カテゴリ:街歩き/たてもの( 25 )   

旧南嶋商行本店(現、牧田組本社)   

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 8月1日に紹介した南嶋間作の南嶋商行本店〔現:牧田組本社/富山県射水市庄西町1丁目〕

 下記は、牧田組のHP〔http://www.makita-gr.com/mg/〕から;

 牧田組の本社屋は、北前船時代から日本海側有数の海運業者であった南島商行の社屋を、第一次世界大戦後の不景気で大正11年に整理されたのを機会に、牧田與四郎が買い取ったものです。
 建築年は大正4年とも6年とも伝えられ、設計者は不詳です。高岡市にある富山銀行本店と同様、煉瓦造擬ルネサンス・スタイルです。真正の煉瓦造ではなく、木骨構造に煉瓦を貼ってあります。デザインとしては、基部をルスティカ風石貼とし、こげ茶色の煉瓦を貼りマンサード(腰折れ)屋根を架けています。建物角に積み込んだコーナーストーン、窓上下のまぐさ窓台など白御影石を貼った様式的装飾や、二階壁面上部に走る2本の白いパンドコースが全体的に切れのよい意匠となっています。玄関部は大正時代らしくモダンな表現で、正面屋根上のゲーブルの形も自由な扱いですが、全体的に様式としての要は押さえてあり、東京からイギリス人設計士を呼んだという伝えの信憑性を高めています。当時は「新湊のロンドン」と呼ばれていたそうです。

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by kaguragawa | 2013-09-28 14:18 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(2)

福野の街歩き   

 きのう5月18日は、富山が生んだ建築家・吉田鉄郎〔1894.05.18~1956.09.08〕の誕生日でした。といっても、吉田鉄郎って誰?、と聞き返されそうです。
で、web上から説明をお借りします。

 建築家。富山県福野町の生れ。戦後日本建築の方向を早く戦前より準備した一人。1919年東京帝国大学建築学科を卒業,以後逓信省で設計に従事。東京中央郵便局(1931),大阪中央郵便局(1939)などで,装飾を抑制し,厳しい比例感覚で建築の構造を率直に表現した。33年のタウトBruno Taut来日時には案内者として彼の日本建築理解を助け,またドイツ語の著作により日本建築を海外へ紹介した。【丸山 茂】 (kotobankより)

 そして彼が生まれた南砺市(旧:福野町市街地)にも、彼の設計になる建築物がいくつか残されています。
 西方寺旧授眼蔵佛教図書館(福野上町)/山田邸(福野新町)/梶井邸の座敷〔旧福野郵便局の離れ〕(福野田中町) 
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 残念なことにどの建物もその公開はされておらず、全景を見ることもできません。上の写真は、吉田鉄郎の誕生日にちなんだわけでもないのですが、きょうの私的福野町歩きの際に、家横の路地の金網ごしに撮った山田邸です。
 山田家は、「詩百篇」と言う名の日本酒の醸造家で、なによりも福野町の町長なども務めた旧家で近代福野にとっても大きな役割をはたした家でした。

 この山田家、建築家吉田鉄郎や画家五島健三を生んだ五島家、1945年3月の疎開に始まり1949年までこの地に滞在した織田一磨のことなど、福野には知りたいことがたくさんあって、きょう天候も体調もあまりすぐれない中、4年ぶりに福野の街を歩いてきました。
 かん町(上町)やうら町(浦町)の旧町だけでなく、今は暗渠化された芝井川(芝江川とも)に沿って寺院をいくつか巡れたこと、最後に立ち寄った「ヘリオス」の図書館で、山田家の資料は見つからなかったものの、三島霜川の母の出身地である院林村(→福野町→南砺市)の資料を見れたのも幸いでした。
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by kaguragawa | 2013-05-19 16:19 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

金沢のまち――九枚町/柿木町/少将町   

 先日金沢の町を――といっても繁華街でもなく、むろん観光スポットでもなく――家中町といわれた武家地跡の町を少し歩きました。e0178600_22422465.jpg堀田善衛の金沢エッセイに登場する「(旧)九枚町」「(旧)柿木町」辺りの静かな住宅地とである。事前に地図をみていくつかの寺のあることはわかっていたのですが、思いのほか大きい寺が閑静な町中のあこそこに居座っているのである。小立野台を見上げる位置にある――現在、扇町や暁町と町名が変えられた――こうした下町?の数々については、もう一度歩いた上であらためて語りたいと思うので、話題を変えます。

