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 なんと、きょうJRの北陸線が[終日]全列車運転見合わせという事態になりました。
 福井県内の国道8号線では1000台近い車が立ち往生という。久しぶりの――なんでも56豪雪以来の――大雪である。
 
 風の通り道になっていて冬になると雪の吹き溜まりになる我が家の庭に停めてある車は、使用不能。
 やっと掘り出したものの圧雪説部分が凍りついていてタイヤがスリップ。

 が、しかし、どこかでホッとしているところもあります。
 冬らしい冬――。これがないと、北陸人として生きていけないのではないか、そんな思いがずっとあったのです。
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by kaguragawa | 2011-01-31 23:07 | Trackback | Comments(2)

啄木と夢二   

 大逆事件以後、啄木は平民新聞のバックナンバーを読み返していますから、平民新聞に「コマ絵」を書いていた夢二のことはよく知っていたはずです。が、その2年前の北海道時代、啄木は不思議な女が夢二を話題にするのを聞いて、おそらく当時は知らなかった夢二という画描きに興味を覚えています。このとき以来、啄木の念頭に「夢二」という不思議な名がちらちらしていたかも知れないと思うのです。

 1908(明41)年1月8日の「日記」から、夢二が話題になった部分だけ紹介しておきます。

 “「女学世界」に挿絵を書いて居る夢二と云う人の女は、皆同じ様だと云つて、側らの「女学世界」を取上げてそれを見せる。成程皆パッチリした円い無邪気な眼をした女許りだ。恰もこの女の眼の様に。……自分は面白くなって来た。……そして夢二と云う人は高等商業学校の卒業生だが、天性の嗜好で画が大好きだと云う事、斯の如き眼は夢二氏自身の細君の眼そのままであるそうだと説明する。予の好奇心が益々煽られる。”

 当時の夢二評の一端が書きとめられていておもしろくてかつ貴重なものですが、目の前の女性と夢二描く女性との双方の「眼」に興味を集中していく啄木もなかなかです。

 夢二の方が啄木より2歳年上ですが、この同時代人の夢二と啄木の年譜を並べてみるとこれもなかなかおもしろいものです。大逆事件の発覚以後、社会主義者が次々と勾留、逮捕されていくなかで夢二が勾留されたという話題も啄木の耳にはいっていたかも知れません。啄木の「一握の砂」の次の歌も、そんな関連で読むこともできるかと。。。。

  やとばかり
  桂首相に手とられし夢みて覚めぬ
  秋の夜の二時

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by kaguragawa | 2011-01-30 00:21 | Trackback | Comments(0)

夢二と金沢人〔土岐僙、小竹幾久枝〕   

 歴史的事実の「発見」とは、いうまでもなく「発明」ではなく「発掘」でしょう。そういう意味で、歴史のなかに埋もれてしまった事実を見つけ出す作業は苦労もありますが愉しいものです。

 ヒントは「無窮会」にありました。金沢出身の司法官僚・河村善益のことを調べていて突き当たったのが、河村善益の盟友・平沼騏一郎がその基礎をつくった「無窮会」でした。平沼が受け継いだ神道・国学の碩学・上賴囶の遺した膨大な蔵書がこの会の物的基礎であったとすれば、西大久保にあった平沼邸に集まった国運を憂える人たちがこの会の人的・精神的基礎になったと「無窮会」のHPの「沿革」に記されています。
 平沼邸に集まったこの平沼グループともいうべき人たちの一人が、河村善益だったのですが、そのグループには私にとって意外な名前があったのです。《土岐僙》――、上京直後の竹久茂次郎(後の夢二)が寄宿させてもらっていた渋沢系の銀行家です。

 竹久茂次郎(夢二)のこの寄宿時代に「小竹幾久枝」という金沢出身の女性と出逢っていることも、先日書きました。どうも竹久茂次郎が寄宿先の土岐家から頼まれて小竹家に届け物をした際、小竹家の――といっても母娘だけの世帯ですが――幾久枝さんと話をし、次第に親しくなったようなのです。そして茂次郎はその裏面に告白文?を書いた「写真」をその幾久枝さんに贈ることになるのです。

 3週間前この写真の記事を書いた直後、この女性の名前「小竹幾久枝」を検索してみて、予想も期待もしてなかった、いや想像もしていなかった「小竹幾久枝」さんに関する詳細な報告記事を見つけました。幕末維新期の金沢における小竹家に関する興味深い記述がそこには書かれてあったのです。剣町柳一郎さんのHP「剣町柳一郎の本棚」のエッセイ欄です。
 さっそく連絡を取らせていただいて多くのことを教えていただいたのですが、土岐家と小竹家がどのような関係だったのかについて、剣町さんも不明とされながらも、土岐家も金沢の出身ではないかとのサジェスチョンを与えていただいたのです。

