カテゴリ:本/映画( 19 )   

『宮澤賢治――雨ニモマケズという祈り』   

 『宮澤賢治――雨ニモマケズという祈り』(重松清・澤口たまみ・小松健一/新潮社/2011.7)

 最近、賢治の「雨ニモマケズ・・・」という詩文に接して、賢治の“希求”を思ったものですが、この本であらためて賢治を語ろうとした人々は、この詩に、賢治の生に、“祈り”を読みとっています。

 もしかして既刊本のごてごての賢治像になれた人々には少しものたりなくうつるかも知れない、とおせっかいな危惧もいだきますが、私には少し特異な小松健一さんのフォトともあいまって今までの賢治像から自由なナチュラリストを見つけてうれしく思いました。

 著者の澤口たまみさんにお送りしたメッセージを再録しておきます。
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 “ごぶさたしています。今日、店頭で見つけさっそく買ってさっそくページを繰りました。感想はあらためて・・・と思いますが、著者の賢治像を押しつけがちな――それが著者の意図ではないにせよ――賢治本が多い――なかで、かざらない賢治に逢えるような気がする本でした。「自然から紡いだ言葉たち」は澤口さんならでは切り口が新鮮で、小松さんの全巻にわたるこれも自由なイメージのフォトと一体になっておだやかにほほえむ賢治を想いました。巻をおいて、「雨ニモマケズという祈り」、このサブテーマが三陸鉄道島越駅にぽつんと残された詩碑や甲斐の山々とも静かに響いてきました。”

 賢治の絶筆となった短歌二首を大きな版で紹介していただいたことは感謝にたえません。
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by kaguragawa | 2011-07-23 15:41 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

「さくら、さくら――サムライ化学者 高峰譲吉の生涯」   

 映画「さくら、さくら――サムライ化学者 高峰譲吉の生涯」の券をもらい高岡地区特別上映会〔高岡市民会館〕に行ってきました。拙日記・ブログの古い読者はご存じかも知れませんが、高峰譲吉のこともそうですがむしろその父・高峰精一のことを知りたくて、たまに書き込みをしてきた私としては、見逃せない映画です。顕彰映画としてはいいつくりの映画でした。映画のストーリー、キャストなどは、HPを見ていただくとして、忘れないうちに気になった点を一つだけメモしておきます。

 それは会場で買い求めた「公式ガイドブック」の記述です。ロケ地マップに「高峰公園(高岡市御馬出町)」が載っているのですが、その説明が“高峰博士が生まれた、母ゆきの実家津田家の跡地にある公園。”となっているのですがそうなのでしょうか。とすれば、私はずっと思い違いをしていたことになるのですが、「高峰公園」の地は金沢に移る前の医家高峰家のあったところではないでしょうか。確かに譲吉が生まれたのは、いろんな資料によれば“母の実家”(造り酒屋鶴来屋)なのでしょうが、それは当時の高岡の町に隣接した横田村ではないでしょうか。とすれば、現在の公園の地ではなく、御馬出町の北西に位置した街道筋だと思うのです。はたして・・・。
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by kaguragawa | 2010-03-22 23:13 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

『籬雨荘雑歌』   

 忘れないうちにメモ。土曜日の朝の黄砂痕。
 玄関のアルミ戸が白くなっていたのも初めてですが、近くの駐車場の黒い乗用車など泥を車全体にぶちまけたようなものすごさ。いやはや。


 きょう、お目当ての本があり高岡の古書店に出向きました。桐木町の筏井竹の門・嘉一父子の空き地となった住居跡の前を通り、古書店についたらなんとそこには嘉一さんの歌集『荒栲』と『籬雨荘雑歌』がありました。『荒栲』は手の出ないような高値でしたが、『籬雨荘雑歌』は無理すればなんとかなる・・・というわけで、当初のお目当ての本は次回にして、えいっとばかりに購入。早く目を通したくて、近くの“わろんが”という喫茶コーナーで、炭火焼きの黒豆?をおつまみに熱いコーヒーとともにページを繰りました。

 昭和39年の帰郷の折の歌に目がとまり、思わず熱いものがこみあげてくると同時に、我が文学散歩のありように思いをいたし厳粛な思いにしばしつつまれたことでした。

  庄川の燃ゆる夕日に目はうるむもうふるさとに汽車近づけり

  ふるさとは異郷のごとく変りはて尋ねもあへずわが知れる道

  近くきて生家の跡は見ずに過ぐ記憶のままにとどめおくべく
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by kaguragawa | 2010-03-21 19:58 | 本/映画 | Trackback | Comments(2)