 どうしても語りたくなって、今日、書き出したのは、地図を持っていたにもかかわらず方向を間違ってしまい、迷い込んだ少将町で出会ったある建物についてである。迷子になって地図をあらためてのぞきこむと現在地の近くに「法句寺」の名前を見つけ、――福井出身で四高に学んだ中野重治が一時下宿していた寺である――これは見っけものだとばかりに、今度は方角を間違えないようの角を曲がって歩き出した時に、その“ある建物”が目にはいってきたのである。e0178600_22433638.jpg
 そんなに古いものとは思われないながらも何故か懐かしさがただよう“洋館”がそこにはあったのです。全景を撮りたくて距離をとりながら何枚か写真を撮った後で、その洋館に近づいたとき目に飛び込んできたのが、その建物の主であると思われる人の忘れようにも忘れられない特徴的な名前だったのです。その横書きの表札には《佐口透》とあったのです。

 佐口透氏。それは知る人ぞ知る、私が若き日にあこがれた西域研究の権威である。この建物の主《佐口透》は、あの佐口透氏なのだろうか。怪訝な気持ちとうきうきした気持ちを半ばさせながら、これも近代的に立て直されたしかし風雅な法句寺の前に立ったのでした。
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by kaguragawa | 2013-05-15 22:49 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

海内果生誕地の碑   

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 海内果生誕地の碑
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by kaguragawa | 2013-05-11 14:35 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

《三仏川 》   

e0178600_2075793.jpg 4月25日の記事に書いた「三仏川」の流路を歩いてみました。
 思った通りほとんどが暗渠化されているようですが山王さん(日枝神社)の境内社あらか神社の本殿裏を北流するるところが地上に?姿を現わしていました。

 ちなみに「あらか神社」、社号標の“あら”の字はnet上では漢字表記できません(普通には「麁香」の字があてられています)ので、写真をご覧ください。
 ご祭神〔手置帆負神〕〔彦狭知神〕についてもとても興味がありますが――『古語拾遺』の世界です――、割愛。
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〔追記〕 この「三仏川」が、「足洗川」の名前でも呼ばれていることを知りました。確信をもてないので書くのを控えていましたが、「足洗川」の名称からして、この小流れが幾つかの意味で《境川》の性格をもっていること、ほぼ確かだと思います。さらにそのことが城下町・富山の形成を解く鍵にもなるであろうこと、等々、もう少し掘り起こしてみたいと思うのですが、残念ながらこの余興はいまの私には手に負えそうにありません。
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by kaguragawa | 2013-04-27 20:12 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

富山市内の旧北陸道(愛宕地内) (2)   

 帰宅してから、今日歩いた道筋を現在地図でフォローしていて、あまりの驚きに一瞬、大袈裟でなく茫然自失の感にとらわれました。地図と照合するまで気づかなかったというのもあまりに間の抜けた話ですが、昨年7月取り壊される直前の煙突を撮影にいった立山醤油の工場跡地一帯が、まるまる分譲住宅地になっているのです。この煙突を撮るために上った神通川の土手のほぼ同じ位置から撮った写真がこれです。
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 写真左手にその一部が見えている造成区画のところに立山醤油の事務所があり、そこに富山大空襲を生き延びた煉瓦造りの煙突があったのです!!!。e0178600_22302027.jpg
http://kaguragawa.exblog.jp/18369756/
 今どき街中によくもこんな広い分譲用地があったもんだなと、ちょっと驚いてもいたのですが、工場の跡地ですからそれなりの広さがあって当然です。どうして気がつかなかったのでしょうか。

 この写真正面(東側)の道を旧北陸道の一部だと知らずにいたことも、うかつでしたが、9か月前に訪れた土地がいくら環境が変わったとはいえ、見分けがつかなかったとはあまりにも、うかつと言うより愚鈍の一語に尽きます。

 9か月前、煙突の写真をとりながら辺りをうろうろしていたとき、工場の事務所からにらんでいた人はその事務所と共に歴史のかなたに消えてしまったのでしょうか・・・
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 (2012年7月14日撮影 工場事務所棟の向うに煙突が見えています。)
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by kaguragawa | 2013-04-13 21:56 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

