<   2010年 06月 ( 15 )   > この月の画像一覧   

「チャタレイ」の息子さん   

 話題の中心となっている日本相撲協会の特別調査委員会。この特別調査委員会の座長、毎日テレビにも登場するが画面上なんともユニークな人柄に見える伊藤滋さん(専攻・都市計画論)。
 この伊藤氏、伊藤整の息子さんだという。納得?!。
(すみません、以上独り言です。)
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by kaguragawa | 2010-06-28 22:21 | Trackback | Comments(0)

たまきを巡る一枚の写真(3)   

 「たまきを巡る一枚の写真(1)」で、写真館で撮られた他万喜親子の写真をめぐって――たまきが幼い二人の子供を富山に残し兄・他丑をたよって上京した1906(明39)年に撮られたもので、形見分けの意味をもつものとされてきた“通説”を紹介し、それに対し――次のように疑問を出しました。
 ・・・“たまきの上京は1906(明39)年9月ですから、〔1905(明38)年11月3日〕が撮影日であれば、東京への出立直前ではありません。その1年前にこの写真は撮影されているのです。”

 八尾正治さんが作成された「岸たまき(他万喜)年譜」を書き写してみました。この年譜のなかに、今回の金沢湯涌夢二館の特別展〔岸たまき――夢二を世に出した女性とは――〕で明らかにされた撮影日を入れてみてください。〔1905(明治38)年 11月3日〕は、上京直前ではなく、むしろ意外なところに収まるはずです。


明治15.07.28
 金沢市味噌蔵町下中丁に、父・岸六郎、母・順の次女として生まれる
明治18.12
 父・六郎、富山治安裁判所判事補に転任 単身赴任し、富山市西四十物町に住む
明治20
 父・六郎、判事に昇任
 兄・他丑、富山中学へ入学
明治30.09.
 姉・薫(かおる)、富山市総曲輪の医師・水上峰太郎と結婚
明治31.04.
 たまき、市立金沢高等女学校へ入る
明治31.06.25
 父・六郎、高岡区裁判所判事を退官
明治31.08.01
 父・六郎、高岡で公証人役場を開設
明治33.09.11
 父・六郎、高岡市末広町に家を建て、金沢から家族を呼ぶ
 たまきも女学校を中退して、高岡へ移る
明治34.1
 たまき、県立高岡工芸学校の日本画教諭・堀内喜一と結婚
明治34.04.18
 たまき、堀内家へ入籍届出
 喜一の父・潤二は富山県庁に勤め、富山市駒見に住んでいた(本籍は中新川郡加積村〔現・滑川市〕に在った)
 たまき夫婦は、高岡市末広町の岸家の隣に住んだ
 兄・他丑、陸軍幼年学校教官になる
明治36.03.26
 長女・敏子出生
明治37.05.06
 父・岸六郎、63歳で死亡。のち母・順は、東京の他丑のもとへ
明治37.11.18
 長男一雄出生
明治38.09.23 
夫・喜一(33歳)チフスのため死亡。
 たまき、2人の遺児とともに、富山市駒見の堀内家へ入る
明治39.04.01
 たまき、桜谷小学校助教に採用
明治39.08.18
 長女・敏子、富山駅前小松屋旅館へ養女としてもらわれてゆく。
 (義父・浅岡政次郎、義母ヒナ)
明治39.09
 たまき、桜谷小学校を退職して上京
 (兄の他丑は、幼年学校教官をすでに退官し、飯田町で「つるや書房」を設立していた)
明治39.10.01
 兄・他丑、早稲田鶴巻町でえはがきや「つるや」を開店したので、この店の責任者として、たまきを活用した

明治39.10.05
 竹久夢二は開店5日目の「つるや」に行き、たまきと初めて出会う
明治40.01.
 竹久夢二と結婚、牛込区宮比町4に間借りの新所帯をもつ
 1.24の「平民新聞」に“大いなる眼の殊に美しき人を配せしめ給ひ、先の頃目出度く結婚の式を挙げ・・・”と紹介される
 
※「岸たまき(他万喜)年譜」は、八尾氏の『宵待草慕情―竹久夢二と富山』という論考――「経済月報」という富山県が発行する経済誌に連載〔1987.12~1989.12〕されたものの最終稿に付されたもの。(書き写しにあたって少し表記を変えましたが、「富山中学」「高岡工芸学校」などの名称は直してない(当時の正しい名称は、「富山県中学校」「富山県立工芸学校」。))
 ただし、末尾2項は、「愛の巡礼者竹久夢二展図録」(2008)によって、かぐら川補記。


