カテゴリ:明治大正文学( 28 )   

100年前の今日、犀星、東京へ(1)   

 100年前の今日――1910(明治43)年5月5日の夜――、室生犀星は、みずからの文学の可能性を試すべく東京に旅立ちました。といっても客観的に「5月5日」と証明する資料はなく、この日は犀星のいくつかの自伝的記述によるものです。

 “自分はその給料を貰うた晩に直に出発できるよう、着替えや少しばかりの書物、それから一揃えのコーヒー茶碗をも荷作りの用意をしていた。このコーヒー茶碗は何故持って歩くのか自分にもよく分りかねる気持ちであった。恐らく当時こういう西洋風な珍しい器物を愛していた気持からかも知れなかった。その日は町に桐の花の光り、若葉の樹々の頂には幟が立っていた。自分は元より母や兄にも事情は明かさず、生涯忘れることのできない感銘の深い日だった。停車場の歩廊には自分を送る者がいよう筈がなく、むしろ自分は憎悪に絡んだ気持で、晩の直行に乗るのであった。”

  “煤煙の罩(こ)めた新橋ステエションに降り立った自分は、迎えに来ている田辺孝次や吉田三郎、それから幸崎伊次郎の顔を歩廊の人ごみの中に見出した。彼等は美術学校の制帽を眉の上にまで深くかぶり、その姿は自分の恐怖している都会生活の概念を一蹴して見せた。電車に乗り声高に話し合うていると、自分の神経を脅かしていた都会の生活の予感は、最早自分に関係の無いもののように思われた。
 砲兵工廠の外壁を電車が曲るときに、その窓際に美しい女学生の顔を見出し、その鮮やかな肉顔はむしろ美し過ぎて薄ら寒い戦慄の感じにさえ変るのであった。田辺の下宿は団子坂の上であった。晩食の後に自分と幸崎は田辺に連れられ、浅草公園の活動の通りを散歩していた。雑踏の中にある刺激的な境遇の変化は、自分の半生を瞬間的に粉砕した。自分は群衆や楽隊や人の匂いに慣れ、そういう明るい中を歩くことに快楽を感じた。同時に田舎の青い風景をも自分は頭の中から抹殺した。自分等は六区の淫売窟を廻り、この大都会の千九百六年代の穴を覗きみるのであった。”
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by kaguragawa | 2010-05-05 20:29 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「犀星忌」と岡あやめの会   

 犀川縁の文学碑にも雨宝院の庭にもアンズが満開です。そんな中、雨宝院での犀星忌(四十九回忌)と小島千加子さんの講演の場に参加させていただきました。
 不覚にも小島千加子さんが岩波文庫の犀星『女ひと』の解説を書いておられる方だということに気づかずにいて、あわてて講演の前に『女ひと』の一,二編と解説を読んだ次第。

 犀星晩年の10年間、小島さんは新潮の編集者として馬込の犀星宅や軽井沢の別荘にもしげく足を運ばれ、犀星のあたたかさ、やさしさ、するどさを、間近に見てこられた方だったのです。編集者としての犀星エピソードから、不条理にきびしかった養母ハツにも思いやりと礼節を保ち続けた人間・犀星に話が及ぶあたりから、これも不覚なことに小島さんの犀星への慕い語りに涙がとまらなくなってしまいました。

 やさしい雰囲気につつまれた雨宝院を見守るように、犀星ゆかりの杏(あんず)が咲いている犀星忌でした。


〔追加〕
 ウェッジ文庫に犀星の随筆集『天馬の脚』が加わっていました。
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by kaguragawa | 2010-03-27 23:34 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

朗読で聞く霜川の“水の郷”   

 浅野川倶楽部の公演「朗読で綴る北陸文学 ~じっくり聞きたい郷土の文学たち~」(3/4~3/14)を聞きに金沢に行ってきました。きょうの出し物は、小寺菊子「父の帰宅」と三島霜川「水の郷(みずのさと)」

