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湯涌夢二館《『セノオ楽譜』―― 夢二が描いた名曲の数々》(1)   

 金沢湯涌夢二館の特別展《『セノオ楽譜』―― 夢二が描いた名曲の数々》に行ってきました。
 今回もKさんこと楠さんのお誘いを受けて、秋晴れの気持ちいい日に湯涌への夢二逍遥となりました。今回の特別展はきのう始まったばかりですから、10月になれば行ける機会があるだろうと思っていたのですが、「日曜日に、ギャラリートーク(学芸員の方の展示説明)があるから」とのKさん情報で、きょうの参観となりました。

 実は、竹久夢二のことを知ったのは、そして同時に夢二のことを自分なりに調べたりするきっかけを得たのは、富山県水墨美術館での《愛と放浪の画家 竹久夢二展》、9年前のことでした。web上で調べてみると、開催期間が〔2001年11月2日~12月16日〕となってますから、私の行った最終日は12月16日のことだったことがわかるのですが、私はこの日の夢二展で、大きな衝撃を受けたのです。
 最終日でごったがえすなかでゆっくり見る余裕もなく、夢二の美人画にはふ~ん、と感心も関心もなく通り過ぎたのですが、驚いたのは、夢二の装丁本、セノオ楽譜、そして昨日今日できたばかりと思われるようなグラフィックデザイン的な作品の数々。人の迷惑も顧みずただ茫然とそれらの作品の前に立ちつくしてしまったのです。
 目を驚かせるあまりの斬新さと、どこか心の懐かしい部分を直接つかんでしまうような叙情とが不思議な一体となった作品がそこにはあったのです。

 湯涌夢二館の特別展のことを書かず、長々と10年も前の私の夢二衝撃?を書き連ねたのは、今回の特別展がその衝撃のもととなった「セノオ楽譜」を特集したものだったからです。

 (続く)
 特別展《『セノオ楽譜』―― 夢二が描いた名曲の数々》については、いろんなことを、できればもう一二度落ちついて展示を見たうえで、ゆっくりと書きたいとおもっています。

〔追記〕
 今回も夢二にお誘いいただいた楠さん。ていねいな説明をいただいた学芸員・山田優子さん。
 有り難うございました。深く感謝します。
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by kaguragawa | 2010-09-26 19:18 | Trackback | Comments(0)

検察庁法(抄)   

 大阪地検に那覇地検――。驚愕の事態が次々と、地方検察庁から出てくる。「法」を扱う行政庁が、「法の支配」の原則に、もっとも鈍感、無関心!!なのだ。信じられないことである。そして内閣の検察庁の言動に対する放下といっていいような対応も驚きである。
 検察庁は、法務省下の行政庁の一つである。が、下記のように――例えば、「検事総長、次長検事及び各検事長は、その任免は、内閣が行い、天皇が、これを認証する。」。つまり各国務大臣や副大臣と同様な《認証官》である。――異様なものでもあります。
 しかし、あえて言いますが、行政庁である検察庁のしでかした不都合に対しては最終的に責任を取らねばならぬのは内閣総理大臣のはずです。


 検察庁法(抄)

第一条 検察庁は、検察官の行う事務を統括するところとする。
2 検察庁は、最高検察庁、高等検察庁、地方検察庁及び区検察庁とする。

第三条 検察官は、検事総長、次長検事、検事長、検事及び副検事とする。

第四条 検察官は、刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求し、且つ、裁判の執行を監督し、又、裁判所の権限に属するその他の事項についても職務上必要と認めるときは、裁判所に、通知を求め、又は意見を述べ、又、公益の代表者として他の法令がその権限に属させた事務を行う。

第六条 検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる。
2 検察官と他の法令により捜査の職権を有する者との関係は、刑事訴訟法の定めるところによる。

第十四条 法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。

第十五条 検事総長、次長検事及び各検事長は一級とし、その任免は、内閣が行い、天皇が、これを認証する。

第十六条 検事長、検事及び副検事の職は、法務大臣が、これを補する。
2 副検事は、区検察庁の検察官の職のみにこれを補するものとする。

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by kaguragawa | 2010-09-24 22:25 | Trackback | Comments(2)

