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10月晦日のメモ。   

 いずれそれぞれのことは、それぞれに敷衍して書きたいと思っていますが、とりあえずの記録です。

 ・犀星の詩「寺の庭」に詠われている「石蕗(つわぶき)」。きょう訪れた雨宝院にいまも静かに咲いていました。 e0178600_151238.jpg先週、我が家の庭に石蕗を見つけて以来、“つち澄みうるほひ 石蕗の花咲”く寺にこの花を見に行きたかったのです。

 ・せっかくここまで来たのだからと近くの室生犀星記念館にも足を運びました。企画展「装幀の美 恩地孝四郎と犀星の饗宴」。思いがけず、恩地孝四郎が手がけた「感情」の表紙絵やデザインを何点も目にできたのが、幸いでした。
 その犀星記念館で、先日(10/18)紹介した犀星が妻とみ子に捧げた「とみ子発句集」中の一句を目に目にすることができました。
 “おもゆのみたべをへしあとのいく日ぞ”  病床で死を予感しつつ詠んだ句とのこと。

 ・さらに足をのばして“龍昌寺跡”付近へ。思いつきの下調べもないままの散策で、その正確な場所をつきとめることはできませんでした。(帰宅後地図をみたらば、寺の跡地は安閑寺の北隣りでそこは確実に歩いた場所でした。)
 今は能登の輪島に移った、かつて金沢では猫寺として知られていた寺ですが、この寺もとは小松にあった寺でなんと芭蕉が「おくのほそ道」の途次に泊った寺だったのです。(曽良の日記に「立松寺」として記録。)

 ・帰宅したら岩淵喜代子さんの『評伝 頂上の石鼎』(深夜叢書社/2009.9)が届いていました。ちょっとこの本との機縁を書いておきたいのですが、それはあらためて。さて、いつどこで、どうやって読むか。
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by kaguragawa | 2009-10-31 20:19 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

10月30日のメモ。   

 とりあえずのメモ。

 ・ふたつの「つるや」が気になっています。堀田善衛の実家廻船問屋「鶴屋」と、岸他丑の書店「つるや(書房)」です。笑われそうですが、このふたつの「つるや」、思いがけないところでつながっているような気がするのです。他丑が妹他万喜のために分店した早稲田鶴巻町の「つるや」の方が有名で、店名「つるや」は、鶴巻町にちなむものだとばかり思っていましたが、本店は飯田町の兄の店です。

 ・永井叔(ながい・よし)さんの亡くなられた日がわかった。1976年11月30日。
 “大空詩人永井叔氏はその他数知れない沢山の思い出を残して多摩市厚生堂病院に入院八十一歳の生涯を閉じたのは昭和五十一年十一年三十年の午後五時五分のことだった。病名は脳動脈硬化症だった。”(木村哲三「大空詩人永井叔氏を偲びて」〔『讃岐公論』1977.5〕)

〔追記〕
 この“八十一歳”というのは「数え年」表記(の享年)なのでしょう。私には永井叔の生誕の日も、1896〔明29〕だけで、日がわかりませんが、11月30日前の生まれであれば、亡くなられたのは「満」年齢で79歳、11月30日以後であれば、80歳になられるはずです。

〔追記:2014.5.30〕
 wikipedeia「永井叔」によれば、永井の生まれたのは、1896年1月29日とのことである。
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by kaguragawa | 2009-10-30 21:05 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

野田宇太郎さんの生誕100年   

 余裕のない生活をしています。

 が、今日28日が100年を迎える野田宇太郎さんの誕生日だったことはどうしても書いておきたいと思い、ひと言書きこみました。いずれあらためて。
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by kaguragawa | 2009-10-28 23:54 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

『日本語「ぢ」と「じ」の謎』   

 生物などの学名はラテン語で表記される。この「学名」と一対一で対応している日本語での名前(和名)が「標準和名」である。そしてこの標準和名は、カタカナで書き表すことになっている。(そうした表記法が確定するまでの経緯などについては別に書く機会をもちたい)

 前置きが長くなってしまったが、net友やいっちさんのブログにある植物の名前――“イヌホオズキ”――を書きこんだとき、誤って「イヌホウズキ」と書いてしまった。このカタカナ書きの和名のもとは「犬酸漿(いぬ・ほおずき)」である。ゆえにこの植物の標準和名の表記は、「イヌホウズキ」ではなく、「イヌホオズキ」が正しいのである。
 ちょっと話を遡らせれば、酸漿(ほおずき)の語源は「頬突き」だという。であれば、なぜ「ホオヅキ」ではなく「ホオズキ」なのか。。。「ほう」と「ほお」、「づ」と「ず」。これらは「仮名遣い」の問題である。

 「高利」や「行李」は〔こうり〕で、「氷」は〔こおり〕、というような、歴史的仮名遣いと「現代仮名遣い」の間には多くの問題が横たわっているのです。「校正」のしごとに少し携わったとき以来、愚考しているこの問題について書くつもりで書き始めたのですが、時間がなくなってきました。この表記上の問題についても、別に書く機会をもつことにしましょう。

