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年を越えて   

 黒岩比佐子さんのご逝去一か月前の最後の講演のなかでとりわけ心に突き刺さったのは、大逆事件の被告たちの胸の内を思うと眠れない日があったと語られたことだった。

 死刑の求刑をうけた26人はどのような思いで、明治43年から44年への年を越したのだろうか。

 堺利彦が担うことになったこの26人の思いを引き継ぎ時代に活かしていくという課題を、黒岩さんも堺を語ることによってその課題の一端を担われたと言って良いのかと思います。


 今年一年お世話になったみなさん有り難うございました。
 みなさんにとっても来年が良き年であることをお祈りします。
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by kaguragawa | 2010-12-31 23:48 | Trackback | Comments(5)

大逆事件の公判、結審す   

 100年前の12月29日、大逆事件の第16回公判。 弁護人中の長老・磯部四郎の弁論を最後に、結審

 なにがなんでも年内に公判を切り上げたかったのだろう。御用納めも済んだ翌日のこんな年の瀬も押しせまった日にむりやり結審する必要もなかろうに、と思う。法廷を非公開にし、弁護人の要請した証人申請も却下し、日曜日に論告求刑をするなど、あまりにも強引な訴訟指揮であり、審理が充分に尽くされたとは思えないのである。しかもなぜか正式な訴訟記録が残っていない?のである。

 判決の言い渡しは、翌年の1月18日となる。

〔追記:これも私の覚えとしてのもの(暫定)〕

 1910年
  12月10日(土) 01  検察側の冒頭陳述 被告人供述
  12月11日() 〔休〕
  12月12日(月) 02  被告人供述 
  12月13日(火) 03  被告人供述
  12月14日(水) 04  被告人供述
  12月15日(木) 05  被告人供述
  12月16日(金) 06  被告人供述
  12月17日(土) 〔休〕
  12月18日() 〔休〕
  12月19日(月) 07  被告人に対する補充審問
  12月20日(火) 08  被告人に対する補充審問
  12月21日(水) 09  被告人に対する補充審問
  12月22日(木) 10  被告人に対する補充審問
  12月23日(金) 11  証拠調べ
  12月24日(土) 12  証拠調べ
  12月25日() 13  論告・求刑  (全員に死刑を求刑)
  12月26日(月) 〔休〕
  12月27日(火) 14  弁護人弁論
  12月28日(水) 15  弁護人弁論
  12月29日(木) 16  弁護人弁論   結審


〔追記:余談ですが〕
 1873年(明6)年の太政官布告第二号「休暇日ヲ定ム」によって(12/29~1/3)の休みが定められ、その前日(12/28)が御用納め。
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by kaguragawa | 2010-12-29 21:11 | Trackback | Comments(0)

《土岐僙》   

 土岐僙
 
 〔もしかしたらば、名前の文字がきちんと表示されてないかもしれません(人べんに、「黃」(黄の旧字)。〕

 とき・たかし?とき・こう? 。同姓同名の方が複数おられるとは思はないのですが、私が調べ始めているのは、明治期の第一銀行の取締役などを務めた経済人ですが、能楽関係の著述もある?(早稲田大学演劇博物館デジタル・アーカイブ・コレクションに記載あり)。

 竹久夢二の年譜に;
・明治34年(1901)18歳 7月、家出して上京。
・明治35年(1902)19歳 9月、早稲田実業学校に入学。 このころ、車夫などして苦学していたのを、
 第一銀行重役土岐氏に見出され、書生として住み込む。・・・
などと、登場する人物の詳細を知りたいと思っているのです。 

 出身地や略歴など、ご存じの方がおられたましたらご教示ください。
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by kaguragawa | 2010-12-27 23:11 | Trackback | Comments(0)

備忘のメモ   

 24日の夜、――私はクリスマスもその前夜も無縁な人間です――仕事先でお世話になっている人と“三笑楽”を飲んで、駅に向かう道は、午後から降り始めた雪が今年初めての積雪となっていました。
 特別に味わうという気持ちで飲んだのではなかったからなのか、自然と、“三笑楽”に織りこめられている「うまさ」が語りかけてくるような錯覚?を覚えました。あっ、これが五箇山で長い間培われてきた地酒の「土」の味・香りなのか・・・、というわけです。

 きのうは、夏目漱石の『思い出す事など』というエッセイを、年末の家事に追われる中に少し時間をもらって、読みました。1910(明43)年、湯治先での喀血〔8.24/修善寺の大患〕の前後の体験を、瀕死状態からの回復期に朝日新聞に連載したものです。この期間が大逆事件の逮捕、公判、処刑に重なっていることを思い出して、再読?に及んだものですが、初めての通読は大逆事件とは違ったところでも重いものを残してくれました。この思いは折に触れ少しずつ書いてみたいと思います。

