カテゴリ:俳句 芭蕉( 4 )   

芭蕉、"おくのほそ道”紀行に旅立つ   

 今日5月16日は、芭蕉が“前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。”と書いた《おくのほそ道》旅立ちの日、「弥生も末の七日〔=三月二十七日〕」でした。
 *元禄二年三月二十七日は、グレゴリウス暦に直すと〔1689.05.16〕となる。 

 「《おくのほそ道》随行録」参照。

 ↑は、8年前に俳句サイト<ぽぷら21>の掲示板に毎日書かせていただいた『おくのほそ道奇行』を、データの保管をかねて、6年前に再録したものです。
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  与謝蕪村「奥の細道画巻」から
(蕪村晩年の作といわれますから、「ほそ道紀行」90年後の想像力の賜物です)

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by kaguragawa | 2010-05-16 20:13 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(0)

『松江の俳人 大谷繞石』   

 きのう虚子と犀星の金沢の句会での出会いを書いた時、『松江の俳人 大谷繞石――子規・漱石・ハーン・犀星をめぐって』という本があることをnet検索で知りました。それがなんと今朝!、眠い目をこすりながら手にとった日本経済新聞にこの本の著者・日野雅之氏自身によって紹介されているではありませんか、ちょっと驚きました。
 図書館にあるかどうか、まず確認してみることにしました。

 大谷正信(繞石)の名を知ったのは、ハーン関係の本によってだったろうと記憶の糸をたどり寄せてみるのですが、チホウ老人のこととておもいだせません。
 5年前の日記に、金沢と漱石の不思議な縁を思って、『ハーンの松江時代の愛弟子で漱石とも親交のあった大谷正信宛の手紙〔漱石の熊本時代/大正4(1915)7月14日〕に;「今日は又金沢名産の長生殿一折御恵贈にあづかりましてありがたう存じます。あれは頗る上品な菓子で東京には御座いません、家族のものと風味致します」とあるそうです。』と、書いたものがありました。この時点では、繞石が四高の教授だったことは知っていたと思うのですが・・・。


 きょう夕方、庭に出てみたら、スズランに小さな花が開き始めていました。
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by kaguragawa | 2010-05-04 23:51 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(0)

俳誌「辛夷」の《4月17日》 (欄外に)   

 普羅の衣鉢を継ごうとする者にとって――僭越ながら“あえて”私もその一人であると名宣りたいと思いますが――《4月17日》という日は、特別な日であったようです。この日、私が八尾の町に車を飛ばしていたとき、今年の二月号で通巻1000号を迎えた俳誌『辛夷』の“創刊1000号記念大会”というメモリアルな会が、開かれていたなんてまったく知りませんでした。

 前田普羅、中島杏子、福永鳴風、中坪達哉4代の主宰のもとでの俳誌1000号発行という偉業に敬意を表し、心から“おめでとうございます”とお伝えする一方で、私は普羅の句や書いたものに影響を受けつつも、俳誌『辛夷』やそれをめぐる結社の方々とはほとんど無縁であることも記しておかねばなりません。

 ・・・・・と、ここまで食前に書いたのですが、今、普羅について旧日記に以前書いたものを読み返そうとして驚くべき記録を見つけたのです。そこに自分が書いていたこと――自分が行ったこと――を、まったく忘れていたのです。今もその当時の詳細はよく思い出せないのですが、7年前、私は『辛夷』を手にしていたのです。それどころか当時の主宰福永鳴風氏に手紙まで書いていたのです。
 以下、7年前の日記をそのまま写します。

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■2003/06/20 (金) 「普羅庵」へ

・「辛夷」主宰の福永鳴風先生から、『辛夷』平成15年4月号、ご恵送いただきました。
「辛夷」は、前田普羅が富山にいたとき主宰を引き継ぎ、育てた句誌であり、普羅と交友のあった棟方志功(富山県福光町に疎開)の板画を今も表紙に飾る伝統ある句誌です。

・普羅の富山での足跡をたどりたいという思いの第一歩が、まず当時「上新川郡奥田村稲荷」にあった「普羅庵」の現在地を探すことでした。この「奥田村稲荷」が、現在の富山市弥生町だというところまでは判明したのですが、それ以上の探索をなまけ虫の私は、実行に移さずにいたのです。そのとき、地元の富山ではなく東京の俳句文学館で目についたのが句誌「辛夷」でした。文献をひっくり返しているより「辛夷」同人の方に聞けばいいのだ、といういとも簡単なことに思い到り、富山に帰るなり句誌の奥付で見た主宰の鳴風先生にお便りをさしあげたのでした。

