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明治人の自転車   

 黒岩比佐子さんの『パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』を読んで、本筋からはずれたところで興味をもったのが明治の自転車事情である。「万朝報」の面々(大杉栄や内村鑑三らも)が競って自転車の練習をし――何十回も何百回も落車?!――、サイクリングを楽しんだという。

  “1901年の秋ごろ堺は自転車に乗る練習を始め、角筈に転居した後は、京橋区弓町21番地にある朝報社まで通勤するようになる。”、“1902年1月21日の日記には、待ちに待った自転車が届いたことが書かれている。堺は初めて会社から自宅まで自転車で帰り、約50分かかったが、「愉快でたまらぬ」と子供のように喜んでいる。ペダルを漕ぎながら、彼は世界が広がったような高揚感に包まれていたことだろう。”、“当時、堺と秋水は自転車を並べてあちこちへ出かけていた。内村鑑三は彼らより早く自転車で通勤していたので、この三人が自転車で街を走り抜ける光景も見られたに違いない。”
 漱石もロンドンで苦労しながら自転車に乗れるようになったが、日本に帰って乗った形跡はない。。。などなど。明治30年代半ばの自転車事情を黒岩さんは詳述している。

 そして、きょう、また驚いてしまった。黒岩さんの前掲『パンとペン』にも社会主義に関わる人物として登場する福沢門下の矢野龍渓に、『安田善次郎伝』(1925/1979.中公文庫で再刊)という著作があるのですが、その年表にこうあるのを見つけました。

 明治17年 47歳 6月19日 「自転車に試乗す」

 果して50歳近で初めて――それにしても1984年というのは早い!――自転車に挑戦した安田善次郎は自転車に乗れるようになったのでしょうか・・・。

 〔追記〕
・明治の自転車事情については;
 http://www.tanken.com/bicycle.html
 http://sca.cool.ne.jp/bunka/history.htm
 http://ordinarycyc.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html
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by kaguragawa | 2010-11-25 23:40 | Trackback | Comments(9)

安田善次郎の生家跡を訪ねて   

 先週の土曜日、やっと思い立って「安田記念公園」に――大げさな名ですが富山市内の町の一角の小さな公園です――、行ってきました。

 安田善次郎――。明治の銀行王とでもいうべきなのでしょうか。善次郎の生家跡が公園になっているのです。

 由井常彦『安田善次郎』(ミネルヴァ書房/2010.9)を持って、初めて訪ねた公園は、いい公園でした。「松翁 安田善次郎翁誕生地」の大きな碑を正面に据えたあずまやのベンチで、陽だまりのなか、その公園にちなむ先人を偲び時を忘れて、その書を読みふけりました。
 二日前のことなのにもうなつかしいひとときです。

 *注) 安田記念公園は、富山駅から歩いて10分ほどの住宅地にある“ふつうの”公園です。誕生地の碑は、高橋是清の字で刻まれています。このことが深い思いをいだかせてくれました。


〔追記:12/1〕
 あることが気になって、仕事の空き時間に「誕生地碑」をあらためて訪ねました。碑の文字が高橋是清の書であることを意識しだしてから、碑の背面に刻んであった碑建立の日付が気になってきたのです。たしか、“昭和11年”ではなかったか・・・。e0178600_21191568.jpg
 12月にしてはぽかぽかと暖かい昼下がり、ひと組の親子が遊ぶ公園にこっそりと入り込み、碑の後ろに回り込んであらためて確認した文字は、「昭和十一年三月建立」でした。
 言うまでもなく、昭和11(1936)年2月、高橋是清は、二・二六事件でいのちを奪われています。安田善次郎が暗殺されたその15年後に高橋是清も凶刃に斃れることになったのです。それにしても高橋是清が亡くなったその翌月に建てられた是清筆の善次郎誕生地碑とは、いったい誰がどのような思いで建てようとしたものなのでしょうか。


 善次郎の生まれは、天保九年(1838)ですので、生誕百年にあたる1938(昭和13)年に向けて建立が計画されていたのだと思うのですが、この碑が安田善次郎をたたえるものであると同時に、高橋是清への深い追悼の碑にもなっているという事実です。
 この「昭和十一年三月」の文字にしばし歴史への言いようもない思いをいだいて、公園をあとにしました。
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by kaguragawa | 2010-11-22 21:13 | Trackback | Comments(1)

吉岡金市の二つの先駆的遺産「森近運平」と「イタイイタイ病究明」   

 きょうが、吉岡金市氏の命日であることを、webで調べ、今知ったばかりです。そして吉岡金市氏が、大逆事件で刑死した岡山の農学者・森近運平の復権に向けての研究を半世紀も前に始めた人であること、『森近運平―大逆事件の最もいたましい犠牲者の思想と行動 』(日本文教出版/1961)という著書も残しておられること、そうしたことを、今日読み始めた『大逆事件』(田中伸尚/岩波書店/2010.5)の「プロローグ:凍土の下」で知りました。

