人気ブログランキング | 話題のタグを見る

108年前の「夏至の日」   

 のちに「赤旗事件」と呼ばれるようになった社会主義者と警官の小競り合いが起ったのは、1908(明治41)年6月22日でした。この年は、この22日が夏至の日でした。
(「赤旗事件」――この小競り合い程度のものが、逮捕者の禁固実刑につながる刑事事件にまで仕組まれた(*)事件です。この事件が、西園寺内閣を桂内閣に代え、桂内閣のもとでこの事件の審理がおこなわれ、さらに「大逆事件」がつくられていきます。)

 この日のことを、荒畑寒村は『寒村自伝』で次のように振り返っている。
 「日の長いさかりの真夏の白昼、濛々と立ちのぼる砂煙りの中に旗の影はたちまち現われたちまち消え、(中略)喧々囂々としてまるで市街戦でも始ったようだ。」
 6月22日が「夏至」であることから、“日の長いさかり”はまさにそのとおりなのだが、少し気になるのは続いて、“真夏の白昼”と書かれている点である。寒村が自伝を書こうとした時点で、記憶はあいまいになっており錯綜もしていたのではなかろうか。
 なぜなら、神田錦町の錦輝館で行なわれた山口義三の出獄歓迎会は午後から始まり、「騒動」は閉会間際の午後6時くらいにおこったからだ。まさに夏至の時期だから6時でも明るかったのだろう。だが、「白昼」はふさわしくなかろう。
 これも寒村の記すところに拠れば「私の間借りしている家の主婦に頼んで、赤地の布に「無政府共産」とか「無政府」とか、白いテープの文字をミシンで縫いつけてもらい、手ごろの竹竿を買って来て二旒の旗をこしらえた。」というその赤旗を、ある者が錦輝館を出た路地で振り回したことから警察官との小競り合いがはじまり、大杉栄、堺利彦、山川均、管野スガら16人が逮捕されたのである。

 ただ、寒村の「白昼」の記憶があやしくなっているのは、時間帯のことだけではない。(寒村を批難するために書いているのではなく、この日のことを正確に記憶したいがために書いています。誤解のないように。)この日は、「白昼」ということばが似合うような晴天の日ではなかったようなのである。現場から直線距離で2キロ余り離れた場所に住んでいたある青年の当日の日記に拠ればこうだ。

 六月二十二日
 曇つた日であつた。
 午后に金田一君、昨夜の話、手踊人形で大に笑ふ。夕方、また歩きに行かうと云ふので、二度出かけたが、其度雨が落ちて来たので唯もどり。

 この日(22日)は「曇った日」で、事件が起きた夕方は「雨が落ちて」くることもあったというのだ。夕方、神田周辺に雨が降ったかどうかはともかく、この日は晴天でなかったことは確かだろう。

 なお、この日記を書いた青年は、この翌日みずからの内的事件に出会い「一握の砂」に結実する詩人の道を宿命づけられていくのだが、一方でこの赤旗事件のあとに次々と起きてくる権力の犯罪の結末「大逆事件」に真正面から向き合うことをも自分の使命とするにいたる。ともに事件から2年後のことである。いうまでもなくこの青年は、石川一(はじめ/啄木)である。


 (*)この山口義三歓迎会の司会を勤めた石川三四郎は、この摘発事件が事前事後において仕組まれたものであったことから事態を「不可解な大騒動」と適切に要約したが、事後の「仕組み」については、一例として、この事件の東京地裁の公判筆記の一部を当時の『熊本評論』に掲載されたものから、引く。森岡永治の弁明から。(多少送り仮名などを補いました。)

 「余は大森巡査の指を噛み四日間の休業を要するまでの負傷をせしめたりと調書に在れども、同巡査が、余の被れる帽子なりとて此処に提出せる証拠品は、余の全く見覚えなきものなり、余は一個の帽子にて満足す、二個の帽子を要せず。彼の当時被りたる一個の帽子は、目下東京監獄に在り。是等の事実を以て見るも如何に警官が事実を捏造するに巧みなるか知るに足らん。尚お巡査は負傷せし際、何れにて何時負傷せりとも覚えずと予審廷に述べしにあらずや、既に何れに於て何時負傷せしとも記憶せざる程の創なるに何故加害者の余なる事を知り得たるや、不思議なり。且つ余は虫歯を患うるものなり、人に食い付きて四日間の休業をなさしむる程の資格を有せず」

by kaguragawa | 2016-06-22 20:30 | Trackback | Comments(0)

名前
URL
削除用パスワード

<< 真の作家であつた独歩氏は遂に死... 夏至の日 >>