね子)で歌人の女性です。むしろ片山広子の別荘のことは、堀辰雄の軽井沢第3の別荘〔軽井沢658〕の近くにあったということで、よく覚えていたのです。

 ヴォーリズ、トマス・ウィン、片山広子(松村みね子)、さらに堀辰雄、――ここで出発点の金沢に戻ってくるのですが――室生犀星、さらに金沢つながりで鈴木大拙の夫人ビアトリス・・・。

〔追記〕
  「軽井沢北の2番」のウィン別荘。「軽井沢651」の片山広子の別荘。 
――まったく別の、というより無縁のものと思っていた二つの別荘が実は同じ建物だったので驚いたのですが、片山広子がどのような縁でウィンのものだった別荘を借りることになったのかも興味のあるところです。  ゆっくり調べていきたいと思っています。
〔追記〕
 軽井沢にあるアームストロングの別荘は、ヴォ-リズによるものである。
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by kaguragawa | 2011-04-07 23:52 | Trackback | Comments(0)