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露風、《山田順子》、秋声   

 昨年の今日(12月29日)、「霜川、露風、《山田順子》、秋声」というタイトルで次のように書きました。

 “きょう12月29日は「赤とんぼ」の日である。といっても、この季節、赤とんぼが群れ飛ぶ季節ではないことは言うまでもありません。日本を代表する歌曲「赤とんぼ」に、ちなむ日なのです。といっても、この曲が作曲された日とか、初演された日とかではなく、ちょっと残念な日なのです。この29日は、曲をつくった人物が亡くなった日なのです。

 この曲をつくったのは、山田耕筰と三木露風。言うまでもなく作曲が山田耕筰、作詞が三木露風。なんの因果かこの二人とも、この年の瀬の12月29日に、合わせたようにというかあいついで亡くなっているのです。三木露風が1964(昭39)年。山田耕筰が翌年の1965(昭40)年。不思議なことがあるものです。

 ところでこの三木露風、今では「赤とんぼ」の作詞者として名前がでる以外、ほとんど見かけることのない名前になっていますが、北原白秋と人気を二分し「白露時代」と呼ばれた一時期を近代詩の歴史に残している詩人なのです。
 この露風が、上京後の雌伏期間――明治40年頃――を、三島霜川のもとに居候として過ごしていたことについては、報告したことがありました。そして、徳田秋声とも面識を得ることになったことも書きました。露風が早稲田大学に提出した現住所が、なぜか《本郷区森川町一番地南堺裏 徳田方》――徳田秋声の自宅――になっていることも驚きとともに書き記しました。
 
 こうした、霜川、露風、秋声の関係は、つながりはそこで終わっていなかったのです。なんと驚いたことに、小説家志望だった山田順子――秋声に老醜をさらさせ、かつ『仮装人物』という労作をもたらしたあの!山田順子です――に秋声宛ての紹介状を書いたのが三木露風だったというのです。このいきさつについては、また後日。”


 ・・・・1年たった今になって、「後日」書こうとした「三木露風が秋声宛ての紹介状を山田順子に書いてやったいきさつ」がもう自分でもわからなくなってしまっているのです。情けない話です。順子の初めての結婚生活は北海道の小樽なのですが、この期間が露風のトラピスト修道院(函館近郊)の講師時代と重なる部分があるのです。露風と山田順子は北海道で知り合ったのではないでしょうか。調べなおしてみます。
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by kaguragawa | 2009-12-29 00:49 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(2)

見沼のほとりの服部先生   

 10月に、音楽史家の服部幸三さんがお亡くなりになっていたことを今日になって知りました。

 以前使っていたパソコンには服部先生からいただいたメールが残っていたのですが、今はもうみることができません。仔細は覚えてないのですが、7年ほど前、テレマンのことか何かを大先生に勇気をふるってお尋ねしたのではなかったでしょうか。ちょうどその頃、音楽之友社から「西洋音楽史シリーズ全4巻」の服部先生執筆の『バロック』が刊行されて、400ページもある大冊の本を買ったのですがこれは、ほとんど読まずに架蔵されたままです。

 お住まいになっておられた埼玉の見沼の歴史や自然への思いに満ちた「見沼のほとり」という素敵なHPもつくっておられて、「仲間にも紹介したいのですが」と申し上げたところ、いかにも服部先生らしい柔らかい物言いで、お断りになられたのも印象に残っています。今はもうnet上にはないようです。

 ご冥福をお祈りしたいと思います。

 *服部幸三 1924年3月10日~2009年10月8日

 
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by kaguragawa | 2009-12-21 23:51 | 音楽 | Trackback | Comments(2)

5年前の、賢治を東京に訪ねる旅   

 自分の「覚え」のために、日記に書いた5年前の「賢治を東京に訪ねる(尋ねる)旅」を再録しておきます。

■2004/11/14 (日) 「雲台館」の賢治を訪ねる(1)

