漱石と内田雄太郎(2)   

(承前)

追記〔2016.12.14〕
 昨日、『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店)を入手しました。なんと、内田雄太郎が漱石に宛てた絵はがきが、その表紙をかざっているのです。ただ、そのハガキが紹介されている本文(19p)のコメントには、内田について愛媛県尋常中学校から「郷里の富山県尋常中学校に転職」とあって、内田雄太郎が富山出身と読めるのです。果たしてそうなのでしょうか?。
 前項の(*2)に記したように、第四高等中学校の記録には「石川士族」とあるのです。「石川士族」は誤植なのでしょうか。(言うまでもまく、内田の第四高等中学校在学時、富山県は石川県から分離しています。)
 どなたかきちんとした情報を教えていただければと思います。

追記2〔2016.12.14〕
 内田雄太郎の「富山第二中学校」在任は、私の持っている「富山県立高岡中学校会員名簿」(昭和22)によれば、
 担任学科   数、物
 就任年月   明治三一、四
 転退任年月  明治三三、三
 本籍     石川
――となっており、内田が1898年4月の富山県高岡尋常中学校開校に合わせて、富山県尋常中学校から転任したことがわかる。
 彼の出身県が、「富山」でなはなく「石川」であることは、この本籍地記載からも間違いないと思われる。
 なお、この名簿では、内田雄太郎の名前の上に×印がついておりこの時点で(昭和22年12月調とのこと)亡くなっていたことがわかる。

追記3〔2016.12.15〕
 長島は岩波の『図書』(2016.11)で、富山県尋常中学校からの転任先を「富山県第二中学校」と記すが、内田の転任先は正確には「富山県高岡尋常中学校」である。「富山県第二中学校」に改名されるのは、転任1年後の1899年4月である。
 余談ながら、1899年4月に、「富山県第三中学校」が魚津に創設され、併せて「富山県尋常中学校」は、「富山県第一中学校」に改名し、さらに2年後の1901年10月に、第一(在・富山)、第二(在・高岡)、第三(在・魚津)の中学校はそれぞれ「県立富山中学校」「県立高岡中学校」「県立魚津中学校」と改名されることになる。
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by kaguragawa | 2016-11-14 21:32 | Trackback | Comments(0)

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