《ことばの作家棟方志功展》 南砺市立福光美術館   

 Y先生へ

 ようやく福光美術館に行くことができました。福光美術館は久しぶりで、福光町もさらに久しぶりでした。そして福光との久闊は、そのまま棟方志功との久闊だったのですが、再会したいくつかの志功作品の久しぶりという思いは懐かしさを通り越して、はじめて見るいくつもの大作や多くの装丁本に、未知の志功世界への興味も覚えながら、心を清められるような想いに到り、ゆたかな気持ちで帰ってきました。

 今改めて調べてみると福光美術館が開館したのは平成6年ですので、私が志功をふくむ福光の文物に魅かれて福光町に足繁く?通ったのはもっと前のことになります。志功を福光に訪ねようと思ったのは、志功が宮沢賢治の「グスコーブトリの伝記」の初出誌(季刊誌「児童文学」)にこの作品の挿絵を書いていることを知ったことがきっかけでしたので、あえて言えば賢治散策の一環のなかで志功と出会うことになったのです。
 幸いなことに?、私の志功との出会いは板画作品そのものとの出逢いというよりは、志功が共感した物語性ある事物との出逢いという形をとったのでした。佐藤一英の「大和し美し」、吉井勇の「流離抄」、前田普羅主宰の「辛夷」――こうした作品と私の中の志功は、一体となっているようなのです。

 が、実は私の知っていたのは志功と文学の出逢いのほんの一部に過ぎなかったのです。企画展のガイドペーパーによれば、志功は“一四四冊の文学関係の本の挿絵や装丁を手がけて”いるよし。この企画展にならべられた多くの装丁本は、志功の文学世界への広い志向をだけではなく、私が「志功らしい」として知っている作品と異質とも思われる多様な創作のありようを示して示しているように思われるのです。

 残念ながら、1時間で見切れる展示会ではなかったのですが、閉館時間になってしまいました。時間かまわずで見たい思いが強いのですが、さらに残念ながら会期は今度の日曜日まで。この企画展「ことばの作家棟方志功展」の情報を見逃していた私にこの企画展を知るきっかけを与えてくださり、この企画展に携わられたY先生を紹介していただいたOさんと、志功にあらためて出逢う機縁をつくっていただいたY先生に、最後になりましたが、深く感謝の気持ちを書き記して、志功展訪問のとりあえずの報告とさせていただきたいと思います。あらためてお話をお伺いできる機会があれば、と思います。ありがとうございました。

 そういえば未完だったと思いますが、賢治の「なめとこ山の熊」の本文を彫り込んだ板画作品がありましたね。コピーしたものが家捜しすればどこかにあり、久しぶりに見たいと思うのですが、すぐには出てこないでしょうが・・・。

〔追記〕
 かつて、「賢治が晩年、佐藤一英の季刊誌「児童文学」に「北守将軍と三人兄弟の医者」「グスコーブドリの伝記」などの童話を書くきっかけになったのは石川善助が佐藤一英に賢治を紹介したゆえらしいのですが」と書きましたが、この企画展のガイドペーパーによると、志功の側の事情は次のようなものだったのですね。“昭和六年の初めころ、棟方の郷里である青森の先輩で、詩人の福士幸次郎が棟方に「児童文学」という雑誌の挿絵の仕事を依頼しました。”
 つまり、〔賢治側〕佐藤一英・石川善助・宮沢賢治〔志功側〕佐藤一英・福士幸次郎・棟方志功となるようですが、佐藤一英、石川善助、福士幸次郎の3人が親しかったことは、石川善助が行方不明になったときの捜索網でわかりますね。

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by kaguragawa | 2010-09-23 22:15 | Trackback | Comments(0)

田中松太郎メモ   

 以下、田中松太郎に関するweb上の記述の書きぬき(コピペ)。

田中松太郎 たなか-まつたろう  kotobank
1863-1949 明治-昭和時代前期の印刷技術者。
文久3年8月3日生まれ。越中(富山県)の人で,東京の写真業田中家の養子となる。明治30-37年ヨーロッパをまわり,ウィーンとプラハで三色版印刷技術をまなぶ。東京印刷をへて大正4年半七写真製版印刷所を創設。日本の美術印刷の草分け。昭和24年3月10日死去。87歳。旧姓は飯森。