 今年亡くなられた経済思想史家の小林昇さんを偲んで歌集『歴世』拾い読み。
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by kaguragawa | 2010-12-26 00:56 | Trackback | Comments(0)

大逆事件弁護人・磯部四郎のこと   

 今、わたしの眼前に一冊の本がある。『磯部四郎研究――日本近代法学の巨擘』(平井一雄・村上一博/編/信山社出版/2007.3)だ。この本の幾篇かの論文に目をとおして愕然とした。とりわけ出版人の渡辺左近さんの「出版人から見た磯部四郎の魅力」は、磯部四郎の輪郭を素描した好論で、目からうろこが落ちるような知見を与えてくれる。渡辺さんこそが、日本の市民法の定礎者としての磯部四郎の発見者だったのである。
 以下、その磯部四郎をめぐる感想的なメモ。

 磯部四郎の名前を知ったのがいつだったのか、はっきりと思い出せないのですが、以来わたしの磯部についての知識は「富山県出身の明治期の法律学者」といった漠然としたものであり続けました。その磯部四郎の名前を大逆事件の公判記録のなかで見つけて驚いたのは、ことしの6、7月のことだったと思います。何も知らず、何も調べずに、三流の法律学者と思い込んでいた私は、幸徳秋水らの弁護人のなかに磯部四郎の名前を見つけて、いささか、慌てました。
 かといって大逆事件の公判の記録を、という前にその記録の在り処かを、確かめそれに接する余裕もなく、日をすごしてきたのです。その事情は今も変わっていないのですが、もう一つ驚いたのが我が富山県の高岡法科大学で「富山が生んだ法曹界の巨人磯部四郎」というシンポジウム」(2005年12月10日)が行われていたという事実です。そして、最初に記したわたしの衝撃に近い驚きはこの時のシンポジウムを中心に編まれた『磯部四郎研究』によるものなのです。

 磯部の法学者、法曹家としての八面六臂の活躍の第一歩は、司法省法学校を第一期として卒業し、1875(明8)年にパリ大学法学部に留学し、1878(明11)年末に帰国したところから始まるのですが、そのときから憲法を頂点とする23年体制と呼ばれる明治期の近代法体系の創出にボアソナードのもと、みごとな法感覚でその法典編纂に深くかかわっていくのです。その学的業績については渡辺左近さんが、“磯部が他の司法省法学校卒業生に比べてきわだつ特徴は、法律学のほぼ全分野にわたって著作物を残したことである。このような例は、私の知る限り日本には存在しない。”“「日本の法律学は帝大三博士〔穂積陳重・梅謙次郎・富井政章〕から始まった」とする大雑把な認識は今後見直されていくことになろう。”と概括して言われるのにも驚いたのですが、なんと彼がイェーリングの『ローマ法の精神』の訳まで手掛けている(1888)ことも驚きである。
 何にもまして特言しておかねばならぬことは、磯部がフランス人ボアソナードより早く(1879)、自らの考えとして日本法への「刑事弁護人」の導入を力説していることである。民事弁護は認める一方、「罪をおかした悪人を弁護する必要など、どこにあろうか?」というのが、当時の法律関係者たちをも支配していた観念なのである。

 磯部が官界から法曹界にうつり大審院検事の職を辞し、「代言人」(弁護士)となったのが、1892(明25)年。そして18年後の1910(明43)年に、弁護人の一人として「大逆事件」に関わっていくまでの経緯については、その「大逆事件」にどのように関わったのかとともに、私にはまだまだよくわかっていませんが、少しずつ追いかけていけたらと思っています。・・・磯部が大逆事件の弁護人を引き受けた年齢よりまだ若いのですから。

〔追記〕
 幸徳秋水が、公判中(12月18日)に書いた「磯部先生、花井、今村両君足下。私どもの事件のために、たくさんな御用をなげうち、貴重な時間をつぶし、連日御出廷くださるうえに、世間からは定めて乱臣賊子の弁護をするとて種々の迫害も来ることでしょう。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。」ではじまる“陳弁書”を、リンクしておきます。
 http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/koutoku01.html
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by kaguragawa | 2010-12-23 23:23 | Trackback | Comments(3)

黒岩さんへ――堺利彦と漱石の「熊本の地」   

 堺利彦と夏目漱石のあいだに直接の面識があったのかどうか私には確かめようがないのですが、黒岩比佐子さんの『パンとペン』が詳細に考証されているように、社会に対する姿勢において二人の間にある種の共感があったようではあります。それ以上のことは黒岩さんも書いておられないのですが、このブログの10月4日〔『堺利彦伝』(中公文庫)拾い読み〕にふれたように、どうもこの二人の間には、共通の友人ともいうべき人物がいたのです。堺の共立学校の同窓で、一方の漱石にとっては大学予備門以来の同窓で親友でもあった中村是公です。少なくとも漱石は中村是公から、「あの社会主義者の堺という男は・・・」という話を聞いていたように思うのです。

