<   2009年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧   

おどきめどき   

 “えっ、そうなの!?”

 向田邦子さんの『男どき女どき』(新潮文庫)を、手にとって、これも読むのがもったいない本だなぁと思いつつ、
e0178600_016451.jpgなにげなく風間完さんの解説のページを開いたら、「男どき女どき」にルビが振ってあって、このタイトルが「おどきめどき」であることを知りました。書店で文庫本の背表紙を何度もみていて、何の疑いもなく「おとこどき、おんなどき」と読んでいたのです。

 “どうして今、この本を?”、ということについても、この本をゆったりした気持ちで読める「とき」をつくり、その後の報告として書きたいと思います。

 風間完さんのカバー画が「生きることのいとおしさ」へと想いを、静かに、いざなってくれる。


〔追記〕
余談ながら、メモ。生誕80年ということで、向田さんの本が、いろんな形で書店に並んでいますが、今調べたら風間完さんの方は、生誕90年である。ずっと知らずに愛読していた高橋治さんの文庫本の多くも風間さんの絵でした。
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-29 23:34 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

『晩年の父犀星』をようやく   

 7月末に買った本をようやく手にとりました。室生朝子『おでいと――晩年の父・犀星』(ポプラ社2009.7)。
 「晩年」といっても、これは死の病にのぞんだ犀星と娘の朝子さんの物語です。講談社学芸文庫に『晩年の父犀星』としてあったものですが絶版になっており、『弟の死』を加えて単行本として再刊されたもの。一気に読みとおしました。

e0178600_1133446.jpg

                       *絶版の講談社学芸文庫『晩年の父犀星』

 偶然、笠森勇さんの『詩の華――室生犀星と萩原朔太郎』(1990)のページを繰っていて、犀星の死に際した三好達治の感慨をつづった文章に出逢いました。孫引きですが、書き写しておきます。

 “室生さんの訃音は、私は夕刊で知った。たうとう、やっぱりね、と思ってゐると、ややしばらくして電報をいただいた。電文によると、室生さんは生前メモのやうなものを残して置かれて、打電の先はリストがあった、それに従ふといふ意味の附言があった。この附言には、私ははたと胸をうたれた。私は頭を洗ひ、やや夜ふけの時刻に衣服を改め、袴をつけた。(中略)電報の附言を読みながら、私はまったく忸怩たる気持ちに耐へなかった。私の固陋は自らもう承知であったが、病床にお尋ねもせず、その上遺書のやうなメモに名前を加えていただいたのは、もはや、もう、永遠に申しわけのないことであった。”

 犀星と達治の間には、朔太郎死後の朔太郎全集の編纂にあたって達治の発言に起因する小さなトラブルがあったようである。達治はそのことをずっとひきずっていたようなのである。
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-27 23:57 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

土井さんが亡くなれて   

 強いだけだった――そういう意味では私にとってはほとんど興味がなかった――V9時代の巨人に、気を引いた唯一といっていい野手がいた。セカンドの土井さんだった。その土井正三さんが亡くなられたという。
e0178600_23225914.jpg


 先日指揮者の若杉弘さんが亡くなられた時、書きたいこともいくつかあったのですが多忙と重なって機を逸してしまいました。しかし、土井さんの死の報を聞いた今、具体的に書くことはほとんど無いのですが、私が感じた寂しさははるかに土井さんの方が大きいのです。大げさに言うと自分の生を支えてくれているなにかが、ぽっかりと欠け落ちてしまったような気がするのです。

 土井さん、ゆっくりとおやすみください。有り難うございました。

*写真は産経ニュースのものを使わせていただきました。
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-25 23:00 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

「イギリス海岸」復活か   

 宮沢賢治の命日にあたる21日、賢治が「イギリス海岸」となづけた北上川の河岸の一部が上流ダムの放流調整によって再現されたことが、全国紙にも取りあげられました。
 朝日新聞 http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY200909210177.html
 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090913-OYT1T00814.htm

