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「双生児の女の運動選手の名まえ」(1)   

 先日来、大きな活字のほるぷ出版の『歌のわかれ・中野重治詩集』を通勤列車のなかで読んでいる。列車の中では大きな活字が助かるのである。それはともかく、読んでいて気になったことがあった。そこで、時間のとれる日曜日となってようやくある本を探しだした。『前田普羅 生涯と俳句』である。この本のある個所をで、一人の女性の名前を確認したかったのである。

 ところで、中野重治と前田普羅。この二人になんの関係があるのか。二人に個別の関係があるかどうかそれは知らない。むしろ文学の潮流のなかでは敵対せざるをえない面がある。その点は、割愛して、本題というか雑題というか話題をもとににもどす。

 久しぶりに開いた中西舗土さんの『前田普羅 生涯と俳句』に次のような記述がある。

 “普羅が年少の頃丑松夫妻が台湾に渡ったと云う。普羅が後年講話の中で「私は子供の時から親子の縁がはなはだ薄く、十四歳の時父母に離れ、東京の学校に一人残されたのであります」と云っていることから推して、明治三十年頃普羅を東京の親戚に残して両親は台湾へ渡った。東京の親戚と云うのは祖母の出の大多和家の一族で、飯田町で牧場を経営していた。(同家へは大正年代、女子短距離競走創始の頃の第一人者寺尾文子が嫁しているとのことである)当時、最も格調高いと云われた「萬朝報」や新聞「日本」が毎日配達されていて、普羅は新聞「日本」で正岡子規の新俳句を熟読したと云う。”

 おそらく20年ほど前に読んだこの個所の「寺尾文子」の名だけをなぜか鮮明に覚えていたのである。この「女子短距離競走創始の頃の第一人者寺尾文子」が、中野重治の「歌のわかれ」に次のように登場していたのである。

 “ある日彼は、文科の事務室の方から医学部の方へ行く道を歩いて行った。そのとき、うしろから駆け抜けるようにして行った二人連れの大学生が、女学生みたようにきゃっきゃっ言ってしゃべって行った名まえが安吉の耳にとまった。それはそのころ名高くなっていたある双生児の女の運動選手の名まえだった。
 安吉の心は動いた。彼は二人連れの大学生のあとを追って桜並木の横の運動場へはじめてはいって行った。
 さっぱりした金網の仕切りの外でしきりに大学生たちが騒いでいた。見物のなかには町の人も多少まじっているらしかった。
 名高い双生児の娘は安吉にもすぐ見つかった。彼女らは顔つきもからだの大きさもほんとうに双生児というにふさわしかった。彼女らは美しくもあった。”


 中野重治は“名高い”を何度も強調しながら、あえてその名を記していない。が、その「双生児の女の運動選手の名まえ」こそ、寺尾正子と前田普羅が名前を挙げた寺尾文子なのである。

 (続く)

※「歌のわかれ」の引用は、上掲ほるぷ出版の『歌のわかれ・中野重治詩集』から。話題の展開のためやむなく途中で切ってしまった引用については、時間と興味のある方はぜひ本文にあたって確認いただきたい。

by kaguragawa | 2013-06-02 19:20 | Trackback | Comments(0)

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