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霜川、生まれる   

 7月30日。我が三島霜川、誕生の日(異説あり)。新実南吉や立原道造の誕生の日でもある。
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by kaguragawa | 2009-07-30 11:26 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

Tさん、ありがとうございました。   

 いとこ――といっても一回り以上年上の――が、亡くなりました。あるときまではまったく付き合いのなかったいとこでしたが、9年前、私の母が亡くなった通夜の席で、これはなりゆきでそうなってしまったのですが、夜を明かして私の二人の息子を相手に話をしてくれていました。本来夜を明かすべき私は疲れで寝入ってしまったのですが、独立して小さな会社をつくった経験を人生の先輩として語ってくれたようです。
 そして一昨年、父が亡くなった折には、葬儀という場所がら円満にまとめざるをえなかった私の弔辞に対して、率直に、父の持っていた世に対する鬱屈ともいうべきもの――父は小さいときのけがで軽い障害をかかえて生きていました――を語ってくれたのも、このいとこでした。

 死に顔を見せてもらいましたが、おだやかな、みずからの生を選び取って生きた人らしい気品のある面立ちでした。冥福をお祈りしたいと思います。
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by kaguragawa | 2009-07-24 23:23 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(2)

『剱岳 点の記』――から   

 つれあいの誕生日を忘れていたための償いに、揃って映画を見に行ってきました。『剱岳 点の記』。

 10年ほど前に新田次郎の同名の小説を読んだとき、この小説が映画化されるとは夢にも思っていなかったので、感慨ひとしおでした。陸軍参謀本部陸地測量部の測量官・柴崎芳太郎と日本山岳会の小島烏水にも別々に興味をもっていたので、久しぶりの映画鑑賞となりました。

 映画のことはまだ胸のうちにそのままにしておきたいので、余談をいくつか。
 測量隊の剱岳登頂は、今から102年前の1907年7月13日。2年前が、剱岳測量100年の年にあたっており関係する本や資料を集めた記憶があるのですが、どこにあるのか不明です。しかも、残念ながら柴崎芳太郎の生涯と事績をまとめた本はないようなので、「剱岳登頂は柴崎芳太郎に何を与えたか」というページを紹介しておきます。
 

 映画のことで――芳太郎の東京の自宅に関連して――一つ二つ書いておきたいのですが、まず芳太郎が妻・“葉津よ”に手紙を書くシーン。私の期待に添うように!?、書簡の宛先が大写しになったのですが、私の見間違いでなければ宛先の住所が「神田局岩本町二ノ七」になっていたこと。当時の神田区には江戸以来の岩本町はあるのですが、明治40年時点で「岩本町二ノ七」という番地は無いのではないか・・・。

 さらに些事ながら確認したいのが、陸地測量部の帰り、芳太郎が「神田橋」停留場に電車から降り立つのを妻・葉津よが迎えるシーン。上司から剱岳測量の厳命を受けた芳太郎が重い気持ちで自宅に帰る箇所は、たしか剱岳登頂の前年〔1905(明39)〕夏?の設定ただったと思うのですが、具体的にはいつのことなのでしょう。
 奇しくも、この年の9月15日、電鉄(東京電車鉄道)、街鉄(東京市街鉄道線)、外濠線(東京電気鉄道)の3社が合併して「東京鉄道(東鉄)」が成立するのです。とすれば、この電車と「神田橋」停留場が、もともとの街鉄線(東京市街鉄道線)のものなのか「東鉄」のものなのか。という微妙な?ことも気になるのです。

 なお、神田の芳太郎の自宅として撮影に使われたのは、犬山市の明治村にある漱石の家(もと本郷区千駄木のあの「猫の家」!)だということです。
 (参照) http://www.jsurvey.jp/tsurugidake/topics200805.pdf
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by kaguragawa | 2009-07-20 23:00 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

順太郎さんの家(瓢箪町)を訪ね、「菊見」を読む   

 旧・正田順太郎邸をやっと訪れることができました。正田順太郎って誰?、と問い返されそうです。正田順太郎は、徳田秋声の「金沢もの」と呼ばれる帰郷時のエピソードに取材した短編小説によく登場する秋声の兄(異母兄)です。徳田家の長男である直松が大阪へ出てしまって金沢には徳田家を継ぐ家がないため、法事などで帰郷するとき秋声は、正田家に養子に入った次兄・順太郎の金沢の家に滞在することになるのです。
 コレラで亡くなったためすぐに葬儀を出せなかった母の死後、幾日も滞在したのはこの兄の家であったし〔『菊見』〕、姉きんの葬儀が終った夜、ひと晩を過ごすのも兄のこの家であり、秋声はここから尾張町の裏通りにあったダンスホールに向かうのである〔『町の踊り場』〕。(それぞれ、1916(大5)年10月、1932(昭7)年8月)

