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堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(旧稿)   

 AtsukoさんのHPに津村信夫の話題があって、そういえば信スケのことを書いたことがあったぞと思い出し、旧日記から3年前に書いたものを引っぱりだしてみました。
 津村信夫が亡くなる前年の9月(1943.9)、“戸隠にいる筈の津村信夫を日塔聰と三人で尋ねたが、津村信夫は一日違いで帰ったあとだった。戸隠そばをたくさん食べて山を下り、別所温泉に一泊、軽井沢に帰る。”(『堀辰雄の周辺』)その顛末を紹介したものです。
 我ながら読みづらい文章ですが、堀多恵子さんを偲ぶ思いもこめて――これを書いた時ご存命でした――再録しておきます。


■2008/03/30 (日) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(一)

 かつて新潮文庫にあった堀辰雄『妻への手紙』(堀多恵子編)巻末の多恵子さんの「辰雄の思ひで」の中に、別所温泉(長野県上田市)の話題に関連して、日塔聰さんの思い出が記されています。

 “別所温泉は上田から電車で三十分ほど奥の小さい温泉場ですが、足休めに丁度いい場所なので私たちは何度も行きました。津村信夫さんんを訪ねて戸隠に行った帰りに、日塔聰さんと三人でもう暗くなりかけた別所に着き、赤痢か何かがこの町に出たあととかで、ほとんど宿屋が休業してゐるのを其処に行って始めて知り、仕方なくあまり綺麗でない宿に泊まりました。背の高い日塔さんの足が安宿の短いふとんから出るので日塔さんは困るし、私はなんだそれがをかしくてしやうがなかったことなどおぼえてゐます。”

 ・・・と、――3/14項の日塔聰に関連して――、桜桃花会さんのブログ「雪に燃える花」書かさせていただいたのですが、きょう立ち寄った室生犀星記念館の書架で、堀多恵子さんの『堀辰雄の周辺』(角川書店/1996.2)を見つけました。このエッセイ集の「日塔聰」の項〔1948年の「あらの」日塔聰追悼号に寄せたものの再録〕にも、上に紹介した別所温泉の話が、記されていました。

 “戸隠に津村さんをたずねた日も日塔さんは一緒だった。津村さんがすでに山を下りてしまわれたあとだったので、私たちは津村さんの好きだった場所を教えて貰い、其処へ行き、周囲の山々、目の前に広がる原っぱを見渡しながら、秋風に吹かれて立っていた日のことが鮮やかに甦ってくる。その翌日山を下りて別所温泉の小さい宿に泊まった。日塔さんは背が高いので蒲団から足が出てしまう。私はなんだか気の毒で、その辺にあった座布団を足の方に置くと、彼は足を縮めて困っていた。そんなたわいないことを覚えている。”

 このエピソードは、上記『堀辰雄の周辺』巻末の「堀辰雄の生涯――年譜風に」によれば、1943(昭和18)年9月初め頃のことのようです。“戸隠にいる筈の津村信夫を日塔聰と三人で尋ねたが、津村信夫は一日違いで帰ったあとだった。戸隠そばをたくさん食べて山を下り、別所温泉に一泊、軽井沢に帰る。”

 ――――実はこの翌年、津村信夫はアディソン病という難病で亡くなるのですが、戸隠の津村信夫訪問のエピソードをめぐっては、堀辰雄と日塔聰とのそれぞれの手紙〔小久保實編『津村信夫 書簡・来簡集』所収〕が残っていました。そんなことの紹介はあらためて・・・。



■2008/03/31 (月) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(二)

 津村信夫が亡くなる前年(昭和18年)の、津村を訪ねての三人の戸隠行がよほど印象深かったとみえて、堀多恵子さんは『堀辰雄の周辺』の「津村信夫」の項にも、この戸隠行のことを書いておられます。その部分を引用しておきます。

 “津村さんが亡くなる前年の初秋にも、大好きな戸隠に行っている。これから戸隠に行くと言って軽井沢に来られた時、おや、と思うほど顔色も悪く痩せて見えた。あとから行くと約束し、丁度来合わせた日塔聰さんと三人で津村さんの泊まる坊に行くと、前日、山を下り、もう津村さんはいなかった。彼が好きでよく行ったという越水ケ原を教えて貰い、私たちは歩いてそこへ行って見た。山々を背景に広々と開けた高原を冷たい風が渡り、梅ばち草やつりがねにんじんが寒そうに最後の花を咲かせていた。”



■2008/04/01 (火) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(三)