 初めて尽くし――それも今日の――のことがらばかり並べましたが、吉岡金市さんの名前を私が知ったのは今日ではなく、何十年も前になります。 イタイイタイ病のことをようやく調べだしたときのことです。
 イタイイタイ病の原因が三井金属の排出(たれ流し)のカドミウムであることを探る第一歩となった「農業鉱害と人間公害(イタイイタイ病)」という副題をもつ吉岡論文「神通川水系鉱害研究報告書」(1961.6)のコピーを入手して読んだとき、すなわち、30年ほどまえのことだと思うのです。
 それだけに、大逆事件に関する文献のなかで吉岡金市という名前をみたとき、我が目を疑ったのです。

 イタイイタイ病の原因究明に先駆的に乗り出した吉岡金市氏。森近運平の復権に向けての研究を始めた吉岡金市氏――。 同姓同名の別人かとも思いましたが、そうではありませんでした。
 いうまでもなく今年は大逆事件発生100年の年である。そしてイタイイタイ病の患者が発生してから100年だといいます。ともにその100年は、国家というもの正体を知らしめてくれたとはいえ、関わった人々には苦渋の100年だったと言えるでしょう。
 その半ばの50年の時点で、勇気ある発言と行動で2つの大きな巌を動かし、さらに私達の蒙をひらく役割をすでにされていたのが、森近運平と同郷の農業経済学者・吉岡金市氏だったのです。

 田中氏の前掲書によると森近運平の墓標も墓石も無かった森近家の墓地に、運平の墓標が建立されたのは死後50年の記念の年だったという。そしてその碑銘は吉岡氏によるものだという。

 今から学び始めなければいけないことのなんと多いことか。多くの人の生命とひきかえになった遺産から少しずつ、学びの一歩を始めるしかないという思いを、黒岩比佐子さんの死ときょうの吉岡金市氏の命日を機に新たにしています。

 *森近運平  1881.01.20~1911.01.24
 *吉岡金市  1902.07.26~1986.11.20

参照:
「農と医の連携を心したひとびと:2.吉岡金市」(北里大学学長通信)
http://www.kitasato-u.ac.jp/daigaku/noui/newsletter/noui_no06.html
「森近運平(井原市) 悲劇の社会主義者」(山陽新聞/先人の風景)
http://www.sanyo.oni.co.jp/kikaku/senjin/news/2009/11/17/20091117114439.html
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by kaguragawa | 2010-11-20 18:54 | Trackback | Comments(0)

我が怠惰、取り返せない痛恨の思い   

 黒岩比佐子さんが亡くなれらた。〔日付は変わってしまったが一晩あけていないので、あえて“今日”、と言うのをゆるしていただきたいのですが、〕、きょう(11月17日)昼過ぎのことである。

 2年半前に、黒岩さんのブログ《古書の森》で、やりとりさせていただいた、『日露戦争実記』の発行社「育英舎」のことで、きのうちょっとした発見があり、今までであればさっそくと黒岩さんのブログに書き込みさせていただくところなのですが、もうブログの主はおられなくなってしまいました。

 一か月前の10月16日の講演会の後、数語ことばを交わさせていただいたときのことは、ここに今書くことは控えたいのですが、大事なひとときになりました。

 ゆっくりおやすみください。
 

 黒岩さん、『編集者 国木田独歩の時代』の書評を、――といっても私が書けるのは背伸びした感想にしか過ぎないのですが――書きますね、という約束(2年前の約束ですが)を私が果さないうちに、もうおられなくなってしまいましたね。
 我が怠惰、取り返せない痛恨の思いです。



〔追記:11/27〕
*モンガ堂さんがweb追悼記事のリンク集をつくってくださっています。有り難いことです。

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by kaguragawa | 2010-11-18 00:42 | Trackback | Comments(2)

お悔み   

 星野哲郎さんの訃報にはいろんな思いが交錯するのですが、今ここでは語れません。

 もう一つ新聞の隅に見つけた歴史学者・遅塚忠躬さんの訃報にも同じ思いがしています。
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by kaguragawa | 2010-11-16 23:55 | Trackback | Comments(2)

霜川の作品「向日葵」(2)   

 秋声墓前祭後の米田憲三先生の豊かな内容の講演「三島霜川の生涯と秋声」を話順に沿って紹介する余裕が今はないので、私にとって興味深かった点をいくつか並べてみます。
 その講演は「霜川入門」というスタイルをとりながら、霜川を語り、さらに霜川研究を深めるのに欠かせない必須な要点が、たくみに散りばめられていたのです。

