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「セノオ楽譜」か「セノウ楽譜」か   

 きのう朝日町訪問記を書いた中で、自分でも少し違和感を覚えながら書いた部分がありました。夢二展の展示作品の「セノウ楽譜」という表記の部分です。
 夢二にくわしい方、日本音楽史にくわしい方なら、“「セノウ楽譜」ではなくて「セノオ楽譜」だ。”と、おっしゃるでしょう。googleで「セノウ楽譜」を検索すると、おせっかいにも?、《もしかして: セノオ楽譜》というメッセージが出ます。言うまでもなく〔セノー楽譜〕――以下、「セノオ楽譜」「セノウ楽譜」にまたがる言葉づかいに〔セノー楽譜〕という表記を用いますが――は、妹尾幸陽氏の企画になるものですから、「せ・の・お」の表記の方が妥当のように思われますし、多くの夢二文献、web上での情報でも「セノオ楽譜」がほとんどなのです。

 とすれば〔セノー楽譜〕は、「セノオ楽譜」が正解で、「セノウ楽譜」は間違いなのでしょうか。私がきのうの記事に用いた表記の拠りどころとした朝日町ふるさと美術館の展示作品の『作品目録』、この「セノウ楽譜」は誤植!なのでしょうか。

 残念なことに、〔セノー楽譜〕の実物が私の手元にないのですが、楽譜には「セノオ楽譜」ないし「セノウ楽譜」といった表示がされているのでしょうか。もし手元に、〔セノー楽譜〕の実物やリプリント版をお持ちの方は、手にとってぜひ確認して教えていただきたいのですが、「セノオ」「セソウ」といったカタカナ表示は、〔セノオ楽譜〕にはされているのでしょうか。
 私の記憶では、印象的なウサギのマーク(なぜうさぎ?)には、アルファベットで「SENOW」と書かれているのではないでしょうか。

 「妹尾」の正規の読みの問題はひとまず措くとして、夢二は「妹尾」を長音化した「せのー」と読み(呼び)、SENOW(セノウ?)と表記したのではないでしょうか。少なくとも、「SENOW」のアルファベット表記は、「セノウ楽譜」という表記に一つの根拠を与えるものではあるでしょう。

 ぜひ夢二研究者の方のご教示を得たいところです。

〔追記〕
 夢二と「セノオ楽譜」――私はこれまで慣用にしたがって、こう書いてきたので、とりあえずこの表記を使いますが――、については旧日記に、インデックス?があります。参照ください。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20090606

〔追記2〕
 黒岩比佐子さんのブログ「古書の森」に、妹尾幸陽(幸次郎)について、落書きしたことを思い出して探してみました。書いた内容は下記の通りですが、そんなことより、そこに掲載されている楽譜には「セノオ(バイオリン楽譜)」のカタカナ文字が!。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51565344.html

 妹尾幸陽(1891.04.05~1961.02.28)については、以前拙日記でも夢二との関連で何度か取り上げたのですが、「どうしてあのような楽譜出版を始めたのか、作曲もしているようですが音楽教育を受けたのか、夢二との関係はどうやって始まったのか、など知りたいことはたくさんありますが、まったくわかりません。それにしてもセノオ楽譜の果たした役割とても大きいと、思うのですが、どうして誰も語ってくれないのでしょう。(検索サイトで「妹尾幸陽」を調べると判で押したように「西洋音楽の普及に努めた」という言葉が枕詞のように並んでいてオリジナルな情報はほとんど得られない状態です。)」と書くのが精いっぱいでした。
 『新潮日本美術文庫33 竹久夢二』のなかの「蘭燈」(竹久夢二作 本居如月曲/1917)というセノオ楽譜の装画(表紙絵)に付された、海野弘氏の解説には、“二〇世紀のはじめ、レコードやラジオが普及していなかったころ、音楽を広めるのに楽譜がもっとも有力なメディアであった。そのため楽譜出版がさかんになり、美しい絵入りの表紙をつけた楽譜が売られるようになった。日本でも大正期になると楽譜出版が活発になり、その中心ガセノオ楽譜であった。夢二は1916年から1924年まで、273点のセノオ楽譜の表紙を手がけ、グラフィック・デザイナーとして先駆的な仕事をしている。”また同「草の夢」(竹久夢二作詩 榊原直作曲/1924)の解説には、“関東大震災以後、レコードの普及とラジオ放送の開始により、楽譜の表紙絵の黄金時代は終わる。”とあります。
 今あらためて検索してみると、とても参考になるページをいくつか見つけました。
http://www.lib.kunitachi.ac.jp/tenji/2005/tenji0510.pdf
http://www.pioto.net/y-harada/bordeaux/53bordeaux/