・先生から送っていただいた2ヶ月前の4月号の「辛夷」に、辛夷同人の中坪達哉さんが「普羅庵のあとに立って」という文を書いておられたのです。俳句文学館で見た「辛夷」は5月号だったのか、6月号だったのか、何か知らせるものがあったような気がします。
その中坪氏の文中には;
『富山柳町のれきし』という富山市柳町校下の郷土史には、昭和十年頃の各町内の住宅地図が附録としてついていること、その中に普羅庵のようすが「前田普羅邸」として描かれていることなどが書かれていたのです。
鳴風先生のお便りには、「(普羅庵は)戦災後の都市計画で、あと方もなく、単なる空地です。」と。

・昭和九年刊行の『新訂普羅句集』に普羅自ら曰く;
「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山岳の威容とは、次第に人生観、自然観に大いなる変化を起こしつつあるを知り、居を越中に定めて現在に至る。/「都会人は大自然より都会に隠遁せる人」と思えるに、自分を目して「越中に隠遁せり」と云う都会人あり、終に首肯し能わざる所なり。」

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by kaguragawa | 2010-04-19 23:37 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(0)

320年前の今日、芭蕉は近くにいた   

 以下も、6年前にかいたもののを少し変えて再録です。320年前の8月28日、芭蕉一行が私のいる射水市を通過しているのです。

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(おくのほそ道)
くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云、浦に出。担籠の藤波は、春ならず共、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れバ、是より五里礒づたひして、むかふの山陰に入、蜑の苫ぶき、かすかなれバ、芦の一夜の宿かすものあるまじと、云イをどされて、

  わせの香や分入右は有ソ海


(曾良随行日記)
○十四日 快晴。暑甚シ。冨山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマヘ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)氷見ヘ欲行、不往。高岡ヘ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。少□同然。 

 曾良随行日記にある「十四日」は、元禄二年七月十四日のことで、グレゴリウス暦に直すと1689年8月28日にあたります。320年前の今日である。

 黒部川を渡ったばかりの芭蕉一行、きょうは、常願寺川、神通川、庄川を渡る。川風、浜風があったかもしれないが、――前日も曾良「暑気甚シ。」と書いた――きょうも「暑甚シ。」「暑極テ甚。」と、「暑」を連発している。江戸を発って以来、105日(旅立ちの日3/27〔G:5/16〕を含む)、こんなことは始めてである。

 「冨山カヽラズシテ」と曾良がはっきり書いていますが、曾良の日記が世に出るまで、芭蕉は城下町富山に一泊したものと誰しもが思い、疑問の声さえ出ていなかったようです。
 実際は、滑川を出立した芭蕉一行は、常願寺川を渡った後、有磯海を見たかったのでしょうか、左折して城下町に入る道をとらず、浜街道をまっすぐ西進し、神通川を渡り、港町・放生津(日記中の「ハウ生子」、現在の射水市新湊)を抜け、庄川を渡ったあと左折して高岡に入り一泊することになります。
 道すがら、『万葉集』に詠まれている「奈呉」「二上山」「岩瀬野」を注意深く、目に収めています。『万葉集』へのこだわりが、感じられるところです。
それがわかれば、田子の「白藤」への執念と断念、さもありなんというところです。

 ところで、芭蕉一行が昨晩宿泊した滑川には、「芭蕉が行脚中、この町に一泊した」という言い伝えがありました。が、しかし、芭蕉は富山に泊ったという思い込みから、この伝承をまともに掘り起こしてみようという文学者も、歴史家もいなかったといいます。なお、高岡での宿泊地も、特定はされていません。木舟町だとの口碑もあるようですが、資料としては残ってないようです。

 そうそう、最後の「少□同然。」一文字判読不能ということです。これも曾良日記中珍しいことです。(原本の写しを見たことがありますが、私しなんぞには黒いゴミのようでした。)

*「翁、気色不勝(すぐれず)。」(お~怖!!)。
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by kaguragawa | 2009-08-28 23:20 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(1)