 夫・喜一が亡くなったのが9月23日(土)。写真が撮られたのは、11月3日ですから、実はまだ忌明けの四十九日の法事さへ迎えてない時期なのです。日付だけではわかりにくいでしょうから、この年〔1905(明治38)〕の暦 を見てください。
 他万喜の生まれた岸家の宗旨はわかりませんが(*)、嫁いだ堀内家の菩提寺は、本籍地近くの中新川郡加積村〔現・滑川市〕改養寺の「入覚寺」ですから、富山で言う「お東」、浄土真宗大谷派です。富山の風習からすると、忌明けまで一週間ごとに、法事が行われたことと思われます。四十九日の法事は、11月10日(金)となりますから、11月3日はそのちょうど一週間前、つまり「六七日(むなのか)の日」です。忌中の節目の日で、僧侶を迎え、読経がおこなわれたことでしょう。写真の他万喜が紋付なのは、おそらくそうした理由なのでしょう。

 *その後、岸家の菩提寺は、浄土真宗大谷派の浄光寺(金沢市森山)であることがわかりました。なお、岸家と浄土真宗の関わりについては、特記すべきことのあることも判明していますが、こうした仔細については、別に記したいと思います。

 (続く)

〔追記〕
 今日は、金沢湯涌夢二館の特別展〔岸たまき――夢二を世に出した女性とは――〕の最終日にあたっています。多くの刺激を与えてくれたこの企画展に尽力された皆さんと、観覧にご一緒していただき多くのことを教えていただいた金沢の楠さんに感謝の気持ちを書き添えておきます。
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by kaguragawa | 2010-06-27 20:25 | Trackback | Comments(0)

たまきを巡る一枚の写真(2)   

 他万喜(たまき)親子の一枚の写真を撮った写真家・黒田正孝さんについて具体的なことはまだほとんどわかりません。が、いくつか周辺情報を拾い集めたので、暫定報告ですが記しておきます。

 明治時代、富山の町で写真業(写真師とい名称がありましたね)を始めた人は何人かあったようです。

 この時代の富山の町を知るのに欠かせない文献――富山の町の歴史を総曲輪中心にまとめた2冊の本、『総曲輪懐古館』(以下〔A〕と略記)と水間直二『明治の富山をさぐる――総曲輪を中心として』(以下〔B〕と略記)――に、次のような記述を見つけました。

 ・〔明治〕18年には大手前通りに活版所の城村一保と、写真師の赤尾清長がいた。立花芳斉とどちらが早く総曲輪で開業したのであろうか。このあとが黒田正孝であろう。(〔B〕238p)

 ・赤尾清長は、富山において最も古い写真師であった。いつ開業されたか不明であるが、明治18年いまの商工会議所の向かいにあり、21年出火全焼したのちのことはわからない。ほかに富山病院向かいに立花蔭隆(芳斎)という人と、東四十物町に黒田正孝があった。20年ごろこの三人だけが、最高の営業税五円を写真師として納めていた。(〔A〕233p)


 ここには赤尾清長、立花蔭隆(芳斎)、黒田正孝という3人の写真師の名前が見えます。私が今、追っているのはもちろんこのうちの黒田正孝さんです。黒田さんは、最初、東四十物町で営業されていて総曲輪に移られたようである。そのことを記した部分もありました。

 ・〔明治四十年〕九月、二十年前から東四十物町に長くつづいてあった黒田写真館が、照真閣と称した支店を、総曲輪小学校前に新築し開業した。(〔A〕161p)

 ・・・以上のことから6/13に書いた事項に修正が必要になりました。この写真を撮ったのは「総曲輪」の黒田写真館だと断定的に書いたのですが、写真が撮られた明治38年11月時点では、写真師黒田正孝さんのお店は、総曲輪ではなく「東四十物町」にあったことがわかりました。
 ※「東四十物町」は、〔ひがし・あいものちょう〕と読みます。また6/19の記事に、他万喜の父・岸六郎のいた官舎の場所として「西四十物町」も登場しています。この「四十物町」(あいものちょう/あいもんちょう)については、別の機会に書きたいと思います。

 (続く)