 順太郎邸は、当時の町名番地でいうと金沢市岩根町九十七番地。現在は、瓢箪町7番6号。明成小学校裏の細い小路を入ったところに、当時のたたずまいを残していると思われる正田家はありました。(場所を明示するのに、瓢箪町保育園の真ん前といっても良いのですが、保育園の語がこのひっそりとした界隈に誤解を与えそうです。)
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 母の葬儀の前日、ここから徳田兄弟(直松、順太郎、末雄〔秋声〕)は、人力車を連ねて郊外・野田山の旧主家横山家の墓や寺町の横山家別邸の菊を見に行ったのですし、姉の葬儀の晩、秋声は踊り場を探しに家を出たのです。後に、患った順太郎を見舞ったのももちろんこの家でした。
 

 秋声記念館を訪ねた後、リファーレの書店で奥成 達『宮澤賢治、ジャズに出会う』(白水社/2009.6)を見つけ購入。金沢駅で列車を待つ合間に読み始めたが、おもしろい!。

〔追記〕
尾小屋鉱山所長としての正田順太郎については;
 *旧日記の「正田順太郎と尾小屋鉱山(1)」というページを参照ください。
 
〔追記:2〕
 実は、母タケが亡くなった93年前の1916(大5)年は、秋声にとっては最愛の娘・瑞子〔長女〕が享年12歳(満10歳)で亡くなった年でもありました。昨日7月17日が、瑞子さんの命日でした。

〔追記:3 7/20〕
 上の写真の右側が正田宅です。
 “三等寝台で疲れた融が、雨のなかを俥でそう遠くもない兄の家まで来たのは、お昼過ぎのことだった。白壁の蔵の棟が左手に見えて、二三本の松に石を配ったのが、門の荒い格子戸から望まれると、彼は「又兄の家へ来た!」とそぞろ懐かしく思うのだったが、何か憂鬱でもあった。”
 秋声は昭和9年の兄の見舞いを材にした短編『旅日記』で「兄の家」をこう書いています。秋声は、この小路を反対側から入ってきたようだ。白壁ではないが蔵の建物はそのまま残っている。
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by kaguragawa | 2009-07-18 20:01 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

森浩一『日本の深層文化』   

 森浩一『日本の深層文化』(ちくま新書/2009.7)

 森先生の新刊。本のタイトルはありがちなものだが、各章は「粟と禾」「野の役割を見直す」「鹿と人」「猪と猪飼部」「鯨と日本人」とユニーク、さらに目次に並ぶ細目は刺激的。

 と言いつつも、未消化なままに森古代史文化論の本がたまっているのですが。
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by kaguragawa | 2009-07-13 23:55 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

奥中康人『国家と近代――伊澤修二がめざした日本近代』   

 奥中康人『国家と近代――伊澤修二がめざした日本近代』(2008.3/春秋社)

 目からうろこの新鮮さと同時になるほどそうだったのかという合点が、読み進める私に小気味よく伝わってきます。読みだしたばかりですが、ここ数年ようやく学ぶに値する明治音楽史の本が幾冊か出てきたという感じがあります。

 森有礼とこの伊沢修二。この私にとって謎の二人を少しずつ了解していくことが、明治を知ることにつながるような気がしています。
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by kaguragawa | 2009-07-12 23:50 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

福野高校〔巖浄閣〕再訪   

 きょう、再び福野高校の「巖浄閣」(旧富山県立農学校本館)を訪ねました。前回は、吉田鉄郎の業績紹介と福野との関わりの展示を中心に見たため見そこなった画家・五島健三――吉田鉄郎の兄です――の紹介記事を読みたいという理由もありましたが、実は、この巖浄閣再訪にはもっと大事な用件がいくつかあったのです。とりわけ、前回訪ねた折、常設展の資料とは別に福野高校に保管されている稲塚権次郎関係資料を、“もし興味があれば見られませんか?”という有り難い申し出をいただいたがためである。おそるおそるというか図々しくもというか、このご厚意を受け、権次郎の母校の「富山県立農学校」(現・福野高校)の門をくぐったのでした。

 この学校のOBであるNさんにご同行いただいて学校内の資料室に足を踏み入れたのですが、大きな年表や説明資料・写真のほかに、なんとそこにはまだ充分に整理されていないままの権次郎の蔵書や写真、手紙などが保管されてあったのです。この宝の山のような資料を目にしただけでも私には感慨深いものがあったのですが、そのことについてはまた書く機会があるかも知れません。ここでは、同じ時代を岩手県で過ごした宮沢賢治にも思いをはせることになった資料についてだけメモしておきます。

 岩手県立農事試験場――。権次郎が勤務し、賢治も足を運んだことのあるこの農事試験場(賢治の高等農林の後輩・工藤藤一もいた)の当時の建物写真を目にすることができただけでも私にはうれしかったのですが、権次郎さんの遺された資料中には岩手県立農事試験場紹介の折りたたみ式の概要書や「岩手県立農事試験場五十年略史」などがあったのです。あらためて現在の地図と照合してみるつもりですが、この試験場の「本場」と「胆江分場」の紹介から本場の場所紹介の文章を摘記して、この訪問記の締めくくりにしておきます。(片仮名をひら仮名に直しました。)

 “岩手郡本宮村大字向中野に在り 仙北町駅(盛岡市)下車東へ仙北町通(国道筋)に出て南に二町程進み更に標本より西へ鉄道踏切を超えて約四町にて達す”

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by kaguragawa | 2009-07-11 19:40 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(1)