 私も賢治好きの一人として、白亜の「イギリス海岸」が再現されるとすればぜひ見てみたいものだと思います。
 が、イギリス海岸を一日限定で浮かびあがらせるためにおこなわれる放流調整は、どのようなものなのでしょうか。今年は、国土交通省と岩手県が5つのダム〔国直轄の四十四田、御所(盛岡市)、田瀬(花巻市)の3ダムと今年追加の県営の中津川上流・綱取ダム(盛岡市)、稗貫川上流・早池峰ダム(花巻市)の2ダム〕の放流量を最小限に絞り込んだということですが、完全な再現ではなく、海岸の「一部」の出現だったこと、来年は、さらに参加するダムの数をふやして完全再現にチャレンジすることも報じられています。
 河北新報 http://www.kahoku.co.jp/news/2009/09/20090922t35021.htm

 了見が狭いと言われそうですが、一方で八っ場ダムの中止のような多くの方の生活と心情に大きな負担をしいる決断を民主主義という仕組みの中で選択した私としては、宮沢賢治のためだけに国土交通省がおこなうこの試みについては見直しがされてもいいのではないかと愚考します。いかが・・・・。
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-23 08:55 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

メモ、ヴォーリズの清泉幼稚園のことなど   

 草がおいしげった庭に出てみて暗然たる気持ちになりましたが、用水近くに秋らしくイノコヅチ、ヨモギ、アレチノギク、アメリカセンダングサ、ノコンギクを見つけて安心?しました。二上山の山裾からとってきたミズヒキを庭の一角に移植。

 19日の「金沢行」の記録として書いておきたいことがいくつもあるのですが、筆が重たく(?)後日の課題とします。(こういう断り書きを書いて、実行したことはほとんどないのですが。)
 きのう21日は、宮沢賢治の亡くなった日で、「陸羽132号」と賢治の詩「稲作挿話」のことについて書き始めたのですが、これも後日。

 ツユクサの学名《Commelina communis》にその名を残す17・8世紀のオランダの植物学者コメリン(コンメリン)〔Commelin, J. & C.〕について、やいっちさんのブログに古い記憶を確かめながら、書かせていただきました。
 彼らが園長を勤めたアムステルダム植物園は、オランダ東インド会社が世界中からもたらす植物であふれていたようです。
 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2009/09/post-2.html

 Bookoffで、『浅見光彦theComplete――華麗なる100事件の軌跡』(2004)、『奥の細道――芭蕉紀行三百記念企画』(別冊・山と渓谷/1989)を安価で購入。

 6月7日に、“金沢にヴォーリズの設計した幼稚園があることを、金沢の情報誌『そらあるき』で知りました。川上幼稚園と清泉幼稚園です。清泉幼稚園は今年の9月に解体されるとのこと。いずれにせよ、詳細は実見の上、報告したいと思います。”――と、旧日記に書いたのですが、清泉幼稚園はすでに7月に解体が始まっていたことを偶然新聞記事で知りました。
 解体に先だって一般公開がされたようなのです。残念ながら、ヴォーリズの建築の細部まで見ることのできる貴重な機会を逸してしまいました。この「清泉幼稚園」は、もとメソジスト派のカナダ夫人宣教師の宿舎が当時の金沢市尻垂坂3丁目14番地につくられた際〔1926(大15)〕、それに併設された幼稚園――「十四番幼稚園」と呼ばれた――が、名称を「清泉幼稚園」に変えて現在地〔金沢市橋場町13-17〕に移転新設したもので、このとき〔1950(昭25)〕ヴォーリズが設計したのです。ヴォーリズは来沢し、園舎の完成記念式に出席したとのことです。

〔追記〕
コメリン家の系譜はここからたどることができます;
http://www.commelin.nl/genealogy/descend.php?personID=I3&tree=com
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-22 23:50 | メモ ひとこと | Trackback(1) | Comments(3)

秋の凉風の「ひがし茶屋街」   

 リュートの奏でるバッハの作品がかすかに聞こえてきて、たしかに知っている曲なのですがどの曲と特定できずに、でもあらためて聞きたいと思いその曲の覚えにノートにその特徴的なメロディを書き留めていると、すずしい風が店前の格子から吹き込んできました。リュートの音色とも、秋の凉風とも似合うその曲は、ゴールドベルク変奏曲の一節だったのですが、まさにこの9月の金沢の「ひがし茶屋街」の一角に吹き込んでくる風は、秋声の中編小説『挿話』にもそよいでいる風だったのです。