田中 松太郎 (たなか まつたろう) (1863 文久3年8月3日~1949 昭和24年3月10日)
〔「ウイーンフィルを聴いた最初の日本人は?」より http://homepage3.nifty.com/kosi/wien/up87/up87.html〕
 明治 昭和の印刷技術者。 日本の印刷技術及び三色版印刷に進歩をもたらし,カラー印刷を導入した。 越中(富山県)の下級武士の家に生まれる。 18歳で京都へ,そして20歳で東京に出てきた彼は,書家であり大久保利通の太政官を勤めていた日下部鳴鶴の書生となります。 鳴鶴には松太郎と同い年の息子,田中美代二がおり,新進の写真家であった彼から写真を学び,美代二が急逝した後は,田中姓を名乗るようになりました。  美代二の写真店を継いだ松太郎は,牧野伸顕に随行し,1900年(明治33)パリで行なわれた万国博覧会の日本事務所の事務員として渡欧。 博覧会が終わって後は画家として立ちたい気持ちが強かったが,浅井忠画伯に画家になるよりも写真を勉強して製版技術を習得するよう諭され,織田琢二博士の紹介もあって,ウィーンへ渡り王立の写真学校に入学しました。 写真による原色版の技術を,その未知の日本へ持ち帰る意義を悟ったからです。 ここで三色版印刷,いわゆるカラー印刷技術を学んだのです。 明治37年までヨーロッパをまわり,ウィーンとプラハで三色版印刷技術を学ぶ。 ヨーロッパ留学中,彼は当時ヨーロッパで活動していた画家 浅井忠,中村不折や文豪 夏目漱石,永井荷風らと親しく交流がありました。
 1909年(明治42)に帰国。 いくつかの印刷会社を勤めた後の1915年(大正4)千代田区内神田に田中半七製版所を創業しました。 日本に三色印刷を導入し,始めた印刷所は,創業当初から松太郎の人脈の豊富さも手伝って,各方面から多く受けました。 カラー印刷技術については日本一と,自他ともに認めていたため,高名な画家が自ら作品を半七に持ち込み,仕事部屋には何枚もの絵画があったといいます。 自身も芸術家と自負していた松太郎の仕事は徹底していました。 半七は,創始者 松太郎の雅号です。 1941(昭和16) 東京日日新聞(毎日新聞社)より「印刷功労賞」を受賞する。 書家としても名を成して折り、当時の芸術家たちと深い親交があり,木曜会,パンの会,老荘会といった会に属しています。 板垣鷹穂の代表的著作のひとつ「芸術的現代の諸相」(昭和6年発行),彼の著作には装丁にも優れたものが多く,「装丁と挿絵」として「製版印刷 田中松太郎」の名前があり,写真製版にもこだわりをみせる。 昭和10年の美術雑誌「みずゑ」創刊時より原色版(カラー版)印刷を担当します。 日本の美術印刷の草分け。 87歳。 旧姓は飯森。

「日本にカラ―技術を導入」
半七写真印刷工業所HP/」会社概要/沿革
http://www.hanshichi.co.jp/history.html
 創始者田中松太郎は、文久3(1863)年、富山県の下級武士の家に生まれました。十八歳で京都へ、そして二十歳で東京に出てきた彼は、書家であり、大久保利通の太政官を勤めていた日下部鳴鶴の書生となります。鳴鶴には松太郎と同い年の息子、田中美代二がいました。松太郎は新進の写真家であった美代二から写真を学ぶとともに、美代二が参加していた「十一会(工部美術学校の同窓生で作った洋画研究のための同好会)」のメンバーとも親交を結びます。そして二十八歳で美代二が急逝した後は、彼の妻と結婚、田中姓を名乗るようになりました。
 美代二の写真店を継いだ松太郎は、牧野伸顕に随行し、明治33(1900)年パリで行なわれた万国博覧会の日本事務所の事務員として渡欧。博覧会が終わって後は画家として立ちたい気持ちが強かったが、浅井忠画伯に画家になるよりも写真を勉強して製版技術を習得するよう諭され、織田琢二博士の紹介もあって、ウィーンへ渡り王立の写真学校に入学しました。写真による原色版の技術を、その未知の日本へ持ち帰る意義を悟ったからです。ここで三色版印刷、いわゆるカラー印刷技術を学んだのです。
 ヨーロッパ留学中、彼は当時ヨーロッパで活動していた画家、浅井忠、中村不折や文豪夏目漱石、永井荷風らと親しく交流がありました。後にこの時代のそうそうたる芸術家たちが彼のブレーンになるわけですが、それはヨーロッパ時代に培われた人脈が広がったといえます。
 明治42(1909)年松太郎は帰国。いくつかの印刷会社を勤めた後の大正4(1915)年、「田中半七製版所」を創業しました。日本に三色印刷を導入した松太郎が始めた印刷所は、創業当初から松太郎の人脈の豊富さも手伝って、各方面から多く受けました。その取引は現在に続いています。
 カラー印刷技術については日本一と、自他ともに認めていたため、高名な画家が自ら作品を半七に持ち込み、松太郎の仕事部屋には何枚もの絵画があったといいます。自身も芸術家と自負していた松太郎の仕事は徹底していました。当時松太郎は社員から先生と呼ばれており、半七は、企業というよりも私塾のような雰囲気がありました。松太郎の仕事に対する厳しい姿勢は社風として定着し、品質第一主義の理念は以来半七の伝統として連綿と続いています。