〔追記〕
 先週土曜に金沢湯涌夢二館を再訪した折、一つの発見がありました。実は、黒田写真館で撮られた写真がもう一枚あった!のです。今話題にしているたまき親子の写真(a)に写っている長女敏子の結婚時の写真(b)です。
 写真(a)では、2歳7か月ほどだった敏子が,養女となった浅岡家でこれも養子の由則と結婚した写真(b)当時、いくつだったのか、いつだったのかわかりませんが、この写真にもKURODAの記載があるのです。おそらく同じ黒田写真館だと思われますが、KURODAの下には富山写真館の文字が読み取れました。

(参考文献)
〔A〕『総曲輪懐古館』 八尾正治・水間直二・山岸曙光/巧玄出版/1977.12
〔B〕『明治の富山をさぐる――総曲輪を中心として』 水間直二/水間直二/1979.8
〔C〕『総曲輪物語――繁華街の記憶『』 堀江節子/桂書房/2006.12
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by kaguragawa | 2010-06-24 23:27 | Trackback | Comments(0)

『夏目漱石と戦争』    

 『夏目漱石と戦争』 水川隆夫/平凡社新書/2010.6

 読みだしたばかりですが、大きなテーマの立て方に丹念な読みの広さと深さが応えていて、漱石と言う人をあらためて知りたくなりました。それほど漱石は私には未知のひとなのです。
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by kaguragawa | 2010-06-24 22:45 | Trackback | Comments(0)

沖縄「慰霊の日」   

沖縄「慰霊の日」

1945年6月23日、沖縄戦の組織的戦闘が終結
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by kaguragawa | 2010-06-23 23:25 | Trackback | Comments(0)

三島霜川って富山県の偉人なの?!   

 富山県の教育委員会が「ふるさととやまの人物ものがたり(仮称)」を発行するのだという。けっこうなことである。
 読売新聞の記事をそのまま引用すると、“県内の歴史や文化への理解を深める「ふるさと教育」を推進する県教委の協議会は21日、小学校高学年用の読本に取り上げる富山ゆかりの偉人50人の案を公表した。”ということである。

 「案」ではあるが、その「偉人?50人」のなかに、《三島霜川》が、含まれているのである。あきれてしまって声もでないくらいである。
 かつて富山県を代表する?文学者を挙げる場合、ほかに人がいなかったので霜川が選ばれることはあったであろう、短期間とはいえ、そして、その評価が一部の人々からのものであったにせよ、明治の末期に全国区にわずかに名が挙がったことは事実なのであろうから。

 しかし、三島霜川は、「今」、なぜ富山県の50人に選ばれなければならないのか。
 霜川は、日本の文学に、富山の文学に、どんな貢献をしたのか。
 端的に「否」である。
 霜川ファンの私がいうのもなんだが、霜川に顕彰されるべき功績など無いに等しいのではないか。

 今こうした人選に入れられるほど、富山の文化界、文学界が、常日頃から、霜川に熱いまなざしを注いできたのか。
 端的に「否」である。


 明治以降の文学への貢献と言うのであれば、源氏鶏太こそ、もっと評価されていいのではないか、もっとあらためて読まれていいのではないか。
 私の個人的な好みもふくめて言わせてもらえば、詩人・田中冬二や俳人・前田普羅の作品こそ、貴重な富山の文学遺産として大事にし、もっと顕彰し、広く読まれるようにすべきではないのか。角川源義氏もいるではないか。

 お願いだから、霜川のありのままを見なおして、ほめごろしのような偉人50傑から、霜川を自由にしてほしい、と願うばかりです。
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by kaguragawa | 2010-06-22 23:29 | Trackback | Comments(0)

他万喜を訪ねる街歩き、それは予定外の   

 きょうが夏至であること、まったく意識していませんでした。にもかかわらず、夏至の恩恵を受けながら「けっこう遅くまで明るいじゃん」と、真っ暗?になるまで、外をほっつき歩いてきました。

 勤務先を6時10分に出て、市立図書館まで歩いて6時35分。本が何冊も入って重たい手提げを抱え、うっすらと汗をかいて、きっかり25分かかることを発見。富山市立図書館は7時までなのである。
 昭和48年の「住宅地図」を借り出し、総曲輪4丁目あたりに「柴田駐車場」の文字をみつけ急いでコピーを依頼(といっても自分でコピー機を使って、枚数を申告)し、“蛍の光”の鳴るなか、館外にでました。なんと7時なのにまだ明るいのです。