 三丁目坂。こんな名前がつく坂を――いつついたのだろう新しい名前のはずだ――護国寺に向かう広い音羽通りの警察署〔大塚署〕のところから西に登る。かなりの勾配で視線がどうしても足元に落ちてしまう。
 東京のこの坂道を、賢治は毎日(2カ月余)行き来したはずなのである。おそらくその賢治も、ときには雪でぬかるんだこの坂を、目線をいつも下に落としながら、ではなかったろうか……。

 今は、文京区目白台三丁目。宮沢賢治が訪れた大正七年(1918)には、「東京市小石川区雑司ケ谷町」。
 前後のいきさつは、調べていない私には正確に記述できない。が、日本女子大学に在学中だった妹・トシが、高熱を出して入院との報に、賢治と母イチは、年も押し迫った12月27日、急遽、花巻から上京。おそらく宮沢家と旧知であった日本橋の小林六太郎氏がこれも急遽、その病院の近くの宿を探し出し、この親子に世話したのだろう。
 賢治の手紙にトシが入院する「永楽病院」として登場するこの病院は、東京帝国大学附属病院・小石川分院。平成13年に閉院しているものの、いまだ目白台三丁目の坂を音羽通りから登ったところにその広大な敷地のまま建物は残っている(賢治の頃の建物ではないが)。

 “拝啓 今朝無事着京致し候 午後二時永楽病院にて面会仕り候処 別段顔色も悪からず言語等常の如くに御座候
 昨日は朝三十八度 夜三十九度少々 咽喉を害し候様に見え候”

 (この12月27日から翌年の2月6日までほぼ毎日の父への報告書簡の残るその葉書の第1号である。ちなみに、賢治の父あての書簡は、すべて[候文]である。)

 賢治は病院から数分のところ、「雲台館」という名の宿(宿といっても下宿のようなものだったのだろう)から、毎日(おそらく朝と夕方)病院にトシを見舞ったのだ。

 賢治を東京に訪ねる旅。今回は、この「雲台館」と、私の方も“急遽”決めたのでした。


■2004/11/16 (火) 「雲台館」の賢治を訪ねる(2)

 「ここは、あの菊坂の谷間……」。桂林寺横の「雲台館」があったという小路に入り込んだとき、身に迫ってきた不思議な思いでした。

 雑司ヶ谷の一画、ここは――この時の2年後、賢治が花巻を突然飛び出し、日蓮宗の在家集団《国柱会》に通い、多くの童話の萌芽を自らのものにした――あの本郷菊坂の下宿の雰囲気と同じなのです。
 何が、どう、同じなのか。そのとき、この雑司ヶ谷の小路で自分が何を感じていたのか、うまく伝える言葉がないのですが、ひとことで言えば、日の射し方でしょうか・・・。独特の地形によってこの雑司ヶ谷の寺の脇も、菊坂の谷間もなにか、「異界」といった趣があるのです。もちろん一過の旅人に過ぎない者の、たわいもない感想ですが。

 実は、この日(先週の土曜日)ここを訪れたのは、音羽通りからではなく、日本女子大→帝国(東京)大学附属病院の順でした。大学の横から少し歩くと、周囲を独特な塀で囲まれた病院跡地(正門前)に行き着くのですが、ここからは、道が音羽通りの方に、少しカーブしながら落ち込んでいくのが見えるのです。無人の病院前から歩を進め、わずかな勾配が深い勾配に変わるところに、建物のかげになった小路が(突然!)、あらわれてここをきっちりと右に折れたところが、不思議な袋小路(実は、袋小路ではないのですが)なのです。

 私有地と断わりのある小路(すなわち私道)の右側は、一段高い台地?の擁壁。左側に何軒か住宅があるのです。明治時代の古い地図は確かに袋小路になっていてこの小路は、臨済宗の禅寺・桂林寺にぶつかって行き止まりになっています。いずれにせよ道は車の入り込めない細さになり、今は、桂林寺の正面に出るようになっています。