“名作旅訳文庫”   

 昨日ふれた“名作旅訳文庫”の現在のラインナップを紹介しておきます。昨年の12月にこの8冊が刊行されたようなのですが、私が知ったのは先週の金曜日。現代的な地誌から読む名作という視点に興味をひかれて、とりあえず『たけくらべ』と『坊っちゃん』を買いましたが、「旅訳」という注のつけ方が新鮮。『風たちぬ』『野菊の墓』なども最後まで手離れせず困ってしまいました。といってもどれも500円。さすが「るるぶ」の“JTBパブリッシング”が世に出しただけのことはある特色あるシリーズです。
 情報濃度が本によって違うのは残念なことですが、これからどのような本が追刊されるのか楽しみです。

 1.小樽・函館『蟹工船』小林多喜二
 2.青森『津軽』太宰治
 3.松戸・矢切『野菊の墓』『春の潮』伊藤左千夫
 4.東京下町『たけくらべ』樋口一葉
 5.軽井沢『風たちぬ』堀辰雄
 6.大阪『夫婦善哉』『アド・バルーン』織田作之助
 7.尾道『放浪記』林芙美子
 8.松山『坊っちゃん』夏目漱石
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by kaguragawa | 2010-03-17 23:31 | 本/映画 | Trackback | Comments(2)

『路上の人』『たけくらべ』   

 高岡―京都の往復の“旅の友”、行きは堀田善衛『路上の人』、帰りは樋口一葉『たけくらべ』を読みました。
 『路上の人』は、読みかけのものを読み切ることができました。この堀田の『路上の人』という、現在とまったく時空を異にする――中世のヨーロッパ!――ゆったりとしたテンポの小説を、自分でも理由がわからないまま楽しんで(楽しく読んで良いのだろうか?)、読みました。が、読み終わった瞬間からいくつかの反問が絶えず湧きあがってきて、ああでもないこうでもないとあれこれ思索を巡らして、これがまた楽しみになりました。

 現代こそが問題であるはずなのに、中世のヨーロッパなどをのんきに愉しんでいいのだろうか。そもそも中世のヨーロッパの「路上の人」がどういう意味で現代の小説になりえるのか。こういう不思議な思索にみちびく力がなぜ中世のヨーロッパを題材にした小説で可能だったのか・・・などなど。あっそう言えば木下順二の民話戯曲の非現代性も同じものだなとか、いろんなことに――すべて私的な感想に過ぎないこと断るまでもないことです――、京都という土地柄の雰囲気も影響もあったのでしょうか、思い巡らせました。

 そして『たけくらべ』。ちょっと驚いたのが、「旅訳」を随所にちりばめた“名作旅訳文庫”というJTBのユニークな企画(このシリーズについてはいずれ)。あらためて、多いに驚いたのが「たけくらべ」世界のふところの深さ広さ。どうしてここまで読む者の心くいこんでいく少年少女たちの描写が可能なのでしょう。何度読み返したかわからないくらいの名作ですが、一葉と彼女の描きだした子どもたちを想い、あらたに涙した帰路の車中でした。
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by kaguragawa | 2010-03-16 22:41 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

番町麴町「幻の文人町」   

 きのう3年前に書いたものを再録しつつ、麴町を走っていた「街鉄」→「東鉄」→「市電」→「都電」と名を変えていった路面電車(賢治の東京時代は「市電」)のことや、「新宿通り」のうち、半蔵門から四谷までが「麴町大通」と呼ばれていることを思い出して、そこをキーワードに検索を楽しみました。

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 いままでその断片だけを、検索にひっかかってきた折々に閲覧していた「麴町界隈わがまち人物館」「麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)」という二つのサイトのホームページを見つけていろんな情報が蓄積されていることを知りました。
 そう言えば、そこにも紹介されている『番町麴町「幻の文人町」を歩く』(新井巌/彩流社)は、網羅的な番町麴町人物紹介ですが、番町麴町にいっときたりとも住んだ石鼎も賢治も取りあげられていないのがとても残念なことです。

 〔追記〕
 『番町麴町「幻の文人町」を歩く』。この本は、昨年平河町にその地でお仕事をされているI氏を訪ねた時、貸していただいた本。おかげで、氏と別れた後、この本をしっかり抱えて坂の多い夜の麴町番町を、一葉や廉太郎の短い生を思いながら、何時間も歩くことができました。
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by kaguragawa | 2010-01-11 20:39 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

 「病は脚から!」?   