 ここでもう一つ、堺利彦と夏目漱石に関わるエピソード、――黒岩さんの言われる“出会いとすれ違い、偶然と必然”――を紹介しておきたいのです。

 堺利彦が大逆事件の後、遺族慰問の旅に出たことすら私は知らなくて黒岩さんの本で感銘深くその事実を知ったのですが、その慰問の旅は、“処刑から約二ヶ月後の1911年3月31日、堺は東京から京都、岡山、熊本、高知、兵庫、大阪、ふたたび京都、和歌山、三重と回り、各地で十四の家族を訪問して5月8日に帰京したのである”(黒岩23P)という一か月余にわたる長いものだったようである。

 黒岩さんは、九州の旅は“熊本で松尾卯一太と新美卯一郎の遺族、佐々木道元の家族を見舞った”と書かれていて、最初に読んだときは深く考えもせずに読んだのですが、先日、この熊本グループの本籍地を調べて以来、あることが気になり始めました。
 熊本グループの中心にいて『熊本評論』発行に携わっていた松尾卯一太と新美卯一太の二人なのですが――ふたりの名前が相似形〔卯一〕なのはともに1879〔明12〕年【卯歳】一月生まれだからです――、だんだんと新美卯一郎についてあることが気になってきたのです。
 堺が訪ねたであろう新美卯一郎の実家は、熊本県飽託郡大江村なのですが、この《飽託郡大江村》という地名を以前も見たことがあったのです。

 ようやく見つけました。岩波文庫『漱石・子規往復書簡集』に、〔下谷区上根岸八十二番地 正岡常規より/熊本県飽託郡大江村四百一番地 夏目金之助へ〕、〔熊本県飽託郡大江村四百一番地 夏目金之助から/下谷区上根岸八十二番地 正岡常規へ〕という、俳句を書き連ねた往復書簡が幾通も収められているのです。

 なんと新美卯一郎の生まれ育った《熊本県飽託郡大江村〔ホウタクグンオオエムラ〕》とは、夏目金之助(漱石)が第五高等学校の教諭として熊本にいたとき転々とした住居のうちの一つ――いわゆる熊本〔第3の家〕――があった地区なのです。新美の実家〔七百五十四番地〕と漱石のいた白川近くの〔四百一番地〕が、ごく近いのかかなり離れているのか私には確かめようがないのですが、もちろん歩いていける距離でしょう。
 そして、漱石がこの大江村の〔第3の家〕に居たのは、1897(明30)年9月から翌1898年4月までということですから、卯一郎18歳のときのことです。卯一郎の年譜の詳細を確認できませんが、彼は熊本尋常中学校(済々黌)を卒業後、上京して東京専門学校(のちの早稲田大学)に入っていますから、漱石の熊本五高への赴任と入れ違いのようです。が、もし、卯一郎が地元の五高に進学していれば、漱石の生徒になっていたはずでもあったのです。
(ちなみに、堺が訪ねた佐々木道元の実家は、これも漱石の熊本〔第5の家〕の近くではないでしょうか。)

 大逆事件当時、大病とその回復期という肉体的に恵まれない状況にあった漱石は、新美、松尾という若者の名は知らぬまでも、彼ら熊本グループと呼ばれる幾人かがその被告人の中におり、彼らの出身地名のなかに「飽託郡大江村」や「玉名郡」「熊本市西坪井町」という10年前の熊本時代を想起させる地名を見つけ、ある感慨をもったと考えてもいいのではないでしょうか。

 その漱石ゆかりの熊本の地を、堺利彦は極刑ののちにもやってきた春盛りの4月に、重い心をいだいて慰霊の旅路として歩くことになるのです。



 
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by kaguragawa | 2010-12-18 19:23 | Trackback | Comments(4)

黒岩さん逝って一か月   

 私の通勤路にある“さざんか”は初雪、初氷の声を聞いてもつぼみを解こうとしない。なかなかの強情さは見上げたものだ。
 しかし、今年さざんかの花を初めて見たのはずっと早く、一か月も前のことでした。それは、黒岩比佐子さんが亡くなられた翌朝、11月18日の朝でした。さざんかの花にいとおしさを感じ、一粒なみだが落ちました。

 きょう黒岩さんの一か月の命日に、ふと浮かんできた五七五を書きとめておきます。

    さざんかの紅に想うは逝きし人

 最後の著作となった『パンとペン』は、もう5刷だという。すでに“名著”の呼び声もありますが、私などそんなことより広く深く読まれると同時に、もっと異論反論がにぎやかに出てほしいと思います。

 というわけで、堺と漱石について、先日小さな異論を書きましたが、やはり同じ話題で、近いうちにちょっと報告めいたことを書いてみたいと思っています。
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by kaguragawa | 2010-12-17 23:50 | Trackback | Comments(4)