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by kaguragawa | 2010-09-21 23:52 | Trackback | Comments(0)

メモ   

 先週の朗読劇『縮図』の感想を書こうと思いながら日が経ってしまいました。買った本、読んだ本のことも、久しく書いていません。自分の「覚え」としてもいろんなことをメモしておきたいのですが、最近はパソコンも自由に使えないことも多いのです。

 ちょっと気になっている本のタイトルだけ。
  『東京建築ガイドマップ 明治大正昭和』(倉方俊輔・斉藤理/エクスナレッジ/2010.8)
  『ぼく、牧水!――歌人に学ぶ「まろび」の美学』(伊藤一彦・堺雅人/角川ONEテーマ21/2010.9)

 これも自分の覚えのメモ。
  日本名著大系 第1巻 武野燭談・雨夜の灯・吉田物語抄
  日本名著大系 第2巻 浄土教要集
  日本名著大系 第3巻 南蛮紀文選
 大正末の三島霜川は、こういう本の編集もしていたのです。

 そうそう、霜川が14.15歳の多感な時期を過ごした福島県磐城郡四倉町(よつくらまち)――漁業と製塩の町――〔現・いわき市四倉町四倉地区〕の古図。↓
 初めての創作集『スケッチ』(1904)には、この四ツ倉の人々を描いた印象深い短編作品がいくつも収められている。この件は、あらためて。
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by kaguragawa | 2010-09-20 23:54 | Trackback | Comments(0)

“たますだれ”   

 時おりおじゃましているサトさんのブログで、“このかわいい花が咲きだすと、夏も終わり”というコメントとともに「たますだれ」の清楚な写真を拝見して、庭に出てみました。そう、いつのまにか白い花が咲いていました。

 爽とした思い出のある花で、以前何か書いたことがあるなぁと思い探したところ、旧日記にありました。
 以下、6年前のものです。

■2004/09/13 (月) ゼフィランサス

 秋の苑亡き母植えし玉すだれ

 英語の熟語で、〔hear from~〕は、「~から便りがある」という意味だと言う。そしてまさに“hear from you”を花言葉にする花があるという。ヒガンバナ科の「たますだれ」である。白い花から「清純な愛」というような花言葉もあるようですが。

 これが見た目とは違ってなかなか繁殖力のある植物です。掘るとらっきょうぐらいの小さな球根(鱗茎)が出てくるのですが、子供が間違って雑草と一緒に根こそぎ脱いでしまった翌年も同じ場所に平然と可憐な花をつけていて、驚いたものでした。

 どうもこの“hear from you”は、この花の別名ゼフィランサスや、学名(Zephyranthes candida〔白いゼフィランサス〕)のもとになっている「ゼフィロス」に由来するようです。
 (ゼフィロスについては、以前少し書いたことがありました。ギリシャ神話の“風の神”です。)
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&start=31&log=200305&maxcount=42

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 ゼフィロス(風の神)+アンサス(花)で、風の便りを運ぶ花という意味あいをもつのではないでしょうか。
そう言えば、ヘリオス(太陽神)+アンサス=ヘリアンサスは「ひまわり」のことですし、アガペー(愛)+アンサス=アガパンサス・・・。

 ところで、「タマスダレ」とほぼ同時に咲き始めた「ヤブラン」の学名[Liriope platyphylla]に残る「リリオペ(レイリオペ)」もギリシャ神話の女神(妖精)―ナルキッソスの母神―でした。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/yaburan.html
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by kaguragawa | 2010-09-19 10:28 | Trackback | Comments(2)