 堀多恵子夫人が紹介してくださった、結局はすれ違いに終わってしまった、津村信夫を訪ねた戸隠行〔S18.9〕の3つのエピソードを頭にいれておけば、日塔聰が東京に帰った直後に津村信夫に出した書簡〔A〕と、その翌年堀辰雄が津村信夫の死を知り兄の津村秀夫宛てに出した書簡〔B〕とに書かれている内容が、よくわかることと思います。(兄秀夫宛ての手紙にもかかわらず、堀辰雄が途中で、“君――”と亡き信夫に直接呼びかけているのが、印象的です。)

 まず日塔聰の書簡〔A〕:S18.11.16

 “御無沙汰致しましたが、其後お変りございませんか。
 夏の終わりに堀さんと戸隠に行きましたが、丁度行き違いになりまして残念でした。越水ケ原には梅鉢草が咲き盛ってゐました。それから杉木立の間の道で火事の様子をあれこれと想像したりしました。
 夏からの山暮しを漸く今日引きあげて参りました。何も彼もバリバリに凍ってゐる朝、浅間を染めた冷い光が谷間を温めるまでの時間や、冷えていく夕方に煙ってゆく木々の様子などがいま東京に来て、何か大事な記憶のやうに浮かんで来ます。”

 堀辰雄の書簡〔B〕より抜粋:全集ではS19.6.30

 “けふ室生朝己君よりのお手紙にて津村君が二十七日にお亡くなりになったことを知り非常に驚きました。(中略)
 去年の九月に戸隠にゆかれる途中で此処に立ち寄られたとき、津村君が非常に痩せられたことに胸を潰されるやうな思ひでしたが、そのとき僕も戸隠に津村君を訪ねることを約して別れましたのに、僕が戸隠にのぼっていった日がすこし遅かったために津村君が戸隠を下りた日の翌日になり、遂に戸隠で君にお逢ひできなかったことは僕の一事心残りのことになってゐました。そのうちまたいつか戸隠で君と一しょになることを思ひわづかに心を慰めてきました。”

 *書簡は、小久保實編『津村信夫 書簡・来簡集』(帝塚山学院大学日本文学会・岩田書院/1995.8)より



■2008/04/03 (木) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(四)

 小久保實編『津村信夫 書簡・来簡集』――これはすべて写真版で書簡が載せられている得難い書簡集です――所収の津村信夫宛て丸山薫の〔昭和19年6月9日消印〕はがきにも日塔聰の名前を見つけました。
 はがきの隅っこに追い書きの小さい文字で、“日塔君 教育召集にて月末入隊”の文字が読めます。
 (日塔聰は6月20日に山形連隊に入隊していますから、津村信夫の死〔6月27日〕を知ったのはこの教育召集の入隊中のことだったのでしょうか。この前後、犀星とも交流のあった山形の詩人竹村俊郎のところに犀星の息子朝己が滞在中だったようですが、この朝己から堀辰雄は津村信夫の死の報を受けています。〔4/1の書簡〔B〕参照〕)

 日塔聰は入隊中に、出身校寒河江中学の先輩で当時岩根沢国民学校の教頭をしていた那須貞太郎と偶然出会い、出征教員の後任を探していることを聞きます。この情報が、のちに“海の詩人”丸山を、聰が自分の故郷の山形、それも山あいの出羽三山信仰の宿坊の地・岩根沢に「教員」として呼ぶことになるのですから、不思議なものです。
 さらにこの不思議のあとに、日塔聰と逸見貞子との運命的な出会いが用意されていくことになるのです。

〔追記〕
 ちなみに、丸山薫が堀辰雄の5年前の1899年の生まれ、その5年前の1894年に田中冬二が、さらにその5年前の1889年に室生犀星が生まれています。なぜか「四季」に関わった人々に、継起する9年生まれと4年生まれ(西暦)がいるのがこれまた不可思議なことに思えます。



■2008/04/02 (水) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(余録)

 《堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰》――――とつぜん、前後の脈絡から切り離されたエピソードにスポットが当てられたような、そんな話題の取り上げ方になってしまい恐縮です。

 日塔聰・貞子夫妻という今年になるまでまったく名前さえ知らなかった詩人のことを、名前は知っていても『風立ちぬ』など読もうという気持ちのなかった堀辰雄とともにこのように取り上げていることの不思議を思ったりしているこの頃です。

 昭和十年代という時代を考えると、「四季派」と呼ばれる詩人群の創作活動は――詳しい説明は割愛させていただくしかないのですが――、私に共感と勇気を与えてくれます。
 そうしたこととまったく別の話ですが、堀辰雄が1904年の生まれ、津村信夫が5年後の1909年の生まれ、立原道造がさらに5年後の1914年の生まれ、日塔聰がさらに5年後の1919年の生まれであること。この階層的かつ螺旋的な四季派そのものの生い立ちが、軽井沢、戸隠といった地誌的彩りとあいまって、魅力的であることも、付け加えておきたいのですが。

