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絲屋寿雄(いとや・としお)さんて   

 まったく存じ上げなかったのですが、先の記事でとりあげた『管野すが』の著者・絲屋寿雄さんて、映画のプロデューサでもあったんですね。プロデューサの側面については、〔Wikipedia〕がその作品を列挙しているので、そちらをご覧いただくとして、近代史(とりわけ社会主義運動史)の研究者の側面については、〔Wikipedia〕にはほとんどふれられていないので同一人物なのかどうか疑ってしまうほどなのです。

 歴史家としての絲屋寿雄さんの事績にくわしい方、ぜひ、〔Wikipedia〕をはじめとしてnet上に、著述一覧などの基本情報を、掲上してほしいものと思います。

 なんと昨日が、絲屋寿雄さんの命日だったのですね。

   *絲屋寿雄  1908.10.18--1997.05.21

〔追記〕
 新藤兼人さんの岩波新書『弔辞』(1998.2) に、絲屋寿雄さんについて書かれた文章があるようですね。
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by kaguragawa | 2010-05-22 23:20 | ひと | Trackback | Comments(0)

普羅、中居屋、横浜、植物誌という普羅環(flower)   

 前田普羅は晩年、東京で体調のすぐれない孤居の生活を送りながら、多くの地へ足を運んでいますが、最後の遠出となったのが群馬の吾妻渓谷への句旅でした(1952〔昭27〕年1月)。その旅の最後の日を過ごしたのが、定宿?にもしていたのが嬬恋村三原の黒岩長虹の「中居屋」で、“雪の香や静かに積もる大吹雪”の短冊が残されているといいます。

 こんなことも頭の片隅にあったのですが、良寛の辞世の句のことをやいっちさんのブログにコメントしていて、突然思い出したことがありました。良寛も宿にしていたのがやはり「中居屋」だったのです。
 そんなことを思っているうちに、良寛の詩「非人八助」と中居屋重兵衛(黒岩撰之助)、重兵衛の開港地・横浜での生糸商い、普羅の若き日の横浜での生活、横浜での久内清孝との出逢い、富山での吉澤無外との出逢い(この二人との出会いは普羅の広範な植物誌に反映)、・・・といろんなことが私の狭い知見のなかのことではありますが、巡るように湧いてきました。

 きょう全国で最も暑かったのは福島県会津若松市で、33.3℃。我が富山市も最高気温が32.3℃の真夏日で、5月としては観測史上最高とのこと。きのうまで小さな芽であった庭のハルジオンが、うつむく花蕾をつけてにょろりといっせいに立ちあがっている様は異様というより不気味でさえありました。
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by kaguragawa | 2010-05-06 22:36 | ひと | Trackback | Comments(0)

「藤子・F・不二雄~ふしぎ大百科」   

 NHKの知楽遊学シリーズ〔こだわり人物伝〕の4月は、「藤子・F・不二雄~ふしぎ大百科」。
 藤子不二雄A・藤本正子・伊藤善章・岡田斗司夫の4氏が語るらしい。

〔追記〕
 富山駅の書店には4月のテキストがまだ並んでいない。
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by kaguragawa | 2010-03-23 23:57 | ひと | Trackback | Comments(0)

射水郡郡長・南原繁と射水の人・堀田善衛   

 ある偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、を――戸惑いというかちょっと心嬉しい思いももって、――思案しています。

 先日、堀田善衛展に行こうとした私の背後から、“ちょっとちょっと”と、声をかけたのは堀田氏と同郷の藤子不二雄氏だったのですが、(堀田氏の生まれた伏木は、安孫子素雄氏の生地・氷見と藤本弘の生地・高岡の中間)、堀田氏が藤子不二雄の生んだ“オバQ”についてユニークな取りあげ方をしていること知って、いよいよ興が深まってきました。そんなことを書こうかと思っていた矢先、“おい君、おい君”と声をかけてきたもう一人の人物がいました。
 一昨日、話題にさせていただいた戦後のこの国の在り方にも大きな影響を与えた政治学者・南原繁氏です。

 堀田善衛氏の生地は、たとえば簡単なものでは、富山県高岡市生まれとなっていますが、氏の生誕時点【1918〔大正7〕年】でいえば「富山県射水郡伏木町」です。この伏木町は、1942(昭和17)年4月、善衛氏の父君勝文氏らの働きかけで高岡市に編入合併されたのですが、上に書いたように善衛氏が生まれた1918年当時の伏木町は射水郡内の4町のうちの一つだったのです。
 なんと奇しくもこのとき射水郡の郡長だったのが、南原繁だったのです。