 夢二と出逢い妻となった女性・岸たまきだけでなく、はたち前の放浪時代に知り合った小竹幾久枝も金沢の出身だったというだけで私にはショッキングなことだったのに、上京直後の縁故のない東京で寄宿させてもらった土岐僙も金沢の出身だったなどというのは、あまりに話が出来過ぎています。しかし母娘だけで東京に出てひっそりと暮らしていた小竹家とつきあいのあった土岐家が、出身地〔金沢〕を同じくする士族であったと考えることは合理的でもあります・・・。

 しばらく途方に暮れていたのですが、そのとき出会ったヒントが「無窮会」だったのです。その創立期のメンバーにはなぜか金沢出身者が多いのです。先に書いた河村善益のほかにも北条時敬、織田小覚、早川千吉郎 、そして井上友一・・・。
(実は、北条時敬以外、三井系の経済家・早川千吉郎、日露戦争後、地方改良推進運動を推進した内務官僚でのちに東京府知事となった井上友一が金沢の出身であることを今確認して驚いているところなのです。)

 そして、今現在、具体的な資料で確認はできてないのですが、土岐僙も金沢の士族出身であることもほぼ確かとなったのです。ささやかな歴史的事実の発見です。
 (この点の報告は、後日)

 夢二の東京での生活の端緒にあったのも土岐僙、小竹幾久枝という金沢出身の人間でしたし、夢二式美人のモデルともなり夢二を世に出した妻・岸たまきも金沢出身でした。さらに夢二の生き方の一つの転換点になった大逆事件にも土岐僙と親しい金沢出身の河村善益が関わっていたとすれば、夢二の人生は金沢の不思議につながった人脈に彩られていたと言うしかないのです。

 というわけで、ささやかな歴史的事実の「発掘」を愉しんだ次第です。
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by kaguragawa | 2011-01-29 01:26 | Trackback | Comments(3)

夢二、“今夜は皆でお通夜しよう”   

 夢二ファンの方には周知のことがらですが、幸徳秋水らが死刑によっていのちを奪われたことを知った夢二は24日の夜、仲間と通夜をして彼らの死を悼んでいます。
 このエピソードを、夢二・たまき夫妻のもとから女子英学塾(のちの津田塾)に通っていた神近市子が書き残してくれてはいるのですが、夢二と平民社周辺の人々との交流、夢二自身の社会主義への関わりの深さ・・・といったことがらが、どうも断片ばかりで、私にはきっちりとした像を結んでくれないのです。

 夢二が社会風刺のきいたコマ絵画を、幸徳・堺の平民社発行の「直言」「平民新聞(日刊)」だけではなく、大阪の「大阪平民新聞」や熊本の「熊本評論」にも描いていたことを先日紹介しましたが、そうであればなおさらのこと、夢二と当時の社会主義との関わりを丹念に掘り起こし夢二像を描きなおさなければ、トピックの繋ぎ合わせだけの夢二の社会主義シンパ論では不充分だと思われて仕方がないんのです。

 少しずつでも情報を整理していきたいと思っています。
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by kaguragawa | 2011-01-26 23:57 | Trackback | Comments(2)

一件書類,七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸   

 石川啄木の1911年1月25日、26日の日記を写しておきます。(一部略)


一月二十五日 晴 温
 昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割った――その事が劇しく心を衝いた。
 昨日十二人共にやられたというのはウソで、管野は今朝やられたのだ。
 社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川〔玄耳〕氏から話があった。夜その事について与謝野〔鉄幹〕氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢って九時迄話した。与謝野氏は年内に仏蘭西へ行くことを企てているという。かえりに平出〔修〕君へよって幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨していた。明日裁判所へかえすという一件書類を一日延して、明晩行って見る約束にして帰った。

一月二十六日 晴 温
 社からかえるとすぐ、前夜の約を履んで平出君宅に行き、特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸ずつ。十二時までかかって漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾いよみした。
 頭の中を底から掻き乱されたような気持で帰った。

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by kaguragawa | 2011-01-26 00:20 | Trackback | Comments(0)

大逆事件の死刑執行の日(2)   

 100年前の今日(1月25日)、18日に死刑を言い渡された管野スガの死刑執行。昨日と同じ市ヶ谷の東京監獄。
 管野には、彼女が残された最後の一人であることは知らされていなかったという。