「金沢聖霊修道院聖堂」(金沢市長町)   

 先月18日の記事に、スイス生まれの建築家マックス・ヒンデルのことを書きましたが、きょう金沢に行った折、彼の設計になる「金沢聖霊修道院聖堂」(金沢市長町)に、足を運びました。
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 この修道院聖堂のある金沢聖霊総合病院は工事中で、入口がわからずうろうろしながらようやく正面にたどりつきました。写真を撮ったり建物の周囲を行ったり来たりしていましたらシスターの方が出てこられてやさしく声をかけてくださいました。「中もご覧になりますか。」
 もう願ったりで、拝見させていただき、ちょっと言葉にできないくらい感動的なひとときを過ごしました。

 会堂の「たたみ」が見えますか。

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■設計:マックス・ヒンデル(Max Hinder) 1887.01.20~1963.01.〔在日:1924.03~1939.09〕
■起工:1930(昭和5年)年
■竣工祝別:1931(昭和6)年11月11日

 木造平屋建一部2階建鋼板葺き。
 ロマネスク様式を木造で忠実に再現している。

・外部は2層に分けられ、白く塗装された下見板張りの外壁に、ステンドグラスのはいったアーチ窓が印象的だが、こげ茶色の化粧柱や窓框(かまち)がメリハリをつけ、尖塔型の屋根上部に十字架をいただくチロル風の鐘楼が建物全体のアクセントになっていて、ロマネスク様式を基調とした意匠でまとまられている。
・内部は、身廊と両側の側廊の三つの空間で構成されている三廊式。側廊のヴォールトとアーチを受ける列柱には金を塗り、柱身は黒漆仕上げ、アーチは群青で彩られるなど、金沢の伝統工芸を活かした仕上げを各所に見ることができる。

(以上、諸資料より)

※マックス・ヒンデル(Max Hinder)については、
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/41397/1/83_15-24.pdf
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by kaguragawa | 2013-03-17 19:15 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

秋の良き日の東京   

 (時間がないままに綴るいつもながらの雑駁なメモです。)

 土曜日は、東京でした。日曜の朝は町内の除草行事があるため、一番列車で行って、最終列車で帰る日帰りとなりました。

 メインは、3時からの黒岩比佐子さんの『パンとペン-社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』刊行記念講演会だったのですが、その前後にいつもの「東京歩き」を愉しみました。

 10時に東京駅に着きすぐ山手線に乗り換え、品川へ。高輪・白金台近辺を少し歩く予定。なんのことはない三島霜川のゆかりの地巡り。つい先日、「番地」まで確認できた二本榎西町の住居跡を訪ねてみようとの思いながら、予想通り「二本榎西町《3番地》」は、かなり広く、おそらく当時とかなり様変わりした高級住宅街?の現在の白金台では、場所の特定も往時の雰囲気も味わうことは無理のよう。(明治40年の作品「虚無」はここで書かれている。)
 この辺りは、堺利彦20代後半のゆかりの地でもあって、黒岩さんの本に関して書いておきたいことも――屠牛場――あるが、割愛。
 二本の榎が植わっていたという高台の縄手道(?→高輪)――東海道よりお古い道と言われる――に往古を偲ばせるものはないが、明治~大正期をほうふつとさせる建築がいくつも残っており、散策。明治学院大のなかのチャペルは、ヴォーリズの設計によるものとは知っていたが、帰宅後、ここでヴォーリズが結婚式を挙げたことを知りがっかり。時間を惜しんでほぼ素通りになってしまったので・・・。

 次に、渋谷から井の頭線に乗り換えて、駒場へ。ケルネル田圃だけは見ておきたかったのだ。かすかながら賢治ゆかりの地でもあるが、農学史を副業にしている?私には必見の地なのである。
 井の頭線によって南北に分断され、南の駒場野公園と北の駒場公園に分かれているが一帯はかつての駒場農学校(のちの農科大学)のキャンパス地。日本近代文学館にOさんを訪ねた帰り道(住宅街のハナミズキの紅葉がうるわしい色合い)、もう一度田圃に立ち寄ると人だかり。近くの小学生?が稲刈りをしているのだ。