 よし、この「柴田駐車場」に行ってみよう。

 岸他万喜(たまき)の初婚の相手、堀内喜一の家――「えっ、それって呉羽山の北麓(当時の表記で「桜谷村駒見」)でしょ。歩いていけるはずもないし、かぐら川さんが行こうとしている総曲輪4丁目はまちがいじゃないですか」・・・との異議は、今、聞かないことにします――は、浅岡敏子さんの子・浅岡尭氏(他万喜の孫)の談によれば、『母の話によれば、富山市の「養順湯」西角、柴田旅館のところ、と聞いています。』(「愛の巡礼者竹久夢二展図録」(2008))ということなのである。
 が、簡単にみつかると思った「柴田旅館」も「養順湯」も、現在の電話帳には富山市内に該当する掲載がなく、しかも他に手がかりもなく、探索をあきらめていたのである。

 それが先日来、文献中に黒田写真館を総曲輪に探していたとき、堀内家は、(現在の大手通りを西端とする総曲輪通りの、大手通りをさらに西に越えた総曲輪4丁目の)「いま柴田の駐車場になっているところである」という、浅岡敏子さんからの聞き取りをある本に、見つけたのである。が、喜んだのもつかの間、現在の住宅地図の総曲輪4丁目には、やはり「柴田(旅館)」も「養順湯」もないのである。電話帳に載ってないはずである。
 というわけで、古い住宅地図を求めてのきょうの図書館行きとなったのである。30年ほど前の住宅地図に「柴田駐車場」を見つけた次第は上に書いたとおり。コピーした地図を手提げにつっこんで、総曲輪のはずれを目指してまた歩き出したのです。

 青葉幼稚園、統廃合で廃校になった総曲輪小学校の横を通り市民プラザの裏から総曲輪4丁目に出たのが7時10分ほど。まだ明るいなか、柴田旅館の跡地とその横の駐車場――ファーストパーキング総曲輪というコインパークでしたが――の脇に立ち、いつまでここにあったものか、おそらく大正の初めまでは確かにあったであろう、岸他万喜が嫁ぎ、その子雄一が育ったであろう堀内家の跡地に、辺りが暗くなるまでしばらくたたずんで、多少あわただしかった予定外の街歩きの疲れを癒したのでした。

 昭和48年の地図にも載っている近くのM商店に入ってたずねたところ、銭湯「養順湯」のあった場所も、その名が「ようじゅんとう」であることも、親切に教えていただいて――柴田旅館のことは聞かなかったのですが――、初めて市電“環状線”のLRTセントラムに「大手モール」の停車場から乗り込んで、暗くなった街中を富山駅に急いだのでした。
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by kaguragawa | 2010-06-21 23:57 | Trackback | Comments(0)

たまきを巡る一枚の写真(1)   

 一枚の写真のまわりを一週間のあいだぐるぐる回っていました。先週の土曜日、金沢湯涌夢二館で見た、たまきが二人の子(敏子、一雄)と写した写真です。そして、どうしてもこの写真をもう一度見たくなり、今日また金沢湯涌夢二館に足を運びました。
 
 先日(6/12)のブログ記事では、「たまきが、亡夫との間の二人の子(敏子、一雄)を、一人は養子に出し一人は婚家に残し、自立の道をさぐろうとし――最終的には、兄・他丑をたよって上京することになるのですが――記念に親子3人で写真におさまり(明治38.11.3)、3人で形見分けに分け持ったその写真」という説明をこの写真につけました。まったく要領をえない説明です。この写真――写真館で撮った記念写真です――を撮ったたまきの思いにどうしても私の理解が及ばないまま書いたものなのです。
 たまきはどういう思いでこの写真を撮ったのか、たまきに寄り添うことで少しでもその気持ちに近づくことはできないものか、その思いが強くなって一週間しかたっていないのに、金沢といっても奥まった山間の湯涌の地までその写真の実物を見に行くことになったのです。

 まず何よりも確認したかったのは、展示されている写真の説明を書き写した私のメモに間違いはないのか、ということでした。そのときのメモにもとづいて(6/12)のブログに、撮影日を(明治38.11.3)と書いたのですが、その日付に誤りはないのか、極言すればそのことの確認のために夢二館を再訪することになったのです。

 今までこの写真は、たまきが兄・他丑をたよって上京する1906(明39)年に撮られたもの、とされてきたようです。 林えり子の『竹久夢二と妻他万喜――愛せしこの身なれど』はこの写真を巡るたまきの動向をこう書いていました。
 “あとは出立を待つばかりという日、他万喜は思い立って富山の写真館へ、敏子と一雄を連れて出掛けた。これが親子三人の生き別れになるかもしれないのであった。(中略)他万喜は紋付の礼服、敏子には振り袖の晴着、一雄には宮参りの着物を着せて、写真館へ人力車で出掛けた。親子三人の写真は三枚註文した。一枚は一雄が残る堀内家、一枚は敏子の養女先の浅岡家、そして残る一枚を他万喜は上京する荷のなかにしまった。”