〔追記3〕
 なんと!、昨年『竹久夢二「セノオ楽譜」表紙画大全集』(竹久みなみ・監修|大平直輝・編集/国書刊行会 )という本が刊行されていました。まったく知りませんでした。妹尾幸陽のことや、うさぎマークの由来についても詳述されていることでしょう。
 監修者の竹久みなみさんは、竹久夢二の長男・虹之助さんの長女です。
http://www.gekkanbijutsu.co.jp/shop/goods/09102001.htm
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by kaguragawa | 2010-05-31 23:05 | Trackback | Comments(4)

朝日町の夢二や紋左のこと   

 Kさんへ

 きのう、Kさんに情報をいただいた夢二展を見に朝日町のふるさと美術館へ行ってきました。調べたところ「朝日町立ふるさと美術館」は、JR泊駅から歩いて15分とのこと。列車の時刻を確認して、実はもう一つ行き先を探ってみてここも訪ねることができそうだと、小さな街歩き計画を地図上で立ててみました。

 片貝川など碧の清流――すばらしいエメラルドグリーンなのです。ヒスイはこうした北アルプスの清流によってつくられたのではと思ったほどでした――を各駅停車の列車窓から眺めながら、初めて泊駅に降り立ちました。そこには、日本海に突き出た立山連峰の末脈の山が間近に霧状の水蒸気に抱かれて座っていました。

 今度の朝日町立ふるさと美術館の夢二展は、正確には「館蔵企画展 四季の女――朝日町と竹久夢二――」というもの。こじんまりとしたいい夢二展でした。展示作品は、企画展名になっている6枚の連作「四季の女」のほかに、「長崎六景」「女十題」、婦人グラフの挿絵、セノウ楽譜など。貴重なのは「画帳Toyama1915」。

 企画展の副題になっている「朝日町と竹久夢二」については、あらためて、整理しておきたいことがあるので、稿を改めます。ただ、そこに、夢二が富山や朝日町を訪れたことを報じる北陸タイムスの1915(大正4)年当時の記事のコピーが貼り混ぜ式に掲示してあって、新聞に載せられた「神通橋遠景」「さくら橋付近」など当時の富山の街を知る手がかりになるスケッチを、――古い新聞の不鮮明なコピーとはいえ、夢二の手で描かれたもので――見ることができたのはさいわいでした。そうそう「画帳Toyama1915」中の“20 Jan 1915 ToyamaStation”というスケッチの駅前風景に描かれた山容を、実際の山なみと照合してみようと思いながら、まだ実行してないことも思い出しましたが・・・。

 朝日町といえば、横浜事件の発端になった料亭“紋左”のあるところ。美術館を出て、おそらく旧街道と思われる道を、“紋左”を探しました。海と山に抱かれたような街道の街・泊にも今日につらなるいろんな歴史があったのです。10分ほどでしょうか歩いて、紋左を見つけました。
 1942年(昭17)の言論弾圧の横浜事件は、夢二の時代の大逆事件と類似の構造をもつ権力の犯罪でした。夢二の略年譜にある「明治43年(1910)6月、大逆事件の参考人として召喚される」の語句を、横浜事件の執拗なまでのねつ造事案と重ねつつ、紋左前の2年前に建てられたばかりの新しい記念碑をながめたことでした。

 ここで、泊駅にもどる時間が迫ってきて、碑文を写す余裕もなく、駅に向かうことになりました。

 ――以上、簡単な報告まで。今度は、金沢湯涌夢二館でお会いできることを、愉しみに筆をおきます。
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by kaguragawa | 2010-05-30 21:01 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(4)

記者会見の中継   

 今、意味の理解できない鳩山総理の記者会見の中継を見ながら暗澹たる気持ちでいます。
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by kaguragawa | 2010-05-28 21:36 | Trackback | Comments(2)

