炎天下に「重松君之碑」を訪れる
2012年 08月 21日
暑さには強い方ですが、今日はちょっとギブアップでした。気温ではなく日陰もない炎天下での照りつける日射の文字通りの刺すような暑さ(熱さ)です。そういうわけで、ある碑を探し出したのですが、再訪を期して早々に退散しました。
といっても簡単な報告だけはしておきたいと思います。訪れたのは、「重松覚平の碑」(富山市松木)。
車を降りて驚いたのは、日差しの熱さだけではなく、碑の大きさでした。台部分も含めると4メートルぐらいはあるでしょうか。空は秋の青ですが、見上げるその空は炎天です。副碑の説明を4,5文字筆写しただけで、背中に汗が噴き出して、照りつけと照り返しの熱さで、断念しました。
前置きが長くなりました。度外れの暑さと碑の大きさがそれはもう記憶を埋め尽くしているものですから・・・。
というわけで、重松覚平(かさまつ・かくへい)のことは次回の報告として、碑のことを書いておきます。
今、凉しい部屋で思い出すと、驚いたのは碑の大きさに加え、その碑にぎっしりと書かれた文章の量でした。見上げるまぶしさに読むことは不可能だったのですが、そして時代を経て読みとれない部分もあるのですが、その膨大な漢字で書かれた碑文の、書き写すだけで数時間はかかるであろうその文字数に圧倒されてしまったのでした。
暑さでその場を逃げ出す前に、かろうじて写した碑文は、――明治三十二年七月 衆議院議長 片岡謙吉 篆額 大阪 山本憲 撰 富山 稲垣禎吉 書――の部分のみ。
片岡健吉の名は、土佐出身の自由党の中心者として板垣退助と併せて覚えておられる方も多いことと思います。続く「篆額」とは、篆字で書かれた石碑の題字のことです。まぶしくて被写部分も確認せずに撮った写真なので、はじが切れていましが、碑の上の横書きの部分、右から「重松君之碑」が、片岡謙吉自身の手による篆字です。
約500文字ほどありそうな碑文の本文は、山本憲の書いたものです。高知出身で自由民権運動にかかわり大阪事件にも服役した山本憲の名は知っていたのですが、今調べてみてまたまた自分の無知に愕然とすることになったのですが、山本は漢学者として有名な人だったのです。かつての同志・重松覚平を称える文章を漢文で書きあげたのでしょう。
いやはや、と、ちょっとため息がでたところで、碑訪問記はお仕舞いとします。重松覚平については、あらためて。
上の文中では、に「山本憲 撰」としましたが、「撰」は碑文では、「言(ごんべん)」の右に「巽」の文字です。
by kaguragawa | 2012-08-21 20:56 | Trackback | Comments(0)