 大げさに言うと、この企画を偶然に知って以来“待ちに待った”――と言うものの3月に入ってから何かと気ぜわしく日時を忘れていて、木曜日に思い出しあわてたのですが――公演でした。
 こんにちほとんど忘れ去られている三島霜川の作品がこのようなかたちで演じられるとは、小寺作品とともに徳田秋声との縁が大きいのでしょうが、思ってもみませんでしたので、浅野川倶楽部さんが三島作品に注目していただいてとても感謝しているのです。

 虚無的な色合いの作家と言われる霜川の作品の中でも「水の郷」は、トーンの明るい作品として親しまれてきたようですが、この語り口のやさしさは決してこの作品特有のものではなく、また巧みな自然描写(霜川の自然描写の特異性については、できるだけ多くの作品を例に論じる価値のあるものと考えます)もまだ控えめだと言っていいかも知れません。そういうわけで「水の郷」は私の好きな作品ではあるのですが、霜川らしさのうすい作品であると言っても良いでしょうし、彼ならばもっと余韻の残る作品に仕立てることができたはずだとも思うのです。
 それでも主人公の少年が、魔所“蛍谷”に迷いこみ、湧くようなホタルの大群落に出会う瞬間の感動は、この作品を読みごたえのあるものにしているといっていいでしょう。

 こうした「水の郷」という作品を、3人の巧みな演者の方々は(富山県の方だと紹介がありましたが)、地の文と少年、祖父を読み分け、さらに地の文を最後の節で読み手を替えることで、奥行きのあるものに表出してくださったと思います。
 別の表現方法もあったのではと思う点の一つを書かせてもらうとするなら、次の呼び声のフレーズはもう少し、活気があっても良かったのではないかと思うのです。“にぎやかに、しかし何となく物静かに聞こえる”という霜川自身のコメントを生かす表現があるのではないかと思うのです。

  蛍 来 い 山 吹 来 い、
  あ っ ち の 水 は 苦 い な、
  こ っ ち の 水 は 甘 い な、



〔追記〕
 ところでこの霜川の「水の郷」(明治36)と徳田秋声の「蛍のゆくへ」(明治39)〔徳田秋聲全集〈第27巻〉所収〕という双生児的類似作品はどういう関係にあるのだろう。
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by kaguragawa | 2010-03-12 23:56 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(3)   

(承前)

 犀星研究のなかでも犀星が文壇デビューまでを丹念にフォローした船登芳雄さんの『評伝室生犀星』には、1909・1910(明42・43)年の犀星の動向がこう書かれています。

 “七年四か月にわたる裁判所の勤務を退職した二十歳の犀星は、まず文筆の才を生かすべく、新聞記者をめざすことになる。ただし、退職後三、四年の動静は自伝小説以外に確たる裏づけ資料が残っていない。(中略)
 「福井新聞」入社も功を奏せず、養家に帰った犀星は、またもや養母の罵声に耐えなければならなかった。ところが、年が明けて程なく、再び俳句仲間の先輩の伝手で、地元の「石川新聞」へ入社することになる。同紙は、当時の政党である政友会の県内における機関紙的な色彩を帯びて、明治四十一年に発刊されたばかりの新聞であった。入社はしたものの取材廻りをする新米記者生活は、犀星の文学志望を満たすものでなかったことはもちろんである。上京の意欲が、ますますふくらんでくることになる。(後略)”

 『室生犀星文学年譜』(室生朝子・本多浩・星野晃一編)の「明治四三年(1910)二十一歳」の項は“二月頃、石川新聞社に入社。家を出て下宿”――と記したあと、新保千代子さんの『室生犀星ききがき抄』を次のように引用しています。 