 この写真を、たまきが兄・他丑をたよって上京する直前に撮った形見分けの写真とみるのは、小説仕立ての林えり子さんの作品だけではありません。たまきの初婚の相手・堀内喜一の出身地である富山県滑川市が市制55周年の記念に開いた「愛の巡礼者竹久夢二展」(2008)の図録の解説(白岩初志.稿)には次のように書かれています。
 “東京に出るために他万喜は、長女敏子を知りあいで富山駅前で旅館経営していた浅岡政次郎、ヒナ夫妻へ養女に出し、一雄は祖父の堀内潤二が後見人として保護している。他万喜は、3人で最後の写真を撮ってそれぞれ1枚ずつ持たせた。その写真が浅岡家に残されている。”



 しかし、たまきの上京は1906(明39)年9月頃ですから、〔1905(明38).11.3〕が撮影日であれば、東京への出立直前ではありません。その1年前にこの写真は撮影されているのです。
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by kaguragawa | 2010-06-19 22:53 | Trackback | Comments(0)

意外な人々に出会いがあったかも・・・   

 天保十二年(1841)生まれの岸六郎――のちに夢二の伴侶となり知られるようになった他万喜(たまき)の父です――が、富山に来たのが明治16年。
 天保十三年(1842)生まれの瀧吉弘――若くして亡くなった作曲家・瀧廉太郎の父です――が、富山に来たのが明治19年。
 岸は裁判官として、瀧は県の書記官としてもと富山城のあった場所で官吏として勤め、二人は数年間重なった生活を送っています。官舎もそれぞれ西四十物町、千石町と近くだったようですから、ほぼ同年のこの二人は顔を合わせることがあったのではないかと思います。むしろ官吏仲間としてお互い顔は知っていたと考えた方が自然ですし、案外、親しかったも知れません。なにか不思議な思いがします。
  
 ほぼ同年の二人の意外なニアミスということでいえば、夢二の永遠の女(ひと)と言われる笠井彦乃と、賢治の妹の宮澤トシもそうです。2歳違いです。下の生歿年を見ていただければわかるように、彦乃の方が生まれたのも亡くなったのもそろって2年先です。この二人は、同時代を同じ時間を重ねて生き、二十代の若さでともに結核で亡くなっているのです。

 1915(大4)年、日本女子大の女学生となって上京したトシは、その前年に開店し若い女性に人気のあったた夢二の港屋絵草紙店を訪れたことがあったかもしれない・・・と、これも想像をたくましくして、以前書いたことがありました。が、もしそうだとすれば、宮澤トシは店の女主人たまき(岸他万喜)とも、そして当時女子美術学校の生徒でこの店の常連だった彦乃とも顔を合わせているかも知れないのです。
 もっとも、トシのいた大学の寮・責善寮は大学の創設者・成瀬仁蔵の意向で戒律がきびしくそんな自由がなかったかもしれませんが・・・。
 
  笠井彦乃  1896.03.29~1920.01.16
  宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  宮沢トシ   1898.11.05~1922.11.27

 こんな想像の話はともかく、もっと驚くべき事実があるようなのです。なんと彦乃は女子美術学校に行く前、日本女子大にいたらしいのです。4年で中退したというのですが、とすれば学齢の計算上、彦乃とトシはわずかの期間たりとも日本女子大で出逢っていたかも!?ということになるのですが、実際はどうなのでしょう。興味のあるところです。

〔追記〕
 当時の日本女子大って3年制じゃなかったっけ、4年で中退って変だな?・・・という疑問があったのですが、どうも笠井彦乃は常盤高等小学校を卒業して日本女子大の附属高等女学校に進んだらしいのです。その後、女学校を中退して夢二の勧めで?女子美術学校に行ったというところが正解のようなのです。
 が、これも卒業・進学年次もふくめ正確なところは、私にはまだよくわかっていません。課題としておきたいと思います。
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by kaguragawa | 2010-06-19 01:43 | Trackback | Comments(0)

短信   

 更新がとどこおっていることは生来の怠慢なのですが、せっかくコメントをいただいておりながら諸事情につき時間がとれず返事も書き込まないままになっていること、お許しください。
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by kaguragawa | 2010-06-17 18:33 | Trackback | Comments(0)