 折をみて、昭和十年代の「四季派」を、追ってみたいと思っています。



■2009/01/05 (月) 津村信夫さんの誕生日

 津村信夫さんの生誕100年の日。

   1909.01.05~1944.06.27

  ━━━━━━‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 亡くなった年の日記(5.4)に残されていた師・室生犀星(号・魚眠洞)への歌

       魚眠洞先生を思ふ。
   我は病み堀の辰雄は立たずてふ 馬込の春は寂しかるらむ
   枝ながら紅の梅たまはりし 馬込の大人(うし)を思ほゆるかも

〔追記:2009.1/7〕
 久世光彦氏の『花筐(はなかたみ)――帝都の詩人たち』(2001.7/都市出版)というエッセイ集に、津村信夫について書かれた秀逸な2篇が収められているのをきのう知りました。残念ながらこの本は絶版で、古書価格もけっこう高値です。文庫化されることを望みます。
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by kaguragawa | 2011-02-28 23:18 | Trackback | Comments(2)

ヴォリーズ“建物の品格”   

 ぺらぺらと冊子のページをめくっていてドキッとしました。こんなにギュッと心をつかまれるような思いをしたのは久しぶりのことでした。きょう偶然に、ほんとに偶然に、出逢ったヴォリーズの建物。しかも工事中ゆえに天井も壁面の剥いだ骨組みのヴォリーズの建物を見て衝撃を受け後に、冊子に見つけたヴォリーズのことばでした。

   “建物の品格は、外観よりもその内容にある” 

 川上幼稚園(金沢市幸町)。1918(大7)年にヴォーリズによって設計された現役の幼稚園である。外観だけでも見れたらいいな、と思って立ち寄った川上幼稚園は耐震工事中。ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会の石井和浩さんの手による改築工事とのこと。休園日にもかかわらず居あわされた改田園長さんに、工事の現場や、陽光をあびるトイレなどを案内してもらい貴重な話をうかがいました。そのときいただいた『川上幼稚園創立100周年記念誌』に、上の言葉はありました。

 さらにそこに記されたこの幼稚園の大正初期制定の規則の一節も、こころを揺さぶりました。
 こうした決然とした理念が世の中からどんどん無くなっているような気がします。

   “第13条 園中ニアリテハ保母一切ノ責ニ任ズ。故ニ付添人ヲ許サズ” 



 実はきょうも、Kさんこと楠さんにご同行いただいて(ご足労いただいて)、金沢の街に“夢二とヴォーリズの足跡たどり”をしてきました。
 スタート地点だけ決め、あとは偶然の連鎖にまかせた順路だったのですが、幸運と天候にめぐまれ楽しい出会いと発見の街歩き(街走り)となりました。

 お寄りしたのは日本キリスト教団金沢教会(柿木畠)、日本バプテスト連盟金沢キリスト教会(笠舞)、川上幼稚園(上記)、金沢市立玉川図書館(玉川町)・・・。
 どこも具体的な訪問の約束もせずに訪れたにもかかわらず、お留守のところもありましたが、出逢ったみなさんには快く対応していただき、感謝に堪えません。有り難うございました。
 それぞれの報告は、おいおいと。
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by kaguragawa | 2011-02-26 22:35 | Trackback | Comments(0)

希望をつないで   

 希望を棄てたわけではありませんが、時間がたつに従って状況は厳しくなってくるようです。

 きょう車で出かけた折、耳にした地元のラジオ番組に寄せられていた多くの励ましの、祈りの、ことばに、涙が落ちました。
 ニュージーランで起きた地震の日本人被災者の多くがクライストチャーチのキングズエデュケーションにいました。一人一人が大きな希望をもってかの地にいたその人たちに負けないくらいの希望をつないで状況を見守りたいと思います。
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by kaguragawa | 2011-02-23 23:39 | Trackback | Comments(0)

《室崎琴月生誕120周年記念コンサート》   

 《音楽絵巻 茜色のオルガン 室崎琴月生誕120周年記念コンサート

e0178600_19431096.jpg 2月20日が、石川啄木の誕生日(戸籍上)と、きのう書きましたが、啄木生誕の5年後の2月20日、高岡に室崎清太郎(琴月)が生まれています。童謡「夕日」〔作詞:葛原しげる/作曲:室崎琴月〕は琴月の作品のなかでも今日まで広く歌い継がれている唯一の曲と言っていいでしょう。この日に記念コンサートがあることは知っていたのですが、もう少しで忘れたままで聞き逃すところでした。