 立ち見も予想される黒岩さんの講演会のことが気になり、早めに神田神保町すずらん通りの東京堂書店へ。病身で2時間の講演はしんどいだろうと思われるのだが、静かな語り口ながら気迫のこもった内容に、心動かされました。

 夕闇のなか、三崎町教会に立ち寄り、ミロンガでおいしいコーヒーを飲み、もう一つ欲張って神田美土代町7番地に「東京基督教青年会(YMCA)会館」跡地を訪ねて(現在:住友不動産神田ビル〔ベルサール神田〕)――4年前に竣工とのこと。かつて訪ねたときは工事中――、神田駅から東京駅へ、。(奇遇にも金沢に戻るKさんに遭遇)。
 11時55分帰宅。良き日なり。
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by kaguragawa | 2010-10-19 00:54 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(5)

朝日町の夢二や紋左のこと   

 Kさんへ

 きのう、Kさんに情報をいただいた夢二展を見に朝日町のふるさと美術館へ行ってきました。調べたところ「朝日町立ふるさと美術館」は、JR泊駅から歩いて15分とのこと。列車の時刻を確認して、実はもう一つ行き先を探ってみてここも訪ねることができそうだと、小さな街歩き計画を地図上で立ててみました。

 片貝川など碧の清流――すばらしいエメラルドグリーンなのです。ヒスイはこうした北アルプスの清流によってつくられたのではと思ったほどでした――を各駅停車の列車窓から眺めながら、初めて泊駅に降り立ちました。そこには、日本海に突き出た立山連峰の末脈の山が間近に霧状の水蒸気に抱かれて座っていました。

 今度の朝日町立ふるさと美術館の夢二展は、正確には「館蔵企画展 四季の女――朝日町と竹久夢二――」というもの。こじんまりとしたいい夢二展でした。展示作品は、企画展名になっている6枚の連作「四季の女」のほかに、「長崎六景」「女十題」、婦人グラフの挿絵、セノウ楽譜など。貴重なのは「画帳Toyama1915」。

 企画展の副題になっている「朝日町と竹久夢二」については、あらためて、整理しておきたいことがあるので、稿を改めます。ただ、そこに、夢二が富山や朝日町を訪れたことを報じる北陸タイムスの1915(大正4)年当時の記事のコピーが貼り混ぜ式に掲示してあって、新聞に載せられた「神通橋遠景」「さくら橋付近」など当時の富山の街を知る手がかりになるスケッチを、――古い新聞の不鮮明なコピーとはいえ、夢二の手で描かれたもので――見ることができたのはさいわいでした。そうそう「画帳Toyama1915」中の“20 Jan 1915 ToyamaStation”というスケッチの駅前風景に描かれた山容を、実際の山なみと照合してみようと思いながら、まだ実行してないことも思い出しましたが・・・。

 朝日町といえば、横浜事件の発端になった料亭“紋左”のあるところ。美術館を出て、おそらく旧街道と思われる道を、“紋左”を探しました。海と山に抱かれたような街道の街・泊にも今日につらなるいろんな歴史があったのです。10分ほどでしょうか歩いて、紋左を見つけました。
 1942年(昭17)の言論弾圧の横浜事件は、夢二の時代の大逆事件と類似の構造をもつ権力の犯罪でした。夢二の略年譜にある「明治43年(1910)6月、大逆事件の参考人として召喚される」の語句を、横浜事件の執拗なまでのねつ造事案と重ねつつ、紋左前の2年前に建てられたばかりの新しい記念碑をながめたことでした。

 ここで、泊駅にもどる時間が迫ってきて、碑文を写す余裕もなく、駅に向かうことになりました。

 ――以上、簡単な報告まで。今度は、金沢湯涌夢二館でお会いできることを、愉しみに筆をおきます。
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by kaguragawa | 2010-05-30 21:01 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(4)

ちょっとばかしの京都散策   

  京都へ行ってきました。京都と言っても要件をかかえていたので観光どころではなく、土曜の朝でかけて今日遅くに帰ってきました。が、今朝わずかばかりの時間をぬすんで北白川の辺り、「哲学の道」を少し歩くことができ、わずかに満足。
 昨年の5月の京都行でわずかに親しんだ、琵琶湖疏水の分水に沿って続く道を西田幾多郎にでもなった気分で散策を楽しみました。
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by kaguragawa | 2010-03-14 23:22 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)