 『挿話』は、兄の病気見舞いに訪れた金沢での3週間ほどをその滞在先の茶屋街の知人姉妹の店での人間模様とともに描いた作品です。秋声は、東京に大震災の起こるまさに大正12年9月に姪の結婚をまとめるために金沢に来ていて、ちょうど1年後の9月にも一時危篤にもなった兄・順太郎を気遣って金沢に来て、滞在先として遠縁の女性清川イトの茶屋の離れで過ごすのです。
e0178600_21311178.jpg
 以前から秋声がこのとき滞在した店が茶屋街のどのお店なのか知りたいと思っていたのですが、立ち寄った「茶房一笑」で「挿話」を拾い読みするうちに今日こそはと思い立って、路地をぬけて間近の「徳田秋声記念館」でその店の場所を聞きいてきました。それはなんと茶屋街の広い通りに面した直前までくつろいでいた「一笑」の2軒隣の――現在は民家の――家だったのです。

 この茶屋街については、かつてこの地を斜断して流れていた卯辰山からの小流れ「矢の根川」の現在の流路も知りたかったのですが、その手掛かりをつかむことができました。なんとあの銘菓で知られる森八の出店「文政の菓子司〔東山1-13-9〕」前の細い小路の下を斜めに横切るその流れを舗装ブロックの色を変えて示してあるのです!。
(続く)  

〔追記〕
「矢の根川」について書いた過去の日記から;

■2007/10/02 (火) 卯辰山の“矢の根川”

 暗渠化されてしまった――かつては生活の中にとけ込み、生活の中に生きていたと思われる――川を見つけると気になって、その流路を追ってみたくなります。
 暗渠化にともなって流路が変えられていることもあり、古い地図を探しだして現在の地図と比定したり、現地を歩きまわって旧水路の名残をさがしたり、暗渠の入口や出口を確認したりと怪しげな散策をすることにもなります。
 今、金沢の卯辰山の谷筋に源をもち、東の廓(ひがし茶屋街)を横切るように流れ、浅野川に流れ込んでいた「矢の根川」のことが、その名の由来とともに気になっています。
 *「矢の根」とは、矢の先につける「やじり(矢尻/鏃)」のこと。
 http://www.aoi-art.com/yanone/etc02-j.html
 http://www9.plala.or.jp/vintage/knife.html

■2009/05/03 (日) ちょっと金沢

 連休とあってか、ひがしの茶屋街にはさらに多くの人が。宇多須神社の祭礼。東山菅原神社に参拝。街角の掲示板に江戸時代の茶屋街の絵図の写しがあり、気になっている「矢の根川」が、茶屋街を斜めに横切り表門のところには橋がかかっているのが描かれている。矢の根川に八幡川という別名。かつての卯辰八幡宮にちなむのだろう。
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-19 23:50 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(2)

高岡開町まつり   

 高岡開町400年を記念した「前田利長公入場大行進」を家内の要望で見に行ってきました。この利長公入場を見ようといつもは日曜日でもほとんど人通りのない高岡の駅前中心街に多くの人があふれれいました。利長役には勝野洋さん、正室の永姫(信長の娘)役には浅野ゆう子さん。家臣団の中に高岡城築城に携わった高山右近や神尾図書などの名を見たときは、とりわけ神尾図書の名を見たときはちょっと興奮してしまいました。
 
 「高岡開町400年事業のあらまし」には、次のように書かれてあります。
 “慶長14年(1609)9月13日、加賀2代藩主前田利長公は、春からこの地で築城していた高岡城に入場しました。これに併せて、各地から人が呼び寄せられ高岡の町が開かれました。「高岡」という地名は、このとき中国の古典「詩経」の一節「鳳凰鳴矣、于彼高岡」にちなんで名づけられたものです。
 利長公の死後、高岡城は「一国一城令で廃城となりますが、3代利常公は、利長公の菩提寺「瑞龍寺」(国宝)の造営を進めるかたわら、商工のまちとして高岡の再生を図りました。”

〔追記〕
 上に、「神尾図書」の名を挙げましたが、2年前の9月13日・14日に、「はひ」の謎ということで、この利長の高岡城入場について書いていてそこに神尾図書が登場していたのです。2年前は利長の入城がこんな大イベントになろうとは想像もしていませんでした。下に再録しておきます。