 というわけで、午後から高岡市民会館にでかけてきました。 “合唱や独唱、舞踊などの多彩なステージで琴月の音楽世界を表現する。”というのが主催者のねらいでもあったようですが、2時間半!のコンサートはなかなかにつらい。アクセントの置き方、ステージ運び・・・いろんな意味で「構成」にもっと工夫があってよかったのではないか、と残念な思いです。タイトルになっている「オルガン」について説明のなかったのも惜しまれます。

 それにしても「夕日」は単純なつくりながらいい曲ですね。
 室崎琴月の功績をもっと掘り下げる努力と、 「夕日」以外にも口ずさまれる曲をふやしていく工夫も必要なのではと、“ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ、ぎんぎんぎらぎら日がしずむ♪”――と歌いながら帰ってきました。
  

 話はまた啄木に戻るのですが、啄木がいた本郷の〔蓋平館別荘〕に「夕日」の作詞者・葛原しげるも下宿していました。もしかしたら、その時期が重なっているのでは?と2年前に気づいたのですが、きちんと調べようと思いながらそのままになっていました。

  室崎琴月  1891.02.20~1977.03.21
  葛原しげる 1886.06.25~1961.12.07

  石川啄木  1886.02.20~1912.04.13
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by kaguragawa | 2011-02-20 19:39 | Trackback | Comments(0)

《上柿木畠三五》そして啄木の《上柿木畠四五》(2)   

 啄木と同郷、同年代(20代前半)の友人で金沢にいる、その男の名は、豊巻剛・・・。もしかして、彼は四高生では?。
 推測は当たっていました。彼は、第四高等学校の学生として岩手から金沢に来て下宿をしていたようです。といっても四高の卒業生名簿を調べる余裕などなく、これだけ啄木の日記に登場するのであれば、『石川啄木事典』(2001.9)に載っているのではないか?。と思って調べたところ、「豊巻剛(とよまき・たけし)」の項がありました。以下、事典の同項を写したものです。

 豊巻 剛 とよまき たけし
 1887年(明治20).3~1910年(明治43).4.5 号、黒風。
 岩手郡玉山村生まれ。啄木の中学の2年後輩で白羊会、闇潮会同人。1905年(明治38)盛岡中学校卒業。同年9月に啄木が創刊した文芸誌『小天地』に長詩「古障子」を寄稿し、校正なども手伝った。金沢の第四高等学校を経て東大文学科に進んだが、結核のため在学中に、24歳の若さで没した。没後、有志の手により『黒風遺稿』が刊行された。(浅沼秀政)


 啄木は1886(M19)年2月20日の生まれ(戸籍上)、1912(M45)年4月13日の死亡ですから、豊巻剛は啄木の1年後に生まれ、短命だった啄木よりも2年先んじて亡くなっています。
 四高名簿を調べれば正確なことはわかると思いますが、盛岡中学で啄木の2年後輩だということから豊巻の中学入学を1900(M33)年とし5年の在学とすれば、四高生として金沢にいたのが1905(M38)年から1908(M41)年までとなります。
 1908(M41)年の東大(正確には東京帝国大学文科大学)入学とすれば、同じ年に啄木が上京していて、翌年の1月に二人が東京でばったり出会うというところで、啄木の日記の記述と符合します。

 ともあれ、豊巻剛が第四高等学校の学生として3年間?を金沢で過ごしたその時代の金沢のこと、当時の四高のことなども折を見てしらべてみたいなと思っています。

 ちなみに、《上柿木畠四五番地》は鞍月用水に架かる茜屋橋の近くではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

〔追記〕
 もしかして・・・と思ったら、やはりそうでした。豊巻剛が四高にいた時期、西田幾多郎が教授として(1899-1909)倫理やドイツ語を教えていました。ただし、残念なことに西田幾多郎については私は何も知らないので、何も語ることができません。ただ、もう一人この時代、金沢にとても気になる人が、いました。金沢教会の牧師だった神学者・富永徳磨です。
 冨永徳磨は、あまり注目されていませんが、国木田独歩にも八木重吉にも大きく関わった人物です。金沢には、1903~1906の期間いたはずです。柿木畠の金沢教会のことを先日書いたとき、冨永のことを久しぶりに思い出し、冨永のことを調べに、近々金沢に行こうと思っていたところだったのです。
 (以前、旧日記に書いた《冨永徳磨》関連の記事です。)
 http://www3.diary.ne.jp/search.cgi?user=325457&cmd=search&word=%95y%89i
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by kaguragawa | 2011-02-19 17:10 | Trackback | Comments(0)

はや3か月、黒岩さんお元気ですか。   

 読みたかったのに本屋さんがなかなか届けてくれなかった岩波の『図書』1月号。ブログ友の奥村さんの記事に、1月号のことが紹介してあったのです。きょう、2月号といっしょに、やっと、てもとに来ました。
 巻末の「こぼればなし」にいわく;