 大学を卒業して間もない南原が内務省の官僚として、「郡長」を志望し、富山県の射水郡に郡長としての職を得て赴任したのは今から93年前の今頃、1917年3月。南原は単に役人の一履歴として日本海にのぞむ寒村ならぬ寒郡の郡長を無難に事無く勤めたわけではありません。内村鑑三の弟子として理想の種子をこの地にいくつも残していったのです。そのことは別の機会にふれるとして、射水郡が南原のもとで大きくその内実を変え始めようとしていた1918年7月に、射水郡下の伏木町に堀田善衛は生まれたのです。この偶然は、のちに、敗戦をまじかに見据えていた時期、30歳の年齢差もあり置かれた環境も大きく違うなかで、ともに敗戦によってしか日本の再生はないと模索していた偶然をも思い起こさせてくれるものです。

 余談ですが、郡長として伏木を訪れた南原繁と彼とほぼ同年であったはずの堀田勝文――善衛氏の父・勝文氏の生年をまだ確認できずにいるのですが、彼(当時、野口勝文)と小泉信三が慶應大学で同窓だったということからの推測ですが――とは、何度か会い若者らしい理想をもって伏木や射水の未来について意見を交わしたのではないか、と想像するのですが、どうでしょう。

 ・・・というわけで、いくつかの偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、楽しく思いを巡らしているのです。
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by kaguragawa | 2010-03-03 23:19 | ひと | Trackback | Comments(3)

《南原繁シンポジウム》on射水市   

 メモ。

 《南原繁シンポジウム》聴講。加藤節氏の基調講演「南原繁の戦後体制構想――ナショナリズムとデモクラシーをめぐって」は、南原繁の葛藤し実践する素顔を戦中、戦後のいくつもの局面で描き、そこを導入として南原の思索の射程が現代まで及んでいること、いな今こそ南原に学ぶべきであることを教えてくださいました。
 それにしても半世紀前の南原発言は、現代の憲法状況にとっても、なんと根源的で示唆的であることか。
 
 戦後の日本に大きな影響を与えた政治学者で教育家でもあった南原繁をめぐるシンポジウムが、富山の片田舎で開かれたにはわけがありました。南原は東京大学を卒業後、内務省にはいり射水郡長として現在の射水市の地に実践の場を得たのです。南原が射水の地に残したものについて普段語られることはありませんが、その「後世への遺物」の大きさには驚くべきものがあると考えています。

 こうしたことがらについては、時間のあるときにあらためて。
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by kaguragawa | 2010-03-01 23:29 | ひと | Trackback | Comments(0)

堺利彦の妻・為子(『加能女人系』より)   

 岸他丑や、同じく林えり子さんの本『竹久夢二と妻他万喜』で金沢との縁を知った堺利彦の再縁の妻・為子について、資料から知りえたことで書き留めておきたい断片がいくつかあるのですが、支離滅裂になりそうなので後日とします。ただし印象に残ったことの一つをメモしておきます。

 古い資料ですがに北国新聞夕刊の連載(昭和46年)をまとめた『加能女人系』という加賀能登の女性を時代に沿って素描した本があるのですが、ここに「延岡姉妹」の項があります。上に述べた為子とその妹・節子を紹介したものです。新聞記事らしい掘り下げの浅さ(失礼)と不正確さは残念なのですが、当時まだ存命であった堺利彦の娘・真柄さんへのインタビューは貴重な証言です。

 “為子は昭和三十八年、八十六歳で病死したが、義理の娘の真柄さんにきびしい教育をした。。e0178600_15585476.jpg
「父が監獄に入れられているときです。私が七つ八つぐらいのときでした。夕立がきて雷が光った。私がおっかながったので、母が窓を開けて“さあ落ちていくのを見てみなさい。このくらいのことなんですか。耐えなさい”って、きびしい表情をみせました」と真柄さんは述懐する。弾圧に耐え得る人間に――ということであったらしい。”


〔追記:1〕  *写真真ん中が、堺為子と真柄(下)。
 イギリスの独立労働党の創設者で党首であったケア・ハーディ(Keir Hardie/1856~1915)が、1907(明40)年8月に来日した際の記念写真から