 ほんとは、ある偶然で手にとった『日本語「ぢ」と「じ」の謎』(土屋秀宇/光文社知恵の森文庫/2009.6)の紹介を書くつもりだったのですが、――“とおくのおおきなこおりのうえを、おおくのおおかみとこおろぎがとお、ほおずきくわえてほおかむりをしながらとおっていった。”といったような、校正担当者が覚えているような意味不明な文のことも併せて、――あらためて時間を持ちたいと思います。
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by kaguragawa | 2009-10-27 23:46 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

『若き友人たちへ』   

 筑紫哲也『若き友人たちへ』(集英社新書/2009.10)

 筑紫さんが亡くなられてからもう何年も経ったような錯覚があるが、確認してみると翌月7日が一周忌である。この新書本は大学院での講義の録音をおこしたものだという。絶筆?となった集英社のPR誌への「若き友人たちへ」が巻頭に収められている。明日の読書の楽しみにしよう。

 訃報を聞いたばかりの昨年の11/7の日記に、メモしておいたことば「多事争論」。書いた私自身がとっくに忘れてしまっていましたが、世の中もこういう気風を忘れてしまったかのようである。

 「自由の気風はただ多事争論の間に在りて存するものと知る可し」

 “少数であることを恐れないこと”
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by kaguragawa | 2009-10-23 23:39 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

堺利彦の妻・為子(『加能女人系』より)   

 岸他丑や、同じく林えり子さんの本『竹久夢二と妻他万喜』で金沢との縁を知った堺利彦の再縁の妻・為子について、資料から知りえたことで書き留めておきたい断片がいくつかあるのですが、支離滅裂になりそうなので後日とします。ただし印象に残ったことの一つをメモしておきます。

 古い資料ですがに北国新聞夕刊の連載(昭和46年)をまとめた『加能女人系』という加賀能登の女性を時代に沿って素描した本があるのですが、ここに「延岡姉妹」の項があります。上に述べた為子とその妹・節子を紹介したものです。新聞記事らしい掘り下げの浅さ(失礼)と不正確さは残念なのですが、当時まだ存命であった堺利彦の娘・真柄さんへのインタビューは貴重な証言です。

 “為子は昭和三十八年、八十六歳で病死したが、義理の娘の真柄さんにきびしい教育をした。。e0178600_15585476.jpg
「父が監獄に入れられているときです。私が七つ八つぐらいのときでした。夕立がきて雷が光った。私がおっかながったので、母が窓を開けて“さあ落ちていくのを見てみなさい。このくらいのことなんですか。耐えなさい”って、きびしい表情をみせました」と真柄さんは述懐する。弾圧に耐え得る人間に――ということであったらしい。”


〔追記:1〕  *写真真ん中が、堺為子と真柄(下)。
 イギリスの独立労働党の創設者で党首であったケア・ハーディ(Keir Hardie/1856~1915)が、1907(明40)年8月に来日した際の記念写真から

〔追記:2〕
 堺為子(延岡為子)の生年表記を〔1872.5.19〕としたものがあるが、彼女は明治5年5月19日(当時旧暦)の生まれのはずで、没年も併せて現行のグレオリウス暦で表記するとすれば、〔1872.06.24~1959.01.02〕である。真柄は、1903.01.30~1983.03.18〕であり、この写真当時の為子は35歳、真柄は4歳半である。
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by kaguragawa | 2009-10-23 01:02 | ひと | Trackback | Comments(0)

NHK「ブラタモリ」   

 タモリさんが街歩きというか街探訪というかそういうことが好きな、その道の「通」だということは、偶然見た民放のある番組(「タモリ倶楽部」?)で知り、――ちょっと思い出せないのですが江戸時代からの用水を古地図で追いかける!――ちょっと驚きもしつつなぜか納得だったのですが、そのタモリさんが、堂々と?NHKの番組「ブラタモリ」でそのキャラを自然体で全開しているのです。
 この番組、4回目の銀座篇まで知らなかったのが残念なんですが、銀座の裏も表ものぞかせてもらい、街歩きの楽しさとスリルをたっぷりと堪能させてもらいました。井上陽水のテーマ曲「地図」も素敵です。

 木曜の午後10時は、発見と脱帽の45分間になりそうです。

 〔追記〕
 今までの番組も、net上で見られるようです。
 http://www.nhk.or.jp/buratamori/
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by kaguragawa | 2009-10-22 23:30 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

きのう、きょうの“人”   

 きのう・きょうは、今までいろんなことを調べたりしているときに出逢った何人かの方の生まれた日であったり、亡くなったりされた日です。(かぐら川私製墓碑銘から)

 福井直秋  1877.10.17~1963.12.12
 小村雪岱  1887.03.22~1940.10.17
 尾高邦雄  1908.10.17~1993.09.11
 川島武宜  1909.10.17~1992.05.21