 本との偶然の出会いの名人であった「ノンフィクション作家」黒岩比佐子さんが、さる11月17日、52歳で亡くなりました。迫る死と競争しながら完成させた『パンとペン――堺利彦と「売文社」』を刊行してひと月後のことでした。黒岩さんは小社からは『村井玄斎』を刊行され、これによってサントリー学芸賞を受賞。この書と今回の『パンとペン』、『編集者国木田独歩の時代』の三著を比読するとき、私たちはここに、出版史を本当の歴史として描きえた最初の歴史家の誕生に立ち会っていたこと、しかもその人をすでにして失ってしまったことを、痛切な思いをもって知るのです。

 「迫る死と競争しながら完成させた『パンとペン――堺利彦と「売文社」』」とはなんと見事な評言でしょう。が、「出版史を本当の歴史として描きえた最初の歴史家の誕生」とはどういう意味なのでしょう。もちろんものを知らない私のことですので、岩波の大編集子に異議を申し立てるなどそんな気持ちはないのですが、もう少していねいねいにご説明いただいたらと思わずにいられません。

 黒岩さんがおられなくなって3か月。といっても、黒岩さんのブログに書き込みをしたら、いつでもあのやさしい返事が返ってくるような気がして、「お元気ですが」と声をおかけしたい気持ちになってきます。
 ある事情で読みさしになってしまった『音のない記憶――ろうあの写真家 井上孝治』を、明日は読みたいと思っています。
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by kaguragawa | 2011-02-18 23:03 | Trackback | Comments(0)

《上柿木畠三五》そして啄木の《上柿木畠四五》   

 かつて中川富女の一家が住み、藤屋旅館が多くの旅人を迎え、今は金沢教会が建つ「金沢市上柿木畠三五番地」。なにげなく、《上柿木畠三五》を検索したところ、え~っというものがhitしました。

 《豊巻剛氏 金沢 上柿木畠四五》 

 「豊巻剛」、今まではあまり興味もなく見ていた名前です。石川啄木の日記に何度か出てくるのです。先日ご紹介したweb上の「石川啄木日記」の中から拾いだせば、たとえばこんな具合です。
 〔明治42年〕1月21日「〔本郷〕三丁目の停留場で豊巻剛君にポカリと逢って神田橋外まで同じ電車。予は三秀舎へ行って〔『スバル』〕第二号の初め六十四頁分の原稿をおいて来た。」
1月22日「平出〔修〕に行こうと思ってるところへ、豊巻剛君が来た。性格の不変ということ、藤村のことなどを語った。」「豊巻来てるとき、吉井〔勇〕から神田局からで、ゲンコウカケヌ ユルセという電報が来た。明日までに書くと言ってインキや原稿紙を持って行ったのだ。」
2月20日「おきて飯をくって、豊巻君の来訪に接した、五十銭かりる、一人でかけて北原君を訪うと、鈴木氏今かえった所という、明日一緒に大学館へゆきたいと言っていたそうな」
・・・こんな具合なのです。
 今くわしいことはわかりませんが、啄木の同郷の友人のようです。

 そして最初に掲げた住所付きの名前は、明治39年の日記の年末に「明治四十年一月賀状発送名簿」として出てくるものです。どうも豊巻氏は、一時、金沢の「上柿木畠四五」に住んでいたらしいのです。

 以上、ちょっと驚いた雑報告なのですが、以下に、啄木の「明治四十年一月賀状発送名簿」を紹介しておきます。web上の「石川啄木日記」からコピーさせていただきました。尾崎行雄や原敬の名前もみえます。