 一つめは、作家・三島霜川の矜持についてです。演劇評論に筆才を如何なく発揮した霜川。大正末から昭和初期、子供向け歴史物に健筆をふるった霜川――。しかし、彼は「作家」としての――純文学の作家としての――生を、まっとうしたかったのではないかという点。演劇評論家として、子供向けライターとして、名をなしながらも、“作家はかくあるべき”という彼の作家像を生活に実践しつづけたのではないかという点です。

 二つめは、郷土・富山での霜川認識の変遷について。
 三つめは、霜川(作品)における郷土・富山について。

 これらの論点は、特に第三点は重要なものですが、別の機会に紹介をかねて詳しく書く機会があると思うので、ここでは割愛します。

 そして、私にとって興味もあり、さらにその興味を深めてくださった最後の点は、霜川作品の社会視角についてでした。
 そこで、米田先生が紹介されたのが、庄川の河川改修工事を舞台にした作品「向日葵(ひぐるま)」なのです。この作品が今までほとんど注目されてこなかったのは、前回の〔霜川の作品「向日葵」(1)〕でも紹介したように、作品名は知られながらも100年のときを経て歴史のなかに埋没してしまっていた作品だからなのです。

 米田先生の配布資料によれば、1906(明治39)年の北国新聞に、5月27日から6月27日まで掲載された作品で、作中の“半田”という青年が社会党に加わっていると書いたところで、なぜか途中で「病気による」との理由で中絶してしまったという作品なのです。“半田”は工事の現場にオルグとして加わっていたという設定だというです。
 が、しかし、そうだとすれば翌年代表作「解剖室」「虚無」を書く三島霜川の個人史・作品史においても、――この1906年という社会主義活動にとって微妙なこの年のことを考えれば――文学史においても、とても重要な作品となるのです。

 なにを隠そう、――霜川の追っかけを名乗りながら書誌的知識に乏しく、古い作品集収録の作品しか読んだことのない――私は、この作品のことを書名しか知らなかったのです。
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by kaguragawa | 2010-11-14 19:35 | Trackback | Comments(0)

霜川の作品「向日葵」(1)   

 昨日の秋声墓前祭のあとの米田憲三先生の記念講演「三島霜川の生涯と秋声」のことを紹介する前に、同時代人がリアルタイムで三島霜川についてふれた文章を紹介しておきたいと思います。ここに登場する霜川の作品「向日葵」に注目しておきたいからです。

 その同時代人とは、《表棹影》――おもて.とうえい。本名、表作太郎、金沢の地で文学に志していた若者です。金沢時代の室生犀星の親友であり、犀星の『性に目覚める頃』にも登場し、“日は紅しひとにはひとの悲しみの厳そかなるには涙は落ちつれ」”という棹影の歌が紹介されています。
 そして以下に紹介するのは、1907(明治40)年に書かれた棹影の日記〔1月21日〕の一部分です。中央文壇で活躍する秋声や霜川など北陸の作家への醒めた注視が、印象的です。
 (現代表記に直したほかにも何箇所か表記を変えてあります。)

 21日

 纏綿として少女の忍び泣くような雨は万物の新生命を培うと降る。枇杷の花白し。
 数々泥に塗れた秋声の小説“黄金窟は昨日で漸と終結して霜川の“鶯屋敷”が北国紙に出た。とかくの批評は後日のことだが、“向日葵”の如な半途で尻切蜻蛉となるやつは今から御免だ。況んや二度のお勤めなるにおいておや、だ。
 十二月の「新声」を漸と取り出して読んだ。車前草社の詩稿なべて振わず。詩壇に泡沫の“鈴虫の歌”誦すべし。三木露風の歌、三誦飽かず。夕暮、春波の美文また読むべし。
 今夜は誰も来ず、外へも出ず。真面目に机の前に坐った。日記のペンの余瀝に詩を作りかけてみた。
 寒念仏がカンカン鉦を敲いてきた。哄、偽信仰者、哄、乞食坊主。ああ世を誤るものは汝らなるかな。不快な鉦の音はますます聞こえて止まぬ。
 

 引用は笠森勇編『表棹影作品集』(桂書房/2003.6)からですが、連載が途中で打ち切られた霜川の小説「向日葵」については、「不明」と編者注があります。


   *表 棹影  1891.01.26~1909.04.28

〔追記〕
 なお、棹影の生没年からもわかるように、彼は18歳の若さで亡くなっています。犀星の『性に目覚める頃』は歿後十年の棹影追悼作でもあったのです。
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by kaguragawa | 2010-11-14 14:57 | Trackback | Comments(0)

