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思いつくままメモいくつか(8月30日)   

 きのう書きもらした思いつきのメモをいくつか。

(その1)
 8月30日は、「たけくらべ」の(九)(十)が『文学界』に発表されました〔1895年〕。1月30日の(一・二・三)発表以来、発表日にその発表分を読むという試みをやってきました。(七・八)と(九・十)の発表の間に5か月も間があいていて、ストーリーを追うことはかなり難しいという気がします。一葉本人はこの連載をどのように書き継いでいたのでしょうか。
 それはともかく、8月末に発表された(九)と(十)はそれぞれに、一葉のすごさを象徴する名文です。

〔参考〕
 明治28年1月30日、『文学界』に「たけくらべ」の(一)から(三)が発表される。以来、樋口一葉の「たけくらべ」は1年かけてこの『文学界』に分載されることになる。以下は分載データ。

 1895(明28)年
  1月30日 (一)(二)(三)
  2月28日 (四)(五)(六)
  3月30日 (七)(八)
  8月30日 (九)(十)
  11月30日 (十一)(十二)
  12月30日 (十三)(十四)
 1896(明29)年
  1月30日 (十五)(十六)
 
   ※4月10日、「たけくらべ」は『文芸倶楽部』にあらためて一括掲載



(その2)
 8月30日は、先日ご紹介した賢治の文語詩「岩手公園」に“老いたるタピング”として登場するヘンリー・トッピングさんが亡くなられた日です。詩「岩手公園」が愛されている割には、そこに登場するタッピング一家と学生賢治との間にどのような交流があったのかほとんど注目されてないようです。賢治のキリスト教受容というテーマからも掘り下げられていいと思うのですが、私は「賢治と音楽」というテーマで、少しずつタッピング一家と賢治を追いたいと思っています。


(その3)
 通勤の道筋に咲く清楚な花。ハクチョウソウ(白蝶草)という名であることを、ほかの花の名を調べようと図鑑を繰っていて知りました。
 気のせいでしょうか、秋明菊が例年より早く花をつけているようです。
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by kaguragawa | 2009-08-31 23:22 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

宮澤賢治の生まれた日(2)   

 ちくまの文庫本全集以外、「宮沢賢治全集」の類(たぐい)を持っていないものですから、賢治のことを書きつつ不自由と負い目?を感じているのですが、ようやく時間がとれたので図書館で『校本 宮澤賢治全集 第14巻 補遺 補説年譜資料』を見てきました。
 いろいろ報告すべきことがあるのですが――『校本 宮澤賢治全集』ではなく『新校本 宮澤賢治全集』を、閲覧すべきだったと今になって思うのですが、開架になっていた『校本 宮澤賢治全集』を閲覧してきました。、――出生地の表記に関しては、またしても「えっ!?」と思う記述がありました。 

 報告は、あらためて 『新校本 宮澤賢治全集』の年譜を調べてからにしたいのですが、「年譜」の1896(明治29)/8月27日(木)の項には、以下のように書かれています。転記しておきます。

“岩手県稗貫郡里川口村川口町三〇三番地(戸籍謄本による。のち花巻町大字里川口第十二地割字川口町二九五番地、昭和四年、花巻町豊沢町一三五番地、昭和二九年より花巻市豊沢町四丁目一一番地となる)に、父政次郎、母イチの長男として母の実家宮澤善治方(岩手県稗貫郡里川口村川口町四九二番地、のちに花巻市鍛冶町一一五番地)で生まれる。
初産は実家で行うのが、花巻の慣習で、午前四時ころ陣痛、七時出産したとつたえられる。(戸籍簿には八月一日出生となっており、賢治自筆の履歴書にもそのように認められているが、出生当時父は商用で関西方面へ旅行中、またまた出生後起こった陸羽大地震など、前後の事情からして二七日が正しいとされている。)”
 

 さらに、“里川口村(後花巻町、現花巻市)の概略を述べる。”として、注がついています。これを全部写すと長くなるので控えますが、それによれば、1888年の「市制町村制」の施行(1889.4)に伴う町村合併では、岩手県県下に、1市・21町・219村が誕生し、その中に「花巻町」と「里川口町」があったというのです。さらに「里川口町は翌年には花巻川口町となったが花巻町とは分離していた。」という記述があり、1923年に花巻川口町は根子町を合併し、1921年に花巻町と花巻川口町は合併し、花巻町となった、と続くのです。