 「雲台館」という名前からアパートのような大きさのものを以前は想像していたのですが、、ここに貴重な資料があり、これが戦後、国鉄の独身寮〔六畳間4室、四畳半7室、三畳2室〕だったという記録されているのです。実際、少し大きめな民家だったと思われます。
(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41)〔1975(昭50)補筆〕)

 ・・・ここには確かに宮沢賢治ならではの世界が――賢治が生み出した作品の世界ではなく、賢治の作品を生み出した世界が――厳存していた、そんな風に思えたのです。そうして私は、一本のイチョウが樹つその小路から出、もう一度坂を登って、病院の跡地に向かいました。坂の左手に小さな喫茶店を見ながら。


■2004/11/17 (水) ある問いかけ

 《「雲台館」の賢治》なるものを書き出して、収拾のつかない状況になってきました。おそらく、適当に打ち切ることになると思いますので、ご了承ください。

 それはさておき、実はこの不思議な――と言っても私はこの地に生活をもたない素通りの人間なわけですが――小路で、私は長い間過ごしました。
 おそらくこの小路は、今ではある場所からある場所への短絡路になっているらしくけっこう人通りはあるのですが、そこで私は不審な人物として、何回も道を行ったり来たりし、座り込んでは奥田氏の論文のコピーを取り出して読んだり、しました。小路を出て、坂道を登ったり下りたりし、音羽通り脇のかつての弦巻川を暗渠化した上に架された首都高速5号線の下をくぐって音羽通りに出たりどれだけの時間を過ごしたでしょうか。

 「雲台館」が後に国鉄の所有になり独身男子寮になったことは、書きましたが〔11/16〕、今ではその独身男子寮としての建物もありません。(道路も含んだ)この地所の所有者であると奥田論文に書かれているT家の古い二階建ての建物が、かつての袋小路の行き当たりにあるのですが、それが元「雲台館」なのか、その隣の新しい二階建てがそうなのか、まったく手掛かりはありません。

 あたりが大分暗くなってきたころ、ちょうどある一軒の家から出てこられた若くはない二人のご婦人に声を掛けてみました。
  「ここに、国鉄の独身寮があったはずですが、どこでしょう?。」

 その方の驚いた顔と言ったら・・・
  「あなたそこにお住まいになってらっしゃったの?。もうありませんよ。あれは、タケシがまだ・・・」で、ほぼ絶句という状態でした(少し、誇張しましたが)。
そして、私は、かつての「雲台館」が、今は立て替えられていることを知ったのでしたが。

 そしてその老婦人は、何度も何度も振り返って、私が立ち去らないでいることを不思議そうに眺めて道を曲がっていかれたのでした。


 翌日曜日のことです。私は瀧廉太郎が住んでいたという一番町に立ち寄って、道に迷いながら突き当たったところが、靖国神社でした。

 「靖国」、――この問題にきちんとした答をだすことに、ここではご猶予を願うとして、雑な話を続けます。――私は躊躇しながら、境内に足を踏み入れました。来てよかったと今ここで書けるのは、いくつかのことがらです。
 斎藤弥九郎の神道無限流の道場跡(飯田町俎橋から後に移った場所)が、この境内の隅(南門近く)にあることを偶然知ったこと。ここに「元宮」と呼ばれるもの――幕末に倒れた志士の御霊をなぐさめるために京都の同志たちが幕府にかくれてひそかに建てたものと説明があります――があるということ。
 そして、ある「問いかけ」に出くわしたことでした。

 境内の案内図にある「元宮」を探して拝殿の左側に回りこんだときでした。そこには、「・・・師団」とか「・・・軍人会」だとかの――おそらく戦争から帰還された方々の同志を弔い旧交を温めるための――記念樹がずっと植わっているのです。
 ここで、突然、ある男性に声を掛けられたのです。