 “今度もまた俳句の先輩、松平柳孫の紹介で米原於兎男を訪れた。米原が社長をしていた金沢の「石川新聞」に入社することができた。「石川新聞」時代の犀星を知る人に、郷土史家、八田健一老がある。八田氏は当時、「北陸新聞」の記者であった。……八田と犀星は同じ学校回りで、よく一緒に歩いた。犀星はそのほか、刑務所も受け持っていたが、小倉の袴に、ねずみ色の鳥打帽をかぶり、下からのぞいた長髪はいかにも無精気であった。黒いマントを風になびかせたところも、お世辞にも颯爽とは言えなかった。”
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by kaguragawa | 2010-03-11 23:45 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(2)   

 昨年は、昨年の100年前――すなわち1909年――の啄木、犀星、賢治の動向(行動)をそれぞれのかなり詳細な年譜にしたがって、追体験しようと試みました。犀星は10代の前半から勤めていた裁判所の下働きのような仕事を金石の登記所を最後にやめた年でしたし、賢治は盛岡中学校に入学した年でした。そういうわけで金沢の外港・金石(かないわ)に足を運んで犀星の下宿跡や詩作の基調音にもなっている浜辺の波音を聞きたいと思っていたのですが、残念なことに果たせませんでした。
 そして今年は、犀星の人生の一画期となる初上京の年なのです。が、犀星は上京の前にしばらくの間、新聞社で職を得るのです。それが2月からなのか3月からなのか、確たる記録もないせいでしょう、年譜によってさまざまなのですが、勤務先の新聞社は「石川新聞」ということで一致しています。そんなわけで、石川新聞とはどんな新聞なのか調べてみようと、年初からぼんやりと考えていたのですが、もう気がついたら3月になってしまっていたというわけです。

 そんなとき、“〔向田虎次郎は〕「北陸新報社」の文撰工(活字拾い)となる(この頃同社には室生犀星が給仕として在職)。”という、筏井虎ノ門の略歴を目にしてあわててしまったという次第なのです。
 
 とりあえず、この「石川新聞」のことや当時の犀星の動向について、手元の資料を書き写して、次の探索のステップにしようと思うのです。

 (続く)
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by kaguragawa | 2010-03-10 21:17 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(1)   

 明治大正期の金沢を中心とした石川県下での新聞の状況については基本的なことがらも知らないので、きのう「北陸新報社」という文字を入力しながらこれは現在の「北國新聞」の前身だったはず・・・などといい加減なことを考えつつ、さらに犀星がそこで働いていたということから犀星が1910年に上京する直前にいた新聞社だな、とこれもいい加減に考えていましたが、どちらも私の勘違いでした。

 1.「北陸新報」と「北國新聞」は別のものであること(この両者の間になんらかの系譜関係があるかどうかは、今から確認)、
 2.犀星が上京直前に短期間ながら記者?として勤めていた――ちょうど100年前のことです――のは「石川新聞社」でした。

 といわけで、基本的なことがらから調べ直しです。
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by kaguragawa | 2010-03-09 20:47 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

竹の門と犀星   

 昨年末、江沼半夏さんの『筏井竹の門覚書』を読んで以来気になっていたのが、筏井竹の門(向田虎次郎、のち筏井家に養子)が生まれたのが“金沢市裏千日町”(正確には出生当時は町村制未施行で、〔金沢町裏千人町〕)だという記述でした。

 ところで室生犀星の出生地を、簡便に“金沢市千日町”としているものもありますが、これも正確には“金沢市裏千日町31番地”です。向田虎次郎(筏井竹の門)が生まれたのが明治4年、犀星が生まれたのが明治22年ですから少し年齢差はありますが、二人は同じ《裏千人町》生まれなのです。とすれば気になるのが向田虎次郎が生まれたのは裏千人町のどのあたりなのか?ということです。いずれにせよ裏千日町はそんなに大きな町ではありませんでしたから、ご近所です。

 残念なことに詳細な記述がある可能性のある『筏井竹の門覚書』も、そこから書き出したメモも手元にはありません(実は、こうした雑情報がぎっしりメモされている「かぐら川閻魔帳」ともいうべき雑記帳を紛失!)。そんな折、『高岡を愛した先人たち』の「筏井竹の門」の項(二ヶ竹亮介・稿)に興味深い記述を見つけました。

