カテゴリ:社会史( 1 )   

明治期の教育制度の断片(1)   

 19日に「たとえば、尋常小学校の修業年月」というタイトルで、明治維新以後の教育制度(広義の学制)の基本事項の整理に苦闘?していることを書きましたが、戦前の小学校を半世紀にわたって規律していた「小学校令」(明治19年勅令第14号) 以前の話の場合、私などにはお手上げです。

 きょう、絲屋寿雄さんの『管野すが』(岩波新書/1970.1)――もしかして今は絶版なのでしょうか、確かめていませんが――を読んでいて、こういう一節に出会いました。
 大逆事件は、明治天皇を暗殺するために爆裂弾を試作した宮下太吉の逮捕〔1910.5.25〕から始まるのですが、この宮下太吉の略歴部分です。

 「この事件の中心人物といわれる宮下太吉は、1875年(明治8年)9月30日、山梨県甲府市若松町に生まれた。小学校の補修科を出て、16歳のときに機械工の見習いとなり、東京、大阪、神戸、名古屋の大工場をわたりあるいているうちに鍛えられて、腕のいいりっぱな機械工となった。」

 ここで気になるのが「小学校の補修科を出て」の部分です。《小学校の補修科》とはいったいどのようなものなのでしょうか。絲屋さんの紹介は簡略なものなので宮下の入学年月が書かれていませんが、当時も現在と同じであった満6歳の就学年齢を仮にあてはめるならば、入学は明治15年ということになります。
 とすれば、入学時においては、明治の制度としてなじみ深い「尋常小学校」「高等小学校」の「小学校令」 以前の話となるのです。が、このときの「小学校」とはどのようなもので、その「補修科」とはどのようなものなのか、修業年限などの制度の概要もその実態も、わたしには皆目わからないのです。仮に宮下が諸事情で2,3年遅く小学校に入学していれば、修業期間や卒業年次が「小学校令」の発布、施行の時代にも重なってきて、新法令やその経過規定の適用などの問題も出てきて、いっそう教育制度史の専門家ならざる私にはわけがわからなくなってくるのです。
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by kaguragawa | 2010-05-22 21:27 | 社会史 | Trackback | Comments(1)