  「モッコクはオスとメスの樹があるのですか?。花が咲くのと咲かないのが・・・」

 見も知らぬただの通りすがりの私に、真剣に寄せられたこの問いかけは、何だったのしょう?。偶然そこに通りかかった私が、植物学者に見えたのでしょうか??。「モッコク」。そうです、《木斛》の樹のことなのです。
 拝殿横の道に沿って手植えされている記念樹の多くが、なぜか「モッコク」なのです。でもその男性にとって、この問いは、どういう意味をもつものだったのでしょう。なぜ、それを知る必要があったのでしょう?。その男性にとって、私は誰だったのでしょうか?
 私が、「樹花」を、自分の日記?のタイトルに並べていることを、その男性は知っていたのでしょうか?????。

 私が発した「問いかけ」。私に発せられた「問いかけ」。
 二つの問いかけが投げかけた波紋、今も、そのまま広がり続けています。

〔追記〕
 モッコク(木斛)は、たしかに雌雄異株の樹です。


■2004/11/19 (金) 「雲台館」の賢治を訪ねる(3)

 わたしが、宮沢賢治を教科書の圏外で知った「虔十公園林」という作品。
童話なのだろうが、そのリアリティはどんなノンフィクションをも超えている不思議な作品である。

 “さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでしまいました。
 ところがそんなことには一向構わず林にはやはり毎日子供らが集まりました。”
 

 きょう、久しぶりにこの作品を読んできて、ここまできてアッと叫んでしまいました。ずっとあたまにこびりついていた賢治の父親宛の手紙〔大正七(1918)〕の一節がそのまま蘇ってきました。

“チブス菌は検出せられざりしも熱型によれば全くチブスなり” 
 高熱の続く妹トシを診断した二木謙三博士のことばを伝えた文章です。
“今後の病状は先づ大抵は減退なるべきも万一更に昂進する場合なしと言ひ難し。”

 トシの病状を逐一報告する四十通を超える父親への手紙。この手紙を私は東京へ向かう列車の中で読み、賢治がトシを毎日見舞った東京の雑司ヶ谷(目白台三丁目)の坂道の喫茶店でも読み返しました。
 (けっきょく、トシはチブスでなかったことが判明するのですが、こうしたチブスとの遭遇は、やがて賢治の生き写しとみられる「虔十」と、屈折した賢治=父親の生き写し「平二」のいのちを奪うチブスへと姿を変えて「虔十公園林」に突出することになる・・・。そう言えば、トシ的存在を排除した「虔十の家族」のことを今、考えています。)

 そして病状報告のなかに突如あらわれる賢治の《運命のモティーフ》。

 “尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に見込相附き候。蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買ひ申すべき由・・・”

 22歳の賢治は2か月余、東京で何を考えていたのか。「小川町水晶堂、金石舎」はいまも残っているのだろうか。


■2004/11/20 (土) 賢治とチブス(「虔十と平二」暫定稿)

 非常にうかつだったのですが、チブス(=チフスの濁音化形、誤用)と賢治の遭遇は、盛岡中学卒業時(大正三年〔1914〕)の鼻炎治療のときに始まっていました。(看護婦への片想い(初恋)の話題として知られる岩手病院入院です。)
 そのとき、高熱が出、発疹チフスの疑いをもたれたのです。そして看病にあたった父親も!、倒れてしまうという事態にいたります。
(父・政次郎と賢治の確執の精神史の始まり!)

 虔十公園林における、「虔十と平二」を、「賢治と政次郎」に置きかける「読み」(11/19)は、誤読ではないという思いを強めましたが、いかがでしょう。
(賢治が、自らをkenjuと記していたことは、知られていますが、平二と政次〔郎〕の発音の類似の方が注目です。「虔十公園林」における虔十の父親像と政次郎との対蹠的な記述にも留意。)

 *大正三年の歌稿から

  どこまでも検温器のひかる水銀がのぼりゆく時目をつぶれりわれ
  つゝましき午食の鰤を装へるはたしかに蛇の青き皮なり
  目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ 
  十秒の碧きひかりは去りたればかなしくわれは又窓に向く
  粘膜の赤きぼろきれのどにぶらさがり父とかなしきいさかひをする


 ところで、チフス〔typhus〕の語源は、台風〔typhoon〕の語源とも言われるギリシャ神話の風と関わりをもつ巨神テュポンではなかろうか。


■2004/11/21 (日) 「雲台館」の賢治を訪ねる(4)