「松村謙三のことで・・・」   

 きのう、とつぜんある方から、松村謙三のことで・・・という電話がありました。

 きのう〔9月17日〕、それは満州事変の始まった日の前日である。満州事変につらなる張作霖爆殺事件の調査に松村謙三が関わっていたことを思い出し、難しい話になるのかと緊張もしたのですが――はずかしいことですが、この辺りのことはまったく不勉強で、何もお答えできないのです――、さにあらず。
 来年が、松村謙三歿後40年になるので、遠藤和子さんの本『松村謙三』について聞きたいとのことでした。忘れられようとしている郷土の先人・村松謙三について勉強会をしたいというのである。
 村松謙三氏は、富山県旧福光町の生まれなのです。

 もっともっと勉強したいのは私の方です。

 第一歩としてkotobankの「松村謙三」の項を、そのままコピーしておきます。

 松村謙三 まつむら-けんぞう

 1883-1971大正-昭和時代の政治家。
 明治16年1月24日生まれ。報知新聞記者,富山県議をへて,昭和3年衆議院議員(当選13回)。戦後,東久邇(ひがしくに)内閣の厚相兼文相。幣原(しではら)内閣の農相として第1次農地改革を推進。第2次鳩山内閣の文相。34年岸信介と自民党総裁選挙をあらそう。のちLT貿易協定をまとめるなど,日中友好につくした。昭和46年8月21日死去。88歳。富山県出身。早大卒。



 政治家の事績を調べようという気持ちにはなかなかなれないのですが、石橋湛山と松村謙三はちょっと別格です。
 気になってこの二人を並べてみたら、まったくの同時代人でした。大学もともに早稲田のようです。

  松村謙三 1883.01.24~1971.08.21
  石橋湛山 1884.09.25~1973.04.25
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by kaguragawa | 2010-09-18 23:08 | Trackback | Comments(0)

悠々忌――悠々と霜川と秋声と   

 きのう9月10日は、今から69年前〔1941/昭和16年〕桐生悠々が亡くなった日でした。

 一昨年も紹介したのですが三島霜川の短文から悠々に関する記述をまず写しておきます。中村武羅夫が王春嶺の筆名で著した『現代文士廿八人』(日高有倫堂/1909)の「付録」中の文章です。(この『現代文士二十八人』は、 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、みることができます。)

 父に死別れたのは二十の時で、僕は神経衰弱になるし、不得要領の中に、一年と云ふ長い月日を滅茶苦茶の中に送って了って、そして二十一二の春ころまでは、書くでもなく、書かぬでもなく、貸してあった金を取ったり、家財を売ったり、誠に混沌たる生活をした。其間田中凉葉なぞと一緒に下宿したが、其中凉葉は紅葉先生の塾に行くし、僕は一人になってごろッちゃらして居たが、それではごろつき書生になると云ふので、叔母なぞが心配して、其一年ばかり前から心易かった桐生悠々君の所へ行くことになった。
 桐生君は、僕の文学生涯には忘れることの出来ない人で、其所に行くまでは文学が好きであったが、唯、意味も何も知らずバッとして居た。其時桐生君は法科の二年であったが、始終シエークスピーヤだとか、トルストイなぞを説いた、僕はそれに依って泰西の文学を知り、真面目に文学を研究し真面目な意味に文学を了解して来て、其所に三四月居る中に、何であったか書き初めた。
 それで、其時は最う生活費の方は尽きて、桐生君の所を出てから、七月ごろ〔池之端〕七軒町へ家を持って、翌年の四月まで、約十ヶ月其所に居った。其時一家四人、露骨に云ふと殆んど三度の食事も食ひ兼ねた。それは、僕の最も暗黒時代で、未だ一家を支へるだけの腕はなし、頭は固らず、読んで修養すべき書物はなし、不安恐懼に満ちた生活をして居た。


 こうした霜川の追憶の裏づけをしたいのですが、悠々の自著やら最新の悠々研究をフォローする余裕もありませんので、とりあえず、手元にある太田雅夫さんの『桐生悠々』(紀伊国屋新書/1970.10)から悠々の再上京――帝国大学法科大学入学/1985(明治28)年9月――頃の記述を写しておきます。

 悠々は上京すると間もなく、同郷の泉鏡花がすでに新進の作家として、e0178600_14294429.jpg大橋乙羽の自宅で起居しながら博文館発行の「日用百科全書」編集の仕事にたずさわっていたので、鏡花の紹介により、鏡花の弟泉斜汀(豊春)と三島霜川(才二)に英語を教えていた。
 乙羽からもらった仕事『勤学と処世』は、前半は悠々みずから筆をとり、後半は参考書をみて必要と思われる部分を切り取り、これを英語を教えていた斜汀と霜川に筆耕させた。こうして出来上がった原稿を乙羽に引き渡すと、なんと驚くなかれ、原稿料として30円という大金を悠々は受け取った。