 賢治の生まれた当時、現在の花巻市豊沢町は、《里川口町》であったこと、賢治の戸籍謄本には《里川口村》――「町」ではなく「村」――と書かれていることが、前校本全集の年譜に記されているのです。

 そして、もう1点、前校本全集の年譜から大事な情報を摘記しておかねばなりません。賢治の生まれた次の年、1897(明治30)の項には、こうあるのです。

  “〔1897(明治30)年〕 一〇月三〇日 稗貫郡里川口町を花巻川口町と改称”

〔追記〕
 市制町村制の実施から8年余、この合併でできた新町が《里川口町》であったということ(1897年に《花巻川口町》に町名変更されたということ)は、「角川日本地名大辞典3岩手県」も含め、いまのところ手近のいくつかの資料からは確認できていません。どの資料も当初から、《花巻川口町》なのです。いよいよ、『花巻市史』を繰らなければならないようです。少し、時間がかかりそうです。

(続く)
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by kaguragawa | 2009-08-30 12:32 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

320年前の今日、芭蕉は近くにいた   

 以下も、6年前にかいたもののを少し変えて再録です。320年前の8月28日、芭蕉一行が私のいる射水市を通過しているのです。

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(おくのほそ道)
くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云、浦に出。担籠の藤波は、春ならず共、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れバ、是より五里礒づたひして、むかふの山陰に入、蜑の苫ぶき、かすかなれバ、芦の一夜の宿かすものあるまじと、云イをどされて、

  わせの香や分入右は有ソ海


(曾良随行日記)
○十四日 快晴。暑甚シ。冨山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマヘ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)氷見ヘ欲行、不往。高岡ヘ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。少□同然。 

 曾良随行日記にある「十四日」は、元禄二年七月十四日のことで、グレゴリウス暦に直すと1689年8月28日にあたります。320年前の今日である。

 黒部川を渡ったばかりの芭蕉一行、きょうは、常願寺川、神通川、庄川を渡る。川風、浜風があったかもしれないが、――前日も曾良「暑気甚シ。」と書いた――きょうも「暑甚シ。」「暑極テ甚。」と、「暑」を連発している。江戸を発って以来、105日(旅立ちの日3/27〔G:5/16〕を含む)、こんなことは始めてである。

 「冨山カヽラズシテ」と曾良がはっきり書いていますが、曾良の日記が世に出るまで、芭蕉は城下町富山に一泊したものと誰しもが思い、疑問の声さえ出ていなかったようです。
 実際は、滑川を出立した芭蕉一行は、常願寺川を渡った後、有磯海を見たかったのでしょうか、左折して城下町に入る道をとらず、浜街道をまっすぐ西進し、神通川を渡り、港町・放生津(日記中の「ハウ生子」、現在の射水市新湊)を抜け、庄川を渡ったあと左折して高岡に入り一泊することになります。
 道すがら、『万葉集』に詠まれている「奈呉」「二上山」「岩瀬野」を注意深く、目に収めています。『万葉集』へのこだわりが、感じられるところです。
それがわかれば、田子の「白藤」への執念と断念、さもありなんというところです。

 ところで、芭蕉一行が昨晩宿泊した滑川には、「芭蕉が行脚中、この町に一泊した」という言い伝えがありました。が、しかし、芭蕉は富山に泊ったという思い込みから、この伝承をまともに掘り起こしてみようという文学者も、歴史家もいなかったといいます。なお、高岡での宿泊地も、特定はされていません。木舟町だとの口碑もあるようですが、資料としては残ってないようです。

 そうそう、最後の「少□同然。」一文字判読不能ということです。これも曾良日記中珍しいことです。(原本の写しを見たことがありますが、私しなんぞには黒いゴミのようでした。)

*「翁、気色不勝(すぐれず)。」(お~怖!!)。
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by kaguragawa | 2009-08-28 23:20 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(1)

粋なGOOGLEからのプレゼント!   