    **********************************************************
明治四十年一月賀状発送名簿

 ・尾崎行雄氏   東京、荏原郡北品川東海寺跡、
 ・姉崎正治氏    〃 小石川区指ケ谷町七十八、
 ・細川芳之助氏   〃 京橋区銀座三丁目佐久良書房
○・与謝野寛氏    〃 豊多摩郡千駄ケ谷村大通五四九、
○・上田敏氏     〃 本郷区西片町十、にの四四号
○・蒲原有明氏    〃 麹町区隼町八、
 ・薄田淳介氏   備中国浅口郡連嶋村
○・高安月郊氏    京都市新烏丸頭町
 ・前田林外氏    東京市、神田三崎町三ノ一
○・岩野泡鳴氏     〃 芝、西久保八幡町九、
○・綱嶋梁川氏     〃 牛込区大久保余丁町四八、
 ・原敬氏       〃 芝区公園第七号地
 ・長谷川天渓氏    〃 神田区駿河台鈴木町十二、
○・小栗風葉氏     〃 牛込区納戸町四〇
 ・小山内薫氏     〃 小石川区宮下町五、
 ・平野万里氏     〃 本郷駒込神明町四四三
○・川上桜翠氏     〃 深川区伊沢町一、
○・岩田郷一郎氏    〃 本郷区駒込曙町十三。
 ・森鴎外氏      〃 本郷区駒込千駄木林町団子坂上
○・平出修氏      〃 神田区北神保町二、
○・後藤宙外氏    岩代国耶摩郡三ツ和局区内戸の口
 ・登張信一郎氏   東京 小石川区白山御殿町一一一、
○・茅野儀太郎氏   〃 小石川区久堅町七十四、二三号
 ・馬場孤蝶氏    〃 牛込区弁天町一二三、
 ・正宗白鳥氏    〃 京橋銀座一丁目読売社内
○・金田一京助氏   〃 本郷区菊坂町八二、赤心館
○・田子一民氏    〃 弥生町三ノ三十二、小原方
○・堀合由巳氏    〃  〃  〃  〃  〃
○・福場幸一氏   広嶋県双三郡吉舎村
○・小嶋烏水氏   横浜市西戸部町山王出[六三五、
○・豊巻剛氏    金沢 上柿木畠四五
○・瀬川深氏    岡山県岡山市第六高等学校寄宿舎
 ・入沢涼月氏    〃  〃 花畑三〇
○・江南白雪氏   金沢市第四高等学校寄宿舎時習寮、
 ・細越夏村氏   東京市牛込区下戸塚六二六、山内方
 ・生田葵氏     〃 千駄ケ谷村大通坂下入
 ・渡辺勉氏    岩手県江刺米里村
○・小林花京氏   仙台市道場小路四、
○・渡部虹衣氏   大阪市西区江戸堀南通一ノ一三二、伊予屋
 ・島村抱月氏   東京市牛込市ケ谷薬王寺前寺二〇
○・石川半山氏    〃 麹町区三番町八十三、
 ・木下尚江氏    〃 麻布区広尾町三十五、
○・苜蓿社     北海道函館区船見町
○・山本千三郎氏  北海道小樽区稲穂町九、
○・工藤大助氏      上閉伊郡釜石町
  〈葛原対月    青森県上北郡野辺地町常光寺〉
○・田村叶氏    秋田県鹿角郡小坂鉱山重三衛十三、
○・米内謙太郎氏   青森県沼崎停車場
○・小笠原迷宮氏   県下紫波郡煙山村
○・高野桃村氏    〃 九戸郡葛巻村
○・佐々木孤舟氏   〃 二戸郡浄法寺村
○・堀合忠操氏    〃 岩手郡玉山村
○・村山竜鳳氏    〃 川口村
○・村山寛得氏    〃 大更村
○・内田秋咬氏   盛岡市内丸
○・下村垣哉氏    〃 四ツ家町
○・阿部康蔵氏    〃 鍛冶町
 ・堀合内      〃 新山小路三
○・福士神川氏    〃 加賀野新小路
○・大信田勇八氏  盛岡市川原町
○・清岡等氏     〃 川原小路一
 ・長岡拡氏     〃 馬場小路
○・小田嶋慶太郎氏  〃 日影門外小路
○・加藤正五郎氏   〃 上田、農林校前
○・新渡戸仙岳氏   〃 馬町
○・岡山儀七氏    〃 小人町五五
○・大矢馬太郎氏   〃 加賀野磧町
○・下長根澄氏   盛岡市上小路
 ・岩手公論社、上村才六氏  〃 本町
○・阿部泥牛氏    〃  〃
○・小林鼎氏     〃 加賀町磧町三、
 ・平野喜平氏    〃 大沢河原小路
○・上野さめ子氏   〃  〃
 ・高橋嘉太郎氏   〃 加賀町
○・稲村大次郎氏  岩手郡川口村
○・植木千子氏   東京布京橋区大鋸町五、

○ 山本健次郎氏
○・赤林コ人氏
○・秋浜正氏   
○・千葉春松氏
○・金子定一氏   士官二中隊
○ 伊五沢文五郎氏
○・伊東圭一郎氏   牛込南榎町九
○ 西堀藤吉氏
○ 浅利操氏
○ 佐藤良助氏
○ 伊五沢文五郎氏
○・畠山
 ・橋本
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by kaguragawa | 2011-02-16 22:58 | Trackback | Comments(0)

上柿木畠の時空散策(4) 「藤屋旅館のことなど」   

Kさんこと楠さんへ

 メール有り難うございます。

 私も2年前には、中川富女のことも竹村秋竹のこともまったく知らなかったのですが、今は“かぐら川追っかけリスト”に入っている人たちです。
 中川富女は「子規庵」を訪ねた唯一の女性となり、子規も富女に好意をもったらしいことが、ものの本に書いてあります。
 代表句の「わが恋の林檎のごとく美しき」もそうですが、明治時代の句としては色彩感のある句を残しています。
 東京に出た後の消息がつかめないというのもいわくありげです。