 目白台の三丁目坂の小さな喫茶店での――私はここで歩きづめだった3時間の疲れをいやしながら筑摩文庫の「宮沢賢治全集9」の書簡集の大正七~八年の分を読んだのですが――そこで出逢ったアッちゃんというかわいい子犬と近くの筑波大附属盲学校の生徒さんの話は割愛させてもらうとして;

 この2か月余、賢治は妹トシにつきっきりで看病したわけではない。彼自身、自分の健康報告を父に求められる状況で、伝染病の疑いのある妹には距離をおかざるを得なかったのである。
 盛岡高等農林を卒業後、暫定的に研究生として残るも定まった道を見出せず、賢治も六月には病を得ている。トシ高熱で入院との知らせに最初は重い心で東京に出てきたことだろうが、トシの病状が軽快に向かうにつれ、賢治の好奇心はまた旺盛に動き出していることも書簡からうかがえる。上野図書館、日比谷図書館・・・。

 今あらためて、この大正七年からトシの死にいたる数年間の賢治の年表を追ってみると、不思議な感慨にとらわれます。が、そうしたことを書くには、まだまだ熟せざるものが多いことに気づいて、この《「雲台館」の賢治を訪ねる》は、この辺で切り上げておきたいと思います。

 なお、賢治が人造宝石の製造販売を夢み、父親への書簡中に名を挙げた宝石商「小川町水晶堂、金石舎」は、それぞれ水晶堂ビル、金石舎ビルという名で、今もその地に――神田の小川町交差点近く繁華な靖国通りに面して――名を残していることを報告しておきます。
(それぞれ神田小川町2-2・神田小川町1-8)
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by kaguragawa | 2009-12-19 10:10 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(2)

冬の深い夜   

偶然つけたテレビは「NHK音楽祭2009ハイライト」。

ヴェルディの“レクイエム”の圧倒的な力に、ただひたすら感動しています。


そしてそのレクイエムとは別のところで、すっぽりと寒気につつまれ雪ふりしきる深夜、みずからの来し方が妙になつかしくもいとおしくも感じられてきました。

ヴェルディ/レクイエムとは対極的な位置にあるのかも知れませんが、良寛の『草庵雪夜作』が思い起こされてきました。


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by kaguragawa | 2009-12-19 00:32 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

水車よ回れ   

 小水力発電――人々の生活と等身大の“水車”による発電です――の可能性と問題点が、「報道ステーション」(テレ朝日系列)で富山の話題を起点に取りあげられていて、なつかしくも興味深く見ました。
 「なつかしくも」という点については、数十年前に県内の稼働中の水車を見て回ったことについてふれなければならないので割愛しますが、本来は誰のものでもない身近な「水」を利用するのに、法律と縦割り行政はなんと多くのしがらみをつくっていることか。

 富山の「水車」事情については、折をみて書いていきたい、と思います。自分のためにもしっかりと現場を取材することが前提なのですが・・・。
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by kaguragawa | 2009-12-16 00:13 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

「真珠湾」翌日の『たき火』   

 今年の冬はnet友の“やいっちさん”に多いに感謝である。やいっちさんのブログには日々の話題に身近な花がちりばめられていていつも楽しみに拝見しているのですが、そこにここ数年ほとんど意識してこなかった“サザンカの花”がふっと現われたのである。

 そのときコメントに次のように書かせていただきました。
 “やいっちさんに花便りをいただくと、身近に咲くその花が次々と目にはいってくるようになります。
サザンカも、やいっちさんのブログで「あっ、サザンカが咲いてるんだ」と知ったとたんに、翌朝いたるところでサザンカの花に出逢いました。なんと駅までの通勤路にもサザンカがたくさん咲いていました。きのうまでは気がつかなかったのに・・・。”

