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室崎琴月、ある日の東京(1)   

 童謡の“夕日”が、どれくらい今の若い人に知られているのか、私には想像がつかない。作曲者の室崎琴月が我が富山県の高岡出身ということもあり、富山ではよく知られているが全国的にはそれほどではなくなっているのかも知れない。

 今年が室崎琴月の生誕120年の年であり、それを記念し「室崎琴月生誕120周年記念コンサート/茜色のオルガン」が生誕地の高岡でおこなわれたことは、先日報告しました。室崎家は今も変らず高岡市木舟町にあって、本家筋(琴月〔本名:清太郎〕の兄である佐太郎さん)のお孫さんがいまも元気で、お住まいになっておられます。琴月の生家の現在のご当主・信一さんにはあることで恩恵を受けていて――といっても私の方で信一さんを一方的に存じ上げているいるだけですが――、一昨日お伺いした折に、あることを思い切ってお聞きしてみました。

 「琴月さんが、上野の東京音楽学校を卒業された年〔1907(大6)〕に開かれた「中央音楽学校」のあった場所を、教えてもらえませんか?。  確か“谷中”だとお聞きしているのですが・・・」
 「あっ、そこには今も琴月さんの孫が住んでいますよ。」、  「えっ、学校のあったところに今も、初子さんでしたっけ、お孫さんが、お住まいなのですね!。 そこ、教えてもらえますか・・・」、  「いいですよ。」

 という会話があって、懸案だった中央音楽学校の場所を教えていただき、現在の住居表示で番地まで特定することができたのです。
 家に帰るなり、東京室崎家の現住所〔台東区谷中2丁目〕を地図上に探したことは、いうまでもありません。

 実は、ここまでが「前置き」です。

 いつもならば、資料で知った手がかりとなる旧町名・旧番地の「場所」を、現在の町・番地にあてはめ、その場所を特定するという手順がほとんどなのですが、室崎さんの場合は、逆でした。現在の住居表示が先にわかったのですが、私としては大正期の地図に中央音楽学校の場所を位置づけることも、どうしてもしたかったのです。
 現在地から、そこがかつての〔下谷区谷中真島町1番地〕であることはわかったのですが、当時の資料上でもその旧町名・番地であったことを、自分の眼で確認したかったのです。
 もちろん、そんな歴史的な資料を手にすることはむつかしいので、さしあたり室崎琴月について書かれたものを探すことになりました。そして、今日、琴月の娘さんが編集された私家本『この道一筋――童謡「夕日」作曲者室崎琴月追想集』(1991.7)を、入手したのです。

 そこには、“そんなことがあったの!”・・・と思わず声が出てしまうことが、いくつも記されていたのです。

by kaguragawa | 2011-04-27 22:56 | Trackback | Comments(0)

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