 ところで、1917(大6)年の、夢二の金沢での動向は彼の「日記」によってつかめるらしいので、図書館でのぞいてみたいと思います。おそらく自転車で湯涌までやって来たコックも日記に登場するはずです。

 なお当時、藤屋旅館は金沢の一流の旅館として知られていたようですね。金沢に帰省した泉鏡花もここを定宿にしていたようです。
 藤屋旅館ゆかりの人はもうおられないのでしょうか、旅館の“写真”は残ってないものでしょうか?。
 なにはともあれ、近々、また柿木畠界隈をぶらついてみたいと思っています。そう言えば、たまきの憧れたミッションスクール・金沢女学校も本多町よりですが上柿木畠でしたね。

 では。

 追伸:
 あっ、そうそう、盛岡を頻繁に?訪れていたヴァイオリニストの多忠亮(あの宵待草の作曲者)に、宮沢賢治は会っていますね。具体的な記録はないようですが、いろんな状況から間違いのないところと確信しています。そんなこともいずれ書きたいと思っています。

 もう一つ。東北話題で言うと、福島の助川啓四郎のことですが、名前は聞いたことがあるものの夢二との交流のこともまったく知らなかったのですが、農学・農政への関わりもふくめて調べてみたくなりました。web上で見つけた“二人は、早稲田実業時代に下田歌子の主催する「大日本少女会」での活動などを通じて親交を深めていったようです。夢二が岸たまきと結婚し、新家庭を持ったころまで、家族同様の交際が続いていたといわれています。”の部分はとても興味深いものです。『女学世界』など女性雑誌や少女雑誌への夢二の投稿に、下田歌子が関わっているかも知れませんね。
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by kaguragawa | 2011-02-14 00:31 | Trackback | Comments(0)

上柿木畠の時空散策(3) 「上柿木畠35番地」   

 中川富女と題した記事を、夢二の「藤屋旅館」から始めることをお許しください。(注:実は、当初タイトルは「上柿木畠の中川富女」だったのです。で、タイトルは変えましたが、上の一文は残しました。)

 竹久夢二が笠井彦乃との金沢・湯涌紀行の折に金沢市中で滞在した旅館「藤屋」の跡地に、現在の日本キリスト教団金沢教会が建っていることは、『金沢・柿木畠』の諸記述からも間違いのないことでした。 
 そして、『金沢・柿木畠』に載っている“この下駄ぬぎは藤屋旅館当時から(一部略)あります”という説明のついた教会内部の写真から、そんなこととも知らず昨年秋、トマス・ウィンの資料を求めにこの教会に立ち寄ったとき、たしかに、教会のなかに不思議な遺構?があったことを、思い出したのです。
 (〔追記:この遺構については、下記〔追記3〕参照〕

 “やはり、あの教会の地が、夢二が彦乃、不二彦と泊った旅館のあった場所だったのだ・・・。”
 が、こんな感慨は、次のショッキングな事実から、混乱めいたものにさえなってしまいました。
 別ページに、〔大正8年当時〕の柿木畠地区の電話加入者の抜き書きがあったのです。そこにはこう記されていました。

 一〇六三 藤屋旅館 伊藤保治
        上柿木畠三五 旅人宿業


 「上柿木畠三十五」=中川富女の中川家、「上柿木畠三五」=藤屋旅館。同じ場所なのです。
 富女が住み、竹村秋竹が下宿していた「中川家」のあった場所が、「藤屋旅館」になり、そこに夢二、彦乃、不二彦が泊り、そこが後にトマス・ウィン以来のプロテスタントの流れを汲む「金沢教会」の場所になっているのです。
 (とすれば、犀川の向こうの野田寺町から上柿木畠に隣接する下本多町の北陸女学校附属幼稚園へ通っていた柏村中也(のちの中原中也)が通園路として「ここ」を通っていたとき、そこは旅館だったのかすでに教会が建っていたものか・・・。〔追記:中也、在金当時、そこはまだ鞍月用水が前を流れる旅館でした。〕)

 ふしぎな思いで、柿木畠地区の地図をあかず眺めています。

〔追記〕
上柿木畠、下柿木畠の地名は、今もわずかに残っていますが、この地区に1966(昭41)年、町界町名整理と住居表示が施行された際、上柿木畠のほとんどは広坂一丁目に、下柿木畠のほとんどは片町一丁目に編入されています。もと「上柿木畠35」の金沢教会の現在の住所は、「金沢市広坂一丁目5番2号」です。(下記〔追記2〕参照!)

