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渡瀬ドクトルこと〔亘理祐次郎〕   

 『死に親しむ』を中心にいくつかの秋聲作品に、愛すべき人物として登場する“渡瀬ドクトル”は、《亘理 祐次郎》――わたり・ゆうじろう――と見て良いのではなかろうか。

 ずっと気になっていた一事だが、連休の最終日に当時の医師名簿を中心に、少し気合を入れて?調べてみた。

 『帝国医鑑. 第1編』(河野二郎 編/明43.5/旭興信所)に次のような記載がある。

 宮城県平民 亘理祐次郎   本郷区森川町一 電話下谷七二八

 君は明治五年十一月二日出生にて遠田郡涌谷町立町は其原籍なり
 明治三十二年九月弐拾九日附医術開業試験に合格して免状を受け現所宮前一三六号に開業


 web上で閲覧できるいくつかの名簿をのぞいてみると異同がいくつか――例えば、生年月日が同年同月の〔十二月二日〕になっているものなど――がある。いやいや、名前が祐太郎だったり祐二郎だったりするので、安心して確定的なことは言えないのですが、〔祐次郎〕が頻度として多く、ここでは〔亘理祐次郎〕としておくこととします。

 『死に親しむ』には、“同じくらいの年配のダンス仲間”という渡瀬ドクトルの紹介があり、秋声の明治4年、亘理医師の明治5年という一年違いの生年からしても状況が合いますし、住所が森川町1番地(宮前136号)というのも、“物の一町と隔たっていないドクトルの家”の記述を、1町=約110mとすれば、ほぼ合致します。

 ちなみに、町のほぼ全域が《1番地》だった「森川町」には、北表通、北裏通、南表通、北裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横丁、油屋横丁、椎下、橋通、橋下、谷、新開の16の地区があったとのこと(――秋声の家は「南堺」で、かつての映世神社の前が「宮前」)。その地区ごとに付された区画番号を網羅的に記載した地図にまだお目にかかっていないので、亘理医院の《森川町1番地(宮前136号)》がどこなのか、「点」として確認できないのが残念なのですが・・・。

by kaguragawa | 2015-09-24 19:28 | Trackback | Comments(3)

Commented by 本郷-菊坂の与太郎 at 2015-09-26 21:26 x
お尋ねの件、先程
亘理医院位置、表記入り地図データー別便で送っておきました。
ピンポイントになるといいですね。 今閃いてみたのですが
本郷館の字名+号 昭和初年番地のみの地図で見たら、地番表示が違うのでほぼ間違いなく過渡期に於いて字名+番号時代があったと断定しました。本郷-菊坂の与太郎
Commented by kaguragawa at 2015-09-27 23:11
与太郎様、いつものことながらいろんな意味で感謝感謝です。
おっしゃるように同一地点で、二種類の区画番号――その字〔アザ〕ごとに付番された数字(a)と、森川町1番地の全体の通しの番号になっている数字(b)――が見られるような気がしますね。火災保険地図の区画番号は、明らかに森川町1番地の全体が通し番号になっていますね。「宮前136号」は(a)で、徳田家の「南堺124」は(b)のようですね。
また、啄木が下宿した蓋平館の所在地表記に用いられる「森川町一番地 新坂三五九」も(a)のようで、(b)の表記にすれば「117」になりますね。
Commented by 本郷-菊坂の与太郎 at 2015-12-07 06:54 x
そうですね流石、「かぐら川先生」です。
その通りです以前、★岡崎藩本多邸調査の折、見つかりましたので、何かの参考にして下さい。◎明治45年地籍図より・・・・
蓋平館本店、位置(森川町・本郷郵便局本局)
あれ、ファイル名に明治45年地籍図より・・と書いて於いたつもりでしたがファイル名を変更していたようで、与太郎ボケてました。失礼しました。こちらの真砂図書館データーでは、明治45年地籍地図の地籍台帳から抜粋したものです。では、本郷で「ろくろ首」になってお待ちしております。本郷-菊坂の与太郎こと紫雲より
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