〔追記:2〕
 堺為子(延岡為子)の生年表記を〔1872.5.19〕としたものがあるが、彼女は明治5年5月19日(当時旧暦)の生まれのはずで、没年も併せて現行のグレオリウス暦で表記するとすれば、〔1872.06.24~1959.01.02〕である。真柄は、1903.01.30~1983.03.18〕であり、この写真当時の為子は35歳、真柄は4歳半である。
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by kaguragawa | 2009-10-23 01:02 | ひと | Trackback | Comments(0)

きのう、きょうの“人”   

 きのう・きょうは、今までいろんなことを調べたりしているときに出逢った何人かの方の生まれた日であったり、亡くなったりされた日です。(かぐら川私製墓碑銘から)

 福井直秋  1877.10.17~1963.12.12
 小村雪岱  1887.03.22~1940.10.17
 尾高邦雄  1908.10.17~1993.09.11
 川島武宜  1909.10.17~1992.05.21

 橘 糸重  1873.10.18~1939.09.01
 葉山嘉樹  1894.03.12~1945.10.18
 室生とみ子 1895.07.10~1959.10.18
 保阪嘉内  1896.10.18~1937.02.08
 玉野井芳郎  1918.01.23~1985.10.18

 社会科学関係が3人、音楽関係が2人(糸重を藤村との関係で文学にいれてもいいのですが)、文学関係が3人、美術関係が1人と、なんとなく私の雑記メモの範囲を反映しているようです。画家の小村雪岱と作曲家の中山晋平(1887.03.22~1952.12.30)が同じ日の生まれであるのも、あらためて気づきました。
 お一人ずつ、思いつきを書こうと思ったのですが断念して、以下ちょっとメモ。

・宮沢賢治の学友で親友となった保阪嘉内が賢治と同い年〔1896年〕生まれで同学齢なのに、盛岡高等農林に一年遅れて入学しているのは、札幌農学校の後身である東北帝国大学農科大学(現北海道大学農学部)を受験し一浪しているため。甲府中学校の恩師(校長)大島正健は札幌農学校時代のクラークの弟子だったのだ。

・賢治・嘉内の前年に生まれた浅川とみ子は、室生犀星夫人となる。下は、昨年日記に書いたもの。
  「今日18日は、1959(昭34)室生犀星夫人とみ子さんが亡くなられた命日。とみ子さんが脳溢血で倒れ半身不随になられたのは1937(昭12)年の11月13日。その後、戦争中の軽井沢疎開もふくめ犀星はとみ子さんを20年間いたわり続けた。馬込の自宅の庭に夫人の墓をつくる。翌年3月5日、遺稿句集『とみ子発句集』発行。
 “この人こそ私の文学のただ一人の愛読者で、熱心な激励者の一人であったと言ってよかった。”」
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by kaguragawa | 2009-10-18 13:13 | ひと | Trackback | Comments(1)

岸兄妹の「つるや」と夢二   

 まさかと思うような情報が、net上には存在しているものだ。

 岸他丑(きし・たちゅう)の生没年月日などどんな本をひっくり返しても書いてないだろうと思っていたのですが、財団法人・日本出版クラブのHPに出版に携わった先人を顕彰する「出版平和堂」の紹介コーナーがあり、その「合祀者名簿」中に、大橋佐平や岩波茂雄らの名前にまじって《つるや書房店主/ 東京図書雑誌小売業組合組合長 》として、“岸 他丑”の名があるのです。
 
 そこには、〔M11.10.26/S31.3.21〕と記されていますから、他丑は、1878(明治11)年10月26日に生まれ、1956(昭和31)年3月21日に亡くなったことがわかります。他丑の一生など今まで考えたこともなかったのですが、彼は「東京図書雑誌小売業組合組合長」も務めているくらいですからずっと本屋として一生をまっとうしたようなのです。

 《岸 他丑》の紹介もしないまま書き始めてしまったのですが、彼は竹久夢二の最初の妻「たまき」(戸籍名:他万喜)の兄なのです。e0178600_23461093.jpg
 岸たまきは、最初の結婚を夫・堀内喜一の死(1905.9.23)によって終え、東京九段下の飯田町で「つるや書房」を開いていた兄を頼って富山から上京し、兄の助力によって早稲田鶴巻町に兄の姉妹店“絵はがきや「つるや」”を1906(明39)年11月1日に開店するのである。そして開店5日目、11月5日に、この店に自作の売り込みにふらりと現れたのが若き日の名もなき竹久夢二だったのである。
 翌年の1月には、夢二の投稿先であった「平民新聞」に二人が結婚したことが報じられているが、その後の夢二式美人画の誕生と夢二とたまきの愛憎劇は夢二ファンの方にはおなじみだと思う。