  管野すが   午前8時28分絶命



〔追記〕
 “管野すが”を検索したらば、3年前の黒岩比佐子さんのブログ記事〔2008.1.24〕が見つかった。
 http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51257161.html
 「管野すがの実像はそれかぐら川注:荒畑寒村が『寒村自伝』などで書いている彼女のイメージ〕とはかなり違う。彼女は新聞社で活躍した女性ジャーナリストの草分けの一人だった。死の間際に書いた「死出の道艸」などは、いま読んでも心を揺さぶられる。ある意味では、荒畑寒村がつくり上げた“管野すが伝説”が、彼女の死後もずっとひとり歩きしていたといえる。過去の自伝や回想録などを読む場合や、生きている人に話を聞く場合でも、必ずそれ以外の人たちの証言も調べて裏を取らなければならない、ただ盲信してしまってはいけない、と改めて肝に銘じている。
 さらに、なんと管野すがは、国木田独歩が亡くなる1カ月ほど前に、茅ヶ崎のサナトリウムへ見舞いに行って独歩に会っていた!!
 その事実を知って、私はしばし茫然。すでに国木田独歩の本は出てしまったあと……。もっと早くわかっていたら、と後悔してもあとの祭り。この一件についても書いたので、ぜひ『彷書月刊』〔2008年2月号〕をご覧ください。」
 

 この記事に、私が的はずれなはずかしいコメントを書いたこともすっかり忘れていました。が、さらに怠惰な私は、ここに紹介されている黒岩さんの『彷書月刊』の掲載稿を未だに読むこともせずにいるのです。慙愧に堪えませんが、黒岩さんを偲んで紹介させていただくことにしました。
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by kaguragawa | 2011-01-25 21:02 | Trackback | Comments(5)

大逆事件の死刑執行の日(1)   

 100年前の今日(1月24日)、18日に死刑を言い渡された24名のうち特赦で無期懲役となった12名を除く12名の死刑が、東京監獄で執行されました(12番目の管野すがは、明日に繰り延べ)。
 データの出所を確認していませんが、全員の“絶命”時刻が記録として残されています。

  幸徳秋水   午前8時6分
  新美卯一郎  午前8時55分
  奥宮健之   午前9時42分
  成石平四郎  午前10時34分 
  内山愚童   午前11時23分
  宮下太吉   午前12時16分

  森近運平   午後1時45分
  大石誠之助  午後2時23分
  新村忠雄   午後2時50分
  松尾卯一太  午後3時28分
  古河力作   午後3時58分






 上に、“管野すがは、明日に繰り延べ”と書きましたが、その点が少し疑問だったのですが、具体的に時刻を検討してみて事情が私なりにわかってきました。
 大逆罪とはまったく無縁な何人もの人々が「裁判」という国家作用をもっていのちを断たれたこの事件の、しかも絶命時刻の、分析という非情な作業を心を鬼にしてやってみました。そこから見えてきたのは、あくまで推論ですが、いのちの「計画的・機械的」横奪という図式でした。
 もしも私と同様に上記の時刻を仔細に見てみられるならば、容易に気づくことですが、午前中の執行は一人当たりほぼ50分ほどがあてられているのに、午後からはなんと一人当たりほぼ30分なのです。あきらかに、午後から「時間の短縮」が図られています。
 幸徳秋水が監房から呼び出されたのが午前7時過ぎ、古河力作が絶命が午後4時ですから、この日の執行にあてられたのは、計9時間(お昼の1時間を除き正味8時間)。ちなみに24日の東京は6時46分の日の出、午後5時の日の入りです。
 ここから見えてくるのは、もともとこの9時間に12人全員の処刑が計画されていたのではないか、ということです。 おそらく午前に7人、午後に5人ではないでしょうか。一人当たり40分の見当です。にもかかわらず、午前は教誨師との対話など予定を超えた時間が費消された・・・とのあせりから、午後のあわてた時間運びとなったのではないでしょうか。当初から二日がかりで処刑をおこなうつもりなら、午後からこんなにあわてる必要はなかったと考えられるのです。
 つらいことがらですが、もう少し書いておきたいのですが、それにしてもなぜ管野すが一人だけが、翌日に繰り延べになったのでしょうか。「もう一人ぐらい、予定通りに実行してしまえばよかったのではないか?。一人だけ、翌日に繰り延べしなくてもよかったのではないか?。東京監獄に当時どれだけ電灯設備があったのかわかりませんが、日没までにはまだ1時間あったのではないか?。」という疑問です。
 ここで、はたと気づいたのは、朝から11人の死刑執行に立ち会っていたであろう「高級司法官僚」からの“ギブアップ”の声があったのではなかろうかということです。言うまでもなく、実際の執行に携わっていた執行官吏の心のケアなどということは考慮の対象になるべくもなかったでしょうから。