〔追記2〕
 金沢に住んでいない者の無知でした。2003(平成15)年10月1日に、金沢市の「旧町名復活運動」によって広坂一丁目の一部(もと「上柿木畠」)は《柿木畠》として復活していました。
 よって、日本キリスト教団金沢教会の住所も、《金沢市柿木畠5番2号》になっています。

〔追記3:2/26〕
 「遺構」については、私の勘違いでした。きょう金沢教会にお寄りしてうかがったところによると、この藤屋旅館の下駄ぬぎ遺構は、改築の際に、撤去されたそうです。(改築がいつのことだったのかきちんとお聞きしなかったのですが(2003?)、私の眼中に残っているのは、30年前にこの教会を訪れたときのものかもしれません。)
 突然の訪問にもかかわらず、心やさしく対応していただいた横井牧師と阿部伝道師に感謝します。
 なお、藤屋旅館が廃業した後、「上柿木畠三十五」には、横井小児科があり、この地に金沢教会が移ってきたのは1954(昭29)年とのこと。(『金沢・柿木畠』、『金澤教会百十年史』(1987.6))
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by kaguragawa | 2011-02-13 18:01 | Trackback | Comments(2)

上柿木畠の時空散策(2) 上柿木畠の「藤屋」   

 きのう予告?を書いた時点では、柿木畠にちなむ話題として「藤屋旅館」と「みやぼ旅館」のことを書こうと思っていました。「藤屋旅館」は、1917(大6)年、竹久夢二が金沢に来た時なじみになった旅館です。これが、たしか柿木畠にあったはずで、しかも現在の金沢教会(日本キリスト教団)が、「藤屋旅館」の跡地に建っているとなにかで読んだ記憶があって、そういうこともこの『金沢・柿木畠』にはしっかり書いてあるだろう、そのあたりのことを一度きちんと調べて書き記しておこうと思っていたのです。

 ところが、きのう記事を書き終わった後で、資料を片づけていたらばどうした偶然か、以前、中川富女のことを調べていたときの資料の一部が出てきたのです。整理の悪さゆえ所在不明になっていたものですが、そこには中川家の居所が“上柿木畠三十五”と明記されているではありませんか。が、うれしさと同時に、二次資料ゆえのあやうさ・あやしさもありますが、そもそも明治時代の番地を書き記した地図など容易に入手できるのだろうか・・・という懸念も頭をよぎったのです。時間をかけて調べるしかないな、とあきらめて、安眠というわけです。

 (本題の前段が長くなって恐縮なのですが、もう少し余談をお許しください。)

 今朝、『金沢・柿木畠』を開いて、ちょっとあわてふためいてしまいました。きのう引用した富女の句“わが恋は林檎のごとく美しき”が、ちょうどページの最後で、次のページから別の話題に移っているとばかり思っていたのですが、「家は今の芝生さんの裏にありました。」の一文だけが、次ページ〔55p〕の行頭にまたがって残っていたのです。
 “芝生”というのは確か今もある、お店の名前のはずです。そしてそこが“上柿木畠三十五”だったのか・・・というわけです。「地図で、〔芝生〕の場所を探してみよう!」。

 ここで、運良くか、運悪くか、電話。 「そうそう、あわてない、あわてない。芝生を探す前に、藤屋旅館の情報を『金沢・柿木畠』の中から探そう」、というわけで席を立ったのでした。
(続く)

〔追記〕
 夢二と藤屋旅館との接点を、先に整理しておきます。
 (夢二の詳細な年譜(*)にはこうあります。1917年の夢二と彦乃の金沢・湯涌紀行に関するものから藤屋に関するものを中心に並べるとこうなります。)

 1917(大6)年
 8月24日 金沢入り。藤屋旅館滞在
 9月15・16日 西町「金谷館」で「夢二叙情小品展覧会」を開催
 9月24日 夢二・彦乃・不二彦、郊外の湯涌温泉へ。10月15日まで滞在。
 9月25日 藤屋のコックが自転車で湯涌温泉「山下旅館」までバナナと手紙2通を届ける
 10月16日 9時頃、人力車が来て金沢市中に戻り一泊(藤屋旅館か)。
 10月17日 11時頃の汽車で金沢を出立。

 *主に、『夢二――ココアの匂い、里居の朝。――』(金沢湯涌夢二館/2015.4)より


 夢二は金沢入りして約一か月間「藤屋」に滞在したのだろうか。それにしても、 「藤屋のコックが自転車で・・・」というのには恐れ入ります。延々とした登り坂道を自転車で、市内から湯涌までどれだけの時間と労力がかかったのでしょうか。
 
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by kaguragawa | 2011-02-13 16:20 | Trackback | Comments(0)