   ━━━━━━‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 “はひ”。――これは「は・ひ」と読むのでしょうか、「は・い」と読むのでしょうか。読み方もさることながら、これが、「羽肥」の平仮名書きだと言われても、なんのことだかわからないことでしょう。実は「はひ=羽肥」は「羽柴肥前守」の略なのです。

“羽柴筑前守”なら、羽柴秀吉のことでしょう。でも「肥前守」の方は、知らないよ、ということになりますね。

 しかしそもそも、つねに“羽柴筑前守”=「羽柴秀吉」ではないのです。秀吉が、自分の名前を与えた人間がいるのです。秀吉の朋友でもあり、死後、遺児秀頼を託そうとした前田利家がその人です。では、「羽柴肥前守」というのは誰かと言うと、利家の嗣子、利長のことです。「はひ」とは、前田利長が書状などに残している自分の名なのです。

 “わさと申入候申こし候へく候仍高おかへわたましの義申つかい候所ニ廿八日のころハばん所たかへやへいなとも出来いたし候ましき由此ぶんニ申こし候間らい月四五日ごろまてのべ可申候と存候間そこもと本丸ののふしんのてハ山城出羽なとへそうたん候てもつとも候 かしく 八月八日 はうき つしよ  はひ ” 

 最後の“はひ”が、「羽柴肥前守」(=前田利長)です。
 この「はうき(伯耆〔松平康定〕)」「つしよ(図書〔神尾図書之直〕)」宛ての書状〔慶長14/8/8〕では「高岡へわたましの儀」「(八月)ニ廿八日」の文字も見えます。

 慶長十四年、利家は居城の富山城の城下が大火で焼け、魚津城に避難し、急きょ射水郡関野(高岡市)に新たに城を造りだします。城跡は残っていませんが、今に巨大な水濠を残す高岡城――高山右近の縄張り(設計)――です。そこに八月の二十八日に入る予定だったのですが、築城が少し遅れます。
 実際、正式に入場したのが慶長十四年九月十三日〔1609.10.10〕。この「九月十三日」を記念して、毎年9月13日に、利長の墓前で、「前田利長公顕彰祭」が行われることになっているのです。

 そう、今日は、利長の高岡入城を記念した日だったのです。

〔追記〕
“羽柴筑前守”=「前田利家」については、「百万石新発見!」(2002.6.2)の項、参照。
http://www2.pf-x.net/~matazaemon/topics2002.htm

  ━━━━━━‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 昨日引用した利長書状の中に、「(高岡へ)わたましの儀」という文言がありました。

 手元の古語辞典によれば;【わたまし《移徙・渡座》】 貴人の転居の尊敬語――――と、説明があります。

 つまり前田利長が「高岡への転居」(高岡新城への入城)の日程を、城普請の進み具合(これが遅れ気味のようなのです)を考慮して、話題にしているわけなのです。ところで、この利長書状を見て以来――ここ数日自分のメモとして書き綴っている初期前田藩政のことはさておき、――気になって仕方がなかったのが、この不思議な語感の《わたまし》という言葉なのでした。

 「わたまし」という初めて出会った言葉を自分の舌にのせて口に出してみたとき、ふっと浮かんできた言葉がありました。意味の上ではまったく関係がなさそうなのに、兄弟のように似た《おあたまし》がその言葉です。

 我が「神楽川家」、もちろん由緒ある家系でもなく格式の高い家柄でもないのですが、北陸の家の常にたがわず、父親の代で家を新築した際、「仏壇」を新たにこしらえたのですが、あたらしい仏壇が出来上がってきたとき、檀那寺のお坊さんに来てもらって読経してもらい「おあたまし」という儀式?をしたのです。もう三十年も前のことですが、耳慣れない「おあたまし」という言葉が印象的だったのか、忘れていた言葉がまざまざとその日の光景をともなって蘇ってきたのです。

 結論を言えば、新仏壇のお披露目?である「おあたまし」というのは、「御遷仏法要」「御移徙(ごいし)」とも呼ばれるように、仏様が新しい仏壇に移られることであり、「(お)わたまし」――つまり、「貴人の転居」――のことだったのです。

 二つの言葉との出会いを、縷々書きしるしたには、もう一つ書いておきたいことがありました。
「わたまし」の検索で出会ったブログも紹介しておきたかったのです。

《ー能登のうみやまブシー》 魅力的な能登通信です。
 http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20060818

