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《土岐僙》の生年〔1860年〕のこと   

 H先輩へ
 先日書いた《土岐僙》の生歿年のことで、私の試論である【生年=1960年】について一言しておきたいと思います。

 この西暦年〔1860年〕は、土岐家の由緒書に拠って“算出した”年です。仔細は次のとおりです。
【1】
 加賀前田藩では明治維新の折、藩士に対して「先祖由緒一類附帳」を提出させました。土岐家のものは、金沢市立玉川図書館近世史料館の「加越能文庫」に下記の3通残されています。
 《》土岐僙の父〔土岐無筆〕が書いたもの(題:由緒一類附/明治2年10月付け)、
 《》〔土岐僙〕が【土岐文左衛門】の名で書いたもの(題:先祖由緒一類附/明治2年9月付け)、
 《》〔土岐僙〕が【土岐僙】の名で書いたもの(題:先祖由緒一類附/明治3年11月付け)の3通です。
 B→A→Cの順で藩に提出されたようですが、なぜ類似のものが3通あるのかよくわかりません。(私なりの推測は割愛します。)はっきりしているのは、明治2年9月に、無筆が隠居し家督が嫡子文左衛門(僙)に相続されていることです。
 この土岐僙本人が書いた《B》に、「本国美濃 御国出生 拾歳」、《C》に、「本国美濃 加賀金沢出生 年十一」と、自らのことが書かれているのです。つまり、明治2年〔1869〕は10歳、明治3年〔1870〕は11歳であるとの僙自身の申告にもとづいて逆算し、1歳に該当する1860年を出生の年としたというのが、【生年=1960年】の出所なのです。
 いうまでもなく、当時の年齢表記は《数え》ですから、〔1歳=生まれた年〕なわけです。

【2】
 残念なことに話は、上の【1】に尽きていません。“1860年って、江戸時代の末のようですが、元号でいうといつにあたるのですか?”、との問いが聞こえてきます。実は、私も知りたいのです。が、残念ながら特定できないのです。
 歴史年表を開いてご覧になればおわかりのように、この1860年に該当する年は、年の途中で改元がおこなわれています。この年は、当時の暦(太陽太陰暦の「天保暦」)上での三月十八日から、「万延元年」に変わります。つまり、年初から三月十七日までは【安政七年】、三月十八日から年末までは【万延元年】というわけです。(当年三月三日の「桜田門外の変」が、改元の一理由)
 彼の具体的な出生の日付がわからないので、彼が【安政七年】の生まれなのか、【万延元年】の生まれなのかは、現在の資料からは(少なくとも私が確認できた資料からは)、確定できず、表記できないのです。生まれた日付がわかれば、例えば、安政七年(1860年)一月二十四日生まれとか、万延元年(1860年)四月一日とか書けるのですが・・・。

【3】
 さらに残念なことに話は、上の【1】と【2】に尽きていません。彼、僙さんが大晦日の万延元年十二月三十日に生まれたとしましょう。彼は西暦何年に生まれたことになるのでしょうか。結論だけいうと、1861年の生まれとなってしまいます。もし彼が万延元年十一月二十一日以降十二月三十日までの間に生まれたとすれば、彼は〔1861年生まれ〕となるのです。太陽太陰暦とグレゴリウス暦の間に、平均で、約1か月弱ほどのずれ――グレゴリウス暦が平均で約〔29.53日〕ほど先行――があるためです。
 何回も「土岐僙は、1860年の生まれ」、と上に書いてきましたが、これは厳密な物言いではなかったのです。
 土岐僙さんが生まれたのは、――資料で確認できる限りでは――〔安政七年一月一日から万延元年十二月三十日の間〕、しいて西暦で言えば〔1860年1月23日から1861年1月29日までの間〕となるのです。(なおこの年は、三月と四月の間に閏三月というおまけ月?がはいる〔1年=13か月〕の調整年だったことも付言しておきます。)

 どこかに土岐僙の戸籍関係の資料とか、本人の書いた履歴書とかの資料があると思うのですが、そうした新資料に出会えることを願って、・・・このあたりで、幕とします。

 追記
 H先輩。これと同じような愚考を繰り返しながら《三島霜川の年譜》をこしらえていますが、一向に進んでいません・・・。ゆっくり、あわてずの構えですが、またご協力ご支援ください。

by kaguragawa | 2012-01-24 22:02 | Trackback | Comments(0)

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