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三木露風書簡の秋聲と霜川(2)   

 この当時〔1906(明治39)年の9月中下旬〕、三木露風と三島霜川、徳田秋聲はどのような関係にあったのでしょうか。まず当時の彼らの年齢を列記しておきます。ちょっと驚かれるかもしれませんが、満年齢で、露風17歳、霜川30歳、秋聲34歳です(ちなみに手紙を受けとった旭晃は、24歳)。

 端的に露風の行動だけ順を追って書いておきます。――文学に志して前年夏に上京していた露風が霜川と面識を得たのが明治39年の春、文芸雑誌『新聲』の誌友会(ないしその準備会)においてです。その後、就職せざるをえなくなり、岐阜で文芸雑誌を編集していた面識もない小木曽旭晃をとつぜん訪ね就職先のあっ旋を頼んだのが、同年7月末。旭晃が美濃新聞の編集者の職を紹介したものの、その地にまったく縁のない17歳の世間知らずの若者が務まるはずもなく一か月余で退職。今度は、東京の知人の誰彼を問わず、HELP!の手紙を出したようで、霜川(だけ?)が、ならば私の方においで、と救いの手を差しのべ、東京に戻ったのが9月23日。おそらくその日の夜には、上駒込の霜川の住処にもぐりこんだ・・・という流れのようです。

 その日(23日)のうちに、旭晃宛てに東京着報告の手紙(第一便)を出し、おそらく旭晃からの返信をふまえて(第一便から一週間ほど後に)出した第二便が、きのうほぼ全文を紹介した小木曽旭晃宛ての手紙なのです。

 17歳の青年・三木露風のまっすぐというか、向う見ずというか、若者らしいとはいえ傍若無人な生き方には驚きます。露風は、上駒込の木戸孝允(侯爵)の染井別邸だった広大な敷地内の小屋のような家屋に住む三島霜川とこうして、生涯にわたる縁のスタートを切ります。そして霜川を通して徳田秋聲ともすぐに親交をもつようになったようなのです。

 ここで、三木露風の小木曽旭晃宛ての書簡から、あらためて徳田秋聲と三島霜川に関わる部分だけ抜き出しておきます。

 「徳田秋聲君の愛児が大病で入院中でしたが、此度全快、赤飯をふるまわれました。因みに同君の小説「おのが縛め」という長篇は苦心の作で万朝に掲載することになりました。」
 「三島霜川は近き内に霜川集と称する散文小説の立派な単行本を出す由。」


 論を進めるには、霜川と秋聲の当時の状況にもふれないといけませんね。

 (続く)

by kaguragawa | 2013-01-27 11:21 | Trackback | Comments(0)

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