〔追記〕
「移徙」が「移徒」と誤って書かれているものも見かけました。
【徙】という漢字については、
http://www.eonet.ne.jp/~zhenwu/honbun/zoukan-5750.html
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-13 23:30 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

『日塔聰詩集』   

 REIさんへ

 山形の秋はいかがですか。きょう、富山は、冬にむかう秋の“しぐれ”を感じさせるほど冷たい雨の降る、肌寒い一日でした。北海道の旭岳では平年より12日早い初冠雪を観測したとか。

 『日塔聰詩集』、水曜日には手元に届いていたのですが、ゆったりとした時間のとれるきょうになってようやく、手に取りました。永く絶版になっていた日塔聰の作品が新しい詩集で読めるようになってうれしいかぎりです。再録された詩集『鶴の舞』の〔ソネット〕と〔哀歌〕を、まずは難渋して読みました。いつも静かな喫茶店なのですが、きょうはガヤガヤしていて集中できなかったこともあって、ソネットの方は手に負えず哀歌から読みだしました。周りが落ち着いてきたころから初対面だった日塔聰の韻文の世界にも慣れてきて、抒情的でありながら堅固で容易に近づくことができないように思われた詩世界が少し見通しのよさをもって私の方に近づいてきてくれました。それ以降は、聰の深い思いの幾ばくかを受けとめながら「鶴の舞」を読み返せたように思います。
 日塔聰の名を知ったのも、日塔聰の詩を読みたいと思うようになったのも、もとはREIさんのおかげでふれることのできた聰の妻・日塔貞子の詩作品や生涯を通してでした。そして貞子の詩も、聰のソネットもこうした初めての出逢いから、そして読み返しの出逢いごとに、私の中でなにか位置を占めそこからほんとうの詩を語り始めてくれるような気がしています。)e0178600_83218.jpg

 なにかまとまらないことしか書けないのですが、こうした詩世界との出逢いをつくってくださったREIさんに感謝しつつこの詩集とのきょうの出逢いも報告させていただきます。あらためて考えると日塔貞子と聰の系譜をたどるなかで堀辰雄、立原道造、津村信夫とも出逢うことができたのですから縁というのは不思議なものです。有り難うございました。

では、また。

  *『日塔聰詩集』(新・日本現代詩文庫66/土曜美術出版販売/2009.7)
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-12 20:48 | 本/映画 | Trackback | Comments(1)

柔軟かつ鋭く・・・・と、   

 7月からいろんなことが変わった。私的生活のなかでは、このささやかな知的活動の場「めぐり逢うことばたち」が質量ともに一番縮小削減されたようだ。大げさな言い方をすると、それは知的構想をふくらます場と時間が、激減したことによる。

 不足を補うべく、脳も感性も柔軟かつ鋭く・・・・と、愚考中ですが。
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-05 23:07 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

金沢のガントレット   

 タッピング夫妻とガントレット夫妻にどのような接点があったのか、これがどうも浮かび上がってこない。ガントレット恒の『七十七年の思ひ出』に何か書かれているかと思ったのだが、この点については言及はない。

 で、よそ道にそれることをことを承知のうえで、ガントレットの金沢時代のことが書かれている一節をコピーを取る代わりに書き写しておきたいと思います。

 “金沢には私達と親しい宣教師のマケンジーさんがいた。第四高等学校から頻りと懇望されたので、主人は岡山から金沢に転任することになった。明治四十年の春である。ここに永住するつもりで家まで建てたが、気候が寒く翌年の春主人は肺尖カタルになった。思いがけないことで、私の心痛のうちに医師のすすめに従って、七月にウラジオストックに転地した。来年再びこの地で冬を過すなら結核になる恐れがあると医師に注意されたので、私は主人の留守の間に他へ転地の運びをつけたいと思った。幸いにも山口の高等学校が高等商業に変るときで、山口に転任できそうであったから、ウラジオストックに電報を打って意向を尋ねると転任を賛成して来た。それで早速主人が帰らないうちに山口の方の話しをきめてしまった。金沢の一年は気候が厳しく主人の病気で楽しい思い出とてはないが、食べ物の豊富なこと、マケンジー夫妻の厚い友情こそは懐かしい思いでである。”
[PR]

by kaguragawa | 2009-09-03 22:51 | ひと | Trackback | Comments(0)