 多くの方――ただし、年配者に限る?――がそうだと思うのですが、サザンカがどんな花木か知らないうちに「さざんか」の名前は覚えてしまっているのではないでしょうか。そう、「♪さざんか、さざんか、咲いた道」の歌詞によって、さざんかの花は親しいものになっているのではないでしょうか。

 実はこの歌には、いくつかのエピソードがあります。雑学としてだけではなく覚えておきたいのが、この歌がNHKのラジオで初めて世の中に流れたのが、1941(昭16)年12月9日だということです。真珠湾への攻撃によって明確な端緒を開いたアジア・太平洋戦争の翌日に、当初の予定通りこの曲は放送されたのですが、3日目の12月11日――68年前の今日――には軍から圧力で放送にストップがかけられます。ものの本によれば「たき火は敵機の攻撃目標になる」とかがその理由だったとか。それが軍当局の直接の有無を言わさぬ談判によったものだったのか、内務省の筋からの婉曲なものだったのか、その真の理由はなんだったのか<ぜひ>知りたいところです。が、事実としてそれ以後戦後の1949年に再びNHKの番組でとりあげられるまでこの曲は消えてしまったのです。

 ところで、大人になってサザンカの花を知りこの曲がいっそう鮮明にこころに響いてくるようになったのですが、小学校でこの曲を習い覚えた頃は、“しもやけ、おててが もう、かゆい”の部分が妙に身につまされた記憶が私にはあるのですが、年配の皆さんどうでしょうか。平成のこどもたちにとっては「しもやけ」はもう死語なのでしょうが。

 〔追記〕この曲の歌詞の初出は「NHK子供テキスト」(昭和16年9月号)の「今月の歌」だという記述を見つけましたが、そうだとしたらぜひそのテキストを見たいものだと思います。現在の曲集にもタイトルもふくめほとんど全歌詞が平仮名書きで掲載されているのですが、曲中の「たきび」だけ「たき火」となっているテキストもあるのです。
 作詞の“巽 聖歌”さんのキリスト者としての生についてもちょっとメモを残したいのですが、いずれ・・・。岩手の詩人は啄木や賢治さんだけではないのです。
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by kaguragawa | 2009-12-11 01:13 | メモ ひとこと | Trackback(1) | Comments(2)

《麻が刈られうか半土用に》   

 五箇山の民謡“麦屋節”の歌詞に「麦や菜種は二年で刈るに 麻が刈られうか半土用に」というのがあり、この《半土用》とは何か、そもそもこの歌詞には何が歌われているのか?と、10年来いや20年来、疑問に思ってきたのですが、「越中五箇山麦屋節保存会」の100周年を記念して先ごろ発行された冊子を見る機会がありその糸口がつかめました。
 報告は後日。というのも、これもつい先日発行された千秋謙治『越中五箇山炉辺史話』(桂書房/2009.11)を偶然見つけ、そこに五箇山と麻についての記述を見つけたからなのです。五箇山の深い歴史をメモ書きで済ますわけにはいかないと殊勝なことを考えているのです。

 ところで、日記版(さるさる日記)の「めぐり逢うことばたち」のアクセス数が「55555」を少し超えていました。いまだにこのブログのものより一日のアクセス数は多いようです。
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by kaguragawa | 2009-12-07 23:10 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

神田淡路町の若き子規たち   

 NHK版「坂の上の雲」第2話。先日読み返したばかりの『墨汁一滴』で印象に残った「法官」と「幇間」の取り違えエピソードから話は始まりました。以下は、『墨汁一滴』〔明治三十四年〕から(途中略したところがあります。)

 “余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であつたと思ふ。この時余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、殊に英語の力が足らないのであつたが、場馴れのために試験受けようぢやないかといふ同級生が沢山あつたので固より落第のつもりで戯れに受けて見た。。e0178600_91238.jpg第一に知らない字が多いのだから考へやうもこじつけやうもない。その時或字が分らぬので困つて居ると隣の男はそれを「幇間」と教へてくれた、もつとも隣の男も英語不案内の方で二、三人隣の方から順々に伝へて来たのだ、しかしどう考へても幇間ではその文の意味がさつぱり分らぬのでこの訳は疑はしかつたけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になつて考へて見るとそれは「法官」であつたのであらう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の大滑稽であつた。”(六月十四日の項)
〔写真は18歳頃の正岡昇(のちの子規)〕