秋声墓前祭の日の「しまった」   

 雑然とした日々を送っていると、見るべきことを見ず、聞くべきことを聞かず、気づくべきことに気づかずということばかりで、無為な日が過ぎていきます。

 きょうは徳田秋声の忌日(11月18日)にちなんだ秋声の墓前祭(静明寺)があって参加させていただいたのですが、金沢に向かう列車の中で秋声の短編「菊見」を読んでいて、思わず“しまった”と小声で叫んでしまいました。気づくべきことに気づかず、の例です。
 (墓前祭の後の記念講演のことは別記させていただきます。)

 この「菊見」という秋声の短編小説は、秋声の母タケさんが亡くなった直後の葬儀前の秋の一日をたんたんと描いたものです。実はタケさんはコレラで亡くなった疑いがあり、死後すぐには葬儀も出せずに、一週間ほど葬儀の足どめ?状態になってしまったのです。その間、大阪からきた長兄、東京から来た「私」(秋声)、金沢在住で尾小屋鉱山所長の要職にあった次兄の3人の男兄弟が、次兄の家で“ちょうど偶然に温泉宿で落ち合ったものか何ぞのように”という状態で無聊な日々を送っていて、「今日は一つN―山のお墓にまいって、帰りに菊でも観て来よう。」ということになったのです。やっと決まった彼らの老母の葬儀日の前日のことでした。
 「N―山のお墓」とは、金沢の方ならどなたもご存じのように野田山墓地のことです。そしてここには秋声の徳田家が江戸時代に仕えていた前田藩の家老・横山家(当時男爵家)の墓があるのです。

 話をもとに戻すと、私が“しまった”と思ったのは、この徳田三兄弟が野田山に行き、横山家別邸の菊を見たのが、――秋声は小説に具体的な日を書き込んではいないのですが――どうも計算上、11月3日か翌日の4日になるのではないかということであり、その3日(先週の水曜/文化の日)には金沢に行っていながら、この秋声の野田山行にはまったく気づいていなかったことなのです。この「菊見」という短編は大好きな小説で、何度も何度も読み返しているにもかかわらずです。
 先日の3日、犀川を渡って宝雨院を訪ねたあと、野田山に行くこともできたのです・・・。

 ところで、この小説のもとになっている母タケの死は、もう一度正確に言うと《1916(大正5)年10月28日》のこと。この「野田山行」があてはまりそうな11月3日は、大正時代にもちろん「文化の日」などあるはずもなく、明治時代には今上(明治)天皇の誕生日=天長節とされていたこの日は、もう「天長節」ではなく、かといって「明治節」――これが決まるのは1927(昭和2)年――でもない、普通の日でした。
 が、やはり明治時代を生きたこの三兄弟には、11月の初旬というこの時季に「(明治天皇の)天長節」の意識が強く残っていたのではないか、「菊」見の背景には、兄弟の母の時代、父の時代の明治が、そうして4年前までその時代であった“明治”が、強く生きていたのではないか・・・そう思われてならないのです。

 そう考えると、長兄が文中で語りだす祖父や父、大叔父の話題に加え、野田山墓地で出会う島田一郎ら大久保利通殺害者の墓といった「明治」のことごとが、自然に諒解されてくるのです。
 そんなことも気づかずに「菊見」を愛読していたことにも、“しまった”の思いはついて回ってきたのです。
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by kaguragawa | 2010-11-13 22:17 | Trackback | Comments(0)

黒岩さんの“本の力”   


 黒岩比佐子さんの堺利彦の評伝『パンとペン』の重版が決まったという。うれしくなる話である。

 黒岩さんの岩波新書『戦争絶滅へ、人間復活へー93歳・ジャーナリストの発言』について、黒岩さんが2年前に語っていたことばを思い出しました。「本の力」と言う言葉が印象的です。

 “活字の力、本の力というものを、どれほど信じていいのか、と疑いたくなる昨今で、こうした本を出すことにはたして意味があるのか、と悩んでしまうほどでしたが、本の力を改めて信じたくなりました。作り手が本に込めた思いを、真摯に受けとめてくださる方々が、間違いなく存在すると思えることが、いまの私には一番のエネルギーになります。”
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by kaguragawa | 2010-11-11 00:10 | Trackback | Comments(0)

「さわやかな読後感」と、紀田さん   

 黒岩比佐子さんのブログ「古書の森日記」に友人の方による代筆の病状報告が掲載されている。胸つぶるる思いである。

 一方、今朝の日本経済新聞にその黒岩さんの『パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』の紀田順一郎氏の書評が載っている。その最後の部分を書き写してしておきたい。

 “戦前の思想運動史は複雑で、とかく肩がこるものだが、重厚なテーマを軽妙に、小さな記事を大きな発見に結びつける手法が、堺利彦という人物を、生き生きと蘇らせることに成功し、さわやかな読後感を残す。”

 この「さわやかな読後感」という、思いのこもった評言に救われる思いがする。
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by kaguragawa | 2010-11-07 13:25 | Trackback | Comments(7)