 なお、夢二の「月刊夢二エハガキ」などは兄の「つるや書房」(麹町区飯田町二丁目六十一番地)が発行元で、夢二と他丑のこの関係は夢二とたまきが完全に破綻したあとも続いていたようである。

 *岸他丑   1878.10.26~1956.03.21
 *岸たまき  1882.07.28~1945.07.09
 *竹久夢二  1884.09.16~1934.09.01

〔追記〕
 金沢味噌蔵町生まれで富山にも大いにゆかりのある岸他丑・他万喜兄妹については、その父母・六郎、順についても勉強の上いずれまた。
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by kaguragawa | 2009-10-10 20:19 | ひと | Trackback | Comments(7)

えっ、そんなことが・・・!   

 日本国憲法の制定過程を調べようとした場合、まず第一に参考図書として挙げられるのが佐藤達夫氏の『日本国憲法成立史 (全4巻)』(有斐閣)だと思います。なぜならば佐藤達夫氏こそ当時の法制局部長~次長として、GHQとの交渉にもあたり現憲法の起草にも担当部局の現場担当者として関わった人だからです。そして後に法律立案の専門家として内閣法制局長官、人事院総裁を勤められることになります。私が法律専門官僚としての佐藤氏の名前を多少なりとも知っているのはそれなりの理由があるのですがそれはともかくとして、そんなことより、『植物誌』という著作もある筋金入りの植物愛好家としての方が私には親しい存在の方でもあります。(北原白秋に師事した歌人でもあることは、今日知ったことですが。)

 ところがです、きょう、思いがけないところでこの佐藤達夫さんの残された本の数々に出逢うことになりました。場所は高岡市立図書館の「佐藤家著作物コーナー」。「佐藤家」の著作物コーナーに、佐藤達夫さんの本があるのは当たり前のようで、まったくあたり前のことではないのです。佐藤達夫さんが富山ゆかりの人だとは聞いたことがありません。私にはこの佐藤著作物コーナーの前でしばらく茫然としてしまいました。
 なぜなら、「佐藤家著作物コーナー」は、佐藤孝志「前前・高岡市長」のコーナーのはず?であり、そこに佐藤達夫さんの憲法や法律の本、植物画集、歌集それに加えて達夫氏夫人雅子さんの料理エッセイなどがあるのは、前・前市長が達夫さんのごく近い縁戚であることを物語っていることになるのです。あわてて手に取った前・前市長の随筆集には、佐藤達夫さんが孝志さんの岳父にあたられることがしるしてあったのです。まったく「想定外」の両佐藤氏の取り合わせでした。

 法律の話題も、花の話題もまったく色褪せていない昭和37年刊行の佐藤達夫氏の随筆集『土曜日・日曜日』の紹介をしようとして前書きが長くなってしまいました。いずれまた。
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by kaguragawa | 2009-10-03 23:56 | ひと | Trackback | Comments(0)

金沢のガントレット   

 タッピング夫妻とガントレット夫妻にどのような接点があったのか、これがどうも浮かび上がってこない。ガントレット恒の『七十七年の思ひ出』に何か書かれているかと思ったのだが、この点については言及はない。

 で、よそ道にそれることをことを承知のうえで、ガントレットの金沢時代のことが書かれている一節をコピーを取る代わりに書き写しておきたいと思います。

 “金沢には私達と親しい宣教師のマケンジーさんがいた。第四高等学校から頻りと懇望されたので、主人は岡山から金沢に転任することになった。明治四十年の春である。ここに永住するつもりで家まで建てたが、気候が寒く翌年の春主人は肺尖カタルになった。思いがけないことで、私の心痛のうちに医師のすすめに従って、七月にウラジオストックに転地した。来年再びこの地で冬を過すなら結核になる恐れがあると医師に注意されたので、私は主人の留守の間に他へ転地の運びをつけたいと思った。幸いにも山口の高等学校が高等商業に変るときで、山口に転任できそうであったから、ウラジオストックに電報を打って意向を尋ねると転任を賛成して来た。それで早速主人が帰らないうちに山口の方の話しをきめてしまった。金沢の一年は気候が厳しく主人の病気で楽しい思い出とてはないが、食べ物の豊富なこと、マケンジー夫妻の厚い友情こそは懐かしい思いでである。”
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by kaguragawa | 2009-09-03 22:51 | ひと | Trackback | Comments(0)