 最後ながら、国家によっていのちを奪われた11人の方々の霊に哀悼の思いを捧げたいと思います。
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by kaguragawa | 2011-01-24 22:42 | Trackback | Comments(0)

梅の鉢に花が/「今朝から死刑をやってる」   

 引き続き石川啄木の日記。
 
一月二十三日 晴 温
 休み。
 幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。
 夜、母が五度も動悸がするというので心配す。

一月二十四日 晴 温
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香いがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
 薬をのましたせいか、母は今日は動悸がしなかったそうである。


 23日を「休み」と書いているが、1911(明治44)年のこの日は、月曜日。日曜日出勤の代休だろうか。
 24日、啄木が、驚いて書いているようにもう死刑が執行されたのだ。判決の言い渡しがあったのは先週の水曜日、翌週の火曜日に執行なのだ。
 “午前10時34分絶命”と記録の残されている成石平四郎などははこの日、妻のむめに宛てて「死刑の宣告は受けたが、まだまだ死ぬまではいくらかひまがあるから、モシ僕に相談があるなら言ってきてもよいが、」と書いたばかりなのだ。
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by kaguragawa | 2011-01-24 00:52 | Trackback | Comments(0)

“事件の真相は後世の歴史家が”   

 大逆事件で死刑の宣告を受けた人々のなかでも、「農」に関わっていた森近運平のことはもっと知りたいと思う人物である。彼が、100年前の今日、妻の繁子と娘の菊代へ宛てた手紙を紹介したいと思います。

 実に世に類なき裁判であった。判決を知った時、御身は狂せんばかりに嘆き悲しんだであろう。まことに思いやられる。それも無理はない。僕は死の宣告によって道徳的義務の荷をおろして安楽な眠りに入るのだが、御身と菊とはこれがために生涯の苦痛を受けねばならぬのである。御身は今まで僕のために苦労ばかりしてくれたのに僕は少しも報いることを得ず、弱い女に幼児を背負わして永久の眠りに就かねばならぬ。アア胸の裂ける思いがする。愛する我が妻よ、人間の寿命は測るべからざるものだ。蜂に刺されたり狂犬に咬まれたりして死ぬ人もある。山路で車から落ちて死ぬ人もある。不運と思うてあきらめてくれ。事件の真相は後世の歴史家が明らかにしてくれる。何卒(なにとど)心を平かにしておもむろに後事を図ってくれよ。(一部略)

 そして葡萄栽培や養鶏などで飾らず偽らず、自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうるならば、またもって高尚な婦人の亀鑑とするに足ると思う。順境にいては人の力量は分からぬ。逆境に処して初めて知れるのだ。憂事のなおこの上につもれかし、限りある身の力ためさんという雄々しき決心をして、身体を大切にし健康を保ち父母に孝を尽くし菊を教育してくれ。これ実に御身の幸福のみでなく僕の名をも挙げるというものだ。

 菊に申し聞かす。お前は学校で甲ばかり貰うそうな。嬉しいよ。お前のお父さんはもう帰らぬ。監獄で死ぬことになった。その訳は大きくなったら知れる。悲しいであろうがただ泣いたではつまらぬぞ。これからはおじさんをお父さんと思うて、よくその言いつけを守りよき人になってくれよ。大きくなったらお母さんを大切にしてあげることがお前の仕事であるぞ。
 一月二十一日記

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by kaguragawa | 2011-01-21 23:37 | Trackback | Comments(0)

陛下の思し召し   

 啄木は100年前のきょう〔20日〕の日記にこう書く。

 昨夜大命によって二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたそうである。
 東京は朝から雪がふっていた。午後になっても、夜になっても止まなかった。仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたいたいような気分がした。


 手回しのいいことに、判決の翌日(19日)に閣議が開かれ、死刑を言い渡された24人のうちその半数にあたる12名の無期懲役への減刑が協議され、後刻、御前会議が開かれ、「特赦」決定。

 減刑となった坂本清馬、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、佐々木道元、飛松与次郎 、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治には、19日中に(深夜?)言い渡されたという。
 新聞に公表されたのは明日〔21日〕のようだ。

 管野すがは、こう書き遺している。

 一旦ひどい宣告をしておいて、特に陛下の思し召しによってというようなもったいぶった減刑をする。――国民に対し外国に対し恩威並び見せるという抜け目ないやり方は、感心といおうか、狡猾といおうか。 

 なお、1911年は明日21日が「大寒」のよし。
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by kaguragawa | 2011-01-20 23:58 | Trackback | Comments(0)