 遅れて届いた友人からの年賀状にこうあった。


   “おすめの本です
   「病は脚から!」文春文庫”


 自筆でこれだけ書き加えてある。
 はたしていかなる本なのか。書店でのぞいてみよう。
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by kaguragawa | 2010-01-08 23:13 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』   

 読書人を自認する人にぜひ一読をお勧めしたいのが岩淵喜代子さんの著書『評伝 頂上の石鼎』(深夜叢書社)。今では忘れ去られた感のある原石鼎(はら・せきてい)という俳人を多角的に追った破格の評伝である。「忘れ去られた」というのは失礼な物言いかもしれないが、俳句に親しんだことのない人には名前は聞いたことがあっても代表的な句さえ思い浮かんでこないのではなかろうか。それゆえに、よほど大きな書店でないと書棚に並んでないだろうし、ましてそれが俳句コーナーに並んでいるとすれば一般の人には手にとられることさえないのではないのではなかろうか。
 が、石鼎のことをほとんど知らなくてもいい。石鼎の句一つ知らなくても挿し障りはない。私自身がそうだったのであるからこそ、読書の醍醐味を知っている人にぜひ読んでいただきたいのである。筆者の石鼎を語る語り口に魅せられ、石鼎その人にいつか会ったことのあるような気にさえなってくるのである。

 この本に触発されて求めた石鼎夫人・原コウ子さんの書かれた『石鼎とともに』(明治書院/1979.12)を読み、あらためてこの『評伝 頂上の石鼎』を再読しつつ、ようやくこの本の魅力のよってくるところが奈辺にあるか少しわかってきた気がするのですが、そうしたことも石鼎の作品を紹介しつつ、また岩淵さんにならって石鼎の跡をちょっと追いながら、おいおい書いていきたいと思っています。
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by kaguragawa | 2009-11-14 23:47 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

『日本語「ぢ」と「じ」の謎』   

 生物などの学名はラテン語で表記される。この「学名」と一対一で対応している日本語での名前(和名)が「標準和名」である。そしてこの標準和名は、カタカナで書き表すことになっている。(そうした表記法が確定するまでの経緯などについては別に書く機会をもちたい)

 前置きが長くなってしまったが、net友やいっちさんのブログにある植物の名前――“イヌホオズキ”――を書きこんだとき、誤って「イヌホウズキ」と書いてしまった。このカタカナ書きの和名のもとは「犬酸漿(いぬ・ほおずき)」である。ゆえにこの植物の標準和名の表記は、「イヌホウズキ」ではなく、「イヌホオズキ」が正しいのである。
 ちょっと話を遡らせれば、酸漿(ほおずき)の語源は「頬突き」だという。であれば、なぜ「ホオヅキ」ではなく「ホオズキ」なのか。。。「ほう」と「ほお」、「づ」と「ず」。これらは「仮名遣い」の問題である。

 「高利」や「行李」は〔こうり〕で、「氷」は〔こおり〕、というような、歴史的仮名遣いと「現代仮名遣い」の間には多くの問題が横たわっているのです。「校正」のしごとに少し携わったとき以来、愚考しているこの問題について書くつもりで書き始めたのですが、時間がなくなってきました。この表記上の問題についても、別に書く機会をもつことにしましょう。

 ほんとは、ある偶然で手にとった『日本語「ぢ」と「じ」の謎』(土屋秀宇/光文社知恵の森文庫/2009.6)の紹介を書くつもりだったのですが、――“とおくのおおきなこおりのうえを、おおくのおおかみとこおろぎがとお、ほおずきくわえてほおかむりをしながらとおっていった。”といったような、校正担当者が覚えているような意味不明な文のことも併せて、――あらためて時間を持ちたいと思います。
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by kaguragawa | 2009-10-27 23:46 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

『若き友人たちへ』   

 筑紫哲也『若き友人たちへ』(集英社新書/2009.10)

 筑紫さんが亡くなられてからもう何年も経ったような錯覚があるが、確認してみると翌月7日が一周忌である。この新書本は大学院での講義の録音をおこしたものだという。絶筆?となった集英社のPR誌への「若き友人たちへ」が巻頭に収められている。明日の読書の楽しみにしよう。

 訃報を聞いたばかりの昨年の11/7の日記に、メモしておいたことば「多事争論」。書いた私自身がとっくに忘れてしまっていましたが、世の中もこういう気風を忘れてしまったかのようである。

 「自由の気風はただ多事争論の間に在りて存するものと知る可し」

 “少数であることを恐れないこと”
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by kaguragawa | 2009-10-23 23:39 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)