 “竹の門は、廃藩置県三ヶ月後の明治四年(1871)十月十六日(新暦11月28日)、金沢裏千日町の旧加賀藩士・向田家に生まれた。名は虎次郎、未熟児であり、体は小さく虚弱体質であったという。野町小学校卒業後は、紺屋に奉公に出された。虎次郎は染物の下弟子として図画を習う。これが将来、俳画に目覚める素地となった。のち「北陸新報社」の文撰工(活字拾い)となる(この頃同社には室生犀星が給仕として在職)。
 そして明治二十年頃から兄の影響で句作を始め、新聞にも掲載されたという。
 明治二十五(1892)、姉婿の弁護士・鶴見武三郎を頼り高岡に移住し、その事務員となる。一方、日本派俳句を提唱した正岡子規に共鳴し。新聞「日本」の俳句欄に投句をした。(以下略)”

 竹の門と犀星は、出生地や通った小学校が同じだけでなく、若い時代から同じく俳句への嗜好をもち、勤め先も一時同じだったようなのです。そしてこの「北陸新報社」について、犀星の側から調べてみようと思っていた矢先だったのです。
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by kaguragawa | 2010-03-08 23:08 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「岡あやめの会」――於・雨宝院   

 犀星ゆかりの寺・雨宝院の高山住職から「岡あやめの会」のご案内をいただきました。高山住職の温顔が浮かんできてほんわかとした気持ちになりました。といっても、雨宝院には何度も訪れて記帳などしてきているのでこのようなお知らせをいただいているので、高山住職が私のことを覚えておられるわけではないであろう。しかし、うれしいのである。
(一週間前にいただいていたお知らせを、うかつなことに今日やっと拝見したしだいです。)

 重ねてうかつなことに、「岡あやめ」の意味、由来をいまだに知らずにいるのですが、「岡あやめの会」は、1962年3月26に亡くなった室生犀星を偲ぶ会、なのです。今年は、小島千加子さんが“「春の慈雨」――犀星先生の想い出――”という題で講演される由。小島千加子さんのことはあまり存じ上げないのですが、犀星と親交のあった森茉莉さんとも親しい新潮の編集者だった方。なんとか都合をつけて行きたいたいと思うのですが、今月末は難しいかも・・・・。

〔追記:3/8〕
 “岡あやめ”とは、ハナショウブのことで、犀星が愛した花のようです。伊藤人譽さんの『馬込の家 室生犀星断章』(未読。残念なことに県内の図書館には蔵書されていない)の表紙にも描かれています。
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by kaguragawa | 2010-03-07 20:16 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

『室生犀星句集』   

 読みたいと思って買った本、借りた本がたまってしまっている。

 にもかかわらず片づけものをしていたときに出てきた『室生犀星句集』をついつい開いてしまう。

    雪 み ち を 雛 箱 か つ ぎ 母 の 来 る

 関東大震災で帰省中の作。犀川の土手道を老いた養母ハツが古雛を背負ってやってくる。
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by kaguragawa | 2010-03-05 23:12 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

一葉/明治25年2月4日   

 樋口一葉の明治25年2月4日の日記から。

四日 早朝より空もようわるく、「雪なるべし」などみないふ。十時ころより霙まじりに雨降り出づ。晴れてはふり晴れてはふりひるにもなりぬ。e0178600_052384.jpg「よし、雪にならばなれ、なじかはいとふべき」とて家を出づ。真砂町のあたりより、綿をちぎりたる様に、大きやかなるもこまかなるも、小止なくなりぬ。壱岐殿坂より車を雇ひて行く。前ぽろはうるさしとて掛させざりしに、風にきをひて吹いるる雪のいとたえがたければ、傘にて前をおほひ行くいとくるし。九段坂上るほど、ほり端通りなど、やや道しろく見え初めぬ。平川町へつきしは十二時少し過る頃成けん。うしが門におとづるるに、いらへする人もなし。
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by kaguragawa | 2010-02-04 00:12 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)