初雪   

 富山県内、平野部でも“初雪”。平年より17日遅いという。ただし積雪はなし。
 私の通勤路の「さざんか」は、まだ咲かない。去年は、遅くとも11日には咲いていたのですが。
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by kaguragawa | 2010-12-15 20:56 | Trackback | Comments(3)

徳田秋聲記念館 《秋聲文学碑物語/日本の「文学碑」第1号》   

 徳田秋聲記念館  第20回企画展《秋聲文学碑物語/日本の「文学碑」第1号》 

 前企画の「三島霜川展」が資料ぎっしりの展示だったのに比べ、今回はとても清々しいすっきりした展示。

 金沢市の卯辰山望湖台に落ちついた風情を見せる秋声の文学碑。その「文学碑」建立に関わった人たちの思いが、静かに伝わってくる企画で、深い感銘をうけました。

 設計に関わった谷口吉郎のことはまた別の機会に書きたいことがあるのですが、相談にあずかった野田宇太郎「文学碑などというものは、その作家に関する文学運動そのものの帰結として生まれるものでなければ無意味だ。」というきびしい考え方がスタートにあり、彼が設計者として谷口を選んだことが、この第一号となる1947(昭和22)年の、文学碑を生んだと言ってよいのではなかろうか――このことが秋声に関わる、そして文学に関わる、いろんなことを思わせてくれる。

 なお、今回から企画展のガイドペーパーの色も変った。新学芸員の薮田さんのやわらかな感性が展示にいきている。
 これから秋聲記念館で、少し違った秋声に出会えることになるのではないか、そんな想いもしてくる企画展である。

 会期は、来年の4月17日まで。可能な方にはぜひ足を運んでいただければと思う。
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by kaguragawa | 2010-12-11 19:40 | Trackback | Comments(0)

思いつくままのメモ   

 今日、しばらく目にしてなかった本をが文庫本のかたちで書店の棚に並んでいるのを見つけ、思わず買ってしまいました。15年ほど前に読んだ本です。内容を紹介する余裕はないのですが、自分の記録として、書名だけ並べておきます。

  塩見鮮一郎『江戸の城と川』(河出文庫/2010.12)
  菅原千恵子『宮沢賢治の青春』(角川文庫/2010.11〔3版〕)

 ここ一週間ほどのあいだに書こうと思って書く余裕のなかった〔出逢い〕を、思いつくままに列記しておきます・・・。

 1.オイゲン・ヨッフム=バンベルク交響楽団の日本公演〔1982.9.16〕のベートーヴェンの第7シンフォニー。バンベルク響の堅牢な木づくりの響きになんといってもクラリネットがすばらしく美しい。

 2.『歩く渋谷川入門』(梶山公子/中央公論事業出版2010.6)。幸徳秋水が最後にいた千駄ヶ谷平民社の位置が、この本のイラスト地図で、玉川用水に架かっていた「葵橋跡」を見つけ、ほぼ正確にわかりました。

 この機会に、自分のメモとして;
 ◆巣鴨の平民社〔1908.10~1909.3.18〕
  北豊島郡巣鴨村巣鴨2040番地
  現・豊島区北大塚2丁目14 (大塚駅北口前)
 ◆千駄ヶ谷の平民社〔1909.3.18~1910.3.22〕
  豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷903番地
  現・渋谷区代々木2丁目7 (新宿駅南西の西新宿1丁目交差点の南)
   ※902番地の増田謹三郎氏のことも・・・

3.三島霜川の1906(明治39)年の北国新聞連載の小説「向日葵(ひぐるま)」。河川改修工事の現場で働く主人公・半田が社会党員であることが書かれたところで、連載が途絶えている。

〔追記〕
 なんと!、霜川は、この連載にあたって“烈日庵霜川”という特徴的なペンネームをつかっています。この「社会党」とは、1906年、西園寺政権下で初めての合法的社会主義政党として結党された「日本社会党」のことです(翌1907年、禁止命令により解散)。
 なお、大逆事件の1910年の秋、霜川のもとにも官憲が訪れていることを、同居していた石井獏が自伝に書きとめています。
(11月14日の項〔霜川の作品「向日葵」〕の続きを書く余裕と準備がないので、ここで暫定報告をしておきます。)

 ・・・このように項目だけ立てていくと10は超えそうな雑報告があります。いずれの機会に。

〔追記2〕
 『宮沢賢治の青春――“たった一人の友”保阪嘉内をめぐって』の著者・菅原さんはお元気なのだろうか。1994年この本が単行本で発刊された直後、お会いしていろんなお話を聞いたひと時が思い出されます。体調を崩しておられるともお聞きしたのですが。
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by kaguragawa | 2010-12-10 23:59 | Trackback | Comments(2)