 先日(12/2)ちょっとふれた南方熊楠が河東碧梧桐に語った、共立学校時の子規の逸話、以下に写しておきます。

 “不図子規居士のことになって、共立学校時代の同窓であった、といふことから、三十年前の昔話が出た。当時、正岡は煎餅党、僕はビール党だった。尤も、書生でビールを飲むなどの贅沢を知ってをるものは少なかった。煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしてゐた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。さうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存してをるのは、清水何とかといふ男が死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕も会葬したが、何処の寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬといふので、坊主に葬式料をまけてくれと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑ふ。”(『続三千里』〔明治四十四年三月十二日の項〕)

 ところで共立学校があった場所を現在の「淡路公園(千代田区神田淡路町2丁目27)としているものが多いのですが――「開成学園発祥の地」の碑がここにあるそうですが――淡路小学校のあった〔神田淡路町2丁目15〕がそこにあたるのではないでしょうか。なお、後に虚子と碧梧桐が住んだ下宿「高田屋」(明治29・30頃)は、旧地番で言うと〔神田淡路町1丁目1〕のようですが、私には特定できていません。余談ですが、虚子はそこの娘〔大畠いと〕と結婚し、碧梧桐は失恋の痛手から竹村秋竹を訪ねて北陸への旅にでます。
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by kaguragawa | 2009-12-07 00:37 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(2)

山茶花はさびしき花や   

 きょうは俳人池上不二子さんの歿後10年の命日。中川富女、沢田はぎ女という北陸の女性俳人の発掘に力を尽くしてくださったこと、あらためて有り難く思います。
 といっても、池上さんご自身の書かれたものを読んだことがなく『俳句に魅せられた六人のをんな』(1957/近藤書店)を借りだそうと勇んで?行った県立図書館が蔵書整理中で休館、富山市立図書館には蔵書なしということで肩透かしくらったような一日でした。

  師走といふ言の葉ゆゑにせはしくて  不二子

  山茶花はさびしき花や見れば散る  不二子
  

 通勤路で毎日目にするサザンカですが、この句に出会ってやっと安心したような心持ちがしています。


  *池上不二子 1909.02.28--1999.12.05
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by kaguragawa | 2009-12-05 20:50 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

掃き溜めに菊?   

 ずっと気になっていた路傍の畑地の花咲く雑草。やっと名前がわかりました。その名も「ハキダメギク」。

 オオイヌノフグリやヘクソカズラに寄せるnet上諸氏のコメントに、「かわいそう」「気の毒」というコメントが多いのですが、私はそう思ったことはありません。ふぐり(きんたま)だろうと、屁や屎(糞)だろうといいじゃないですか、その植物の特徴を巧みにつかんだ名をゆかしく思うばかりです。が、しかしさすがにその草木自身の容貌、匂香とは関わりのない「掃き溜め(ゴミ捨て場)」は気の毒と思ってしまいました。まぁ「掃き溜めに、鶴」のことわざもあるかと思いなおしましたが。

 どんな花か知りたい方は、↓のページを見てください。
 http://www.afftis.or.jp/satoyama/summer/31.html


e0178600_034451.jpg  花はキク科の花ですから筒状花と舌状花とで成り立っているのですが、小さい花なので、しかも全体が見栄えのあまりよくない雑草なので、立ち止まってのぞきこむ人は少ないと思うのですが、こんな可憐な花です。
 発見場所――掃き溜め――をその名にした命名者の牧野富太郎も「星の光のようでよくみると美しい。」とおっしゃっているそうです。
 (右のすばらしい写真がどなたのブログにあったものなのか、出所がわからなくなってしまいました。お借りします。)

 
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by kaguragawa | 2009-12-04 00:38 | 樹と花/植物誌 | Trackback | Comments(0)