石黒信由のこと。手始めに。   

 江戸時代にあの伊能忠敬と同様に地図づくりに生涯をかけた人物が、この富山の地にいました。私のような地図好きにはもうはるかはるかに仰ぎ見る大先達で、しかも私の愛するこの射水の先人なのです。
 ――石黒信由(いしくろ・のぶよし)、彼のその地図の正確さと美しさにはもう感嘆と敬服の思いでいます。

 石黒信由については語りたいことがいろいろあり、今後思いつくままに落書きをしていきたいので、――次稿がいつになるかは不明ですが――しっかりした紹介を、私自身の勉強もかねて、しておきたいと思うわけなのです。
 というわけで、まずこの稿を、HP《おもしろ地図と測量》の中の「地図測量の200人」の「石黒信由」の項を写させていただくことで、はじめたいと思っています。
(ただし、出身地と博物館名の表記を2005年の市町村合併後のものに書き換えさせていただきました。)

石黒信由(いしぐろのぶよし 1760--1836)

 「加越能三州郡分略絵図」の製作者。
 現富山県射水市生まれ、忠敬の日本全図と並ぶ「加越能三州郡分略絵図」を作製。
 石黒信由は、宝暦10年(1760)越中国高木村(現射水市高木)の肝煎を勤める豪農の家に生まれ、幼名を与十郎といった。早くに父を亡くしたが祖父に育てられ、幼いときから算学に興味を持ち、23歳の時富山の中田高寛に師事し、関流和算を学んだ。その後、宮井安泰に測量術を西村太沖に暦学などを学び、寛政7年(1795)以降には検地などの御用を努め、その後は加賀藩の命を受け、新田開発や用水事業の測量に従事した。
 石黒は、新田開発における高低差の少ないところでの用水の測量に、人足に"ガンドウ"と呼ばれる回転するろうそく立てを持たせて行う「笠測量」と呼ばれる手法を用いた。
 享和3年(1803)8月3・4日に放生津(射水市)で伊能忠敬と接見し、その際忠敬の使用する測量機器に興味を示したという。信由が本格的な測量と地図作成に従事したのは、60歳(文政 2年(1819年))になってからであるが、忠敬との出会いが、その後の測量などに大きな影響を与えたといわれる。
 これ以降、それまでの実績が認められ加越能三州の測量を担当することとなり、「加越能三州郡分略絵図」などを作成した。信由の残した地図は、内陸部を含む実測図が多く、極めて精度の高いもので、忠敬の日本全図と並ぶものといわれている。
 信由の孫信元、その曽孫信基も志を継いで算学・測量に功績を残し、門人も測量・新田開発の職に就いた。著書として、「増補大路水径」などがある。
 生家の一隅にある高樹文庫には、信由の作った地図や象限儀などの測量機器など、石黒家の学問の足跡を残す1万2千点が残されていたが、平成10年(1998)秋に道の駅に併設して新湊市博物館が開館し、信由の遺物もここに移された。同館には、信由の使用した測量機器と作製した地図が展示されている。(同館は、平成17年(2005)射水郡の町村と新湊市の合併で、射水市新湊博物館と改称されている。)

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by kaguragawa | 2010-05-25 21:03 | Trackback | Comments(0)

堀田勝文氏について   

 堀田善衛の父「堀田勝文」についてまとまった記述があったので書き写しておきます。

 高岡市吉久の野口家に生まれた堀田勝文(明治18年~昭和27年)は、明治44年、伏木(高岡市)の廻船問屋「鶴屋」の堀田善右衛門の養嗣子になった。昭和8年から13年まで伏木町長を務め、伏木港の整備に尽くした。さらに同17年再度町長に選ばれ、同年高岡市への合併を実現させた。昭和9年には県会議員の補欠選挙で選ばれ、同22年まで3期13年間県会で活躍した。同15年から17年まで、議長を務めている。伏木石炭社長、伏木商工会長、県商工会連合会長まどを務めた。
 
 『富山県姓氏家系大辞典』(角川日本姓氏歴史人物大辞典16/角川書店/1992.7)533P
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by kaguragawa | 2010-05-23 20:07 | Trackback | Comments(0)

絲屋寿雄(いとや・としお)さんて   

 まったく存じ上げなかったのですが、先の記事でとりあげた『管野すが』の著者・絲屋寿雄さんて、映画のプロデューサでもあったんですね。プロデューサの側面については、〔Wikipedia〕がその作品を列挙しているので、そちらをご覧いただくとして、近代史(とりわけ社会主義運動史)の研究者の側面については、〔Wikipedia〕にはほとんどふれられていないので同一人物なのかどうか疑ってしまうほどなのです。