 橘 糸重  1873.10.18~1939.09.01
 葉山嘉樹  1894.03.12~1945.10.18
 室生とみ子 1895.07.10~1959.10.18
 保阪嘉内  1896.10.18~1937.02.08
 玉野井芳郎  1918.01.23~1985.10.18

 社会科学関係が3人、音楽関係が2人(糸重を藤村との関係で文学にいれてもいいのですが)、文学関係が3人、美術関係が1人と、なんとなく私の雑記メモの範囲を反映しているようです。画家の小村雪岱と作曲家の中山晋平(1887.03.22~1952.12.30)が同じ日の生まれであるのも、あらためて気づきました。
 お一人ずつ、思いつきを書こうと思ったのですが断念して、以下ちょっとメモ。

・宮沢賢治の学友で親友となった保阪嘉内が賢治と同い年〔1896年〕生まれで同学齢なのに、盛岡高等農林に一年遅れて入学しているのは、札幌農学校の後身である東北帝国大学農科大学(現北海道大学農学部)を受験し一浪しているため。甲府中学校の恩師(校長)大島正健は札幌農学校時代のクラークの弟子だったのだ。

・賢治・嘉内の前年に生まれた浅川とみ子は、室生犀星夫人となる。下は、昨年日記に書いたもの。
  「今日18日は、1959(昭34)室生犀星夫人とみ子さんが亡くなられた命日。とみ子さんが脳溢血で倒れ半身不随になられたのは1937(昭12)年の11月13日。その後、戦争中の軽井沢疎開もふくめ犀星はとみ子さんを20年間いたわり続けた。馬込の自宅の庭に夫人の墓をつくる。翌年3月5日、遺稿句集『とみ子発句集』発行。
 “この人こそ私の文学のただ一人の愛読者で、熱心な激励者の一人であったと言ってよかった。”」
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by kaguragawa | 2009-10-18 13:13 | ひと | Trackback | Comments(1)

岸他丑メモ   

 鈴木徹造『出版人物事典』(出版ニュース社/1996.11)に、「岸他丑」の項がありましたので、書き写しておきます。

「1878~1956(明治11~昭和31)つるや書房創業者。石川県生れ。東京外国語学校(現・東京外語大)ロシア語学科卒。明治末、東京・九段につるや書店を開業。関東大震災で店舗を焼失するが再興、新刊書籍・雑誌のほか、参謀本部陸地測量部地図元売捌所、教科書特約販売所を置いた。1920年(大正9)創立の東京図書雑誌小売業組合の組合長をはじめ、東京書籍商組合組合長、全国兵書組合組合長、東京雑誌販売業組合評議員など、小売業界の要職を歴任した。」

 先日紹介した林えり子さんの本には、“岸他丑は父の赴任先にある富山中学へ入学した。”“明治三十年、他丑が富山中学を卒業して陸軍士官学校に合格”とあり、その関連で「東京外国語学校(現・東京外語大)ロシア語学科卒」「参謀本部陸地測量部地図元売捌所」というところに、注目しておきたいと思います。

〔追記〕
 富山高等学校同窓会のHPによると、岸他丑は、富山中学の9回(明治30年)の卒業生だとのことである。
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by kaguragawa | 2009-10-14 23:08 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

『竹久夢二と妻他万喜――愛せしこの身なれど』   


 竹久夢二とたまき、といえば定番ともいえるのが林えり子さんの『愛せしこの身なれど』。読もうと思った時は絶版、図書館でと思ったのですが、しばらく夢二から遠ざかったていたのでそのままになっていました。一昨日、《岸兄妹の「つるや」と夢二》を書いたとき、この本がウェッジ文庫で再刊されているのを知り、――『竹久夢二と妻他万喜――愛せしこの身なれど』(2008.4)――netで注文したらば、もう今日、届きました。

 ていねいな取材にもとづいて細かなところまでデータが書き込まれていて、研究書の顔ももった竹久夢二とたまきの評伝です。たとえば他万喜の生まれた場所を、金沢市「味噌蔵町下中町三番地の一」(*)とおそらく戸籍に拠ったと思われる表記で紹介しているのがその一例です。

 実は、この「ウェッジ文庫」というものを、今年の夏、犀星の『庭をつくる人』を入手して初めて知った次第で、これが私にとって2冊目の「ウェッジ文庫」となりました。実は犀星の本もそうなのですが、安易に読み飛ばすのがもったいような本がそれにふさわしい装丁で復刊されていて、“ゆったりとしたこころの余裕をつくってから読みたい”と、この本も犀星もしばらくしまっておきたいと思っています。

 *「三番地の一」の場所が特定できるかどうかが次の課題ですが、この資料によって、かなり広い旧・味噌蔵町から範囲をしぼって他万喜の生まれた地の付近を訪れることができそうです。ただし、たまきが生まれた1982(明15)年当時、まだ金沢「市」が誕生していなかったことは措くとして、「下中町」は「下中丁」が正しい町名表記であることを注記しておきます。
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by kaguragawa | 2009-10-12 21:15 | 本/映画 | Trackback | Comments(2)