 REIさんに教えていただいたのですが、検索サイトのGoogleのロゴマークを横切って、銀河鉄道が走っていますね。
 ほんとに素敵ですね。

 さらに、カーソルをロゴマークのところに持っていくと、「宮沢賢治の誕生日」と表記され、クリックすると「宮沢賢治」が検索される仕掛けになっています。
 GOOGLEも粋なことをするもんです。8月27日限定なのでしょうね。
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by kaguragawa | 2009-08-27 23:43 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

宮澤賢治の生まれた日   

 今年の4月に「賢治はどこに生まれたのか」という疑問のレポートを書き始めたのですが、いくつかのことを自分の目で確認したいという思いが強くて、続きが書けないままになっています。
 あすが、賢治の誕生日ということなので、この新ブログでは読めない前稿を再録して、賢治の生に思いを馳せたいと思います。

  ━━━━━━‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━


 あれっ?と思い、気になって調べてみたら、不思議な事態になっていました。
 宮澤賢治の生誕地は、どこなのでしょう。

 まず気になったのは最近刊行されたPHP文庫『銀河鉄道の夜・風の又三郎・セロ弾きのゴーシュ』の「宮沢賢治・略年譜」。
 PHP文庫に「賢治童話集」が加わるという“えっ”と驚くようなことがらについては、その内容とあわせてあらためて書きたいと思うのですが、この童話集に付された澤口たまみさんの特徴的な「略年譜」を読み直していて「あれっ」と思ったのです。

 澤口さんの年譜は、賢治の出生を「八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻町大字里川口字川口町(現花巻市豊沢町)に、質・古着商を営む宮沢家の長男として生まれる。」と、簡素かつ克明に書きだしてくださっていて、その生誕地にあらためて目がとまりました。「《稗貫郡花巻町》?、えっ、賢治は花巻町の生まれなの?・・・」

 私のこの疑義には、説明が必要でしょうね。賢治と言えば、当然「花巻」なのですから。これは、町村合併にからむ町村名の変更に関わっています。つい数年前にも市町村の大合併がありましたが、明治時代の中頃、1889年(明22)にも「市制・町村制」が施行され全国で町村の大合併が断行されました。岩手県の現花巻市周辺だけに限って取り上げると、このとき、花巻村、北万丁目村、高木村の一部が合併して「稗貫郡花巻町」、里川口村、南万丁目村が合併して「稗貫郡花巻川口町」ができたのです(*1)。

 つまり賢治が生まれた1896年(明29)時点では、《花巻川口町》と《花巻町》があったのです。問題は、ここからです。賢治の生まれた〔里川口川口町〕地区は、上の合併の経緯でもわかるように、――里川口村が、南万丁目村と合併でできた――花巻川口町》であって《花巻町》ではないのです。
 なお、この《花巻川口町》と《花巻町》は、1929年(昭4)に「(新)花巻町」に統合されます。賢治が1929年以後に生まれたのであれば、「稗貫郡花巻町大字里川口字川口町」生まれでいいのですが、1896年生まれた賢治は疑いもなく、《稗貫郡花巻川口町大字里川口川口町》生まれでなければならないのです!。

 ・・・と、確信をもって言い切りたいところだったのですが、念のためにと思って取り出した――厳密な考証を経ていると考えられる――『新・宮澤賢治語彙辞典』(1999.7)には、驚くべき記述があり、困惑してしまいました。
 
 なんと、『新・宮澤賢治語彙辞典』の年譜には、賢治の生誕地を、《稗貫郡里川口村川口町三〇三番地》と記載しているのです。上に書いたように、賢治が生まれたのは町村制施行後であり、《里川口村》は、《花巻川口町》の大字となって、すでに行政村名としては消滅しているはずなのです。

 この謎は、どう解いたらいいのでしょうか。手元にあるこれも信頼度の高い年譜を期待をもって開いてみて、混迷はいっそう深まることになるのです。(続く)


(注*1)
 岩手県の明治期の町村合併のことは、先日、「小繋事件」のことを書いた時少し整理してみたので、ある程度予備知識があったのです。
 現・岩手県二戸郡一戸町小繋は、訴訟提起時(1917)、《二戸郡小鳥谷村小繋》。
 入会集団としての集落「小繋村」は、1888年(明22)の町村制施行で小鳥谷村、小繋村、平糠村、宇別村、中山村の5村が合併し「小鳥谷村(こずやむら)」」となった際、「小鳥谷村」の大字となった。なお、「小鳥谷村」は、1957年(昭32)、一戸町、姉帯村、鳥海村、浪打村と合併し、一戸町となります。

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by kaguragawa | 2009-08-26 23:19 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(3)

生名島の「ゆっくん」――ビッケル船長の島々から!   

