「伏木湊町須岬」と「伏木浦」(1)   

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 高岡市伏木の古い地図2枚。驚いたことに、明治30年代の伏木湊町近辺の地図(上)と、江戸期の絵図(伏木港の原初形)をリライトした図(下)がぴったりと重なる。
 注目は、絵図の左から右に伸びた砂嘴――寄洲と書かれた部分――。絵図と比較すれば、この砂嘴部分が地図上にもくっきりと見えてくるだろう。一方、右の舌状の岬の先が、おそらく人工的にけずり取られて、地図では無くなっていることもわかってくる。


 右下が上の地図の拡大図。e0178600_20101520.jpg真ん中を上下に流れる川の右側の青色部分はおそらく「狐島」、その下の黄色部分は「須岬」という字名をもつ地域だが、「須岬」は「洲崎」と読み替えると地名の由来がはっきりするであろう。
 注意深く見ていただければ、図の一番下に赤文字で左から右に「五十三級」と書きこまれた「三」の左上に鳥居マークが目に入るが、湊の象徴でもあった金毘羅宮である。

 さて、絵図から数百年、この地図作成時から100年。ここに描かれた伏木湊町はどう変わったのか。
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by kaguragawa | 2013-06-17 22:36 | Trackback | Comments(3)

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Commented by k-tani at 2013-06-23 02:53 x
明治時代の地図にはOO線停車場と表示されているところから、この絵図は明治33年の中越鉄道伏木駅開業後のものでしょうね。
江戸古地図をリライトした絵図では、勝興寺門前地とある部分は今では高町一帯の丘の上だというイメージがあるのですが、当時は高伏道路から旧貨物駅のあたりまで寺内町が広がっていたのかなと・・・。(今も勝興寺さんの所有地が旧駅前の区域にはあるそうです)
明治33年から開始された庄川小矢部川の分離工事、伏木港築港工事で今の新島、石坂町、湊町のあたりが一変しただろうと。(今の伏木港の保税上屋が建っているところや海上保安庁敷地などは庄川の新流路を開削したときの土砂で埋めたのではなかろうかと推測しています(神通川の流路変更(馳越工事)で生じた廃川敷を富岩運河の開削土で埋めたように))
まさに伏木の近代化が始まる直前の絵図を見せていただきました。ありがとうございました。
それと、「狐島」、「須岬」or「洲崎」の地名についてはうちの親父にでも聞いてみます(湊町の出なので)。
Commented by かぐら川 at 2013-06-24 23:20 x
k-tani さん、コメント有り難うございます。端の切れてしまった「OO線停車場」は、「中越線停車場」です。
明治、大正期の湊町のことを調べています。ご協力いただけるとうれしいですね。
Commented by k-tani at 2013-06-26 03:48 x
ちなみにアメリカの天文学者で冥王星の存在を予測したパーシヴァル・ローウェルは、日本地図の能登半島の形に惹きつけられて明治22年に能登を訪れて旅行記”NOTO”を著しています。
その中で伏木の港の様子が描かれており、「たくましい女性が汗まみれで働いている」と驚きをもって記述しています。
うちのばーちゃんも母子家庭を支えるために、伏木の港で終戦後、親父と一緒に潜水夫のポンプ押しをしていたと聞いたことがあります。

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