 歴史家としての絲屋寿雄さんの事績にくわしい方、ぜひ、〔Wikipedia〕をはじめとしてnet上に、著述一覧などの基本情報を、掲上してほしいものと思います。

 なんと昨日が、絲屋寿雄さんの命日だったのですね。

   *絲屋寿雄  1908.10.18--1997.05.21

〔追記〕
 新藤兼人さんの岩波新書『弔辞』(1998.2) に、絲屋寿雄さんについて書かれた文章があるようですね。
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by kaguragawa | 2010-05-22 23:20 | ひと | Trackback | Comments(0)

明治期の教育制度の断片(1)   

 19日に「たとえば、尋常小学校の修業年月」というタイトルで、明治維新以後の教育制度(広義の学制)の基本事項の整理に苦闘?していることを書きましたが、戦前の小学校を半世紀にわたって規律していた「小学校令」(明治19年勅令第14号) 以前の話の場合、私などにはお手上げです。

 きょう、絲屋寿雄さんの『管野すが』(岩波新書/1970.1)――もしかして今は絶版なのでしょうか、確かめていませんが――を読んでいて、こういう一節に出会いました。
 大逆事件は、明治天皇を暗殺するために爆裂弾を試作した宮下太吉の逮捕〔1910.5.25〕から始まるのですが、この宮下太吉の略歴部分です。

 「この事件の中心人物といわれる宮下太吉は、1875年(明治8年)9月30日、山梨県甲府市若松町に生まれた。小学校の補修科を出て、16歳のときに機械工の見習いとなり、東京、大阪、神戸、名古屋の大工場をわたりあるいているうちに鍛えられて、腕のいいりっぱな機械工となった。」

 ここで気になるのが「小学校の補修科を出て」の部分です。《小学校の補修科》とはいったいどのようなものなのでしょうか。絲屋さんの紹介は簡略なものなので宮下の入学年月が書かれていませんが、当時も現在と同じであった満6歳の就学年齢を仮にあてはめるならば、入学は明治15年ということになります。
 とすれば、入学時においては、明治の制度としてなじみ深い「尋常小学校」「高等小学校」の「小学校令」 以前の話となるのです。が、このときの「小学校」とはどのようなもので、その「補修科」とはどのようなものなのか、修業年限などの制度の概要もその実態も、わたしには皆目わからないのです。仮に宮下が諸事情で2,3年遅く小学校に入学していれば、修業期間や卒業年次が「小学校令」の発布、施行の時代にも重なってきて、新法令やその経過規定の適用などの問題も出てきて、いっそう教育制度史の専門家ならざる私にはわけがわからなくなってくるのです。
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by kaguragawa | 2010-05-22 21:27 | 社会史 | Trackback | Comments(1)

「100年前の今日」   

 まとまったものを書く時間がなくて、断片的な独り言ばかりになっています。
 たとえば、犀星の初上京のようすを、犀星自身の自伝的作品からいろんなヴァージョンで紹介しようと思って、5月5日の「100年前の今日、犀星、東京へ」を(1) と番号付けしたのですが、余裕がなくて(2)以降を書けないままになっています。
 そうこうするうちに、「100年前の今日」は大逆事件発端の5月25日に近づいています。
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by kaguragawa | 2010-05-20 23:05 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

たとえば、尋常小学校の修業年月   

 明治、大正期の詩人の足跡を追っかけている者にとって、明治維新以後の教育制度(広義の学制)の、しかもその変遷の、基本的な知識は不可欠である。が、これがなかなかにくせものである。
 そんなグチめいた実例をいくつかまとめてみたいと思っていますが。。。。
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by kaguragawa | 2010-05-19 23:00 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(2)

Word2007の初心者   

 時間的には大した仕事ではなかったのですが、気持ちのうえでなかなか取りかかれなかったその仕事を終え、F先生に提出。
 ただ自宅のパソコンに入っているのは使ったことのない「Word2007」。文字の入力は終えたものの、指定された1行の文字数や行数の設定をどうやったらいいのかがわからず、しばし混迷。〔Word2007+ 文字数〕で検索して、方法をみつけ、解決。

 私のような者には多様な機能よりも、使い方の簡素なものの方がいい・・・。
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by kaguragawa | 2010-05-18 23:36 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)