 先週末から瀬戸内海の島々を一望できるの地図を探しまわっていました。『島々の伝道者――ビッケル船長の生涯』(キリスト教新生会/1967.5))を読むとき、その傍らに置いておくためです。
 とりあえず、るるぶの『タビリエ 倉敷・尾道・瀬戸内海』の巻末地図が気に入って土曜日から眺めています。今日も、文中に出てくる〔瀬戸田〕がどこの島にあるのか――地元の方にはナンセンスな問いでしょうが――を確かめようとして、因島、佐木島、生口島辺りの島々を目で追っていたのですが、なんの機縁か、夜のニュースで「瀬戸内海の小島」が熱く語られているではありませんか!。

 《生名島》。この生名島(いきなじま)出身の村上幸史選手(愛称:ゆっくん!)が、ベルリンでの陸上世界選手権男子やり投げで、“メダル獲得”というニュースなのです。「ほらほら、瀬戸内海の地図をもっとるがいぜ~!」と、家族に自慢げに、カバン?から地図を取り出し、食卓脇に広げて島々の浮かぶ地図から「愛媛県」という情報から「生名島」を探したところ、なんのことはない数時間前に見ていた因島と生口島(両島は現在広島県尾道市ですが)に南接して、生名島があるではありませんか。
 ここにもビッケル船長の福音丸は伝道に訪れたのでしょうね。

 タッピング一家を訪ねる私の小さな紙上旅は、思いもかけないところで、うれしいニュースのうれしさを倍加させてくれたことでした。
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by kaguragawa | 2009-08-24 23:33 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

二人のミセス・タッピング(4)   

 賢治の年譜を見ていたならば、今日8月22日は、「文語詩稿百篇」の清書が終った日のようです。1933(昭8)年8月のことですから、賢治の死――9月21日――の1か月前のことです。なぜ賢治がこの時期に文語詩というスタイルの作品群をつくり推敲を重ねていたのか、私にはまったくわかっていませんし、研究者の間にもいろんな推論がをあるようですが、定説はないようです。それはともかく、101篇の詩稿をはさんだ和装表紙には次のように書かれているとのことです。

 文語詩稿 一百篇、昭和八年八月二十二日、
    本稿想は定まりて表現未だ定まらず、
    唯推敲の現状を以てその時々の定稿となす。

 この「文語詩稿百篇」の2番目の作品が、タッピング一家が登場する「岩手公園」です。

     岩手公園

 「かなた」と老いしタピングは、 杖をはるかにゆびさせど、
 東はるかに散乱の、 さびしき銀は声もなし。

 なみなす丘はぼうぼうと、 青きりんごの色に暮れ、
 大学生のタピングは、 口笛軽く吹きにけり。

 老いたるミセスタッピング、 「去年(こぞ)なが姉はこゝにして、
 中学生の一組に、 花のことばを教へしか。」

 弧光燈(アークライト)にめくるめき、 羽虫の群のあつまりつ、
 川と銀行木のみどり、 まちはしづかにたそがるゝ。


 (続く)
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by kaguragawa | 2009-08-22 19:36 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

二人のミセス・タッピング(3)   

 私は、賢治がパイプオルガンの威容とその響きに接したのは、本郷=国柱会時代の本郷中央会堂においてではなかったのかと仮定し〔第一仮定〕、さらに賢治に本郷中央会堂のパイプオルガンを紹介したのは、盛岡時代のタッピング夫妻ではなかったかと想像しています〔第二仮定〕。

 ところで、賢治の盛岡での学生時代――「賢治は人格形成期を盛岡ですごしました。」と入沢康夫氏がおっしゃっている、この時代――は、タッピング夫妻の在盛期間に一致しています。上記の仮定を検証しようとすれば、盛岡での賢治とタッピング夫妻の交流について詳細に振り返ってみる必要があるでしょう。が、ここでは、〔タッピング夫妻は賢治が西洋文化に接する窓口とも教師ともなったのではないでしょうか、言い換えれば、タッピング夫妻その人たちと、夫妻の周辺の教会文化は、賢治にとって生きた西洋文化そのものだったのではないのでしょうか〕とだけ前置きして、オルガンのことに話題を戻しましょう。
 