 ところで、『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』など反権力的文筆活動で当局と闘い続けた悠々の亡くなったのが太平洋戦争開戦を3ヶ月後にひかえた9月10日。青年時代、ともに文学的デビューを諮った悠々の旧友・徳田秋声の新聞連載中の芸者の一代記『縮図』が、当局からの圧力によって中断したのがその5日後の9月15日。
 秋声はこの2つの事実をどう受け止めたのでしょうか・・・。秋声も2年後、学徒の軍靴が聞こえ始めるなか亡くなり、「縮図」は未完のまま残されました。

 今日と明日、その未完の「縮図」を、戦後、菊田一夫が舞台脚本としたものが、朗読劇として蘇り、金沢で公演されます。
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by kaguragawa | 2010-09-11 11:55 | Trackback | Comments(2)

三島才二編『おもかげ草』   

 ここ一週間ほど「三島霜川展」の開幕に合わせて、霜川の作品や霜川関連のものを集中的に読んできました。そんなわけで、私なりのあらたな発見やあらたな謎が頭の中に渦巻いていて、書き留めておきたいこともいくつかあるのですが、しばらく時をおきたいと思います。

 ただ一つだけ書いておきたいのが、霜川が編集した甥・森田富次麿の遺歌集『おもかげ草』のことです。このブログで先日(7/24)紹介した解剖学者である霜川のいとこ(従弟)森田斉次の長男が富次麿氏なのですが、大学卒業を目前に病死したこの甥の遺した短歌を霜川は歌集として編集し、故人の師でもあった若山牧水に序を依頼し、みずから懇切な跋(あとがき)を書いているのです。
 この私家本の遺歌集『おもかげ草』は、徳田秋声記念館が今回の企画展に合わせて収集された霜川関連本のなかにあったものですが、発行者が「森田斉次」になっていたため、記念館でも注目されてなかったようなのです。が、私が霜川の代表作「解剖室」との関連で「森田斉次」を大きく取り上げたおかげで?、「あっ、森田斉次と言えば・・・」とあらたに再発見?していただいたようなのです。

 幸運にも、「霜川展」に展示する前にこの歌集『おもかげ草』の実物を拝見する機会を記念館のご厚意でつくっていただいて、霜川の跋文にも接することができたのです。50歳の霜川が、三島才二の名(本名)で書いた甥を追悼した文章は、霜川のあたたかな気脈が伝わってくるいい文章でした。
 今、霜川展で、父・森田斉次の『解剖学講義』の横に愛息・富次麿の遺歌集『おもかげ草』が並んでいます。霜川にとっては従弟と甥にあたるこの二人は秋声の作品にも顔を出す「おばさん」(おそらく豊島みす)などとともに、故郷を十代に去ってほとんどほとんど帰郷することのなかった霜川の周囲にあった共同体的紐帯の一端を示しているよう思えてならないのです。
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by kaguragawa | 2010-09-08 23:26 | Trackback | Comments(2)

「三島霜川展」(徳田秋聲記念館)   

 9月というのに、陽射しが刺すように暑いなか、今日から始まった徳田秋聲記念館の「三島霜川展」――「鬼才・三島霜川―秋聲と北陸の作家たち3」――に足を運びました。

 集められた初版本などの資料の豊富さに驚嘆。e0178600_2116586.jpg
 霜川一代の文芸活動を集約したこのような展示の場に霜川が来てくれれば、どんな顔をすることか、どんな驚きのことばを発することか・・・。

 霜川ファンの私としては、この企画展に力を尽くされた学芸員の大木さん始め徳田秋声記念館の皆さんに、心からお礼を言いたい気持ちになりました。

 企画展の紹介と感想はあらためて書くこととして、帰宅後、日も落ち始めた時刻になったのですが、霜川生誕の地に向かって車を走らせました。わたしなりに霜川その人への報告もしておきたいと思ったのです。
 夕景のなかに二上山も牛岳も見えるこの霜川のうまれた庄川河畔の地の澄みきった風光が私にはたまらなく好きなのです。
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by kaguragawa | 2010-09-05 20:07 | Trackback | Comments(0)