 タッピング夫妻は賢治に本郷中央会堂のパイプオルガンのことを語る機会はあったのでしょうか。
 教会や夫人の幼稚園にあったであろうリードオルガンやピアノから本格的な鍵盤楽器パイプオルガンにまで話が及ぶことは十分にあったと考えていいでしょう。であれば当時、日本でも有数のパイプオルガンであった本郷中央会堂のオルガンのことも話題になった可能性は十分にあります。本郷中央会堂はキリスト教の一つの教会であると同時に日本人に開かれた西洋文化の拠点としても東京では知られていたことも思い合わせてもよいと思います。

 このような想像をふくらませていた時、あるエピソードに出会いました。

 本郷中央会堂にパイプオルガンを設置するに大いに力を尽くしたガントレットは、山田恒(子)という日本女性と結婚しているのですが、この結婚式の際に、ミセス・タッピングが新婦・山田恒の髪を整えた、というのです。タッピング夫妻が盛岡に来る10年ほど前のことです。

 本郷中央会堂のオルガンとタッピング夫妻をつないでくれる貴重なエピソードです。

 (続く)
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by kaguragawa | 2009-08-16 21:31 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

ちょっと書きたくて   

 またマーチ集のCDを買ってしまった。『旧友、星条旗よ永遠なれ~世界のマーチ集』。
 フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルの演奏だからなんの心配もいらずに楽しめる。で、カーステレオでさっそく楽しんだのですが、数曲でもう自宅に着いてしまいました。フランスの「ロレーヌ行進曲」など、ちょっと速すぎない?、とも思うのですが、團さんの「祝典行進曲」はこの曲のもっている香気をほど良いテンポでよく伝えています。実は、そんな個々の感想を書くために、書き始めたのではないのです。

 『双頭の鷲の旗の下に』」(J.F.ワーグナー)の解説の一節をメモしておきたかったのです。

 “第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはドイツ・マーチを盛んに演奏し、国民の士気を高めましたが、J.F.ワーグナーはユダヤ系であったため、この曲の演奏は禁止されました。”

 この事実は知らなかったなぁ。いろんな点で、確認したいと思います。

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〔追記.1〕
 このワーグナーは楽劇のリヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813~1883)ではなく、オーストリアの軍楽隊長で作曲もしたヨーゼフ・フランツ・ワーグナー(Josef Franz Wagner, 1856~1908)です。ちなみに、「双頭の鷲の旗の下に/Unter dem Doppeladler」(1902)の「双頭の鷲」とは、当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国〔1867--1918〕のハプスブルグ家の紋章。
←〔J.F.ワーグナー〕

〔追記.2〕
 第二次世界大戦中の日本国内でのスーザ(アメリカのマーチ王)のマーチの行進曲の扱いについては、いずれ・・・・。
 なお、「双頭の鷲の旗の下に」を有名にしたのは、これを自らのバンドの演奏曲に加え録音もしたスーザの力によるものだったようです。マーチの裏にけっこう物語があるようです。

〔追記.3〕
 この「双頭の鷲の旗の下に」の中間部の旋律に歌詞がつけられて、中学校の音楽の教科書に載っていました。この歌詞を探しているのですが、まだ見つけていません。ご存じの方があれば教えてください。

〔追記.4〕
http://marchdb.net/composers/show/40/
http://www.grainger.de/music/composers/wagnerjf.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Josef_Wagner_(composer
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by kaguragawa | 2009-08-09 15:41 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

普羅忌   

 夏山や釣橋かけて飛騨に入る  前田普羅

 普羅とは無縁の話ですが、私の飛騨行き――神岡鉱山跡詣で――は、夏の恒例行事だったのですが、行かぬ年が続いています。

〔追記〕
 9日、「神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会」による神岡鉱業(岐阜県飛騨市)に対する恒例の立ち入り調査が行われました。この調査は1972(昭47)年8月のイタイイタイ病訴訟〔第一次訴訟・控訴審〕で、住民側が勝訴し三井金属鉱業と結んだ「公害防止協定」を基づいて毎年この時期に行われている。
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by kaguragawa | 2009-08-08 20:15 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)